そして、誰もいなくなって。

僕は君を手に入れる。


□■□


こつりと、静かに扉が叩かれる。
ぼんやりと手にした本のページを捲っていたリーマスは、堪えるように少しだけ息を詰めて、重い扉を開いた。
扉の向こうには、欠け始めた月と。
暗闇に熔けてしまいそうな、黒尽くめの人影。

「やあ、セブルス。」

まるで囁くようなリーマスの声音に顔を上げて、セブルスはほんの少しだけ瞳を伏せる。
堪えるように。
そして。

「…失礼するぞ。」

僅かな衣擦れの音と共に、リーマスの傍を抜けた。
その、瞬間に。
嗅ぎ慣れた薬品臭と、微かな香の匂いを感じて。
リーマスは、小さく笑った。
そして、重い扉を閉めて、真っ黒な小さい背を追う。
室内の質素な灯りの下で。
翻る黒いマントは、まるで喪服のように冷たく見えた。





それは、いつもの習慣。
満月を数日過ぎてから、セブルスはリーマスの下を訪れる。
脱狼薬の効果と、その副作用を調べるために。
テーブルの上に置きっぱなしになっていた、数日前には脱狼薬の入っていた小瓶を取り上げて、セブルスは少し顔を顰めた。
「…ルーピン、せめてこれを洗っておくくらいの配慮はできないのか?」
そう言いながら、室内をぐるりと見回す。
そして、小さく溜息をついた。
これも、いつもの習慣。
部分的には几帳面なリーマスの、几帳面さが全く発揮されない部分を見て、セブルスは軽く額を抑える。
小瓶のことよりももっと重要かつ深刻な状況が、そこにはあった。
「君の生活能力の低さは、我が輩も重々承知していたつもりだったが…」
言葉尻は絶句となって、セブルスはソファを指先で軽く叩く。
途端に舞い上がる、1ヶ月分の埃。
それを酷く嫌そうな顔で見遣って、そのままリーマスを振り返った。
「…ごめん。」
バツが悪そうに、それでもどこか嬉しそうに笑って謝辞を告げるリーマスを、セブルスは酷く剣呑な目つきで睨む。
「謝るくらいなら、いい加減その生活態度をどうにかしたらどうだ。」
そう言いながらも、長い指先がソファを何度か叩き、埃を落としていった。
「いや、掃除しなきゃって思ってはいたんだけどね。」
「思うだけでは、部屋は片づかない。」
リーマスの言い訳にぴしりと言葉を返して、セブルスはマントすら脱がず部屋の中の惨状を片付け始める。
それを、立ち尽くしたまま見つめて。
リーマスは、笑った。
酷く、幸せそうに。
「好きで、こんな場所に住んでいるクセに…」
不本意そうな呟きを零しながらも、セブルスの手の動きは休まない。
リーマスの住む部屋があるのは、片田舎の特別な場所。
周囲の諸々の状況から、魔法を使うことが禁じられている。
だから、掃除も洗濯も料理も、全て魔法に頼らず自分で行わなければならない。
そんな魔法使いにとって酷く不便な場所を、殊更選んで住処としたのはリーマスだった。
「だって、住みたかったんだもの。」
ニコニコとそう言うリーマスに、セブルスが再び剣呑な目を向ける。
「そんなに住みたかった部屋なら、自分で何とかすることを覚えろ。毎月毎月、我が輩が来るまで何一つ自分ではしないではないか。」
ほとんど物がない部屋なのに、1ヶ月分の埃が舞って、そこここに洗い物が置いてある。
埃を払って箒で掃き、拭くべき所は拭いて、洗い物を洗濯機に放り込んで。
魔法薬学教授に相応しい几帳面さで部屋を片付けていくセブルスの黒い背中を見つめながら、リーマスは「だって…」と口に出さずに呟いた。

だって。
そんな君が見たかったんだよ。
怒りながら、私のために部屋を片付けてくれる、君の姿が。
言えば必ず怒らせてしまうから、決して言わない。
そんなセブルスの姿を見るのが幸せだったから、わざわざこの部屋を借りたのだなどと。

「…何を、にやにやと笑っている。」
先程までの惨状が嘘のように整然とし始めた部屋で、立ち尽くしたまま笑っていたリーマスに、セブルスが訝しそうな視線を向けた。
「いや、だってさ。何か、君、私の奥さんみたいだなぁって思って…」
べちん。
言い終わる前に、濡れた布巾がリーマスの顔に投げつけられる。
「…馬鹿なことを言っていないで、その布巾をさっさと洗ってこい。この役立たずが。」
怒気を含んだセブルスの声音に肩をすくめて、リーマスは流しへと向かう。
調理をすることがないから、軽く埃は積もっているものの綺麗なままの流しで、幾分か丁寧に布巾を洗った。
「馬鹿なこと、なんかじゃないんだけどね。」
セブルスに聞こえないように呟きながら。
そして。
随分と時間をかけて洗い終えた布巾を手に部屋に戻れば、そこは見違えるように片づいていた。
「うわあ、君、本当に凄いよね。」
賞賛の言葉に、何だか酷く嫌そうな表情をして。
「来月は、我が輩に家政婦の役目をさせないように努力しろ。」
それに、はあいと模範的な返事をする。
それは、返事だけなのだけど。
きっと、来月も同じ事を繰り返すのだろう。
習慣のように。
漸くマントを脱いだセブルスが、急かすようにリーマスを見た。
「何?」
「定期検診、だ。さっさと腕を出せ。」
セブルスが脱狼薬の効果と副作用を調べるための採血をしようとしているのだと解ってはいた。
でも。
「そんなに、急ぐことないじゃない。明日は授業も休みなんだし。」
のんびりと見えるように、でも内心は焦りながらそう言って。
「ご飯、作ってくれないかな。」
酷く、含みのある沈黙が室内に満ちる。
「………君は、我が輩をどこまで家政婦扱いする気だ?」
言外にそんなことをする気はないと含ませて。
無理に落ち着かせた声音でそう言うセブルスを、リーマスは情けない表情で見つめた。
「家政婦扱いなんてしてないよ。」
ただ、暖かい料理が食べたいだけなのだと、そう言えば。
セブルスは、小さく溜息を吐く。
そして。
「ちゃんと、食べていたのか?」
この1ヶ月は。
それに、ただ笑うリーマスにもう一度溜息を吐いて。
「本当に、最低の生活だな、君は。」
吐き捨てるように言って、セブルスはまたリーマスに背を向けた。
怒ったような早足で、キッチンに向かう。
それをゆっくりと追いながら、リーマスはまた笑った。
酷く冷たく見えて、いつも不機嫌そうで、親切心など持ち合わせていそうにないその外見とは裏腹に。
以外にセブルスは世話焼きだと思う。
頼み事を断れないタイプ。こんな姿を知ったら、生徒たちは驚くだろうけれど。
あるだけの食材を確認して、まるで魔法薬でも精製しているかのように的確で几帳面な手つきで料理をするセブルスの背を、リーマスはキッチンに一つだけ置かれていた椅子にだらしなく腰掛けて見つめた。
「ねえ、セブルス。」
言葉が、零れる。
今まで言わなかった、言えなかった言葉が。
料理の匂いに紛れて、まだ微かに漂う香の匂いに、言葉の枷は外れっぱなしだ。

「私の、奥さんにならない?」

ダン、と。
包丁が凄い音を立てた。
「死にたいか、貴様…」
それは勘弁と笑えば。
「君のように甲斐性のない男の妻になど、誰がなりたいものか。」
精一杯の冗談なのか、硬い声音でそう呟く。
「はは…やっぱり、そうだよね。」
笑いながら。
「でもね、私は本当に嬉しいんだ。君が、そうやって私のために何かをしてくれるのが。私のためだけに、何かをしてくれるのが、本当に…」
ずっと。
ずっとセブルスがこんな風に傍にいてくれることを望んでいた。
自分のためだけに、自分の傍にいてくれることを。
それは、叶わぬ望みだと思っていた。
一番のライバルは、リーマスの一番の親友たちで。
彼らの人となりを知っていたから、人狼という枷まで背負った自分が望みを叶えることなどできはしないと思っていた。
それなのに。
最も残酷な形で、その望みが叶ってしまった。


リーマスのために料理を作るセブルス。
学生のころに、みんなで憧れた。
こんな、シチュエーションに。
「…生きてさえいれば、こんな事だって叶ったのに。」
ずっと昔にジェームズが死んで、ほんの数週間前にシリウスが死んだ。
生きてさえいれば。
リーマスの言葉はあまりに微かで、セブルスの耳には届かなかったらしい。
揺らぐことのないその背に、椅子から立ち上がってそっと近付く。


ジェームズとリリーが死んだとき、セブルスは泣かなかった。
シリウスが死んだとき、セブルスは泣かなかった。
ただ、どちらのときにも、その真っ直ぐに伸びた背が微かに揺らいでいた。
本当に哀しいとき、人は泣くことすらできないのだといつか聞いたことがある。
だから、セブルスの背と涙を見せないその瞳は、雄弁に物語っていた。
ジェームズとリリーが死んで。
シリウスが死んで。
本当に、哀しいのだと。


「香の、匂いがする。」
そっと、真っ直ぐな背を抱きしめてそう呟けば。
背が、微かに揺らぐ。
「亡き者を悼むために、焚くんだったよね。」
学生のころに、セブルスがそう言った。
極東の国では、そう言う習慣のあるところがあるのだと。
それは哀しくて、とても美しい話だと思った。
その香の匂いを、今、セブルスが纏っている。
ジェームズとリリーが死んだとき、最後に逢ったセブルスはこの香を身に纏っていた。
そして今。
シリウスのために、この香を纏っているのだろう。
喪に服すかの如く。
本当に。
セブルスは、本当に、好きだったのだろう。
ジェームズとリリーのことが。
シリウスのことが。
こんな香を纏うくらいに。
背をリーマスに抱かれたまま、セブルスは黙って料理を作る。
リーマスのために。
みんな、いなくなって。
繰り上げ当選したみたいに、リーマスにその権利が与えられた。
生きてさえいれば。
こんな風に、セブルスの傍にいられたのに。
生きてさえいれば。
「セブルス、私は君のことが好きだよ。」
囁きに、セブルスの背がまた揺らぐ。
それでも、セブルスはリーマスを拒まない。
みんな、いなくなって。
リーマスとセブルスだけが残された。
だから。
もう、互いしかいないのだから。
「ねえ、セブルス。ずっと、ずっと私のためにこうして料理を作ってよ。」
傍にいて。
自分のためだけに、何かをして欲しい。
生きてさえいれば。
こんな風に彼を手に入れられるのだから。
だから。
それだけで。
「私は、絶対に死なないから。」
君を残して。




その言葉に。
みんないなくなって。
たった2人残されて。
もう、リーマス以外に誰もいないのだからと。
セブルスが、小さく頷いた。






■□■

そして、誰もいなくなって。

僕は、君を手に入れた。

君が誰よりも僕を望んでくれた結果ではないと知っているけれど。

もう、僕以外に誰もいないからだって知っているけれど。

それでも構わない。

傍にいてくれると、君が言ってくれたから。

 









 あとがきっぽい感じ。
前回に負けず劣らず意味が解りませんか?
誇って言うことではないですね。
時系列的には、前回よりも前の話です。シリウス死んですぐくらいかな。
リーマス、さりげなく酷いヤツですね。セブはそれに輪をかけて酷いです、リマに対して。
結局、みんないなくなってリマだけ残るまで、セブたんは誰か1人に決められなかったのね。という話です。で、みんないなくなっちゃって、リマだけ残ったからリマの傍にいるんです。でも、決められなかっただけで、ちゃんとセブもリマのこと好きなのよ。と、いつか書きたいです。
ホントは、奥さんなセブとダメ旦那のリマが書きたかっただけです。げふん。