「私は愛乞食でした。

ただ、愛をめぐんで欲しかったのです…」

□■□


 カタリ、と。
 人気のない放課後の小さな教室の、古びた扉が音を立てた。
 ゆっくりと近付いてくる、微かな足音。
 子供の。
 窓の外は雨。
 もう、春も近いというのに。
 身を刺すような細く冷たい雨が、幾日も降り続いている。
 世界を消していく、雨の音。

 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 足音は、微かな音しか立てないままで背後に止まった。
 「カカシ…」
 名を、呼ばれる。
 雨音の中で、それはいつしか狂気めいたあのコエにすり替わって。
 振り向けない。
 コワイ。
 コワイヨォ…
 子供の泣くコエ。雨音。
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 雨音が煩い。何も、聞こえなくなる。
 欲しかった言葉。媚びてでも求めた言葉。
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 代わりに聞こえるのは、あのコエと。
 子供の、悲鳴。
 ユルシテ…
 ブタナイデ…
 ……………ルトイッテ、クダサイ…
 窓の外。消えていく世界。
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 何も、聞こえない。
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 何も、解らない。
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 …何も、ない…
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 悲鳴。
 そして。
 哀願。





 名を呼ぶ、コエ。
 それは。
 痛みと傷と屈辱と、恐怖へのスイッチ。
 『カカシ…っ!』
 呼ばないで。
 そんな目で、見ないで…
 幼い腕が、庇うように頭を抱え込む。
 朝も昼も夜も。
 コエに怯え続ける。
 名を呼ぶコエ。
 ヒステリックな。
 あまりに幼くて。何も知らなくて。ただ、愚かだったから。
 怯えるしかできない。
 自分も、守れない。
 ただ、胎児のように身を丸めて頭を抱え込み。
 スイッチによって始動した、痛みと傷と屈辱と、そして恐怖を待つ。
 なのに。
 紡がれる、決して叶うことのない望み。
 名を呼ぶコエが、いつか変わるのではないかと。
 名を呼んで。
 そして、いつも欲しくてたまらなかったあの言葉が貰えるのではないかと。

 媚びて。

 乞う。


 スイッチは、いつでも何の脈絡もなく入る。
 その法則性は、誰にも解らない。
 『彼女』の気分次第。
 今も、また。

 「カカシ…っ!」

 アカデミーで、講義と任務の真似事を終えて。
 玄関の扉を開けた、その瞬間に。
 名を呼ぶコエ。
 スイッチが入ったことを知る。
 殊更重く足音を響かせて、目の前に現れる美しい『彼女』。
 「オカアサン…」
 カラダが、動かなくなった。
 怖くて。ただ、怖くて。
 震える足が、本能的に後退る。ほんの、僅か。
 それに。
 美しい『彼女』の眦が吊り上がった。
 それが、スイッチの入った『彼女』の今日のリミッターを外す。
 左の頬に。撃たれたかのような重い衝撃と、そして破裂するような大音響。
 幼いカラダはカンタンに吹き飛んで、『彼女』の規則性によって並べられていた鉢植えをいくつ
 か押し倒した。
 焼き物の鉢の割れる音。
 『彼女』の瞳が、怒りよりもむしろ『理由』の出来たことに狂気めいた喜びの光を宿す。
 『理由』。
 『彼女』が我が子であるカカシを折檻するための。
 「…ゴメン、ナサイ…」
 恐怖にうまく回らない幼い舌で、それでも必死で謝罪と許しの言葉を紡いでも。
 リミッターの外れた『彼女』の狂気に油を注ぐだけ。
 「カカシっ…あたしの大切な鉢を割ったね…っ!」
 幾度も頬を張られて。
 それでも足りないと、『彼女』は傍らに立てかけていた竹箒を手に取った。
 竹製の柄で、狂ったようにカカシを打ちのめす。
 地面に這い蹲って。土下座するかのように幾度も土に額を擦り付けて。
 ユルシテ。
 ゴメンナサイ。
 ブタナイデ…
 泣き喚き、哀願し、『彼女』の気を惹くかのように媚びて。
 それでも終わらない、折檻。
 竹箒が振り下ろされる度に、裂ける皮膚。
 肉の薄い幼いカラダに固い竹が食い込んで、骨がギチリとイヤな音を立てる。
 色素の薄いカカシのカラダは、流れる血で真っ赤。
 肩で息を吐きながら、全身全霊でカカシを打つ『彼女』の手も散ったカカシの血で真っ赤。
 「出来損ない!」
 「死んじまえ!」
 「ぶっ殺してやる!」
 「おまえなんて、産みたくなかったんだよ!」
 投げつけられる言葉に、ココロすら血を流して。
 ユルシテクダサイ。
 イイコニ、ナルカラ。
 その術すら知らなくても。
 縋った。
 『彼女』に。

 愚かな、望みを抱いて。



 『彼女』の言うことは絶対。
 その命に背いて与えられる折檻も怖かったけれど。
 それよりたったひとつの望みを叶えたかったから。
 『彼女』から、たったひとつ望んだ言葉を与えて欲しかったから。
 媚びてでも。
 浅ましく乞うてでも欲しかったから。
 『彼女』の言葉は、絶対。

 「カカシっ!」

 半ば深い眠りに就きかけて。
 薄い扉越しに名を呼ぶコエに、慌てて身を起こす。
 暗い部屋。
 『彼女』のコエと共に、誰か知らない人間の低い声も聞こえた。
 寝起きで鈍っているカラダを無理矢理に動かして、扉を開ける。
 黄色いサイドランプの灯る部屋。半ば乱れかけた、大きなベッド。
 『彼女』はその傍らに置かれた小さな椅子に深く腰掛けて、カカシを手招いた。
 美しい唇から吐き出される、紫煙。
 ベッドの上には、知らない男。
 酷く醜い色を宿した瞳で、カカシを見る。
 カカシを手招いたままで。
 『彼女』は、男を見た。
 「悪いけど、今日は気が乗らないのよ。コレを代わりにして。」
 そして。
 「脱ぎな。」
 カカシに、命じる。
 もう、幾度も命じられたこと。
 彼女のスイッチはもう入っている。
 『絶対』だから。
 背けば、欲しい言葉は永遠に与えられることはないだろうから。
 カカシは、寝間着を脱いだ。
 すべて、身に着けているものを。
 晒された幼い裸身に、男はわざとらしく小さな舌打ちをした。
 そして、すぐに欲望に脂ぎった手のひらを伸ばす。
 カカシの、薄い胸に。
 幼い、肌に。
 「横になって、足を開きな!」
 命じる、『彼女』のコエ。
 逆らえない。
 逆らわない。
 だから。
 言ってください。
 ただ、一言。
 『……………。』と。
 命ぜられるがままに横になり、足を開いたカカシの内臓を。
 掻き回す。
 それは、何?
 知らない男?
 それとも。
 『彼女』の振りかざす、竹箒?
 解らない。
 解らなかったけれど。
 笑う。
 媚びるように。
 ただ、『彼女』の言葉を乞うて。
 ユルシテ。
 ブタナイデ。

 ……………ルトイッテ、クダサイ…



 雨が、降っていた。
 『彼女』の折檻が終わった日。
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ

 手にこびり付いているのは、赤い血。
 カカシのものではない。
 足下に横たわる『彼女』。
 赤い。
 それでも、変わらず美しくて。
 薄く開かれた唇は、最期まで与えてはくれなかった。
 たったひとつ、欲した言葉。
 媚びてでも、乞うてでも欲しかった言葉。

 『愛している』

 雨音。
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ 何も、聞こえない。
 何も、ない。
 消えていく、世界。
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 だから、雨は嫌い。
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 だから、雨は好き。
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ

 「私は愛乞食でした。

 ただ、愛をめぐんで欲しかったのです…」




 「好きだ。」
 背後から聞こえる、子供の声。
 雨音で、よく聞こえない。
 肩に回される幼い右腕。空いた手は、月色の髪を梳いて。
 「愛してる…アンタを…」
 幾度も繰り返される言葉。この部屋で。
 それは。
 あんなにも望んだ言葉だったのだけれど。
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 血に染まったカラダ。
 自分の。『彼女』の。知らない誰かの。
 そして。
 最期まで与えられなかった言葉。『彼女』の唇。美しい。
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 愛を知らずに育ちました。
 未だに、愛を知らず。
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 「愛している」
 子供の、それでも真摯な言葉。
 あんなに、欲しかったのに。
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 信じられません。
 知らないから。
 解らないから。
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 アナタが与えてくれなかった言葉。
 信じたいのに。
 なのに…

 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 雨音で聞こえない。
 消えていく、世界。
 子供の声。
 「愛している。」
 神様ですら、救えない。

 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ

 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 オカアサン…
 アナタのせいで、何も持てなくなりました。
 欲したこの言葉すら、もう信じられない。

 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 ユルシテ。
 ブタナイデ。

 …アイシテイルト、イッテクダサイ…



 温もり。
 幼い腕。
 愛せない。
 『彼女』の血が流れている自分。

 愛したら、殺してしまう。

 あの、雨の日のように。
 求めすぎて。
 全部、壊す。


 欲しかったのは、ただひとつだったはずなのに。
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ

 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ
 世界が、消えた。



 めぐまれる愛。
 気が付けば。
 めぐまれることすら恐怖でした。

 「カカシ…」

 呼ばないで。
 もう、傷付けないで。

 オネガイ…


 

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