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  ジャズな夜とジャズな人たち  
      
   NHK総合テレビで放送中の「ブラタモリ」に出演しているタモリさんの言葉に、『ジャズ、っていうジャンルがあるようで、ジャズっていう音楽はないの。実はジャズな人がいるだけなの。ジャズな人とかがいて演奏するから、それがジャズになるの。音楽がなくてもジャズな人はジャズなのよ。スウィングする人はスウィングしてるのよ』という名言(?)があります。
 これはフジテレビ系列で2014年10月から15年9月まで、毎週日曜日夜に放送された「ヨルタモリ」という番組で、タモリさんが、岩手でジャズ喫茶を営むという設定の吉原さんに扮して語ったものです。タモリさんの、ちょっと真面目なこの言葉を聞いた時から、『ジャズな人』というフレーズが、頭のなかで何かを訴え始めていました。うう〜〜ん、ジャズな人? 
 
 2月17日土曜日、三次町「Duo」で、小さなライブが行われました。キーボーディストで作曲家の、アメリカ・ボストン在住で院長の従妹の長男である大津真一さんと、彼の高校時代の友人小田佳大さん(ドラム)、そして高校の後輩、岡崎聡さん(ベース)によるトリオが、素敵な演奏を披露したのです。
 大津真一さんは、庄原市西城町出身で現在44歳。1993年からアメリカ・テキサスのロン・モリス・カレッジで学び、1995年に同校を卒業。在学中に数多くの受賞経験があり、2009年には同大学から「Young Distinguished Alumni Award」を授与されました。その後ボストンのバークリー音楽大学を卒業され、在学中「マルチ・キーボーディスト賞」にノミネート。卒業証書を、イギリスのミュージシャンだったデヴッド・ボウイから授与されたという逸話があります。
 現在は、アメリカでグラミー賞にも数回ノミネートされたバンド「Roomful Bluse」の元リーダーや、他のアーティストとの共演や音楽監督をされるかたわら、作曲にも力を入れ、数々の素晴らしいアルバムを制作されています。その中の「Orifice」は、ボストンのローカル音楽雑誌で「2012年度ミュージカルトップテン部門」の6位に選ばれました。
 
 私が真一さんの音楽に初めて接したのは、2013年4月、彼のお父様である日本画家の、大津英輔さん(2011年没)を追悼して行われた「大津英輔の日本画世界・追悼展―ふるさとの自然に心を寄せて―」のピアノコンサートでのことでした。真一さんは、会場の大画面に映し出されるお父様の描かれた数々の絵にあわせて、自分の曲を演奏されたのです。
 大津英輔さんの絵は当院待合室に飾ってありますが(鵜匠の絵です)、庄原市や西城町周辺の山や川、森の木々や雪景色など、自然や人間のなかにひそむ魂が静かに力強く描かれていて、その日彼が弾くピアノは、その魂を追いかけながら哀しみ続け、そしてコンサートの終盤には、一条の光を見出したように私には聴こえました。


スクリーンに映し出された英輔さんの絵「漁師」
寄り添うように演奏されました


 その日をきっかけに、アメリカから一年に何度か帰国される折に行われるライブを聴きに伺ったり、食事をしながらあれこれお話をしたりする機会に恵まれました。そして昨年の夏にお会いした時には、「今度は三次町のDuoというお店で、食事をしたりお酒を飲んだりしながら、皆でわいわい楽しくライブをして遊びましょう!」という話になったのです。
 そして、当日を迎えました。
 
 プライベートパーティーですので、参加者は十数人。美味しそうなお料理が並び、三次産のワインやビールなど、アルコールも程よく喉や心を潤していきます。しばらく食事をしたりお喋りをした後に、彼ら三人の音楽が流れ始めました。曲は、「Time After Time」「When The Saints Go Marching In」「The Girl From Ipanema」、真一さんのオリジナル曲「Refrain」「神無月」「Winning Run」など11曲です。


 この日のトリオは同じ高校で学び、それぞれの人生を歩みながら、いまも音楽を離さずに生活しています。真一さんはプロの音楽家なので当然ですが、小田さんと岡崎さんは仕事を持っておられます。それでも常に音楽の研鑽の日々だと伺いました。真一さんの弾くピアノの音色に深く敬意を込めながら、素敵に奏でられていました。お店の音響のよさと、生ピアノのくすぐるような心地よさ、正確で厳しく、そして温かなドラム、まるで悪戯っ子のようで魅力的なベース!
 真一さんはすでにアメリカ在住25年、身体や心には、アメリカ独特のリズムやメロディーが沁み付いておられることでしょう。それでもやはり、日本の感性(故郷の景色やしんしんと降る雪の音など)が音楽に加味されていて、聴く人を、真一さん独特の世界へといざないます。
 
 春近しとはいいながら寒さの残る三次の町の片隅で、ジャズな夜はひっそりと更けていき、ジャズな人たちの心は揺れて、静かに満たされていきました。
      荒瀬 妙子
   鉄道ファンの思い出話
                                 三次市下志和地町
                                          重信医院院長
                                                   重信 和也 
 
皆様明けましておめでとうございます。
 「あらせ鉄道くらぶ」会員bQ(こんな会あるかどうか知りませんが・・)の重信と申します。
 私は自他共に認める鉄ちゃん(鉄道オタク)で、昔は撮り鉄(鉄道の撮影)が主でしたが、最近はもっぱら乗り鉄(列車に乗る)で、学会や出張など移動の際はできるだけ鉄道を利用しています。しかし、昨年11月、山口線のSL「やまぐち」号に44年ぶりにD51(デゴイチ)が復活し、しかも1日限定で、いつも列車を牽引しているC57 1号機と重連(2両連結)で走ることになったため、荒瀬先生達と現地を訪れ、久しぶりに撮り鉄をやってきました。
 
 ここで撮り鉄時代の思い出話をひとつ。
 昭和40年代、まだ高校生の頃、まもなくSLが廃止になる予定でしたので、休みを利用しては各地に撮影旅行に出かけていました。その中でも最も思い出に残るのは、当時鉄道ファン最大の人気を誇っていた、北海道函館本線の急行「ニセコ」の撮影旅行です。「ニセコ」はかつて東海道本線や山陽本線で「つばめ」などの特急列車を牽引していた、日本最大の旅客用蒸気機関車のC62(シロクニ)が重連で牽引するという贅沢な列車で、その中でも2号機(現在京都鉄道博物館保存中)はデフレクター(除煙板)につばめのマークが付いていることからスワローエンゼルと呼ばれ、最も注目を浴びていました。この2号機と次番の3号機との重連はゴールデンコンビといわれ、一番人気でした。「ニセコ」もその年秋にはSLからディーゼル機関車牽引になることが決まっていたため、最後のチャンスと思い、春休みを使って友人と二人で撮影旅行に行くことにしました。 
 この旅行の目的はゴールデンコンビを見ることはもちろんですが、もう一つ、前年まで呉線を走っていたC62 15号機と16号機が、呉線電化後最後のご奉公で函館本線に転属して来ていたため、この2両にも久しぶりに会いたいというのもありました。
 
 昭和46年3月22日、広島駅を午前2時過ぎに出発する急行「桜島・高千穂」に友人と二人で乗り込み、旅の始まりです(当時は鹿児島と東京を結ぶ急行列車があり、なんと寝台はなく、座席のみでした)。すでに東海道新幹線(東京ー新大阪間)は開通していましたが、それには乗らず、客車に揺られ広島から14時間かけて東京へ。続いて午後7時上野発の急行「八甲田」(こちらは寝台でした)に乗り込み、翌朝6時15分青森着。その日は1日青森県内で奥羽本線の列車を撮影。この時、幸運にもD51の1号機(こちらも京都鉄道博物館保存中)を撮影する事ができました。
 
 その日深夜便の青函連絡船でいよいよ北海道上陸です。早朝4時過ぎに函館着、一番列車で小樽に向かい(これが実に9時間もかかります)、小樽の二つ手前の小樽築港(おたるちっこう)駅で下車。すぐに近くの小樽築港機関区に向かいました(当時は機関区へ自由に出入りすることができました)。機関区にはラッキーなことにゴールデンコンビのC62 2号機と3号機両機とも車庫におり、待望の対面が叶いました(写真。 

 翌日はいよいよ急行「ニセコ」の撮影です。小樽から列車で小沢(こざわ)駅へ。小沢から倶知安(くっちゃん)方面の倶知安峠に向かって約3q先の撮影ポイントまでカメラバッグと三脚をかついで向かいます。この時期は線路上には雪はありませんでしたが、線路脇にはまだまだ多くの雪が残っており、歩くのも大変でした。やっと撮影ポイントに到着し、待つこと約1時間半、遠くから二つの汽笛が響き、徐々にドラフト音(煙の排気音)が近づいてきます。2両のC62が力を合わせ、猛進してきました。前日機関区で見たゴールデンコンビがすごい迫力で近づき、あっという間に走り去って行きました。いきなり迫力あるゴールデンコンビの「ニセコ」を見ることができ、しばらくは興奮が冷めませんでした。  
 翌日同行の友人の親戚がある室蘭に向かい、室蘭で歓待を受けた後、室蘭本線や函館本線の大沼など撮影ポイントを転々としながら、D51を始め、D52、C57、9?00型など、色々な機関車を撮影できました。
 
 再び函館にもどり、長万部(おしゃまんべ)まで憧れの「ニセコ」に乗車。長万部では、同駅を出発する「ニセコ」を撮影。二両のC62はこれから急勾配に挑むため全力でダッシュをかけ、まるでジェット機のような轟音を残し、山に向かって行きました。その後も「ニセコ」を追いかけながら移動し、呉線からやってきたC62 15号機、16号機にも会え、目的を達することができました。

 予定していた北海道内8日の日程があっという間に過ぎ、車中泊4泊を含めて、11泊12日の(大?)撮影旅行が終わりました。今思えばせっかく北海道まで行きながら、全く観光をしない、勿体無いオタク旅行でした。
 記憶が定かではないところもありますが、二度とできない撮影旅行で、一生の思い出に残る旅でした。
  カープV8おめでとう!広島カープ・ファンの意味するもの 
  9月18日、カープは甲子園球場の阪神戦に3対2で勝利し、通算8度目の優勝を決めました。しかも37年ぶりという2連覇でした。
 一夜明けた19日の三次地方は、台風18号の影響が遠い話のように青い空の広がる快晴となりました。
 カープはマジックを1とした16日、本拠地マツダスタジアムで優勝を決める絶好のチャンスを迎えていました。阪神の試合中止のため、自力で勝利(引き分けでも優勝)し、球場を埋め尽くすファンの前で胴上げを…、とだれもが願った試合でした。しかしカープはこの試合を敗け、しかも次の日は台風のため試合中止。ファンは落ち着かない気持ちのまま、18日の阪神戦での優勝にかけることになりました。


9月19日荒瀬外科駐車場で三次町本通り商店街主催の鏡割りが行われました

 広島カープといえば、1975年に初優勝をするまでは、球界のお荷物などと揶揄されるほどの弱小球団でした。その初優勝の年、日本球界初、メジャーリーグ出身のジョー・ルーツ監督が就任。前年まで3年連続最下位だったカープの帽子の色を、それまでの紺色から、燃える闘志の色である赤に変更しました。これが一つのきっかけとなったのか、世にいう赤ヘル旋風が巻き起こり、ルーツ監督から替わった古葉監督のもと、ついに初優勝の栄冠を手にすることができたのです。
 私はこの初優勝をした後楽園球場の外野席で、2004年に亡くなった永井明氏と院長、そして幼い子供と試合を観戦していました。この日は後楽園球場のほとんどをカープファンが埋めていたのですが、この頃のカープファンというものは、言葉は悪いのですが、少し生活に疲れたようなオジサンたちが主流でした。いまのようにお洒落なユニフォームを着た人などなく、普段着で急いで球場入りをした! というファンが、それでも目だけはキラキラと輝かして、試合の流れに、息もつけないほどの緊張感で見入っていたものでした。優勝が決まった瞬間、なだれのようにグラウンドに駆け降りたファンの姿は、いまでも語り草になっています。その中には、もちろん永井明氏と院長の姿もありました。
 「カープ女子」という言葉は、2013年9月に放送されたNHK「ニュースウォッチ9」の特集で、カープ女子が特に関東圏で増えていると紹介されたことがきっかけでした。都会で働く若い女性の琴線に触れたのは、カープの選手の、敗けても敗けても必死にプレーする姿で、それを自らの姿に重ね合わせてファンになったといわれています。
 それまで、旧広島市民球場でビールを片手に、野次を飛ばすことに小さなうっぷんをはらしていたあのオジサンカープファンの前に、カープのユニフォームを可愛く着こなし、カープが勝てばキャーッ! と叫んで大喜びをし、テレビのインタビューにも、堂々とした受け答えまでする夢のようなファンが現れ、いまやカープ女子だけでなく、カープ男子やカープ熟女(?)までもが球場を華やかに染めています。
 私がなにより驚くのは、このファンの滅私奉公的な熱い心情です。なんどもしつこいですが、オジサンファンは、カープが敗けると荒れ狂うことが多いのです。はるか昔の話ですが、院長などは、試合のテレビ放送が終わると小さなラジオにかじりついて戦況を聞くのですが、最後、ついに敗けが決まった瞬間、そのラジオは、院長の怒りで宙を舞う(笑)、というような荒れかたでした。慰める言葉に耳など貸さず、とにかく相手チームを恨みつくすのです。当時、その一番の相手チームは巨人でした。スター選手の活躍と潤沢な資金力、カープのような貧乏球団は勝ち目のない時代ではありました。
 カープは1979年〜86年までの黄金時代を経て、その後優勝など忘れたかのように低迷していた長く辛い時期を過ぎ、昨年、黒田博樹投手のカリスマ的存在を力に、25年ぶりの優勝を見事に果たすことができました。
 カープの強さについては、カープの、他チームとの違いでよくいわれる練習量の多さ、スカウトの力などの他、監督・コーチ・選手の努力の賜物であることはいうまでもないでしょう。しかし、私はやはりカープファンの力を感じないわけにはいきません。狂喜乱舞した去年はもちろんのこと、今回の優勝決定後のカープファンのあの喜び方といったら! 流れる涙で顔をくしゃくしゃにしながら、「最高でーーーす!」と叫ぶカープ女子、カープ男子、カープ熟女、そしていまや希少価値になりつつあるカープオジサンなどなど。他の球団ではあり得ないような光景をいっぱい目にしました。そのファンの想いが、監督・コーチ・選手に伝わらないわけがありません。
 猛暑だった今年8月、広島市内の街中でのことです。カープのユニフォームを着た若いお母さんは、前のめりになり、必死で自転車をこいでいます。後では5歳くらいの男の子が、これまた必死でカープの旗を持っていました。旗はお母さんのこぐペタルの強さに合わせるように、風にはためいています。これから2人で、マツダスタジアムにカープの試合を観に行くところのようでした。
 流れるような時間と光景であったにもかかわらず、それは一枚の絵画のように切り取られ、深く心に残りました。
  荒瀬 妙子
 
  第6回 上市栄通り ふぇすてぃばる 
  心配した雨も栄町の人達の気迫に恐れをなしたのか良いお天気になり、今年も4月29日の昭和の日、「上市栄通り ふぇすてぃばる」が、皆の「頑張ろう〜!」の掛け声と共に始まりました。そして午前10時には、いよいよお客様を迎えてスタートです。
 去年までは上市栄通りだけで行ったこのイベントも、今年は新たに参加された店舗も増え、太歳通りにまで続きました。 この日この石畳通りは、昔ながらの和職人とアートが織りなす懐かしい昭和の空気が漂っていました。その中のいくつかをご紹介しましょう。


さあ、のんびり歩いてみましょう

◇木綿兎(もめんと)…ここはアトリエジュサブローです。普段は人形教室と生け花教室をされていて、皆さんの作られた人形や生け花が展示され、木綿兎代表の川崎員奥さんが、辻村寿三郎さん制作の人形を使い舞を披露されました。


「冥途の飛脚」に登場する梅川を、シャンソンに合わせて演じられました
梅川の情感が切々と伝わります

◇えびす屋…この店舗ではお宝市があり、掘り出し物が格安で販売されていて賑わいました。
◇元鞍掛洋服店…この店舗にはハンドメイド雑貨店「Shiorin」さんが手作りの作品を
販売され、お客さんは楽しんで買い物されていました。
◇旧和久長醤油…ここでは表に椅子のお茶席を設置して、皆さんにのどかなお茶のひと時を楽しんでいただきました。奥座敷では畳席のお茶席もあり、大勢の方々が訪れて下さいました。
 お茶席ではギター演奏が行われ、奥の畳席では琴と尺八の演奏があり、そんななかでのお茶も味わい深いものになりました。
 通りの家並みをバックにして、「街角ライブ」も行われました。バンド「ピッコロ」さんのウクレレとピアニカ、そして澄んだ歌声に人々は足を止め、また子供達も上手にピアニカの演奏し喜ばれました。



 そしてお昼過ぎには、院長先生とヒストリックカーを愛する方々が運転する車の音が通りに響きわたり、店先や道路に展示されました。今年は去年よりも参加車が増えて39台になりました。これも、院長先生の人を大切にされる力の表れだと思います。
 

古い町並みに旧車が溶け込んでいます

 荒瀬外科の横のスペースには昔懐かしいポン菓子が焼かれ、その音の大きさに驚いたり、今では珍しいほんわかとした味を楽しんだりしました。カープソースの毛利醸造本宅前で作ったハイカラ焼きそばも大好評。早々に完売御礼でした。 
 私はお茶席の水屋担当で、お茶がなめらかに出せるように、準備や洗浄、お茶碗の保温、お茶を立てるなどに追われました。でも町の人たちとの作業は和気あいあいでとても楽しく、身体は疲れても達成感があり、来年もまたこのイベントを実行できるようにと願っています。         
看護師
           井上 多恵子
 
  「荒瀬先生 古稀お祝いの会」レポート 
  三次市三次町 ジュン政岡薬局 
                                       政岡 淳

 2月21日 グランラセーレ三次にて「荒瀬先生古稀お祝いの会」が行われました
当日は、医師仲間、三次ロータリークラブ(RC)の仲間など出席者52名がすべて男!
男(おっさん)だらけの和やかな?パーティーとなりました
 男達にも人気の荒瀬先生であります
 6名の発起人代表である谷岡慶宣先生の祝辞に照れまくる荒瀬先生、続いて市立三次中央病院院長中西敏夫先生の祝辞、三次市医師会会長鳴戸謙嗣先生の乾杯、と同時にステージのどん帳が上がりだしRC天野英樹様率いる三次太鼓の澄み切った篠笛の音色と心の底に響く和太鼓の力強い演奏がこれから始まる宴の高揚感を一層上昇させてくれます


挨拶をされる谷岡先生 この会の発案者でありまとめ役をしてくださいました

 佐竹先生ほか出席者の祝辞に続き、椅子をくるりと半回転すればバックステージがあり、ドラムス荒瀬先生率いるアドベンチャーズの演奏が始まった



心地よいテケテケサウンドと、美味しい三次のワインに酔ったのか
スーツ姿でドラムを叩く先生が、石原裕次郎に見えてきた
 演奏の合間、津島先生の研究が二年連続「槇殿賞」を受賞されたことを称えまして荒瀬先生より花束の贈呈がありました
 司会のRC児玉様よりサプライズの発表があり、スクリーンに2人のお孫さんが登場、かわいい歌のプレゼントと「じぃじ、おめでとう」のお祝いの言葉に先生の目じりはデレデレにたれ下がり、石原裕次郎から田中邦衛に変わった
 宴も終盤となり花束お祝いの品贈呈後、荒瀬先生の謝辞のなかで「たったの70年、まだまだ70歳これからです」と述べられた先生が、こんどは加山雄三に見えてきた  
締めは大倉先生の万歳三唱でお祝いの会はお開きとなりました 2時間があっという間の楽しい会でありました
 しかし!この話には続きがあります
この後盛り上がったおっさん軍団はニ次会へと繰り出し、
荒瀬先生のピアノで歌い、谷岡先生の美声に酔いしれ、最後は荒瀬先生から谷岡先生へ感謝と敬意を込めての「接吻!」という衝撃と笑撃の結末の余韻に浸りながらニ次会もお開きとなりました
先生,いつまでもお元気で、さらなるお祝いを重ねられますよう心よりお祈り申し上げます
  
  「あなただって止まってるわよ」 
   宮城県大崎市 古川中央眼科院長
 菊地 玄

 私は院長の大学時代の後輩で、院長の弟の秀治先生や南畑敷町で開業している小川眼科の小川徹郎先生と同級生で、宮城県仙台市の北、大崎市で眼科を開業しております。海岸線よりは約20キロ以上離れていますので津波の直接的な被害はありませんでしたが、多くの悲惨な話を聞き及び今でもちょっとでも揺れると、これ以上の揺れにならないでとトラウマになっております。 
 特に院長からは震災時沢山の広島お好み焼を送って頂き、食糧難の時とても助かった記憶があります。又、小川先生とはどちらが先に死ぬか競っておりまして、生き残った方が葬儀委員長をやる約束になっております。
 院長とは学生時代から良くして頂いて、よく麻雀や食事を御一緒させて頂きましたし、先生のカープ愛はお亡くなりになった永井明先生と共に半端なものではなかったことを憶えております。昨年はカープの25年ぶりのセ・リーグ優勝。特に巨人を破っての美酒はことのほか美味しかったことと思います。改めましておめでとうございました。



 又、昨年の流行語大賞には「神ってる」が選ばれて二重の喜びでしたね。我が楽天ゴールデンイーグルスも「マー君、神の子、不思議な子」の大活躍で震災後2年目の2013年に巨人を破って日本一になりましたが、その年の流行語大賞の選考委員特別賞で「被災地が、東北が、日本が一つになった、楽天・日本一をありがとう」を頂き、大震災を忘れない思いを強くした記憶があります。
 先生とはいつか日本シリーズを広島対楽天でと話したことがありましたが、マー君が居なくなった現状では大谷君のいる日本ハムを打ち砕くのは難しいでしょう。何度か球場で大谷君の投球を間近で見ましたが、年を重ねる毎にその投球の威力はすさまじく、楽天ファンでありながら、同じ東北出身の大谷君を応援している自分がありました。今年もカープ対大谷君の日本シリーズを観たいものです。
 ところで話はガラッと変わって「睡眠時無呼吸症候群」(以後SAS 注1)の話をしましょう。もう10年以上前の事でしたが、テレビでSASの話をしており、そんな人もいるんだと笑って聞いていたら、妻が「何言ってんのよ。あなただって止まっているわよ」の一言。毎晩イビキが凄く、そうかと思うと呼吸が止まっているとのこと。さっそくSASの検査をしている所を調べたが当時は、東京の水道橋の睡眠研究所など数えるくらいしか施設がなく、予約受診。待合室で待っていると、うら若き痩せた女性の方々がチラホラいらっしゃる。診察医に聞いてみると、イビキを家族に指摘され悩んでいるらしい。イビキをかくのは、ずんぐりむっくりのオヤジだけだと思っていたのでびっくり。検査予約はもちろん一泊。一週間後検査結果を聞きに行く。もちろん心配ありませんと言われるものと思っていたのですが、結果は閉塞型のSAS。治療法の一番はCPAP(注2)。 つまり一定圧を加えた空気を鼻から送り込むことによって上気道の閉塞を改善し、睡眠中の気道を確保しようという装置である。一晩中マスクを付けて寝るのである。専門的な話になるが、検査時の酸素飽和度は78%まで低下する時があり、普通の生活上生きていけないレベルである。麻酔科の院長のコメントがあればよりおわかりになるでしょう。院長よろしくお願いします(注3)。
 それがCPAP装着後は90%以上の正常値へ。マスクをして寝るのでイビキは一切なし。一番自分で驚いた事は、仰臥位で寝て朝目覚めると、布団の乱れも全くなく同じ姿勢で寝ており、体位の変動が全くといってもいいほど無くなったことです。それまでは車の運転中も仕事中もよく眠くなって困っていましたが、それも解消。睡眠時間も4時間半(3クール)寝れば充分ということになりました。
 認知症の一因にも考えられているSAS。古い話になりますが、山陽新幹線運転士の居眠り運転に限らずアメリカスマイリー島の原発事故、スペースシャトル発射直後の爆発事故などにも、SASの患者が係わっていた事が報告されています。
 私の体系は中肉・中背のイケメンで決してずんぐりむっくりではありませんが、小学校時代のあだ名が「くかんさ」。三角をひっくり返したような顔をしていました。若い女性の方々の顎発達の悪さが原因になっているようです。家内はあなたのイビキが聞こえなくなってこんなに気持ち良く眠れることはないと言い、私がCPAPを付け忘れるとたとえ眠りに入っていても付けなさいと言われます。元来血圧が高く約160前後あったのですが、付け始めて5〜6ヶ月位で120〜130まで改善しました。
 読者の皆様も御家族のイビキで困っていませんか? ぜひ私の話を参考にして下さい。ところで荒瀬先生の奥様、先生は「止まっていませんか?」。皆様良き年になりますようお祈りいたします。

注1 SAS;Sleep Apnea Syndrome 睡眠時無呼吸症候群
注2 CPAP;Continuous Positive Airway Pressure Mask 経鼻的持続陽圧呼吸療法装置
注3 麻酔医の主な仕事は、手術がスムーズにできるよう患者さんに麻酔をかけることです。とくに全身麻酔は、メスで切っても、ピクリともしないような、普段の睡眠とは比較にならないほどの深い眠りをつくり、その状態で生命維持を担い、手術が終われば患者さんを元どおりに覚醒させるという、大変重要な医療です。その行程でまずやることが気道確保で、口や鼻から肺の入口までチューブを挿入することです。このチューブから酸素や吸入麻酔剤を流しながら、人工呼吸を行ない深い眠りを維持します。もし気道確保が正確にできていなければ、麻酔も手術もできなくなるばかりか、直ちに生命の危機が生じることになります。いかに気道確保が重要かお分かりいただけたでしょうか。ということで菊地先生の酸素飽和度78%という値は、いかに気道の閉塞状態がひどかったかということが分かります。菊地先生、早いうちにCPAPでSASが治療できて、本当に良かったですね。
  カープ優勝おめでとう! 
   「広島の皆さん、全国のカープファンの皆さん、本当に長い間お待たせしました。おめでとうございます!」。緒方孝市監督がインタビューでこう絶叫したのは9月10日。マジック1で迎えた東京ドームでの巨人戦でカープは6対4で逆転勝ちをし、平成3年以来25年ぶり7度目のセ・リーグ優勝を決めました。
 広島県民はもちろん、全国に広がる赤い炎を心に持つカープファン。なぜこうもカープは愛されるのか…。その答えは、お祝いにいただいた数々のメッセージのなかにあるのではないでしょうか。
 
         野球評論家
                      池谷 公二郎
 1975年のカープ初優勝。あの興奮、あの感動を知っているだけに、もう二度とあのすばらしい思いを感じる事はないであろうと想像していました。
 だが今年のカープの戦いぶり、球場の熱気、カープ女子を筆頭とするファンの盛り上がりはあの当時を思い起こし、優勝の素晴らしさを教えてくれる。25年間優勝から遠ざかり、CSに出場するだけでファンは喜んでくれました。長い間ファンの胸につかえた期待に見事に答えてくれました。
 今年のキャンプ、まず目についたのがブルペンでの投手の投げ込む姿でした。この数年、カープのエース前田健太のスロー調整が投手練習の主流になっていましたが、ローテーション入りを狙う野村祐輔、福井、大瀬良、九里と、キャンプ入り当初から活気あるキャンプを見ることができました。
 古いといわれるかもしれませんが、球数を投げてフォームを体に覚えさせる、走り込んで下半身を鍛える、この姿を若い投手に手本として見せてくれたのが黒田投手です。41歳のベテラン投手がカープ投手陣の意識改革をしてくれました。黒田の復帰がカープ優勝の始まりだったのかもしれません。
 田中、菊池、丸の固定された1・2・3番、新井、エルドレッド、ルナの4番打者、若い鈴木の成長も目を見張るものがありました。
 一人一人が自分の役割を自覚しつながりのある打線が組めました。打率、得点、本塁打、盗塁とどれも他チームを大きく圧倒していました。ここにも新井の存在があります。キャンプからバットを振り込み、守備練習も自ら参加し野手陣を引っ張っていました。チームがひとつになり優勝に向かう姿に感動も覚えました。今までにない新しいカープの始まりかもしれません。
 まだクライマックスシリーズ、日本シリーズと大きな戦いが待っています。でも今年のカープなら多くのカープファンに、また”新しい感動あるゲーム“を観せてくれるでしょう。

 

       元毎日新聞論説委員
              山野上 純夫
 20年前の初夏でした。訪問先の広島・中国放送報道部で、広島カープの成績が話題になりました。その日、三村敏之監督率いる首位カープが、2位巨人に11・5ゲーム差をつけていたからです。
 だが、その日から長嶋巨人の猛追撃が始まりました。カープは巨人に首位の座を奪われ、その年は3位に落ちてしまいました。

 25年後の今年、緒方カープが2位巨人に10ゲーム差をつけたころ、多くの方から「今年こそカープが優勝ですね」の声をかけていただきました。でも20年前のことがある。早々と優勝を論じると、またつまずくかもしれない。だから私は、そうしたお便りにいっさい御返事を出さないできました。
 確かに巨人は強い。一時は4・5ゲーム差まで迫られました。その追撃を振り切って9月10日、ようやく7度目のリーグ優勝が決まりました。もう2位に落ちることはないと知って、このお便りを差し上げています。
 マスコミの多くは、前回の優勝から25年もかかったことを論じています。しかし私は、カープがセ・リーグに加盟してから、昭和50年に初優勝するまでの苦難の道をも考えずにはいられません。
 親会社なしに発足したため、常に資金難と闘わざるをえませんでした。選手の給料は遅配続き、阪神戦のため甲子園へ遠征しようにも旅費がなく、「歩いて大阪へ行こう」と話し合ったこともあると聞きました。

 給料が払えないから、税金も納められないという事態が起こっていました。広島国税局の職員、つまり「カープ後援会国税支部」の会員は滞納の事実が漏れるとファンへの影響が大きいと配慮し、極秘のうちに、無理なく分割納税できるよう配慮したとか。「絶対に記事にしないこと」を条件に聞かされた打ち明け話です。
 「国税が払えなければ、地方税も納められないでしょう。しかし、県税事務所筋からそのような話は出なかった。県の税務担当者も、私たちと同じ思いだったのではありませんか」と、親しかった国税マンが語っていました。

 全国紙の記者は、2年か3年のサイクルで地方支局(総局)を異動します。広島で勤務した記者の多くは、カープのファンになるそうです。年俸が低くても、ひたむきにプレーする選手たちの姿勢に、共感するものがあるのでしょう。
 広島カープには、今も親会社はありません。ひところ、会社や役所ごとに結成されていた「カープ後援会支部」という組織も消えました。しかし、広島だけでなく、全国の球場に、赤いユニホーム姿の、熱心な応援団がいるのです。
※山野上純夫様から、院長の恩師M田平太郎様への 書簡です。


              宮城県多賀城市
               高橋 俊策
 平成28年9月10日(土)午後9時41分、ついにカープが25年ぶりにリーグ優勝しました!
 自分が宮城県在住でありながらカープファンになったのは今から32年前の昭和59年でした(カープ最後の日本一になった年)。
 当時のカープは常時Aクラス。優勝は当然という風潮があったせいか、最後の優勝だった平成3年当時も「ああ、優勝したんだな」ぐらいで喜びは薄かった感じでした。
 8月下旬で首位中日に5・5ゲーム差の2位。9月に逆転しての優勝、嬉しさもあったけど苦しいシーズンだったという記憶の方が鮮明に残っております。しかし、その後カープは15年連続Bクラスなど長い低迷期。我が地元宮城県に楽天が誕生しても自分はカープファンをやめることはありませんでした。
 優勝の翌年(平成4年)から私設応援団に加入していた時期もありましたが、宮城県在住者のカープファンで結成した「仙台東鯉(あずまごい)クラブ」を平成14年に設立しました。会員は10数名と少数精鋭ですが、広島から遠く離れた地からも精一杯カープを応援しております。
 優勝マジックが「1」となった平成28年9月10日(土)、優勝決定の瞬間はみんなで集まって見よう! と仙台市内のスポーツカフェに招集をかけました。そして午後9時41分、ついにその瞬間を目の当たりにしました!
優勝決定したときは人目はばからず号泣しました。ビールかけこそしませんでしたが、外で胴上げしました。仙台の街中でも見ず知らずの人から「カープ優勝おめでとう!」と声をかけられました。

 9月10日は自分の息子の8歳の誕生日でした。8年前の同じ日は父親になった喜びで涙。そして今年はカープ優勝で涙でした。さらに昭和50年10月15日はカープが初優勝を決めた日でした。自分の結婚式は同じ10月15日(平成18年)です。カープが宿敵巨人を敵地(後楽園球場・東京ドーム)で倒して優勝した日と自分の記念日が二つも同じ日に重なるのは、単なる偶然ではないと思います。

     
                         東京都渋谷区
              有本 秀明
 『ファンの皆さんが喜んでくださるなら』『チームメイトが喜んでくれるなら』
 今季、新井がヒーローインタビューで度々口にした言葉である。完全に自分を捨てている。
 黒田の気迫あふれる投球と、本業でない打席に入った時でも見せる闘志! 
 この2人が見せる背中にカープが一つになった。才能、技術、身体能力よりも、『必死になる』『本気になる』ことの重要性を見せてもらった。リーグ優勝が決まったあと、2人が号泣しながら長い間抱き合っている姿は、何度見ても泣ける。必死で闘い、本気で人の喜ぶ姿が見たいと頑張った人に与えられる神様からの素晴らしいプレゼントである。このような心が震えるような感動を見せてくれた2人に心から感謝したい。
 まだ戦いは続く。CSで最後に笑うのはカープである。何故なら、試合中、誰一人ニコリともしないで必死に勝つことに集中している。その褒美に最後に笑顔がプレゼントされると
信じている。


新潟県魚沼市・廣川医院院長
               廣川 剛夫
 広島東洋カープのファンの皆様! セ・リーグ優勝オメデトウございます。熱烈なる「鯉心」愛読者の中で、数少ない巨人ファンとして心よりお祝い申し上げます。そして、残念! 悔しい! というのが本心でもあります。
 “敗戦には必ずそれなりの理由がある“という野村克也氏の名言がありますが、今は心の中にしまっておきます。
 以前貴紙に投稿しましたが、私は1975年10月15日、後楽園球場で古葉監督の胴上げ、グランドやスタンドの中を狂喜乱舞して走り回っていた広島ファンを見ていました。最下位になった長嶋巨人のファンは、この場面から目をそらしてはいけないと思う一心からでした。
 私は今、一枚のタオルを見ながらこの原稿を書いています。Arase&Nagai(貴紙前号の三次市図書館の有光氏が紹介した作家)の2人が、当時作って配ってくれた真紅のV1Carpのタオルです。今まで一度も使用せずに大切に持っています。越後人の執念ともいえます。
 最後に一言、”まだCSがある”      


     三次町・ジュン政岡薬局
                政岡 淳
 25年ぶりのセ・リーグ優勝おめでとうございます。
 25年前の1991年秋、30歳の僕は結婚の準備に忙しく休日のたび婚約者(現在の妻)と式場、披露宴会場、貸衣装、旅行会社等の担当者、仲人とのたびたびの打ち合わせにかなり参っていた。
 その頃、カープは中日ドラゴンズとし烈な首位争いをしていた。熱烈カープファンの妻は、打ち合わせを切り上げてでも「カープ行こう!」の誘いにはホイホイついて来た。
 よかった! 妻がカープファンで、しかも熱烈で。おかげで娘もカープ女子。これから先もカープの話題で会話も弾む。優勝しちゃって穏やかな会話がもっと弾む。
 新婚旅行はカープV旅行と同じオーストラリアに行った。妻はウエディングドレスが地味だったと25年たった今でも言う。
  
   寝台特急列車に乗って
  幼いころ、祖父の友人だったMじいちゃんに、暇さえあれば自転車で三次駅へ列車やSLを見に連れて行ってもらっていた。子供ごころに、大人になったら鉄道員(特に赤と緑の手旗で誘導する人にあこがれた)になりたいと真剣に思っていた。しかし年齢を重ねるにつれ、いつしかそんなことは忘れて、気がつけば敷かれたレールの上を走り、医師として日々仕事に明け暮れていた。
 
 ところが、平成11年に公開された、降旗康男監督、高倉健主演の『鉄道員(ぽっぽや)』を観て、消えかけていた鉄道への想いに再び火がつき、メラメラと燃え始めたのである。いつものスクリーンの健さんどうりに、不器用で寡黙な役柄で、仕事への熱い想いに駆られた男の姿に感動したが、健さん演じる主人公佐藤乙松が、自分が鉄道員になったわけを若者に語る、「デゴイチ(D51)やシロクニ(C62)が、戦争に敗けた日本を立ち上がらせ引っ張るんだって(父親から言われた)。それでおじちゃん機関車乗りになった。そして鉄道員をまっとうしようとしている。悔いはねぇ」という台詞が、最大の火つけ役になった。
 
 それ以後,なにかにつけ、気がつけば鉄道が気になる。いわゆる“鉄っちゃん“状態が続いている。なかでも、もっとも興味を引かれるのは、やはりSL。とくにC62は、東海道本線の「特急つばめ」をはじめ、速度が求められる旅客列車を牽引し、確かに戦後の復興に大きく寄与したのである。山陽本線の広島以西がまだ電化されていない昭和30年代前半は、広島駅にも多くのC62が棲みついていた。
 当時、三次から芸備線で広島駅に着く前に、広島機関区のC62(三次では決してお目にかかれない)と会えるのがどれだけ嬉しかったことか、いまでも鮮明に憶えている。それともう一つの楽しみが、機関車の入れ替え作業である。前述のように、電化から非電化区間に変わるため、広島駅で電気機関車とSLを交換しなければならない。上り列車はSLから電気機関車へ、下りはその逆だが、この一連の作業が、なぜか、どこか、単なる機関車ではなく、魂を持った生き物に見えてしまったのだ。とくにSLは。

 
函館本線で、急行ニセコ号を牽引するC622、C623の二重連

 新幹線が走るまでにはまだ20年近くの年数を要するこの頃、広島から東京への旅は、ほとんど夜行寝台列車であった。広島、東京間はほぼ12時間を要し、到着時間の都合で「あさかぜ」がもっとも便利であり、学生時代は、運賃の安価な狭い3段の3等寝台にゆられて往復したものだ。
 そこで、およそ50年前の寝台列車の思い出をたどりつつ、現代の寝台列車に乗ってみたい、という気持ちが次第にふくらんできた。だが、昨年まで大阪や東京から札幌を結んでいた、「トワイライトエクスプレス」「カシオペア」「北斗星」は、新幹線開業とともに消えてしまった。まだ当分はあるだろうと勝手に思い込んでいたのだが。


特急あさかぜの後ろ姿 旅情をさそう 

 いま、東京と地方都市を結ぶ寝台特急といえば、岡山で2つの列車が連結して東京へ向かう、「サンライズ出雲」と「サンライズ瀬戸」しかないのだ。毎年開かれる大学医局のOB会が、7月の第2土曜日にある。昨秋から始めた第2土曜日の休診を利用すれば、松江駅から「サンライズ出雲」に乗れるのではないか! 迷いなくチケットを購入した。
 しかし50年ぶりの寝台車、もちろん3段の寝台などあるわけもなく、何種類かのグレードはあるが、今回は個室のシングルデラックスを予約した。2畳くらいの広さで、1人で乗るには何の不自由もない。それはよいのだが、この列車、食堂車はしかたないにしても、車内販売もなく、あるのはお茶とミネラルウォーターのみの自動販売機だけ。時間ギリギリで何の食料も持たず飛び乗ったら、餓死するかも…、などと余計なことが頭をよぎる。
 だが事前にこのことはわかっていたので、出発前、ある程度のアルコール(奥さんに焼酎の水割りを保冷ポットに作ってもらった)とおつまみは用意した。友人に松江駅まで送ってもらい、駅弁と、念のために缶ビールを追加。

 
東京駅に到着したサンライズ出雲の雄姿

 7月8日(金)19時27分松江発、「サンライズ出雲」4号車に乗り込んだ。まずは身も心もさっぱりとシャワーを浴びたのだが、揺れる車内でのシャワーというのは、思った以上に足がすべって危険なことが判明。さっさとすませて部屋に帰ることにした。すると外はすっかり夜のとばりに包まれ、時々車窓を灯りが後方へと走り去るだけ。だが、レールの通過音と振動はあくまで心地よく旅情をかきたて、ビールと焼酎の水割りのピッチはどんどんすすみ、気がつけば岡山に到着していた。ここで高松からやってきた「サンライズ瀬戸」と連結し、迫力十分の、14両編成の特急寝台列車ができあがる。この連結風景が、鉄道ファンの心をくすぐる場面なのだが、アルコールの血中濃度と眠気を考え、見物は断念し、そのまま吸い込まれるように眠りについた。
 

シングルデラックス個室のベッド 列車の中にしては贅沢なものだ


洗面台、机、椅子が部屋についている とても落ち着く

 気づけばすっかり夜は明け、外は雨模様。時計を見ると午前5時過ぎで、列車は静岡県の富士駅を通過していた。「トワイライトエクスプレス」や「あさかぜ」は客車を機関車が牽引したが、「サンライズ出雲」は、各車をモーターが駆動する、新幹線と同じ電車タイプの列車。そのため、発着時の前後の揺れがほとんどないのだ。「あさかぜ」では、深夜駅に停まるたびに目が覚めていたものだが、それがまったくなく、実に快適な朝を迎えた。
 東京駅に着くまでのほぼ2時間、身支度をしながら、車窓の景色を楽しんだ。いつも乗る新幹線との違いは、スピードや振動は当然だが、もっとも大きな違いは、目線の高さだということに気がついた。高い場所から高速で飛び去る新幹線の景色と違い、車窓から、人間味に満ちた街や自然を久しぶりにのんびり眺めたのだった。
 7月9日(土)午前7時8分、人気もまばらな東京駅に到着した。駅構内でかんたんに朝食をすませ改札口を出る。だがここで問題が…。この日の夜の会まで、ほぼ半日時間があるのだ。だからといって、この時間、友人や知人宅を訪問するのも非常識だし、映画もまだやっていない。どうするべきか途方に暮れたが、とにかく、この日の宿泊ホテルに向かうことにしてタクシーを拾った。こういう時間がたっぷりあるときに限って、何事もなくスムーズにホテルに到着するものだ。ロビーのカフェに入り、まずはコーヒーを飲んで考えた。とはいっても、それまで考えたことが再び頭をめぐるだけ。そこでイチかバチか、フロントで、「チェックインまで6時間あるのだが、部屋に入れますか」と聞いてみた。すると、「部屋のタイプは少し違いますが、それでよろしければご用意できますが」という女神様からの福音のような言葉が耳に響いてきた。完全に前のめりの声で、「そっ、それでお願いしますっう!」と返事したのはいうまでもない。おかげで夕方の会まで、のんびりと身体と心を休めることができた。

 50年の時を経て乗った寝台特急列車であったが、多くの違いや新しいものに気づいた。しかし、12時間かけて広島〜東京への一夜を過ごすという、大切な旅感覚のようなものは、まったく変わっていなかった。次に乗れる機会が早く来るよう、カレンダーと相談してみることにする。
                   荒瀬 秀賢

  
  2016年 新年に寄せて 
  埼玉県さいたま市
               杉原 晧喜
 まさか! という従兄弟(院長の母と私の母が姉妹)の荒瀬院長からの電話がきた。いつも送ってもらっている「あらせニュース」への寄稿を、と。
 錚々たる人たちが寄稿されており、そのすばらしい内容に感心しながら読ませてもらっていた。
 私が身内宛に時々書いて送っている旅行記や、日頃感じていることなど何でも良いからと言われたのだが、元々何の取り得もなく平々凡々と生きている自分としては、さて何を? 



 「金の卵」という言葉があった頃、私は中学を卒業すると直ぐに東洋工業(現マツダ)の養成工として働き始め、高校、大学は夜間に通った。27歳の時広島を離れ関東の会社に転職して以来46年経つので、広島時代よりこちらの方がはるかに長いのだが、いまだに広島弁丸出しで、カープ狂のため広島出身であることはこちらでもバレバレ。NHK朝ドラの「まっさん」放映時には、会社時代の人から「貴方を思い浮かべながら見ている」という連絡が入るほど言葉も行動も広島を表面に出している。
 ドイツで3年、アメリカで2年技術アドバイザーとして赴任したときも、広島人間を前面に出して生活していた。ドイツに住む娘がアメリカ赴任中の私のところへ遊びに来たとき、シンシナティ空港(オハイオ州シンシナティはシンシナティ・レッズの本拠地)へ迎えに行っている私に、会って最初に叫んだのが、「ここにもカープファンが沢山いるよ!」という言葉。
 津田選手の大ファンだった娘にとって、赤い野球帽を被った人々の多さに驚いてのことなのだが、シンシナティ・レッズのユニホームは赤ヘルの本家だということを知らなかったということで、大笑いした思い出もある。
 そんな私であり確かに最近の、気持ちの良いほどの物忘れの良さ、運動能力の衰退、体調の問題等々、この歳ならではの問題点は沢山あるが、これら対処法はいつも「あらせニュース」で教えてもらっているし・・・・。
 今年のカープには期待と落胆が交互に訪れた感じだが、最後にサンフレッチェの優勝ということで、まあまあだったと考えられるし、何でも良いから書けと言われても・・・・、最近の最も記憶に残ったことと言えば・・・・。
 今年の夏広島に帰った折、時間が有ったので、自分が約60年前卒業した広島市内の小学校を見たくなり、ぶらりと学校の近くへ行ってみた時のこと。橋で陸続きになっている島の頂上付近にある、その小さな小学校は今も同じ場所にあり、建物や運動場などはかなり昔に新設されたと聞いてはいたが、なかなかゆっくり訪ねる機会はなかった。
 在校当時朝礼や体操などは、通行人のほとんどない校舎前の道路を使っていたのだが、今回山道を登って見ると、校舎は変わっていたものの校舎前の道路は当時をそのまま思い出させるものだった。校舎や体育館など覗き込むように眺めた後、山から見える周りの景色、特に瀬戸内海の景色を眺めたが、島内の家々だけでなく、埋め立てられ新設された港や高速道路、工場群など、昔は無かった物がたくさんあり、驚きながら眺め続けていた。
 ふと近くにいつの間にか男の人がタバコを吸いながら立っているのに気づいた。元々知らない人に話しかけるのが苦手なので、ちょっと会釈した後そのまま景色を眺め続けていたら、その男の人はタバコを吸い終わっても、何か話したそうにしてなかなか離れようとしない。鈍い私もさすがにその時気づいた。「私は不審者と思われている」と。
 知らない人に話しかけるのは苦手な自分だと言っても、この時ばかりは急いで、「景色が昔と大きく変わっていますね」と感想を言ったところ、初めて「こちらは詳しいのですか?」という返事が来て、少しほっとして話し始めた。
「この小学校の60年ぐらい前の卒業生です」と答えると、周りの変化の説明などの後、「学校の中に写真や、創立50年の時に作られた50年史などもあるので入りませんか?」とお誘いを受けた。
 この時になって初めてその人が学校の先生で、それも校長先生だということが解ったという、まことにお粗末なことだが、60年前頃の、道路での朝礼や体操をしていた記憶に沿って行動し、学校構内を堂々と覗きまわっていたのだから、不審者そのものだったとあらためて認識しながら、校長室へ入れてもらった。
 考えてみると、今は昔と違いどこでも校庭を閉鎖して部外者が入らないように警備員を配置していたりする世の中。堂々と学校を覗き込んでいたのだから、「不審者」に気づいた職員がまず校長に連絡、校長は直ぐに出てきたものの、不審者ではあるが犯罪者と決め付けられないのでそっと様子を伺っていたという場面。職員室からも人々が成り行きを見守っていたことであろうと、思い出すと赤面の至りという状況であった。お互い解ってしまうと校長といえども若いので、大昔の私の小学生の頃の、彼が全くご存知なかった話や、その後の変化の話など二人で語り合って大いに楽しんだ。

 自分自身1学年30人、全校生徒180人くらいの小さい小学校で、上級生や下級生まで揃って一緒に遊び、同学年も入学から卒業まで同じクラスで過ごした。今考えるとそれなりに子供同士のいじめもあったと思うが、元々がお互いの家族構成などまで知り合った兄弟げんかとも言える範囲であり、人間形成の上でも良い環境であったと思っている。それゆえに中学に進み沢山の生徒の中に入った時、その変化に萎縮してしまうという問題があったとは思う。
 現在更に人数が減り、全校生徒70人程度であることから、中学入学の年は生徒を全クラスに配分しないで2クラスだけに別れて入れるよう配慮しているとのことだった。
 この不審者経験が「この歳になって感じる問題点」だと気づいたことである。自分ではさすがに、学校時代と変わってはいないとは言わないまでも、ネクタイをして動き回っていた現役時代の自分の姿からも、すっかり変わっているとは認識しないまま過ごしてしまうことが時々ある。あらためて鏡の前で眺めると、不審者に間違えられて当然の老人の姿がボケーと立っており、普段頭に描いている現役時代の自分の姿は悲しいかな、ない!
それをはっきり自覚して、行動にも気をつけるべきなのだろう。「不審者」とは思われたが、「異常者」と思われたわけではない、というのがせめてもの救い。

 実はこの日同じ島内のホテルに私のきょうだいたちが集まって宿泊し、戦後70年を偲びながら過ごしたのだが、それに先立っての上記の話は恰好の話題となった。
 戦後何年という言い方と、誰々の何回忌という言い方が重なる人が広島には特に多いと思うが、私たちきょうだいにとっても、今年は両親の70回忌にもあたるのである。戦後この場所で過ごした生活も偲びながら、あの時失った(奪われてしまった)ものを考えるよりも、生活の辛苦は確かにあったが、その後得られた幸せの方がはるかに大きかったと考えるべきだと、皆の思いが一致。
 あの時残された6人きょうだいが70年後の今も、全員無事生かされているという感謝の気持ちが一杯で、それに感謝しながら今後も生きて行こうということでまとまった。
 今回が全員揃う最後になるかもしれないと言いながらも、とにかく現在したいこと、できること、楽しめる事などは何でも、「やるのは今でしょう」と古いギャグを使って確認しあった。もちろん「不審者」に間違われるようなことは出来るだけ避けて。その為の健康維持が本当に大切だと、今後も「あらせニュース」の健康情報を頼りにしています。
 
  歌人・中村憲吉 
   中村憲吉は明治22年(1889年)三次市布野町上布野(旧三次郡上布野村)に、広島県北でも屈指の大地主だった修一の二男として誕生しました。布野町は広島県の北部国道54号線沿いで島根県境と接し、南北19q、山林が90%を越えます。
 文化8年(1811年)幕府測量方伊能忠敬等が赤名峠から上布野までを測量し、布野町の中心地には忠敬が測量した江戸時代の出雲街道がいまも残っています。江戸時代の出雲街道は石見大森銀山から銀や銅を瀬戸内に向けて運んだ銀山街道でもあり、布野宿には本陣が置かれていました。この街道から赤名峠を、歌聖と呼ばれた柿本人麻呂や毛利、尼子の軍勢が幾度となく峠を越え、幕末の長州征伐の軍勢も通過しました。また小泉八雲、田山花袋、種田山頭火なども越えています。
 憲吉は布野尋常小学校、三次中学、鹿児島第七高校、東京帝国大学で学んでいます。三次中学では庄原市出身の倉田百三(『出家とその弟子』著者)と交流を持ち文学への興味を持つきっかけとなりました。 
 後年、アララギ派を興した歌人伊藤左千夫を師と仰ぎ、斎藤茂吉、島木赤彦、土屋文明等と親交を結び、互いに学びつつ近代短歌の礎を確立しました。
 アララギ派とは、歌集『アララギ』で活躍した歌人の一派のことです。その歌風は写実的、生活密着的といわれます。 



 この山の桜にむかい流れくる
河ひろくして水ひかれる
(尾関山 歌碑)



古りのこる枝垂桜や血統はやく
絶えし国主の菩提寺の庭
(三次町 鳳源寺歌碑)

 憲吉の作品は大正2年の島木赤彦との合著『馬鈴薯の花』の他、『林泉』『しがらみ』『松の芽』『軽雷』があり、生涯に3千首を超える短歌を残しました。周囲の自然と人々の暮らしを歌い続ける写生歌を完成した力量は抜群で、歌匠ともいわれています。
 憲吉の偉業を後世に伝えるとともに、広く文芸活動ができる施設として、「中村憲吉記念文芸館」が生家がある布野町に平成24年に設立され,館内には遺墨・遺品や書籍などが展示されています。歌友の斎藤茂吉、土屋文明、平福百穂などを招いた客殿は当時のまま残されていて、いまでは短歌会などの文芸を楽しむことができるようになっています。


中村憲吉記念文芸館

 文芸館となっている憲吉の生家は、昭和初期
の建築で随所にこだわりが感じられます。庭にはアララギの木があり、憲吉の歌碑とともに斎藤茂吉、土屋文明の歌碑があります。
 また併設されている布野図書館には「中村憲吉とその仲間たち」というコーナーがあり、憲吉ゆかりの作品を月替わりで展示しています。
 憲吉は、昭和9年療養先の尾道で死去しました。繊細でありながら重厚と評された憲吉の歌は、永く人々の心に響くことでしょう。

 
  父と診察室の机  
   昭和56年8月、荒瀬外科(当時荒瀬病院)を継ぐため、家族共々三次に帰ってきた。長男であるわたしがそうなることは、ある意味、生まれたときから敷かれたレールでもあり、それに乗ったものではあったが。とはいえ、母校の東京医大病院を去って、田舎の開業医生活をするというのは、東京にまだやり残したことがあるような気もして、ややうしろ髪引かれるところもあった。
 帰郷を迎えてくれた、大学の先輩でもある父は、まだ還暦を過ぎたばかりであったが、若いときからの、アルコールの過剰摂取による無茶がたたって、身体的衰えは予想以上であった。事実、帰った翌日、診察室に行くと、当然一緒にやるものと思っていた父の姿はない。そこで本宅の茶の間に行ってみると、始まったばかりの高校野球中継を嬉しそうに観ているでは…。
 旧制三次中学、東京医大、東京医大外科医局、帰郷後の三次青年会議所のチームで、投手としてそれなりの実績をもつ父の顔には、「息子がやっと帰ってきたから、これからは、大好きな野球がゆっくり観られるぞ」と書いてあった。その表情をみて、父には何も言えずに診察室へと戻ったのを思い出す。
 
 父は、身体の衰えを抱えながらも、たまに外来診療を手伝ってくれることがあった。そういうときは、わたしがドアに近い方に、父は机を挟んで奥の方に座って診察をした。そのときの父は、「ワシは息子の手伝いに来とるだけなんで、できるだけワシの方へ患者さんを回さんように」という意思表示がみてとれた。
 そういう二人の診察室で、いまでも忘れられないことがある。ある患者さんが、「こがぁなモンができたんじゃが…?」とわたしの前へ座った。診ると、黒い小豆大の袋がぶら下がっている。こんなものをみるのは初めてで、目の前が少々白くなり、父に、「よう分からんけぇ、ちょっと診てくれる?」と訴えた。すると父は、「ガッハッハ」と笑いながら、上から目線で(当然なのだが)間髪入れず、「そりゃあ、ダニが喰いついて血ぃ吸うとるんよ」とのご沙汰。いやはや経験に勝る知識なしと、殿の前をひと言もなく後ずさりする家臣のような心境だった。いまなら、ここ数年の、怖いマダニ情報があるからまだしも、当時はダニのことなどおよそ頭になかったことと、言い訳しておく。


昭和59年11月24日 製薬メーカーの季刊誌の取材で撮影されたもの
普段あまり笑わない父が相好を崩している
しかしこの一週間後に父はこの場所で倒れた


 父は、肝硬変、脳梗塞などで三次中央病院での入退院を繰り返しながら、少しづつ衰えを深め、昭和59年11月31日、診察中にわたしの目の前で倒れ、12月7日に亡くなった。よく役者が、舞台の上で死ねたら本望だなどというが、父は、まさしく医者冥利につきる最期だったのかもしれない。
 父の葬儀には、父の後輩であり、大学病院時代にわたしが所属させていただいた、麻酔科の三宅教授が、わざわざ三次までお越しくださった。三宅有先生は、人と人のつながりを非常に大切にされ、お金に関しては、これ以上ないほど潔癖な方で、医療以前の大切なことを、身をもって教えていただいた。
 もう一人の恩師が、春山外科病院(現在は春山記念病院)の春山廣臣先生である。大学病院からの出張で、昭和52年6月から一年間の春山外科病院勤務では、外科の基礎的技術と、精神的基盤をみっちり叩き込まれた。曲がりなりにもいまの自分があるのは、いまは亡きお二人の先生に巡り会えたからこそ。東京医大の濃い血のつながりを感じる。
 ひるがえっていまの医療の世界をみると、財務省主導と思われる政策がまかり通り、兎にも角にも医療費削減ありきで、医療本来の姿は日々、その濁流に呑み込まれていくようにみえる。それでも日本が、世界トップの医療レベルを保っていられるのは、大病院から開業医まで、医療にかかわるスタッフの熱意と良心に支えられているからにほかならない。「医療崩壊」という言葉が世に出て久しいが、それ以後の医療現場は、慢性疲労状態が続いているのだ。
 超高齢化社会で医療費が増大し続けることは、誰でも知っている。だからと言って、営利目的の企業と同じ経済理論で医療を語ることは、医療者にとって大きな違和感がある。一昨年亡くなった、経済学者の宇澤弘文先生も、「社会的共通資本である医療や教育に、経済原理を持ち込むことがあってはならない」と力説しておられた。いまさらながら、『医は仁術』であり、『算術』では決してないのだ。政府も厚生労働省も、そして財務省も、もう一度真摯に考えてほしい。
 
 三次に帰って33年余りが過ぎ、偶然にも父が亡くなってちょうど30年になる昨年暮れ、業者からの提案もあって、診察室の机を新調した。 わずかな期間であったが、父と二人が挟んで座ったその机は、どこにでもあるようなスチール製の事務机であった。経年劣化はひどく、引き出しの取っ手が朽ち果てて、吸引用のチューブで補修してあるほどだった。だが、とくにそれまで不便もなく、というか、それ以前に「机」の「つ」の字も頭になかった、といったところだろう。


上の写真から30年あまりが経過した診察室
新しくなった机のまわりを嬉しそうにスタッフが囲む
この写真に映っていないスタッフもいるが全員のスタッフの日々の努力に
感謝している
時代は変わりレントゲンも最新式になった
父が今いればさぞ驚くことだろう


 そして、新たに診察室に登場したK社の机と付随する備品たちは、当然だが、現代の医療現場に即し、大変使いやすくできている。先代の机にくらべると、仕事に対するモチベーションが上がったような気さえするくらいだ。「こんなんなら、もっと早く買い換えればよかった」と悔やむことしきりだった。ちなみに先代は、いまでも倉庫の作業机として余生を送っている。
 この机交代劇がひと段落したある日、先代はいったいいつ診察室へやってきたのだろうという疑問がわいてきた。そこで倉庫の机を調べてみると、「昭和41年製」というプレートがみつかったのである。それを目にしたとき、一瞬時間が止まったような、軽い衝撃があった。


机に貼られていたプレート
「昭和41年製」とある


 というのも、昭和41年とは、わたしが東京医大に入学した年なのだ。あとにも先にも、父母にも、誰にも聞いたことはないが、想像するに、そのとき父は、「息子が母校に入学できたんだから、その祝いもかねて、診察室の机でも新しくするか」という心情ではなかったかと思う。その気持ちは、息子として涙が出るほどよく分かる。
 さらにこの年は、東京医大創立50周年にあたり、入学式でも、「創立50周年」という言葉が飛び交っていたと記憶する。そして東京医大は、来年創立100周年の大きな節目を迎えるのである。と同時に、わたしも大学入学以来、医療界在籍50周年を迎えることになる。
 
 昔の地上波だけのテレビと違い、いまは衛星放送のBS、CSと、チャンネル数は比べものにならないくらいに増えた。そこではプロ野球はもちろん、高校野球、大学野球、社会人野球、そして大リーグと、より取り見取りの野球中継が楽しめる。もしいま父が生きていれば、とくに8月には、朝から大リーグと高校野球を交互に観て、大リーグが終わる午後は高校野球に専念し、そのあとは、プロ野球のナイターをじっくり観戦するという、野球三昧のスケジュールをこなしたことだろう。
      荒瀬 秀賢
   第150回記念「あらせ健康教室」開催 
   平成26年11月22日、三次本通り商店街では、えびす講のイベントが行われているなか、第150回記念「あらせ健康教室」25周年を三次ふれあいセンターにおいて開催いたしました。
 日頃お世話になっているジュン政岡薬局のスタッフの皆様や、薬品会社の皆様のご協力をいただきながら、当院の患者さんを中心に90名余の方々にご参加いただき、開始時間前から会場はみるみる一杯になりました。
 

今回の健康教室のために、スタッフはお揃いのTシャツを作りました
 
改めて荒瀬外科職員として、こんなにも多くの方々に支えられて日々を過ごしているんだなぁ…、と来場される方々をお迎えしながら感慨深いものがありました。
 あらせ健康教室は、平成2年1月にスタートしました。第1回は現在行っています2階ホールがまだなく、1階の待合室で講師の山本 整先生をお迎えして開催しました。その後平成3年の第7回からはホールでの開催となり、2ヶ月に一度、健康に関する様々な問題を皆様とご一緒に勉強してまいりました。
 平成18年には第100回を迎え、資生堂の美容部員をお迎えして「若々しいお肌の保ち方」と題しての講義と実践があり、来場者の方にモデルをお願いして美しいメークもしていただきました。
 また院長と君田診療所の荒瀬秀治先生とのアコースティックギターでのデュオも会場を盛り上げていただきました。
 思い出していただけましたでしょうか?
 “あれから8年!”、どこかで聞いたような台詞(キミマロさん?)なんですが、もう150回なんですね!
 今回は、サンキウェルビィ株式会社の介護福祉士・松本里可様を講師にお招きして、「寝たきりにならないために」と題しての講演でした。
 ベッドではなく、床の敷布団から起きる際の、負担の少ない起き上がり方などを、三次町の小野照子さんをモデルにわかりやすく教えていただきました。誰もが関心の深い演目でしたので、熱心に聞いていただけたようでした。

 
松本里可様 熱心にお話していただきました

松本里可様、ありがとうございました。
 次に気分を変えて楽しいライブが行われました。以前「三次この人」でご紹介した“ウクレレと女性ヴォーカリスト(小山直美さん)”「ピッコロ」さんです。軽快なウクレレと、透明感あふれる美声に心がうきうきしてくる素敵なライブでした。アンコールの「東京ブギウギ」では、皆様がノリノリでした。
 ちなみにピッコロのヴォーカルの小山さんは旧姓松永さんで、荒瀬外科前の松永充さんのお嬢様です。
 ピッコロさん、心癒される楽しい時間をありがとうございました。


心にしみるような歌声です
 
皆様へのビッグサプライズとして用意していたのが、あの広島カープの梵 英心選手からのお祝いビデオレターです。当日は日程が合わずこのような形でのメッセージでしたが、会場の皆様と感動を分かち合うことができました。 
 梵 英心選手、来季のカープ優勝をめざして、ますますご活躍されますようお祈りいたします。
 ありがとうございました。
 最後に行われたのは、ビンゴゲーム大会!
 ビンゴ!になるたびに元気に手を挙げていただき、会場はあちらこちらからの賑やかな声に包まれ、あっという間に時間が過ぎたように感じました。
 三次本通り商店街の皆様、関係各社の皆様からの協賛で多くの景品をお渡しすることが出来ました。感謝申し上げます。
 また150回記念として、平成6年からのあらせ健康教室での最多参加賞を設定いたしました。大勢の参加者のなかでの順位は次の方々です。
☆第1位 鶴岡友子さん
☆第2位 井原サカヨさん
☆第3位 政岡万恵さん
☆第4位 真田武子さん
☆第5位 岡崎悦子さん
 今後ともあらせ健康教室にご参加いただき、この記録をますます更新していただきますようにと願っております。
 今年も残り少なくなってきましたが、今年最後の記念すべきあらせ健康教室を、このように盛大に開催できましたことは大きな喜びとなりました。院長はじめ職員一同感謝の気持ちで一杯です。
 また来年からは、第200回に向け新たな気持ちで、皆様に興味深く趣向をこらした健康教室をお届けしたいと思っております。
        あらせ健康教室
              スタッフ一同
   「直島 なおしま ナオシマ」    
   香川県香川郡の瀬戸内海に浮かぶ周囲27・8q、人口約3200人の小さな島「直島」。
 この聞き慣れない島の名前を知ったのは今年の春、あるテレビ番組で建築家安藤忠雄が「地中美術館」について話しておられるのを耳にしてからでした。それは直島にあり、自然と一体化した美術館だという話でした。ネットなどで調べてみると、そこには地中美術館以外にも「ベネッセハウス」という美術館に併設したホテルがあり、ベネッセハウスとミュージアムは1992年に、地中美術館は2004年にベネッセホールディングの福武總一郎と安藤忠雄によって開設されたということがわかりました。 何ものかに誘われるように、院長と二人6月にこの直島に出かけ、その折の興奮が忘れられず、9月13日から再訪することになりました。
 
 岡山県玉野市宇野港からフェリーに乗って20分、直島にある宮浦港に到着。港には草間彌生の赤い「南瓜」がお出迎えです。車で10分ほどで目的地ベネッセハウスに着きますが、ここでは堤防の先に黄色い「南瓜」がのんびりと待っていてくれました。
 最初に訪れたときは、とにかく驚きの連続。まずパーク棟にある部屋に入った瞬間、真正面に見えた海。その日は雨模様でしたが、薄い霧もやのなかで、とまどったように広がる瀬戸内海の穏やかさ。その海上を行き来する大型タンカー、国内外の客船や貨物船、手前に見える漁船などが、静かに時間を刻んでいました。見ている自分たち夫婦の時間、進む船の時間、そしてそれを俯瞰する宇宙の時間。それらが一体となったと感じる瞬間でした。移り変わりゆく時間は、容赦なく私たちから遠ざかっていきますが、それを一瞬捉えた、とでもいう感覚です。

 
海と一体化するようなテラス

 ベネッセハウスには、予算と好みに合わせて選べる4種類の宿泊施設があります。広場の先に海を見渡せるパーク棟。その横に造られた、部屋に波音まで聞こえる海辺のビーチ棟。ベネッセハウス・ミュージアムの中にあるミュージアム棟。ミュージアム棟からモノレールで移動した場所にあるオーバル棟です。どの部屋からも瀬戸内海が望める設計になっていますが、海までの距離と建物の場所により(高低差)、まったく違う展望になっているのも面白いです。建築設計は安藤忠雄で、内装は白木の建具が使われシンプルですが、そのデザイン性は洗練されていて心地よく過ごせます。また部屋にはそれぞれ異なった作家の絵が飾られています(部屋にテレビはありません)。

 
 地中美術館 地中にあるため外からは見ることができない

 地中美術館はやはり安藤忠雄のコンクリートによる建築物で、建物のほとんどが地中に埋まっていて外観がありません。周りの自然とうまく調和しています。内部は地中にありながら自然光を取り入れ、その光はお天気や時間により変化していきます。展示してある作品はクロード・モネの「睡蓮の池」、光を物質のように扱ったジェームス・タレルの「アフラム・ペール・ブルー」と「オープン・フィールド」、ウォルター・デ・マリアの「タイム/タイムレス/ノー・タイム」で、光と見えない時間に包まれて日常から遠く旅をすることができます。


ウォルター・デ・マリア「タイム/タイムレス/ノータイム」

 また直島のなかでも古くからの集落で、城跡や寺、神社などがある本村地区には、「家プロジェクト」と名付けられたところがあります。古い家屋を現代アートで表現するというものです。宮島達男の「角屋」、安藤忠雄が建物を設計しジェームス・タレルの作品がある「南寺」、内藤礼の「ぎんざ」、杉本博司の「護王神社」、大竹伸朗の「はいしゃ」、千住博の「石橋」などがあり、のんびり時間をかけて歩いて回れるようになっています。

 直島には地中美術館の他に二つの美術館があり、ベネッセハウスの敷地内には、屋外にアートやオブジェが多数展示されていて眺めながら散策を楽しめます。
 現代アートというと難解だと思われがちですが、安藤忠雄の建物の中で、また直島という自然の中で、本村という古い歴史の中で目にすると、作者の心に触れるというか、自分が背負っている不要な部分(望まず得たものなど)がするすると溶けていくような感覚になります。 豊かな自然あふれる「直島」は、人の心の柔軟さを表す「なおしま」、そして自由な発想で突き抜けた現代アートの「ナオシマ」を合わせ持った、疲れた人間の帰る場所…、なのかもしれません。しかし小さな旅を終えて、私たちはまた見慣れた日常へと戻っていきます。それはなによりも大切なものなのですから。
※敬称を略しました     荒瀬 妙子
 
  三次唐麺焼〜唐いんが三次流〜 
   
 三次商工会議所青年部の発案で誕生した、三次の新しいグルメ「三次唐麺焼」。
 三次町 毛利醸造のカープソース辛口と、十日市 江草商店の唐麺で作る辛口のお好み焼き。一口食べるとピリッと辛くて、口元もヒリヒリ、ビールによく合い、最近では若い女性客がビールジョッキ片手に、三次唐麺焼を頬張る姿をよく見かけるようになりました。
 昨年10月には、広島県内のご当地お好み焼きナンバーワンを決める「広島てっぱんグランプリ2013」に、初出場ながら準優勝という快挙を達成し、勢いそのままに、NHK BS放送でドキュメントが放送され、瞬く間にヒット商品となりました。三次唐麺焼を提供する加盟店も三次市内を中心に30店舗に膨れ上がり、今年8月には東京銀座の広島ブランドショップ「TAU」も加盟店に加わります。


「てっぱんグランプリ2013」で準優勝しました

 しかし、実はここからが勝負所!
 2015年3月に全線開通する「中国横断自動車道 尾道松江線」に合わせ、三次市でも誘客、交流人口増加のため様々な取り組みが行われていますが、三次唐麺焼をPRしているのも、この尾道松江線開通を見据えた取り組みです。
 既に島根県松江市とは高速道路で結ばれ、島根方面から多くの方々がこの三次にも立ち寄られています。同じく、私達も島根県、さらには鳥取県にもスムーズにアクセス出来るようになりました。
 三次唐麺焼をPRすることで、この三次に立ち寄っていただき、見て、楽しんで、食べていただくことが、地域振興、経済活性化に繋がります。B級グルメではなく、三次唐麺焼は〈永久グルメ〉として、市民が自慢出来る文化にしていきたいと考えています。
 ぜひ、三次唐麺焼を、家族、友人、仲間、多くの方々と一諸に食べて下さい!
 唐いんが三次流!三次唐麺焼!

三次市三次町 専法寺副住職
                 梵 大英
  祝・表彰 
 

― この度は県知事表彰おめでとうございます。このお知らせはいつ頃あったのですか。
院長 今年一月の中旬だったと思います。三次地区医師会副会長の大倉美知男先生から、内々にと知らせていただきました。その数日後に、広島県医師会の事務局から正式に伝えていただいたんです。
― 驚かれましたか。
院長 びっくりしたけど、最初は意味がよくわからないというか、何で私が?みたいな感じでした。色々聞いてはみたんですけど、結局選考理由がよくわからなくて。
― では受賞の理由がはっきりしないまま、表彰式に出席されたということでしょうか。
院長 まあ、もらえるものならありがたいというような軽い気持ちだったんですよ。
― 3月9日、広島県医師会館講堂で表彰式が行われたのですね。
院長 そうです。その日、やはり受賞された3人の先生方と控室で写真を撮られて、会場での着席位置を教えられたんです。それから一人づつ会場から階段を上がり広島県知事から表彰状をいただき、また階段を下りて席に戻る、ということでした。でも私は代表して謝辞を述べるということになっていたんですけど、その説明は何もなかったんですよ。
― 先輩の先生もいらっしゃるなかでの謝辞は大変ですよね。
院長 まあ私は、いままでスピーチなどいっぱいしたことがありますけど、結婚式の祝辞以外に、下に辞のつく正式な挨拶などしたことがないんです。それに賞状をもらうのも、小学校の写生大会の入賞時以来のことなんです(笑)。謝辞を述べるのも、会場の先生方に向かって言えばいいのかな、と簡単に思っていたんです。
― 一度壇上に上り表彰状をいただいてから下の会場に戻り、謝辞の時にまた壇上に上ったわけですね。説明がなかったのなら、ちょっとわかりにくいでしょうね。
院長 そうなんです。「では、荒瀬先生お願いします」と謝辞を述べるように言われたんですけど、どこへ行けばいいのか全然わからなくて(笑)。みかねた司会の先生が、湯崎広島県知事の前まで行くんですよという指示を出してくださって、やっと私が行くべき場所がわかったんです。それで演壇の前の知事の目の前までつかつかと行って、その時になって、自分は会場の先生方の前に向かってではなく、知事に謝辞を述べるんだと理解できたんですよ。
― 会場の先生方に謝辞を述べるのと、知事に述べるのとでは内容が違いますよね。慌てませんでしたか。
院長 先生方に話すのなら、少しユーモアをまじえて医師会がらみの内容や、不満を持っている医療改定のことでいこうと思っていたら、知事にお礼を…、ということで、かなり焦りました。それでもう喉がカラカラになってしまって(笑)。その時とっさに頭に浮かんだのが、知事から表彰状を受け取る時に名前を間違えられたことなんです。『アラセヒデタカ』と、私の父の名前を読まれたんです。この話をしようと思って、「先ほど名前を読まれましたが、私は『アラセヒデカタ』なんです。『ヒデタカ』は父の名前です」と言ったんです。馬鹿ですよね、私も(笑)。でもこれが会場に受けて、雰囲気がぐっと和やかになって、それで私も気持ちが楽になり、その後はすらすらと知事へのお礼の言葉が述べられたというわけなんです。
― 相手の間違いを指摘するというのもどうなんでしょうか。しかも知事さんにですよ。
院長 その時「すいません」と、すぐに知事が言われましたよ(笑)。しかも退席される時には、わざわざ私の前まで来られて、親しみを込めた握手をされたんです。後の懇親会で、「知事から握手されたのは、荒瀬先生くらいのものですよ!」と褒められたのかけなされたのかよくわからないことを先生方から言われました。


診察室に飾られた表彰状 先代、先々代が見守っています

― とにかく無事に表彰式が終わって何よりでした。
院長 それからよくわからなかった受賞理由ですけど、式の前になってやっと、長年にわたって地域医療に貢献したということで、私だけではなく、先代、先々代、先々々代が医療に貢献したということが認められたからだと知ったことが嬉しかったですね。それに医師会の理事を30年間やってきたこともあるということでした。
― では会場に着いてやっと受賞の歓びもわいてきたということですね。
院長 そうそう。結構私も歳を取ってきたけど、この受賞を機にまたもうひと頑張りしよう、という気持ちになりましたよ。それにしても、謝辞では今まで経験したことのない緊張だったけど。
― そこまで緊張するというのはやはり湯崎知事の前だからですか。
院長 それはそうですよ。
― では総理大臣や天皇陛下の前ではどうなるんでしょうね(笑)。
院長 大丈夫。そんな機会はないから(笑)。
― 職員さんや諸先生方などからお祝いをいただいてありがたかったですね。
院長 ほんとうにね。祝賀の食事会までしてもらって嬉しかったよ。4月からは「三次市休日夜間急患センター(三次地区医療センター隣)」が開設されて、休日の内科・外科の初期救急はここで診療・診察されることになっているし、40年以上続いた休日の当番医制度もなくなります。開設までにご尽力された医師会の先生方には心からご苦労様と言いたいね。今年は早々にこんな受賞騒ぎがあったけど、当番医制度の変更の年でもあり、また新たな気持ちで診療を行っていこうと思っています。
― これからも頑張ってください。そして支えてくださった職員さんに感謝の気持ちを忘れないようにしたいですね。
院長 わがままな私を支えてくれる妻と猫と職員全員にありがとう!と言いたいです。 
 

 
  「一期一会」        
   新年号への原稿依頼がやってきた
「光栄ですが何を書けばいいでしょうか?」と問う小生に
「私を褒めておけばいいんだよ」と先生
 褒めろと 言われても・・・

 ペンを取る小生は愛媛県の片田舎で肥満と痛風という難病(笑)と闘いながら土を耕す61歳。
稚拙な文章と失礼な毒舌をまず最初にお詫びいたします。
 
 荒瀬先生との出逢いは、さかのぼること、30年前の秋。愛媛県で始めたばかりの旧車イベントに練馬ナンバーの白いトライアンフで颯爽と現れたことに始まる。そして5年目の秋が過ぎた頃、その都会的センスと田舎くさい人情味がなぜか気になる存在となる。



2013年「ミルキーウェイ」での院長と兵頭さん
まるで少年のような純な心が伝わるツーショットです

 その後親しく言葉をかわして頂くようになり、旧車趣味は勿論だが、音楽はベンチャーズ、ファッションはIVYでVANジャケット。まさに古き良き60年代を愛する同胞と解り、親交のボルテージは一気に急上昇!する。
 「うまい猪肉を食べにおいでよ」と声を掛けて頂き通いはじめた「三次猪鍋の会」もはや10年が過ぎ、小生の年中行事のトップである。今では「三医旧車クラブ」の皆さんとの親交を深める場でもあり、同行する仲間も年々増えている。
 また2006年の先生の還暦を祝う会にもご招待を頂き、同じ舞台でベンチャーズナンバーのテケテケを演奏させて頂いた。
 そして昨年には村上春樹を熱く語りカラオケで橋幸夫を熱唱する「五人会」と銘打った集いも誕生した。
 唐突だが、小生は知的で若々しく笑顔の素敵な奥様のファンである。(先生にはもったいないと今でも思っている)
 ある時奥様に、「あなた達、本当によく似てますよね〜」と心の底から言われたことがある。複雑な想いですという表情を返したが、本当はすごく嬉しかったのを憶えている。
 三次の地をはじめて訪れたのは十数年前だが、そのきっかけは関西で開かれた車のイベントの帰りに、「うち(三次)に寄る?」という先生のひと言。それは寄りませんか?ではなく、寄りなさい!の雰囲気をもったひと言(笑)
 想像とは違い、新旧の文化がうまく融合した素敵な街がすぐに好きになった。そしてそんな三次に気になる人もたくさんできた。
☆「VANshop MORITOU」の店長・森藤芳弘さん 地元商店街のために東奔西走されるダンディな方
☆医療とお百姓を兼業される永岡稔彦さん 同じBass弾きということもあり一方的に好きな方
☆佐竹医院の佐竹辰男先生 同い年だが、その歯に衣着せぬ毒舌は大変勉強になる
☆いつもお世話になるスナックデュオのママ・和田由宇子さん ピアノが上手く先生のお相手もお上手だ 見習わねば
☆そして長年先生のナビゲーターを努められた市井章治さん あなたは偉い!色々な意味で先生とコンビを組める人はなかなかいないですよ!
(小生も一度ラリーにご一緒したが「次は無理です(笑)」と言ってしまった過去がある)
 他にも原田安伸さん、浅枝達次さん、冷静沈着な柳田兄弟など個性のある方が多く人々が優しい街である。
 今ではあのひと言に感謝している。
 指先ひとつですべてを統括する先生は、リーダーであるための繊細な気配りと、超早めの段取りを常に絶やさない親分である。ピーマンを嫌い、鉄道を愛し、孫を溺愛する先生は、地元愛に溢れカープ愛に溢れる、市長にしてもいいと思わせる市民である。
 ドラムをステージの一番前で叩く先生は、前期高齢者医療制度の対象者とは思えないほど元気なバンドマンである。ヨメの言うことなんか、と威張ってみせる先生は、奥様にはまったく頭があがらず全幅の信頼をおく愛妻家である。小便のキレが少々悪くなったうえに大痔主の先生ではあるが、今も青春とあの頃を感じさせてくれる良き先輩である。
これからも団塊世代のけん引者として、我々に正しき道しるべを示しながら、“若大将 ”を貫かれることを願うものである。

 “一期一会 ”
 若い頃には気にもならない、ただの四文字熟語だったが、先生との長い交流を経て還暦を過ぎた今、この言葉が浸みるようになってきた。
 「この一瞬を大切に思い、もしかしたら二度と会えないかもしれないという覚悟で接する」
 小生にとってこの言葉は、まさに荒瀬秀賢そのものなのである。
愛媛県松山市 兵頭 史朗

  自転車に乗って  
 

 平成17年に亡くなった伝説のフォークシンガー・高田渡に、『自転車に乗って』という代表曲がある。自転車に乗って、となりの町や野原をのんびり走って…、というほのぼのとした歌詞で、コテコテのフォークソングのなかでは、一服の清涼剤のような曲だった。
 娘の結婚が決まった平成19年春、私も自転車に乗って三次を走るようになった。それまでも健康のためにと室内にあるエアロバイクを漕いではいたのだが、どこか不自然さと違和感が日々大きくなっていたときだった。あるテレビ番組で、自転車で走るときの『風』がいかに爽やかなものか、と話しているのが耳に入った。その瞬間、「これだ!」と私の求めているものがわかった気がした。 
 
 早速翌日の診察後、自転車に乗って走り始めた。「風を切って走る」という表現があるが、実際自分で走ってみると、「空気の中へ分け入り、こっちが動くことで風を感じる」とでもいえばいいのか、その程度の風だ。空気の中へ分け入ったにせよ、吹く風や田んぼや畑の景色、川面の薫りや色彩などなど、走ることで人間の五感に響いてくるものの心地良さといったら、たとえようもない。その自転車ならではの醍醐味に次第に夢中になっていった。
 
 最初に乗った自転車は、20数年前に買った変則ギア付きのもの。とりあえずこれに乗ってみたが、いかんせん、乗られる側と乗る側の経年劣化は明白で、このままでは事故も起こしかねないと、平成20年に近所の今田自転車店で新車を購入することになった。それまでのものに比べると驚くほどの安定感があり、安全と安心を手にすることができた。しかしやがて私の体力と自転車のあいだには、またもや問題がおきてきた。ハンドルを持つ手首への負担が増し、車重からくるペタルを漕ぐ両足への負担が文字通り重荷になってきた。この重荷は今後重くなることはあっても軽くなることはない。4年間乗ったこの自転車は知り合いに譲り、昨年ブリジストン・アンカーユーティリティというスポーツタイプを注文した。

 さて自転車で走るコースだが、「北回り」と「南回り」の二つがある。「北」は、当院を出て石畳の道を北に、太歳神社から君田方面に向かうコース。太歳神社から先は左手に急な山肌が迫り、右手には西城川が流れているゆるやかなカーブの道。所々に『落石注意』の標識がある宮の峡(みやのかい)だ。
 話はそれるが、『落石注意』の標識を見るたびに不思議に思うことがある。その場所にいつ落石があるか予想は難しいし、いざ落ちてくれば逃げようもない。関西人ならば「どないせぇちゅうねん、走ってええんか、あかんのか、はっきりせんかい!」と突っ込みをいれたくなるところであろう。
 自転車で走るコースはほぼいつも同じで、この『落石注意』のある宮の峡から小文町の土手に入る。そこから西河内町をさらに北へと向かい、君田町との境界にある折原橋でUターンする。一部自動車と併走する場所があるが、私の自転車を見ると、「何もそこまでしなくても…」と思うほどたっぷり右に進路を避けてくれる自動車がある。だが逆に、「そんなに近づいてどうするの」と恐くなる自動車もある。

 この折原橋から太歳神社まで引き返すと、今度は「南回り」コースへと変わる。西城川を左に見ながら土手を南下し、赤い巴橋を通って十日市町の馬洗川の土手に向かう。夕陽に輝く西城川と馬洗川の合流点を見て東に走る。馬洗川に架かる水道橋を過ぎたところから右手に、約1q近くの桜並木が連なっている。春桜の満開時には、土手の下の側道を桜の花を愛でながら走ることにしている。日本人としてこのうえない風情を満喫しながら。その後は河川敷にある親水公園に降り、少年野球やグランドゴルフをする人たちの間を走るか、親水公園には降りず、昨夏完成した美しい斜張橋の願橋を通り、寺戸から荒瀬外科へと帰ってくる。
 日照時間が短くなる秋から春にかけては、「北回り」は少なくなり、天候や時間、その日の気分などでコースを変更する。


小文町の土手を走る
稲はすでに刈り取られ彼岸花が応援してくれる

 

自転車に乗る楽しみの一つに、季節の変化を素早く目にできることがある。春の田植えから秋の収穫まで、田んぼの稲の変貌ぶりは見応えがある。植えられたばかりの早苗は、まるで小学一年生のように初々しく、可愛らしく整列しているが、稲刈り前には、日本人のメンタリティーである「実るほど 頭を垂れる」立派な稲穂に成長する。稲の生育の過程は、まるで我が子を見守るようでその都度喜びがわく。また田んぼの反対側に流れる西城川は、四万十川にもひけを取らないほどの清流で、そこそこ深くなったところでも川底まで透き通っている。しかしこの清らかな西城川も、ひとたび長雨や豪雨ともなれば、一気に水嵩が増し、濁流となってごうごうと荒れた表情になる。

 そんなとき、別に国土交通省とは何の関係もないのに、この大水の様子を見に行きたい、という人が三次には大勢いる。私もその一人で、雨が上がれば、できるだけ早く自転車で土手まで繰り出し、その激しい流れを見る。いつもは静かな表情の川の豹変ぶりに不思議な高揚感を覚えるのだ。そのとき、西城川は言う。「まあ私も普段は穏やかに清らかに流れていますけどね、いざとなったらこれぐらいの流れを起こす力があるんですぜ」と。私は少したじろいで、「わかった、わかったよ。たいしたもんだね。でもくれぐれも水害になることだけは止めてくれよな」と応えながら自転車のペタルを先へと踏み込む。

 自転車で走るもう一つの楽しみは、色々な動物に出会うことである。なかでもよく見かけるのが鳥たちだ。西城川には多くのサギが生息している。サギはいつも川面を眺めているが、餌を獲るのに、さほど真剣ではないように見える。まるで、「ここでこうして待っていたら、魚の方から近づいてくるだろう…」とでも言いたげにぼんやり水面を見つめている。またカワウが水中で魚を獲り勢いよく水面から飛び上がる様は、まるで飛行艇がエンジン全開で発進離水していくように美しい。だがこれまででもっとも感動したのは、稲刈り後の冬の田んぼを歩く雄のキジの姿だ。生きているキジを見たのはこの時が初めてのことだった。というのも、子供の頃、猟の好きだった祖父と伯父がよく獲ってきた死んでしまったキジしか見たことがなかったからだ。

 
巴橋は三次市のシンボル的存在 

 1年間を通して乗っている自転車だが、最も好きな季節が夏だ。もちろん爽やかな春や落ち着いた秋もいいには違いないが、真夏日の、少し陽の落ちかけた夕方、やや粘り気のある空気を切って走る風は、蒸し暑さで噴き出す汗ばかりか、心の汗まで吹き飛ばしてくれるほど心地良い。家に帰り湯上りに飲むビールの味が増幅されることは言うまでもない。
 これからも心身の健康のために、自転車で故郷三次の町をのんびりと末長く走りたいと思っている。

                〜終わりにひと言〜

 自転車で走っているとき、多くの自動車とすれ違います。そのとき、運転されている方からは私が見えやすいと思いますが、こちらから車内のお顔はほとんど見えません。一度走るたびに何十台もの自動車とすれ違いますので、車内からせっかく会釈や手を振っていただいても、こっちが知らん顔、というケースがあるものと思います。その節の失礼はどうぞご勘弁ください。この場を借りてお詫びいたします。                                
                                      荒瀬 秀賢

 
  「上市栄通り」
和・職人とアートの町 
                    
  ゴールデンウィーク四月二十九日は昭和の日。爽やかな緑の風が通り抜けるなか荒瀬外科前の上市栄通りは、大変なにぎわいとなりました。

 なんで「和・職人とアートの町」?

 「和」は、日本古来の伝統的な和の文化と同時に、町のみんなの和を表します。
 「職人とアートの町」とは、古くからの職人通りの雰囲気を再現し、その上に昭和レトロ・大正ロマンなアート感覚を盛り込んでみようというものです。この通りには現在も畳・板金・和菓子・醤油などの職人さんが活躍中ですいうものですし、もともとお酒・硝子・ソース・洋裁・テーラー・綿打ち・うどん製麺・自転車など、たくさんの職人さんでにぎわう町でした。
 つまりこのイベントは、歩いて見て、「なつかしいー!」と言えるような遊び感覚がいっぱいなのです。。

飲んでばっかり!?

 三月の始め、早めのスタートを切ったものの、どうしてもギリギリにならないと、本気にならないのが人の常で、四月後半からは大あわて。荒瀬先生を真ん中に何回も集まっては話し合い、集まっては話し合い、といいながらまたまた飲み会へなだれ込み…(笑)。
 でも、飲んでいるうちに素晴らしいアイデアが続々と出てきました。東地屋九代目を引き継いだ若きホープが創作した「泡雪干菓子」を、いぶし堂(藤田板金)のおしゃれな銅版の函(はこ)に入れました。和久長醤油の(マルイチ)を描いた志和地焼の壺は、使った後で花瓶になります。畳と障子と指し物のコラボ小物は、置くだけでどこでも昭和風ムードに。若若連が考え出した、唐麺を使ったカープソース焼きそばは「ハイカラ焼きそば」と命名(荒瀬外科の滝口さん、菊間さん、曲田さん大奮闘でしたね)、もみじ饅頭の揚げ物は「もみあげ」と命名しました(笑)。


夜遅くまで打ち合わせ…の後はもちろん飲み会です


試作品の研究!東地屋の新作「泡雪干菓子」と藤田板金とのコラボレーションが素晴らしい

 荒瀬外科の待合室は、「赤ちゃんと一緒のホットコーナー」に大変身!
 「和久長の醤油蔵を使ってアート展示をしたらどう?」というものも…。
 荒瀬先生プロデュースのヒストリックカー展示は、「駐車場に並べずに、通り沿いの空きスペースに点々と駐車しょうや」という事になりました。加えて、「通りから見える現代車を見えんようにしょうや!」と、駐車中の各家にお願いして一時他の場所に退避していただきました。お陰さまで当日は懐かしのレトロな雰囲気がいっそう醸し出され、お客さんからは停車中の宅急便のトラックに、「早よう行ってもらえぇやぁ」と苦情が出るワンシーンもありました(笑)。

さて「昭和の日」

当日は、朝から成功を予感させる清々しい天気となりました。若葉を通り抜けて来るこの時期の爽やかな風が「三次風」、大好きです。
 まだまだやり残したことはいっぱいあるけど、とりあえず「エイエイオーッ!」でイベントがスタートしました。荒瀬先生のヒストリックカーがツーリングに出発して間もなく、南の本通り方面からお客さんが続々と見えはじめました
さあ、いよいよか…。
 次第に通りがにぎわい始め、昼前近くになるとものすごい人の流れとなりました。
 「こりぁー、もう栄町じゃあなーい!」(笑)。
 後はもう…(笑・笑・笑)。


オオッ!トライアンフTR4Aの野太いエンジン音!若大将・荒瀬先生の登場


今日は ゆったり床几でお茶をどうぞ

「春の大祭」へ

 ゆっくり・ゆったり・ほっこりと歩いて見てくださいました多くの皆さま、本当にありがとうございました。また、力を合わせて楽しんだ栄町の皆さん、お疲れさまでした。でも気持ちのいい疲れでしたよね。大変ありがとうございました。
 南の住吉町から北は太歳町までの石畳通りはもちろん、みんなの「和」が町じゅうへ広がって、三次町全体の「春の大祭」になることを願っています。
 また、来年が楽しみです。

また 来年お会いしましょう!!

三次市三次町  湧田 耕生 
   新年を迎えて  
  皆様あけましておめでとうございます。
今年も、皆様にとって良い年でありますようまずは祈念いたします。
 このたび、荒瀬君より電話で、突然新年号に寄稿せよとの依頼がありました。平成23年新春に、長野県上田市医師会長の森 寛夫先生が、後輩のためなら…、と筆をとられましたが、私も同級生のためならと、ドンと胸をたたいたまでは良かったのですが、文才のかけらも無いことにはたと気付き、何を書いたらいいものかとしばらく考えました。まずは自己紹介から始めたいと思います。


林 浩介先生

 私は現在、岐阜県恵那市で開業医をしております。荒瀬君と同じ東京医科大学に入学し、同じ麻酔科に入局し、それぞれ帰郷したあとも、趣味である音楽、スポーツ、自動車レース、アルコールなどに相通ずるものがあり、いつの間にか、45年以上も付き合ってきた次第です。
 趣味が同じといっても、その才能についてはかなりの隔たりがあり、私は荒瀬君に及ぶところではまったく無く、いつも後塵を拝するばかりです。そのなかでも、荒瀬君の、心遣いができ、裏、表のない人間性が、私の最も追随し得ないところです。いまでも、会えばすぐに、学生時代、医局時代に戻り、楽しい酒が酌み交わせます。
 学生時代といえば、荒瀬君は自動車部でしたが、私はヨット部に所属していたため、一年を通して、特に夏はよく海の上にいました。ヨットといっても、大きなクルーザーや帆船ではなく、貸しボートや木製のマストを立てたような、クラシカルな小さな二人乗りの舟で、強風や波の高いときなどは、木の葉のように揺れ、時々、沈(ひっくりかえること)をしました。先輩にもしっかりしごかれ、ロープで手の皮をはがし、それに潮水がしみて痛かったものです。現役を退いたあとも、社会人になって10年ほどは、何もしないのに手の皮が薄くはがれてしまったのですが(水虫のせい)、何だか海との縁がまだ切れていないようで、少し嬉しいような複雑な気持ちになったものです。今でもたまにヨットに乗ることがありますが、もう学生時代のような『潮っ気』はすっかり無くなってしまいました。
 ヨットは自然相手のスポーツだけに、その日の天候により、舟の整備や走り方などが微妙に変わり、勝敗に大きく影響します。特に大きなレースの前日には、天気予報、天気図の検討は欠かせません。それでもやはり不安になることがあります。そんな時頼りになったのが、地元の人、特に高齢の漁師『おいちゃん』たちのひと言でした。真っ黒に日焼けし、顔には深い皺が刻まれ、無愛想で少々おっかないのですが、根っからの船乗りで、何十年も自然を相手に生きてきているため、風の動きや方向、波の高さや形をよく知っていましたし、それ以外にも、いろいろなことを教えてもらいました。長く人生を経験してきているということは、それだけでも尊敬に値するということです。
 
 また二人の共通の趣味である車のレースについてお話します。院長と私が夢中になっているのは、ヒストリック・カー・レースといいます。自動車が最も美しくて輝いていた時代、つまり1950年〜60年代の車を使って、サーキットで競い合うものです。
 大好きで憧れていた50年近く前の車がサビだらけで見つかったとすると、その蘇生法は三つ考えられます。一つ目は、ボロくても何とか走れるようにして、そのままそのやれ具合を楽しんでしまう方法。二つ目は、大枚をはたいてピカピカにレストアして新車のようにして走る方法。そして三つ目は、公道を走ることはきっぱり諦めて、サーキットを走るためにあちこち手を入れ、チューニングをしてレースを楽しむ方法です。私たちは第三の方法を選択して、カー・ライフを楽しんでいるわけです。
車の製造年度、排気量などでクラス分けされているのですが、同じクラスのなかでも、車種は様々で、その時代のものであれば資格があり、気に入った車をチューニングして走ります。
 

筑波サーキットを疾走する林先生のジャガーMK2と
院長のトイアンフTR4A

 こういった古い車を好きになる人の特徴のひとつとして、純粋なのですが、少々偏屈なところがあり、それぞれ自分の車に対する思い入れが強く、自分の車が一番素晴らしい!と思い込んでいるところが、やっかいな反面、微笑ましいところでもあります。そしてそれぞれがお互いに良く分かり、認め合っているのです。私の場合、この時代のジャガーのスポーツカーがこの世で一番美しく、力強く、他の車とは全く違って素晴らしい相棒だと思っています。間違いありません!
 私がサーキットを走りたい、と思っていたとき、すでに荒瀬君は、筑波サーキットや富士スピードウェイで、表彰台の一番高いところに乗ったりして、ブイブイいわせておりました。トライアンフの甲高い排気音、オイルの焦げた匂いのなか、少しカウンター(逆ハンドル)を当てて走る後姿に接したとき、もう自分の心は決まっていました。荒瀬君から、「雨ざらしでサビだらけのジャガーがあるぞ」と電話があったとき、「それで行こう」の二つ返事でした。
でもそれからが大変でした。何せ、サビだらけで、後部のトランクは欠けてしまっているほどの古い車です。当然のように作業はなかなかはかどらず、2年過ぎてからがやっとデビュー戦でした。走れるようになっても、しばらくはエンジンの回転がスムーズに上がらず、オイルは漏れるわ、オーバーヒートはするわ、タイヤはねじれ落ちるわで、思ったようには走ってくれませんでした。でも、年月は私の車の戦闘力を(メカニックの努力で)徐々に高めてくれています。重くて曲がりづらい短所はありますが、ストレートは結構速く、コントロールもしやすく仕上がっています。
 レースの楽しみは、スターティング・グリッドについて、走り出すまでの緊張感、思ったようにコーナーをクリアできたときの満足感、前回より1秒でも速く走れたときの達成感、ストレートでのスピード感などではないでしょうか。しかも、とても広い空間のなかでそれが味わえるのです。
 現代、コンピューターは欠くことのできないものになっており、子供たちはゲームに夢中で、外に出て遊ぶことが少なくなっています。暗い部屋の隅っこで画面と向き合ってばかりいないで、アウトドアスポーツも楽しんでほしいものです。
 
 今や日本は、世界一の長寿国となっています。それはとても素晴らしいことではありますが、一方高齢者医療は多くの問題をかかえています。行政がその制度を推し進める場合は、まず医療現場を経験し、体で理解したあとで制定しないかぎり、優れたものが生まれるはずがありません。厳しい医療界のなかで、有床診療所という組織を経営している荒瀬院長の強い意志、信念に、私は大きなエールを送りたいと思います。さらに荒瀬外科を支えておられる奥様、スタッフの皆様に、院長にかわり感謝を申し上げたいのです。
 それでは皆様、今年も良い年でありますように!
岐阜県恵那市 林 浩介
 
  カープ交流戦in三次
きんさいスタジアム初勝利 
   6月11日、三次市東酒屋町の三次きんさいスタジアムで、カープ対オリックス戦が行われました。正面ゲート前では、梵英心選手と永川勝浩選手の写真展があり、試合前に熱心に見入るファンの姿がありました。昨年は雨で中止になり3年ぶりの公式戦とあって、院長はじめ応援するカープファンのテンションはあがりっぱなし。三次町出身の梵英心選手を子供の時から知って  いる「三次町英心会」の方々に  とっては、自分の子供がプレーするのと同じ、いやそれ以上の盛り上がり方でした。


盛り上がる「三次町英心会」の方々

 神杉小学校4年生の為琉ノ介君が始球式を行い、いよいよ試合開始です。カープは大竹投手が先発。1回裏、梵選手がライト前ヒット。さすがに、梵選手は大事な時に活躍する何かを持っています。三次の皆さんの期待に応えてくれました。同回ニック選手が負傷したのは残念でしたが。
 2回裏、堂林選手の四球から石原選手がセンターへ先制タイムリーツーベースヒットで1対0。3回裏には、赤松選手がセンター前タイムリーヒットで2対0。つづく岩本選手もライト前ヒット。その後堂林選手がレフトスタンドへ3ランホームランで5対0。院長の酒量が増えていきます。
 4回裏にはエラーで出塁した梵選手がワイルドピッチで生還し6対0に。何というラッキー!
 7回表、菊地原投手が打たれ、6対1となりましたが、「まあええ、1点くらい。楽勝、楽勝」と院長は笑って余裕を見せていました。
 その後カープは岸本投手、今村投手と継投しゲームセット。カープが6対1で三次きんさいスタジアム初勝利をおさめました。
 梵選手や永川選手に憧れている県北の野球少年、そして院長や三次町英心会の皆様、大勢のカープファンにとって、夢のような熱気あふれる交流戦でした。ちなみに院長は、勝利の美酒に酔いすぎて試合後は酩酊状態に。しかし翌日の診察には何の支障もなく、終始ご機嫌でした。  
  「あらせニュース」300号を祝して!
              
 拝啓、荒瀬秀賢先生。この度は「あらせニュース」300号、おめでとうございます。これも先生はもちろん、多くの皆様のご苦労の賜物と拝察。今回は、格調高き「あらせニュース」の紙面には申し訳ないような内容ですが、一筆お許し願います。
 
 私と荒瀬先生は、広島国泰寺中学校時代の同級生というご縁ですが、二人とも越境入学というか、当時の表現がおかしいのですが、もぐり入学(笑)の生徒でした。
 当時の荒瀬先生は、「親譲りの無鉄砲で…真っ直ぐな…」夏目漱石の『坊ちゃん』の主人公のような、腕白でやんちゃっぽい、竹を割ったような性格の少年だったように思いますが、卒業以来お逢いする機会もなく、歳月は夢の如く過ぎ、偶然の再会が、50歳代半ば過ぎの事。
 広島の歓楽街のエレキギターの小さなライブハウス「海賊ジャック」でした。私がRCCの局アナ時代、「なんでもジョッキー」という番組の公開放送で、何回かご出演願った「広島ベンチャーズ」の西村さんのお店で、時々、生ライブを愉しみに顔を出していたある日、お店に入ると、昔々、どこかでお逢いしたような、無いような風貌の、ちょっと小粋で若作りな小父さんと、見目麗しき若いお嬢ちゃんが(お嬢ちゃんは若いに決まっているが)目に入った。
 いや小父様より、そばに寄り添うように座っている女性に目をひかれた。髪はカラスの濡れ羽色…。歳の頃なら22、23歳、お風呂上りで17、18歳の薫るようなマドンナに意識は集中。実は、そのお嬢ちゃんの側に座っている小粋な小父様が、中学時代の面影を残す荒瀬先生だったのです。
煙石…「あんたあ、ひょっとしたら、荒瀬君じゃないんか、国泰寺中学の同級生の…」
荒瀬…「ひょっとせんでも、わしゃ荒瀬よぉ」
煙石…「ええ〜っ。三次でお医者さんやっとる荒瀬君、よもやよもや」
 偶然の再会に、喜びの沈黙数秒。その後は、飲んだ勢いもあり、友達同士の会話となって
煙石…「そりゃあええが、さすが、あんたも若いベッピンさんをお伴に…。結構ケダラケ、猫灰だらけ…。さすが流石(りゅうせき)流れ石じゃのぉ〜」
と言うと、昔もハニカミ屋なところがあった荒瀬先生は顔を赤らめ、いや、飲んでいたからすでに顔は赤かっただろうが…。
荒瀬…「いや違うんじゃ。この娘はわしの娘じゃけぇ」
煙石…「ええよ、ええよ、男の甲斐性じゃけぇ。まあ、そういう場合は、だいたいそう言うて、ごまかすもんよ」
荒瀬…「違うんじゃ。わしにゃ〜そが〜なもんはおりゃ〜せんよ。ほんまにわしの娘なんじゃけぇ」
 あの再会の時は下種の勘繰りで、大変失礼致しました。その時の可愛い娘さんは、その年の夏に結婚された、本当の愛娘、お嬢さんだったのです。私はそんな父と娘の水入らずの貴重な時間に、とんだおじゃま虫をしてしまいました。失礼!
 昔、「レジャー広島」というタウン情報誌(久村敬夫編集長)に、「がんす頑次郎」というペンネームの広島弁コラムが人気を博したが、それ風に「がんす日記」を。
 4月×日
 家の前のちびっと(少し)あるスペース(30p巾で横に長い)に、花の苗や種を播いて楽しんどるんでがんすがの。春は、ひていごとに(一日ごとに)新芽がぬんだり(伸びたり)花が咲いたりで、精があるなぁ(のは)嬉しいんじゃが、雑草もたくましゅう生えて、久し振りに草抜きをしょうりましたら、前の路地を母親らしい80過ぎの婆さんと、はあ(すでに)60歳くらいの娘さんらしい二人が歩いて来て、話しゅ〜しながらわしの後ろを通り過ぎた時、婆さんが、話しゅ〜途中でやめて、「あっ、見てみんさい。こりゃ〜イチゴじゃあ。三つも花が咲いとらぁ」、と娘に教えるんでさぁ。わしゃ、心の中で、「よお気が付きゃ〜がって、そのネキ(そば)にゃ〜フリージアやらスミレもよおけ(たくさん)咲いとるのに、さすが、戦中・戦後のひもじい時代を生き抜いた、たくましい世代じゃ」と感心。
 まいった、まいった、まいった魚は目を見りゃわかる…。イチゴが無事に実をつけて、わしらの口に入りゃぁ(入れば)ええがのぉと、今から心配しとるんでがんすよ。
 5月×日
 山陽本線のローカル線に乗ったら、車内の男性アナウンスに、「次は〜、横川〜横川。降り口はミギガワです」しゃれじゃぁ、なかろうのぉ。
 「がんす日記」ほいじゃぁ、の。
 
 無季の十七文字で「あらせニュース」の300号を記念して。

300号「あらせニュース」の大勝鯉     ひろし 
 
 これからも末長く多くの方々に届けられることを願ってやみません。
 私の拙句より
 浴衣着て忽ち風の匂ふかな  
 忘れ得ぬ人の幾たり冷し酒   
夏ぐみを含めば聞こゆ父母の声 
 皆々様の益々のご多幸とご健康をお祈りしております。
         広島市南区
                 煙石 博

 拝復、煙石博様。この度は、「あらせニュース」300号にご寄稿いただきありがとうございました。
 文中にもありますが、煙石君と初めて会ったのは、今から52年前の昭和35年、中学2年生の時までさかのぼります。この昭和35年は60年安保の嵐が吹き荒れ、浅沼社会党委員長が演壇で刺殺されるという激動の年でした。また歌謡界では、橋幸夫が「潮来笠」でさっそうとデビューした年でもありました。
 その頃、煙石君がもっともはまっていた(当時こういう言葉はありませんでしたが)のが、30分のウェスタンテレビドラマ、ジーン・バリー主演の「バット・マスターソン」でした。私も西部劇好きで、バット・マスターソンはよく観ており、二人が意気投合するのは時間の問題でした。
 当時テレビは西部劇全盛の時代で、毎週多くの西部劇が放送されていました。そのなかでバット・マスターソンは他と違い、テンガロンハットではなく、山高帽子に金飾りのステッキを愛用するという、西部劇のヒーローとしては珍しい伊達男で、銃より機知とステッキさばきで悪党どもを叩きのめすという、実在の名保安官を描いたものだったのです。
 はるか昔のことではっきりしませんが、休憩時間には、こうもり傘を杖がわりに、バット・マスターソンになりきった煙石君と、おそらく悪役か助手だったであろう私とで、前日テレビで観たシーンを再現したりして、周囲を喜ばせていました。
 このことがどういう経緯でそうなったのかは分かりませんが、秋、学芸会のような場で、バット・マスターソンのコントをやることになったのです。
 主演は、もちろん煙石君。私が助演で、その他何名かのクラスメイトと舞台に立ったのです。あらすじもまったく覚えていませんが、そこそこウケたことはおぼろげながら記憶しています。
 しかしこの時の煙石君扮するバット・マスターソンの、自信あふれる台詞と身のこなしだけはしっかりと頭に残っています。
 振り返れば、後にRCCのアナウンサー、パーソナリティーとして、また俳句を詠んだり、作詞をしたりと幅広く活躍する煙石君の原点が、「バット・マスターソン」だったことは間違いないでしょう。
 これからも、同級生の煙石君には多方面でのさらなるご活躍を期待しています。
                                                    荒瀬 秀賢
 
   
   酒蔵の数奇な運命
なんと、白蘭酒造鰍フ酒蔵は、かつて浅野藩の米蔵だった!!
しかも、それは明治当初の小学校だったとは!!


                                           三次を語る会 湧田耕生

なんと、なんと大発見です。三次本通りにある白蘭酒造鰍フ酒蔵が、江戸時代前期からの三次浅野藩の「御米蔵」だったのです。しかも、その蔵は明治維新後初の近代小学校、つまり三次町の「五日市小学校」校舎として利用された歴史があり、当時、県下で最も立派な校舎として自慢だったようです。

三次浅野藩「御米蔵」
江戸時代前期、三次には浅野五万石の藩政がしかれていました。その当時、町なかの城郭として威容を誇っていた「御(御屋形)」とあわせて、「御米蔵」についても言い伝えられてきました。
しかしながら、現在までに分かっていることは非常に少なく、記録もほとんど残っていません。かすかに手掛かりとなるのは、古図面の何枚かに「御米蔵」と記されているのみです。
例えば図1の古地図(享保十五年・1730)では、御館(御屋形)の東外側に南北に長い「御米蔵」(青色で囲んだところ)があります。
 
図1


『三次郷土誌の研究』三次地方史研究会、より

御館跡の位置
ところで御館の跡は、現在の「三次ふれあい会館」のあたりです。図2は、御館の位置を現在の図に当てはめたものです(伊藤正壯氏・文化財保護委員、による)。図中、赤い○で囲んだ建物が白蘭酒造鰍フ酒蔵です。

図2
古図面による「御館」




御館跡と現況図

 
 大きな建物なのに気がつきにくい
図1の古図面の「御米蔵」の位置は、図2の現在の酒蔵に重なっているように見えます。こうしてみると図面の上でもすぐに気がつきます
が、いろいろな建物が周りを取り囲んでいるため、外部から大変見えにくいのです。まさか町並みの中にこんな大きな木造構造物があるとは想像もつきません。
では内部からはどうか。本通りの店から奥へ入って行くと、写真1・写真2の矢印のように問題の蔵の中央部にたどりつきます。ここで蔵は、壁を取り払って突き抜けの通路にされてい
るため、そこが長大な蔵の一部だとは全く気づきません。
“殿さん蔵”
では、どうしてこの酒蔵が古図面の「御米蔵」だと分かったのか。或る日、白蘭酒造鰍フ経営者である佐久間さんから、酒蔵は「“殿さん蔵”と言い伝えられてきている。」と聞いた時に、以前伊藤先生から聞いた「御米蔵」の事が突然思い出され、ある事がひらめいたのです。
グーグルマップの威力
それは、インターネットで宇宙から眺めた航空写真を見てみようということです。そこには、写真1のように、見事に南北に長大な酒蔵の屋根が写っていました(緑色で囲んだところ)
長さはほぼ50mです。
これを見て、「御米蔵」と白蘭の酒蔵は一致するのでは…、と考え始めたのです。

写真1


写真2

蔵は通路の一部になっていて気づきません…。

小学校校舎は「旧芸藩ノ米倉」
もう一つ気になったのは、「米蔵が初代小学校の校舎に使われた。」という伊藤先生の話です。手掛かりとして紹介された『三次小百年の歩み』に、小学校沿革史として大変興味深い記述がありました。
〇  明治12年10月1日五日市小学校ト改称シ本町字西本町1541番地旧芸藩ノ米倉ヲ以テ校舎に充ツ。
〇  (略)旧芸藩ノ米倉(桁行25間梁行4間)ヲ本棟トシ(略)大ニ修繕ヲ加ヘテ之ニ移ル当時校舎ノ完美ナル県下第一ト称セラル(略)。
旧芸藩ノ米倉とは、広島浅野藩が管理していた「御米蔵」のことです。1541番地は合筆されたのか現存しませんが、白蘭酒造鰍フ番地は1550番地です。桁行25間(約45m)、梁行4間(約7.2m)は、現地で確認したところ、現在の酒蔵のサイズにぴったり一致しました。
大発見! 御米蔵⇒校舎⇒酒蔵
古図面の「御米蔵」、これに重なる「白蘭酒造酒蔵」、小学校沿革史に現れた「五日市小学校」それぞれを照らし合わせたときに、この三つは同一であると確信しました。大発見です。
貴重な写真「五日市小学校」!
ここで、大変重要な一枚の写真を紹介します。写真4の白壁の建物は、明治12年設立の「旧芸
藩ノ米倉」を改修した「五日市小学校」です。
正面の看板を拡大してみると、なんと「五日市小學校」と読めるのです(黄色で囲んだところ)。              

写真4





眠れる「物語」
この蔵は、まだまだ色々な事を話してくれるような気がしてなりません。寛永九年(1632)浅野長治公が分封され三次藩が興ります。この頃この「御米蔵」が建てられたと想定すると、約380年経過しているわけです。その間、蔵は幾度も修復され、大火を逃れ、想像もつかない様々な歴史を経験してきたに違いありません。
まだまだ、ほかにも三次町には多くのミステリーや謎が潜んでいると思います。ぜひ、皆さんご一緒に次なる発見をしていきましょう。
   ローカル線周遊の旅をして
   1月9日にローカル線周遊の小旅行をしました。行程をざっと説明すると、三次を芸備線で出発し、備後落合に着きます。備後落合から木次線で木次、宍道へと進みます。山陰側に出たところで山陰線に乗り換え江津まで行きます。そしてこの小旅行の最終章は江津から三次まで三江線での超ゆっくり旅となります。
 出発は朝まだ暗い7時前です。歩いて三次駅まで行くと無人の改札を通り抜け、芸備線備後落合駅行きの1両編成のディーゼル車に乗ります。休日だったせいか乗客は3名でした。その後乗降客もほとんどなく備後落合ではその3名が下車しました。山之内あたりから車窓からみえる景色は雪景色となり、備後落合駅はすっかり雪に埋まっていました。

雪にすっぽり囲まれた備後落合駅


木次線車両
宍道〜備後落合81.9km18駅を走る

乗り換え案内があり、木次線は備後落合から
横田駅間は大雪のためタクシーでの代行運転となっていました。下車した3名は全員木次線への乗継者で乗務員も含め4名でタクシーへ乗り込みました。代行タクシーは全部の停車駅へ止まります。全部の停車駅で乗客は全然乗り込んで来ません。途中だんだん雪の量も増え、三井野原では1mを超えた大雪で、小さい駅舎は積み上げられた雪ですっかり埋まっていました。うず高い雪に閉ざされた出雲坂根駅では名物の延命水でのどを潤し、横田に着きました。
 

 横田から列車に乗換えその後も木次に着くまでは素晴らしい雪景色で、本を読むのも忘れ車窓の景色に見入ってしまいました。延々と田舎の景色が広がっているだけですが、とても懐かしく感動的でした。木次で30分近い待ち時間があり、駅前に割と立派なスーパーがあったので、まるで砂漠を行く旅人が水を求めるような心持ちでビールと豆腐ちくわを仕入れ、宍道までは至福の時間となりました。
 
 宍道で山陰線に乗換えですが、待ち時間が1時間あったので駅前の、ちょうど映画『男はつらいよ』寅さんシリーズにちょいちょい出てくるような田舎の駅前食堂で昼食となりました。ビールとつまみだけの昼食を終えて山陰線唯一の快速電車アクアライナーに乗り込みました。するとそれまでの疲れからかウツラウツラ寝たり、起きては出雲蕎麦を食べるべきだったと昼食のメニューを反省したり、冬の海辺の荒涼とした景色を楽しんだりして江津駅へは15時過ぎに到着したのでした。そして三次行きの三江線に乗換えました。


三江線車両(キハ120系)
三次〜江津まで108.1km35駅を走る


 三江線はおなじみの1両編成のディーゼル車です。乗客は10名ぐらいでゆっくりゆっくりと江の川沿いを遡って行きます。ゆっくり走るので駅と駅の距離が近いのか遠いのかよくわからず、木次で仕入れていたサントリーのトリスの小瓶をちびちび飲みながら、乗客を観察したり、持参の文庫本を読んだりのとても優雅な時間を過ごしました。
 
 停まる駅で乗降客は無くともいちいち停車時間が長く、長い時は10分くらい停まるので、若い(!)観光客はホームに降りて駅の表示板やあたりの風景を写真に撮っていました。ふと気づけば乗客の半数は若い旅行者なのです。もっとびっくりしたのは江津で乗っていた乗客はほぼ全員三次まで乗っていた旅人でした。三江線沿いの駅はほとんどがホームだけの無人駅でしたが、たそがれゆく時間の中では妙に存在感があり、アルコールでぼんやりした頭の中で強く印象に残りました。
このようにして三次駅を6時56分に出発し18時51分に到着する約12時間のローカル線周遊の旅は終了したのです。この旅を終えて、赤字ローカル線の現実がよく分かりました。主たる乗客はほとんどが旅行者で生活のために利用している人が少ないのです。このままでは其の内線路だけの鉄道になるのではないかと不安になります。
 あなたも総距離321q、行程12時間(乗車時間8時間50分)の日帰り旅行を楽しみに出かけませんか。新しい出会いや発見があるかも・・・。 

三次市十日市南 児玉哲也
   楽しい山歩き&バーベキュー
   
9月19日(祝日)、荒瀬外科登山部は前日までの悪天候と、おまけに大型台風が日本列島に接近している最中、二年ぶりに28回目の登山にでかけました。
 朝八時半に貸し切りバスで三次を出発。現地合流組も入れて山ガール(最近ブームにもなっています山登りをする女性)が8人と、子供4人とともに総勢23人の大人数登山隊となりました。
 今回の登山ルートは、広島県北東部の竜王山のほぼ山頂近くまでバスで行き、竜王山〜池の段〜立鳥帽子山に登り、あとは県民の森までなだらかな道を一時間ぐらいかけて下っていく、登山というよりは山歩きでした。
 山頂は霧がかかっていて、ぐるっと360度なにも見えませんでしたが、幸い天候も悪化することなく、ほどよい霧雨が、まさにミストシャワーとなり汗ばんだ体に心地良く、また自然の中で澄んだ空気をたっぷり吸い込むと、体とともに心の中までもすっきりリフレッシュできました。



 晴天の中での登山はもちろん気持ち良いのですが、白い霧がかかっている静かな山道を歩くのも、やすらぎや山に癒されている感じがします。
 山歩きは、日常の暮らしや心身にも力と元気を与えてくれます。下山後、お風呂から出て、飲む一杯の生ビールは、それはもう言葉に表せない極上の美味なのです。
 荒瀬院長をはじめ、登山部の酒飲みメンバー
全員の登山の本当の目的は、まさしくこの極上の一杯にたどり着くためと言ってもいいでしょう。
 今回、ビール・バーベキュー班として居残りしていただいた方々、誠にありがとうございました。この一杯のビールが、心身のリフレッシュと明日への活力になるのです。
ジュン政岡薬局 政岡 淳
 
   寿三郎ふるさと人形展
   辻村寿三郎先生の人形展が、7月17日から9月4日まで、三次本通りにある市立歴史民俗資料館で開催されています。先生がサイン会に駆けつけてくださったお盆の十五日には、320人を数える来場者で受付けスタッフはてんてこ舞いでした。


市立歴史民俗資料館

 地元開催第三回目の今回は、三次のために心を込めて作っていただいた新作発表会を兼ねました。皆さんご存知の三次が誇る忠臣蔵のヒロイン「阿久利姫(瑶泉院)」です。ほかにも会場では、98点もの人形たちがいろいろな歴史絵巻を語ってくれました。 


三次ゆかりの阿久利姫(瑶泉院)の人形

 ところで、寿三郎先生のお話は本当に味わいのある話ばかりなのですが、今回もご帰郷の折に、いろいろな話をしてくださいました。その中で、大変面白い話がありましたのでご紹介します。
 先生が小学六年か中学一年の時に、お腹が痛くなって荒瀬の先生に診てもらったことがあるんだそうです。そうしたら、赤痢だということになって、当時太歳町にあった「避病院」に一ヶ月間隔離されることになりました。そこの入院患者は、先生ただ一人だったのですが、入院の間に、なぜだか一人の遺体が運び込まれてきて、二人仲良く(?)一夜を共に過ごすことになったそうです。
「ひと晩中、もうっ怖くて怖くて…」と、昨日のことのように顔をしかめていらっしゃいました。当時の荒瀬先生ということは、秀賢院長のおじいちゃんでしょうか。今では懐かしく面白いエピソードですよね。
 また、先生が太歳町の「花矢洋服店」時代に仕立てられたコートを持っていると言う方の話をお伝えすると、「うんうん」と大きくうなづいていらっしゃいました。
 三次に「寿三郎人形館」を造ることが、私たち実行委員会の願いなのですが、今回の人形展の開会式の際、挨拶の中で、寿三郎先生は今後三次のために「忠臣蔵の名場面を、作品にしたい」と言われ、増田三次市長は、「多くの皆さんに三次に来て見ていただけるような施設を造りたい」と応えられましたので、願いは必ず実現するものと期待を込めています。

湧田耕生(辻村寿三郎人形展実行委員会)
   三次本通り商店街
  三次本通り商店街、正式名称は三次本通り商店街新興組合(昭和48年設立)で、現在49加盟店があり店舗数も次第に増えてきています。
 三次町商店街は江戸から昭和にかけて商いの中心として栄え、商圏も広く広島県中部や島根県からも多くの人達が買物に来ていました。しかし昭和40年代半ばから社会経済が変化し、車社会の発達などで次第に商店の閉鎖が続き、歯抜け通りのようになった時期もありましたが何とか平成まで持ちこたえ、現在では電柱のない石畳の道と、夜になると灯される幻想的な街灯とともに散策のできる風情のある商店街へと変化してきました。
当時のことを「あの頃は人が多かった」「あの頃の賑やかさは凄かった」と逸話的に語られます。しかし、あの頃の話を知る世代もだんだんと少なくなり、繁栄していた時代を語ることのできる最後の世代昭和30年代生れもい
まや50歳。今後は活動する人達の年齢
も若返り、三次町や商店街に活気と賑やかさを取り戻してほしいと思います。 




昭和32年 えびす講でにぎわう本通り商店街




現在の本通り商店街 ゆっくり散策をしながら買い物ができる
左が「mugi mugi cafe」 右のVANの建物が「MORITOU」

 先人の教えを教訓に、現在商店街では歴みち事業(商店街内6店)、石畳街路、空店舗対策事業(商店街内7店)、チャレンジショップ8店等を行政と共に動き、20年かけてきた進歩的な動きもあります。
 空店舗対策事業では、太歳町の万寿の井酒造を購入され飲食カフェを営業されている「たべもの屋赤猫」さんや「風季舎昌平本家」さんがあり、「さき織り工房たけ田」さんは、和ものを中心にさき織りの教室を開かれ市内外から受講に来られています。
定番的お土産物になりつつある「平太郎」さんの二重焼きがあり、最近では住吉神社近くにオープンした惣菜お弁当の「おばんざい乙家」さんも出店されました。「下井呉服店」さんも全面歴みち工事をされました。すべて三次町の風情を残しながらの改修工事です。
 チャレンジショップでは開店から5年が過ぎた「mugi mugi cafe」さん、リサイクルの「エポックSUGITA」さんがあります。
 平成22年は4店の出店があり、「和のあか月」「ジャダ」「豚巻き」「パソコン教室SSC」と、20〜30歳台の店主の方にも商店街を気に入り開店していただいています。
 時代の変化に対応しつつ、古きをたずね新しきを知る商店街運営を行っていきたいと思っています。販売促進に携わるメンバーも、姿形は年老いても(笑)気持ちは若々しく前向きに動いていきます。新しい季節に向け、楽しいイベントも企画中です。
    どうぞ暖かく見守っていただき、今後ともご指導、ご助言をいただきますようよろしくお願い申し上げます。
   ※商店街ではお店を開店してみたい!と思われる起業希望の方を支援します。開店希望の方は商店街販売促進部のMORITOUまでご連絡下さい。
三次市本通り商店街新興組合
      販売促進 森藤 芳弘


   商店街ホームページ
http://www.mhst.jp/
   商店街商いブログ
http://ameblo.jp/mh-st/
       
 
SL「やまぐち号」をたずねて津和野路へ
 10月24日、ドライブ日和とはほど遠い、どんよりした空から小雨がパラパラ降る中、三医旧車クラブのメンバー22名は、オールドカー10台に分乗して新山口〜津和野間を走るSL「やまぐち号」(C57・愛称「貴婦人」)に会いに(鉄道マニアはこう言うらしく)津和野に向けて出発しました。
 途中激しくなる一方の雨は、オールドカーにとっては大敵で、ワイパーは役に立たないぐらいもたもた動き、す
きまから雨水は吹き込んでくるし、エアコンの無い車内のガラスは、ぐるり360度白く曇って、タオルで拭きながらの忙しいドライブでした。
 津和野の手前の徳佐に到着後、線路横に車を並べてSLを待っている間に、雨はますます激しくなり、おまけに風 まで強くなり、傘をさしていても服 の上から冷たいシャワーをあびるよ うな状態で、歩くたびに靴の中はピ チャピチャ音がしていました。
  そんな中鉄道マニアの荒瀬先生と 重信先生は、まるで初恋の女性と再 会するかのごとく瞳をキラキラさせ て、SL「貴婦人」に会える絶好の デートスポットを探し求めて、いつ のまにやら消え去っていました(近 ごろはこのような鉄道マニアの男性 を「鉄男」と呼ぶ)。
  しばらくすると遠くで汽笛の音と 同時に黒煙がまっすぐ立ち上がりま した。おもわずアリスの「遠くで汽 笛を聞きながら」を口ずさんでいま した。黒煙から白煙にかわり、二回 目の汽笛が津和野の山々に響き渡り、 あっという間に迫ってきたSLの迫 力とその美しい容姿に、冷えた身体 の頭のテッペンからつま先まで熱い稲妻が走りました。おもわずアリスの「冬の稲妻」を口ずさみ…。



 通り過ぎた後の煙の匂いに、子供の頃三次駅で見た風景の記憶がよみがえりました。鉄男の「会いに行く」その気持ちがすこし納得できました。皆さんも機会があれば是非SLに会いに行ってみてください。
 結局、雨は三次に帰着するまで降り続きましたけれど、トラブルもなくスムーズに小旅行が楽しめたのも、幹事さんの綿密な計画と下見のおかげでした。ありがとうございました。
 しかし、こんなに雨が降るなんて、「鉄男」のほかに、メンバーの中に 「雨男」もいたんでしょうね!?
                                          ジュン政岡薬局 政岡 淳
三次盆地から見る分水嶺
 分水嶺とは、2つ以上の川の流れを分ける場所で、一般には山の尾根や稜線に沿ってあります。昔、標高の低いところの「峠」や「垰(たお)」は、クニやムラの境となっていました。また重要な交通路にもなっていました。そこには、農業に大切な水があるため「水分」の特別な場所として、お地蔵様や塞(さい)の神、祠(ほこら)などが祀られています。
 三次に流れこむ川を見ると、中国山地での分水嶺だけでなく平坦地の中で瀬戸内海に流れ込む川との取り合いで分水嶺になっているところもあります。また、同じ地域に降った雨が、少しの場所の違いで日本海と瀬戸内海に行き先が変わるところがあります。
 三次盆地の周りには、に示した通り、ざっと12の分水嶺があります。それらは、四本の可愛川(えのかわ)・馬洗川・西城川・神野瀬川の川にまとまって三次盆地に集まり、江の川となって中国脊梁山地をぬうように日本海に注ぎます。なかでも可愛川は、北広島町の阿佐山を水源に安芸高田市吉田町まで南下、その後北上して三次盆地で江の川と合流します。
 中国地方の河川は、中国山脈から南北に分かれ、それぞれ瀬戸内海、日本海に注ぎますが、江の川水系だけは前述のように広島県北部をほぼ半周しており、非常に珍しい経路になっています。
 昔から人々によく知られた分水嶺をいつくか上げてみましょう。
○比婆山の稜線にある「出雲峠」…比婆山信仰のあった昔、備後と出雲の人が「出雲峠」で出会い、一緒に比婆山の稜線を目指しました。大膳原鞍部も陰陽分水嶺です。
○高野町和南原の「王貫峠」…「出雲風土記」に記載されている峠で、山陰と山陽を結ぶ大切な連絡道の峠です。
○布野町横谷の「赤名峠」…山陰と山陽を結ぶ要所で、石見銀山の銀を運ぶ銀山街道の国境です。
○北広島町大塚にある「三坂峠」…芸州と石見の国境で碑が建てられています。また、「お蓮・勘兵衛の悲恋」物語があり墓もあります。
○向原町の「泣き別れ」…同じ場所に降った雨が、日本海と瀬戸内海に泣き別れて流れることから名前がつきました。よく似たところに、上根峠・明神峠・上下があります。
 主な分水嶺の成り立ちは、中国山地が今から1000万年前頃から造山運動が始まり、東西性の地殻変動(衝上断層)が起きたときに、中国山地(高位面)・吉備高原・世羅台地・神石高原(中位面)・山麓平坦面・瀬戸内面(低位面)の三段階の階段状の地形ができました。
 高位面の出雲峠・大膳原そして中位面の中山峠・赤名峠までの分水嶺は、衝上断層の影響を大きく受けたものと考えられます。また、この階段状の地形が形成されたのちに、低位面の上根峠や「泣き別れ」は、太田川の支流と江の川の支流が、お互い土地を削りあい奪いあい分水嶺ができました(河川争奪)。
◇訪ねやすい分水嶺をご紹介します
健脚向き 
 ☆比婆山の出雲峠…広島県民の森公園センターより片道約1時間
ドライブに
 ☆上根峠・赤名峠…国道54号線
 ☆向原の「泣き別れ」…地方道広島三次線
 ☆北広島町大塚「三坂峠」…浜田・八重・可部線
 ☆上下…国道432号
 ☆三井野原…国道314号
 ☆美波羅川の源流…世羅町
                    三次市立河内小学校校長    卯山 善章
※参考文献 
 国土交通省・「江の川の自然」および「江の川に関係する資料」
 「日曜の地学・広島の地質をめぐって」 ・「三次の地学」・「日本の地質(中国地方)」
祝!「鯉心」20周年〜新春座談会〜                           
「鯉心」は、荒瀬外科の院内紙「あらせニュース」の名物コラムとして、平成2年にはじまりました。院長の独断と偏見にみちたコラムですが、なぜかカープへの愛の深さに納得させられてしまいます。ジュン政岡薬局の政岡淳先生も大のカープファン、二人の対談は熱気に満ちています。
 
政岡・この度は「鯉心」連載20周年おめでとうございます。今日はお祝いに先生と私こんなユニホーム姿です。平成15年に衣替えをした我がARASE BASEBALL CLUB(荒瀬野球チーム)の栄誉あるユニホームですよね。
院長・ちょっと変と思われるかもしれないけど、子供のときからの憧れだった早稲田大学をモデルにしたんです。本物との違いは、「WA」と「SE」の間に「荒」が割って入ってるところ。これで「ワッ!荒瀬だ」と読ませて相手チームを威嚇するのが目的。
政岡・でもそのわりには勝率があまり良くないのが悩みです(笑)。
さて本題に入りますが、「鯉心」を書かれるのにいろいろご苦労も多いのではないかと思います。いつも毎月1日に発行されているのはすごいです。何日頃から構想を練られているのですか。
院長・だいたい月の半ばから何にしようかなあと考え始めるんですよ。毎月完成させて待合室に出すと、ほっとして一週間くらいは何も考えたくない状態になりますから。考えたことを実際に原稿におこすのは、25日くらいです。ネタを決めるまでがまず第一段階です。
政岡・場所はどこで書かれるのですか。
院長・外来の私の机で書きます。原稿を前にしてガーーッと書きあげる時もありますけど、なかなか文章が浮かばないでイライラすることもありますよ。

                                  
                          「やっぱりカープが好き!」盛り上がる二人

政岡・最初の頃はほとんどが巨人が嫌い、というものですね。
院長・そう巨人だけ、嫌いなのは。当時はね。いまは他にもあるけど。とにかくあいつらを何とかしてやらにゃいかんと思ってね。だけどもっと問題だったのは、観客のことです。昭和54年、55年と連続優勝したのに、55年のほうが年間の入場者数が少なかったんです。あれですよ、私の「鯉心」が始まった元は。
政岡・優勝してほんとうによかったのか?という疑問が先生のなかにあったのですか。
院長・そう、カープのファンは優勝して図に乗ったんですよ。
政岡・先生の友人で作家だった永井明さんの出された「からだの手帖」で、先生は山本秀雄というペンネームでカープのことを書かれましたよね。山本浩二と衣笠祥雄を合わせた名前ですが、あいだにご自分の秀の字も入れられたんですね。たしか昭和60年の第8号で。それがコラムニストデビューでしたけど、すっごく面白かったです。それはやはり観客が減ってしまったことに対する怒りでしたね。それがいまの「鯉心」の原点なんですね。
院長・そうだね。それがいまも続いて
いるエネルギーの源かもしれないです。政岡先生は私にとっては一番先に読んでもらえる読者だし、すぐにリアクションがかえってくるんで、嬉しいです。
政岡・どんなことが書いてあるのかいつも楽しみなんで、まず「鯉心」を読んで、それからあとの部分をゆっくり読んでうちの薬局に張り出すんです。
院長・ありがとうございます。
政岡・気になっていたんですけど、タイトルはすんなり決まったんですか。
院長・あれはもうね、それ以外には考えてなかったです。
政岡・それにしてもいいタイトルですよね。鯉の心って。
院長・もしかして梵英心が入るのを予想してたのかも(笑)。
政岡・「鯉心」を書かれるのに一番大変なのはどんなことですか。
院長・一番といわれたら、やはり決まった字数だね。私のこだわりなんだけど、一行18文字で41行に決めています。ヨイの語呂合せでね。最初のころは手書きだったので、行数もはっきりしていなかったんです。平成11年にワープロで打つことになってからはきっちり合わせています。
政岡・こだわりがあったんですね。
院長・書く内容でいままで一番苦労し
たのは、平成18年6月号です。このときばかりは、月半ばを過ぎても20日を過ぎてもまったく書くネタがなくてね、
普通は一つ二つは頭に浮かぶのに。今月はいよいよヤバイかなと思いましたよ。「鯉心」も終わりかと(笑)。そ
うしたら、たまたま5月24日の産経新聞の記事を読んで、これだ!とひらめいたんです。それからは、ダダーッと一気に書きましたよ。「鯉心」20年の歴史のなかで、このときほど書くのに困ったことは他にないです。
政岡・そうなんですか。あらためてご苦労がわかる気がします。ところであの原稿は手書きなんですか。
院長・そうですよ。私はワープロもパソコンもできませんから。原稿ができたら家内に打ってもらいます。それからまた何度も推考をしますから、待合室に出すぎりぎりまで。家内も打ち直しが多くて困るみたいです。
政岡・どんな原稿用紙ですか。専用のものがあるんですか。
院長・そう、作ってあります。18文字で41行のものをね。最初は普通の原稿用紙に鉛筆で書いて、書き直すので何度も消しゴムで消して、机の上も下も消しゴムのゴミだらけになりますよ。それから専用の原稿用紙に万年筆で書き直します。

                                   
                        「鯉心」の生まれる原稿用紙

政岡・先生の文章を読んでいるとよく駄洒落がありますよね。平成7年7月号の野茂が大リーグへ行った話のときですけど、「もし日本へ帰りたくなったら、直ぐにでも帰っていらっしゃい。巨人なんかじゃなく、カープへ。だっ
て50年近くも前から『ノーモア(野茂は)ヒロシマ』っていうじゃないですか」。これすごく好きなんです(笑)。
院長・ありがとうございます。政岡先生もカープ大好き人間ですけど、いつごろから熱狂的になられたんですか。
政岡・気がついたときにはカープファンでした。熱狂的になったのはやはり昭和50年の初優勝からです。三次中学2年のときだったんですけど、それはもうみんなで大騒ぎでした。この年から帽子が紺色から赤に変わって。よく父親に連れられて市民球場に行っていました。私は衣笠が好きだったんです。だけど初優勝してからは水谷になりました。
院長・水谷ってちょっと野武士みたいな選手だったよね。
政岡・今年新球場になって、先生とも何度か行きました。球場の感想はどうですか。
院長・それはなんといっても広々感があるのがいいよね。コンコースに食べ物屋さんがいろいろあるのもいいし。でも私はいつも自分の席から動かないんです。トイレに行くとき以外は。食物やビールは、みんなに買ってきてもらうんで(笑)。でも政岡先生は逆に、一塁側の席から三塁側のほうまで遠征するよね。私に手を振ったりするじゃない。「野球観いや、野球!」って思うよ(笑)。
政岡・いや、野球を観なくても楽しいんですよ、新球場は。新幹線も走ってますし。ゆっくりしたスピードで通るのがいいです。芝生がまたきれいですよね。
院長・そうですね。いま日本の野球場で一番きれいな芝生じゃないですかね。
政岡・私はうちの奥さんと二人で夜8時ごろに行ってご飯を食べるんです。野球は観ないで。自分の席につかずに、フードコートをぐるぐる回ったりします。選手の名前の入った丼ものなんか美味しいです。マエケン丼などいろいろ食べましたよ。
院長・そんな楽しみかたもあるんですね。やっぱり世代の違いですかね。私は野球ひとすじなんで、席を離れません。トイレ以外は(笑)。
政岡・先生はなんでも長く続けられていてすごいです。「鯉心」もまだまだ続けてほしいと思います。
院長・それが最近疲れてきてね。もうやめてもいいかな、と思ったりするよ。これからは政岡先生にまかせようかな。
政岡・私だったら、三日坊主どころか二日でやめてしまいますよ(笑)。
院長・じゃあ、手と頭が動くかぎりは書きますよ(笑)。
政岡・お願いします。今日は楽しい話を聞かせていただいてありがとございました。
備後路〜奥出雲シルクロード・三医旧車クラブ・秋のミーティング                  

 年齢のせいか最近は薄明るくなる頃に目が覚めるようになった。先日の日曜日もいつものように朝早く目が覚めたがいつもとは違う朝だった。年甲斐もなく遠足に出かける子供の様にウキウキ感がある。ブラインドを上げて外の霧を見て「これなら晴れるし行けるな」とひとまずひと安心。最低限の準備と点検は前日までに終了しているのであとはお天気まかせである。当直者にご苦労さんの声をかけ携帯電話と2種類のキーをポケットに入れて裏の駐車場に急いだ。今日は久しぶりに車での遠足だが弁当はない。現地調達だ。
 一つのキーでガレージを開けた。中では昨日の姿のままで広島生まれの42歳の愛車がまってくれていた。車は小さいので背中を丸めて座席につきシートベルトを装着した。もう一つのキーでスイッチを入れると燃料計が一気にFまで上がって電気系統よしのサインである。始動前の一連の儀式を終えてチョークを引いてセルを回すとエンジンは一発始動した。いつもの通りのエンジン音でホッとする瞬間である。シャッターを閉めて集合場所をめざした。愛車は快調である。

 集合場所にはそれぞれに思い出のあるオールドな愛車とともに皆が集まっていた。今回のコースは庄原から西城、
横田、高野、三次へとのルートである。集合ミーティングが終わって秋の快晴のなか14台のオールドカーがエンジン音を響かせてそろって出発できた。



Miyosi Historic Car Club of medical personnel
10月25日亀嵩温泉駐車場に勢ぞろいした旧車たち

今回のコースも山あいルートで行く先々で紅葉の出迎えをもらいながらかつてを思い出しながら運転を楽しんだ。助手席は空席だったがロータリーサウンドを楽しみながら直前には29歳の白い日産ローレルの優雅な走りに魅せられ直後にはバックミラーから見る14歳の英国製バーキンセブンを運転する革帽子にゴーグルを付けた格好いいドライバーに魅せられながらのツーリングである。途中で故障してもツーリング仲間には車の修理の達人が同行しているので心強い。わが愛車も昨年は足回りを交換し補強してもらっているので安心して曲がりくねった山道を楽しんだ。
結構いける走りにすっかり満足し愛車を惚れなおしたツーリングにもなった。
 コース途中の所々には売店が開いていて地元の野菜やキノコやリンゴなど秋の味覚を販売していたので
皆へのお土産に沢山買い込んだ。無事に全車完走で夕方には三次に到着した。
 荒瀬先生の発案で始まったこの会は年2回開催される。これまで4回開催され三瓶山や瀬戸田町や吉和方面のツーリングに参加させてもらい楽しい思い出となった。事務局のN君やメンバーの方々には大変お世話になっているが是非ともこの企画は続けていただきたい。化石燃料のガソリンが手に入る限りそして安全に走れる限りこのオールドな愛車とともに参加させていただきたいと思っている。
三次市南畑敷町
      大倉医院 大倉 美知男
乗鞍岳に登ろう!
荒瀬外科登山部は、今年で創部10年を迎えます。平成11年の道後山登山を手始めに、はや20数回の登山をしてきました。当初のメンバーは少数でしたが、回を重ねるごとに人数もだんだん増えて、今や総勢25名を数えています。
 この度10周年を記念して、大いなる野望、『3000メートル級の山を制覇する』プロジェクトが計画され、名峰乗鞍岳登山をすることになりました。
 部員の心は熱く燃え、各参加者は出発日まで入念な準備を行い当日を迎えました。7月18日、4名のドクターを中心とした参加部員一同は、はやる心を抑えがたい晴れやかな表情で、チャーターした君田交通のバスに乗り込み出発したのでした。
 高速道路に入ると、星田先生の乾杯の音頭により前祝いの車内大宴会が始まりました。45分経過した時点で宴会はピークを迎え、そしてそれは高山到着まで延々と続きました。
 一夜明けて高山は小雨模様、昨日の気分の高揚は水を差された感はありましたが、参加者19名は、それで:元気よくバスに乗り、登山の出発地である畳平へと向かいました。
道中、空模様を心配しながら、乗鞍スカイライン入り口までやってくると、なんとそこからは通行止めで、進入禁止マークにはばまれているではありませんか!守衛らしき人に聞くと、雨と25メートルの強風で、入山禁止、との悲しい現実を突きつけられてしまったのです。


さあ、登ろう!と思ったら通行止め

 しかし荒瀬登山部は、この現実を超前向きにとらえて、各々登山装備に身をかため、通行禁止の標識の前で、笑って記念写真を撮りました。思い思いのリベンジの決意を胸に秘めながら…。
 気持ちを切り替えたら素早いのがこの登山部、3000メートル登山は、一気に観光旅行にとってかわり、歴史文化の香り満載の高山市内観光、そして世界遺産の白川郷見学へと、アカデミックな歴史見聞旅行となったのでした。
 2日目をこうして終え、夜は中部地方随一の下呂温泉に一泊しましたが、今度は佐竹先生の乾杯音頭で(何度も乾杯するのも我々の特徴)またまた大宴会が始まり、大いに今回の旅行について語り、飲み、次回へ向けての英気を養ったのでした。
 帰路は、途中で彦根城に立ち寄り、国宝見学をして『歴史と文化の旅』を締めくくりました。
 この記念旅行は、当初の目的こそ果たされなかったものの、全員それに屈することはありませんでした。それは、荒瀬部長はじめ部員たちの底知れない環境適応能力の高さであり、「荒瀬登山部、ここにあり!」と誇りにさえ思う結果となりました。
 この旅行にあたり、多くの方々のご協力をいただいたことに深く感謝いたします。
新年によせて
何かと暗いニュースの多かった平成20年、殊の外百年に一度といわれた世界的経済危機に日本中が揺れ動いているなか、荒院院長より今年度初頭の「あらせニュース」の投稿の依頼をうけ、文才のない私には困ったなあと思いつつも光栄に存じました。

 先ず一番にお知らせする事は、院長御夫妻が遂にお爺チャン、お婆チャンになられたことです。即ち初孫様の御誕生でした。万歳!万歳!万歳!
荒瀬先生と私とのお付き合いは、私の父只雄(平成六年百参才没)が、現院長の御祖父様秀俊先生の代からの交流ですので、もう七拾年以上に遡ります。



ありし日の谷岡只雄先生
旧荒瀬本宅にて撮影


二人は大変馬が合い、一緒に釣りに行ったり、夜は先生宅や私の家で遅くまで盃を重ね、大いに語り合われる姿を垣間見たり聞いたりしたものでした。
 秀俊先生は物凄く研究熱心で、戦後間もない時期に既に「アメリカン・ジャーナル・オブ・サージャリー」とい
う原語の外科専門誌を机上に山高く積みそれを読破されていました。さらにそれぞれの外科的治療について改良工夫され、この様にメスを入れたり縫ったり、こちらをこの様にもってくれば良いとか、真剣に口角泡をとばして語られて居りました。



手術室で談笑する中央が前々院長の秀俊(昭和37年没)
向かって右が前院長の秀隆(昭和59年没)
左が秀俊次男で院長の叔父敏博(平成7年没)


 実際手術も実に鮮やかでした。また手術に用いるメス等を、御自分でフイゴを吹いて好みのものを製作され、まさに匠の中の匠と言える先生でした。



機械を使ってこだわりのメスを製作中

 そんな事で一事が万事趣味も豊かで、なかでも狩猟、魚釣りの腕前は他の追随を許さず、父が一匹釣る間に、もう十匹以上釣られると聞いたものでした。また獲物の調理も一流料亭の料理人顔負けの腕前で、よく私の家まで竹篭に入れて、御自分で持って来て下さったものでした。(先生のお姿は、院長事務室に掲げてあります。私もときたま拝見して往時を偲んで居ります)



猟犬とともに狩猟に 獲物は雉、山鳥など

 その様な関係で荒瀬先生と御因縁があり、院長先生の御尊父秀隆先生にも、男兄弟のない私には兄貴のような気持ちでお慕いし、また可愛がって頂いたものです。そして第十一代となられる現院長の秀賢先生とも懇意にして頂いております。
 今後とも益々の御発展をお祈り致します。やがてや、お孫さんと手をつないで、広島新球場でのカープ球団の優勝戦の応援に行かれることでしょう。さぞやニンマリした院長のお顔であろうと想像しております。

谷岡産科婦人科顧問・三次地区医師会議長  谷岡 慶宣
歴史街道が完成しました
三次市は古くから山陰、山陽を結ぶ交通の要として栄えました。特に三次町は、江戸時代前期三次藩初代浅野長治の館があり、その周辺には三百人の家臣の屋敷を配し、南北を貫く大きな道に対し、南西に小路をいくつも設けていました。自然の地形をいかして、ひとつの城郭のなかに藩主、家臣、町人がともに住むという『総廓型(そうくるわがた)』の城下町づくりは、この時代には画期的なものでした。
また石見銀山から銀を運ぶ輸送船の宿泊場所でもありました。上市・太才通り・三次本通りは、江戸期からつづく石見銀山街道として人々がいきかいし、その1・4qの道筋には、明治・大正時代に建てられた町家があります。白壁と黒瓦のコントラストが美しく、「うだつ(卯建)」のある切妻造りの商家、格子戸のある民家、石造りの洋館などが、巴橋から太歳神社までの通りに点在しています。
 しかし、1970年代に官庁の移転や大規模店の進出で、三次の中心は南の十日市町へと移り、日本経済の仕組みや生活様式の変化などにより、商店はシャッターを閉めざるをえなくなり、この通りは活気を失い次第に忘れ去られようとしていました。
 この歴史的町並みを現代につなぐために、商業振興と居住環境を整備して、何とかその魅力を生かしたいと、平成4年に三次市の商業集積の現状分析と将来ビジョンの検討がはじまりました。平成7年に歴みち事業の調査まり、平成11年には森藤吉美氏を会長として、「歴みち協議会」が設立されました。平成12年度から三次市の「街並み整備推進事業」が始まり、平成17年度からは「電線地中化」、「石畳み道路舗装」、「街灯設置」にむけての工事が行なわれてきました。
 今年11月、その工事、整備はすべて完了する予定です。現在、新しい店舗が次々とオープンして、歴史と若い感覚が融合し新しい時代の活気をみせています。
 平成17年には【夢街道ルネサンス】認定地区となり、『いにしえの里 三次物怪(もののけ)・でこ街道』と命名されました。また、平成18年度の「広島県景観会議第十四回景観づくり大賞」では、三次町歴みち協議会が優秀賞を受賞しました。



秋空に映える石畳の道とうだつのある田村邸
この道は太歳神社へとつづく


 当院前の道路も、長い間ご不便やご迷惑をおかけいたしましたが、工事、整備もすべて終わり、電柱のない広々とした石畳の道路に生まれ変わりました。夕暮れ時になると、ほんのりと情緒ある街灯が灯ります。
 このプロジェクトのために長年にわたって奔走され、数々のご苦労を乗り越えて今日の成功を導いてこられました関係者各位に、心より敬意と感謝をささげたいと思います。

☆うだつ(卯建)とは、切妻屋根の隣家との間の防火壁でしたが、江戸時代中期には商家の財力の証として
作られることが多くなりました。いわゆる『うだつがあがらない』というのはこのことからいわれはじめました

 
奥田元宗・小由女美術館
奥田元宋・小由女美術館は、平成18年4月15日に三次市東酒屋町にオープンしました。すでに30万人以上の来館者を迎えています。
 奥田元宋氏は、明治45年三次市吉舎町で生まれ、小学校4年生の頃に、図画教師の指導で絵を描き始めました。旧制中学5年の時、遠縁にあたる広島県安芸高田市出身の日本画家・児玉希望に紹介されて18歳で上京、希望最初の内弟子になりました。作品は若くして画壇の注目を集めましたが、戦争の激化にともない郷里の吉舎に疎開し、自然の美しさに改めて魅了され、テーマを風景画にしぼりました。明るい色彩の田園、海岸風景や絵の具の質感を強調した山岳風景へ画風を展開し、後にいわゆる「元宋の赤」と呼ばれる印象的な赤の世界を作り上げました。

  昭和24年日展出品作品「待月」

 また夫人の奥田小由女氏は、人形作家として活躍されています。昭和51年に元宋氏と結婚し、創作面で互いに支えあい、刺激しあう生活のなかで、その作風に豊かな色彩と優しさ、穏やかさが加わっていきました。

ロビーより満月を見る 中庭の水面に映る月

 奥田元宋・小由女美術館は、日本画という平面と人形の立体が、絶妙なハーモニーを奏でる美術館になっています。この常設展を基調にし、国内外の作品を紹介する特別展を実施して好評を博しています。


小由女・平成15年日展出品作「月の別れ」

 昭和24年、日展において2回目の特選を受賞した「待月」をモチーフとして、美術館ロビーからの風景が設計されています。「日本で一番、月が美しく見える美術館」というキャッチフレーズにちなみ、毎月満月の夜とその翌日は午後十時まで開館しており、9月27日は、三次音楽家協会による、十五夜によせて、と題してソプラノとピアノの演奏、また9月28日は十六夜の夜会にて、として「三重奏の思い出」が演奏されました。
 秋の夜空に美しく輝きながら浮かぶ月と、ロビーで奏でられる音楽、ひととき日常を離れ静かな時間が流れます。

※「待月(たいげつ)」作者コメント
 「待月」は、辺りが次第に暗くなり、今まさに月が山から顔をのぞかせようとする瞬間を表現したものだ。ちょうど画室の窓から松に覆われた山が、馬洗川を隔てて見え、そこから月がのぼる姿が幻想的で美しかった。その実景
に揺さぶられ、絵の構図が頭に浮かんだ。この絵では、美景をそのまま絵にするのではなく、風景を目にして自分の心に映った情景を描こうとした。そうした意味で、「待月」はその後の心象風景を描く作品の出発点になった。
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