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   平成30年8月1日    
   
 7月の西日本豪雨災害で、広島県も未曾有の被害を受けた。被災された方々の1日も早い復興を願っております。小欄も、被害というには余りに微小な話で恐縮だが、これまではもちろん、これからもないであろう経験をした ▼それは、7月8日が従弟の長男の結婚式で、前日上京する予定になっていたからである。7日の午前中に雨は上がり、被害の内容もまだはっきりしないなか、あちこちに交通情報を聞いてみると、中国道は午後には、新幹線は夕方には大丈夫だろう、ということだった ▼ところが、状況はまったく違っており、中国道も新幹線も復旧のめどは立っていないとのこと。それでも14時に家を出て国道54号線で広島駅に行ってみた。すると、いつ動くとも分からぬ新幹線の切符を求めて長蛇の列である ▼そこで、出席が絶対避けられない従弟に携帯をしてみた。すると、「広島からは駄目だが、松山からは飛行機が飛んどるんで、いま松山行きの船の中じゃ」という、予想を超えた驚きの返事。即、「こっちもそれで行く」と、今度は花婿の姉に頼み、松山~羽田間の最終便をネットで予約してもらった ▼1便前の高速艇で宇品港を出た従弟一家を追うように次の便に乗ると、普段はありえない満席状態。目を疑ったが、その9割以上の乗客が呉港で下船するのをみて、広島~呉間の交通網が遮断されたことを知る。船の中はゆとりができたが、最終便に間に合うかどうか、焦燥感はつのるばかりだ ▼飛行機出発20分前、やっとの想いで松山港着。タクシーに飛び乗った。運転者さんは事情を聞くと、他言無用のドライビングで、なんとか無事最終便に間に合った。日本橋のホテルに着いたのは22時。もう二度とないであろう、波瀾万丈の旅ではあった。
   
   平成30年7月1日    
   カープ退団後の去就が注目されていた、梵英心の就職先が決まった。その間、紆余曲折もあったろうが、栃木県小山市にある、エイジェックという社会人野球のチームで、コーチ兼内野手としてプレーすることになった ▼このチームは、今年2月に誕生したばかりで、これまでの一選手という立場から、梵の役割は多岐にわたることになる。これまでのカープでの経験を生かして、指導者としての手腕も求められ、そちらでのやり甲斐も生まれるだろう ▼振り返ると、梵は平成17年11月のドラフト会議でカープに1位指名された。その場面をテレビ中継でじっくり確認し、ガッツポーズで窓越しに見た、実家である専法寺の屋根には、間違いなく後光が射していた。子供時分から知っている近所の若者がカープの選手になるという夢が実現したときのひとコマである ▼梵は入団1年目からショートのレギュラーとして活躍。新人王にも輝いた。この年一番印象に残るのは、お祖父様の葬儀があった4月27日の読売戦で、桑田からプロ入り初本塁打を放ったことだ。この打撃を生で見られたのは、いまも心のお宝である ▼その後約10年間、レギュラーとしてカープを支えてきたのだが、28年の開幕前、突然1軍を外されてしまう。9月に1軍に上がるが、29年は1年間2軍生活を送り、そのままカープのユニホームを脱ぐことになったのだ。この2年間については、なんとも不可解なことが多い ▼梵のカープ時代における最大の見せ場といえば、25年、阪神とのCSで、勝利を引き寄せた三塁打がよみがえってくる。このとき塁上で振り上げた拳の先にも、後光が見えていた。新天地では、再び「6」を背に、緒方監督たちを振り返らせるような、後光の射す働きを見せてくれ。
   
   平成30年6月1日    
    4月23日に亡くなった衣笠祥雄と山本浩二は同学年である。まず触れたいのは、私事で甚だ恐縮だが、小欄もこの二人と同い年ということだ。だからどうした、と言われればそれまでだが、密かな誇りのようなものだろうか ▼一昨年、黒田の「15」が加わるまでは、衣笠の「3」と浩二の「8」だけがカープの永久欠番であった。衣笠が高卒、浩二が大卒の違いはあったが、二人はお互いライバルとして、チームメイトとしてしのぎを削り、カープの主砲に成長する ▼それを決定づけたのが、何度も言うが、昭和50年、甲子園球場でのオールスター戦。二人で2打連続アベック本塁打を放ち、赤ヘル軍団の名を全国に知らしめ、初優勝の原動力となったのである。ついでだが、この時二人が初めて履いた白いスパイクの輝きも鮮烈だった ▼あまり語られてないが、衣笠のカッコ良さの一つに、ユニホームの着こなしがあると思う。よく、野球の上手い選手は、ユニホーム姿もきまっているといわれる。衣笠は語っていないが、ユニホームの形やサイズを細かく注文していたのではないだろうか ▼いま主流の長いダブダブのパンツでは、着こなし以前の問題だが、昔はストッキングを出して、その切込みから下の白いアンダーストッキングがみえる、というのが常識だった。パンツの丈と裾幅、その先の赤いストッキングとその切込みのバランスが、衣笠は絶妙だったのだ ▼4月28日、広島で追悼試合として行われた阪神戦は、とにかく「3」ずくしに終始。勝ったカープには陽の光が燦燦と注いだが、阪神には散々な試合内容だった。というのも、鈴木誠也の三塁ゴロは三塁ベースに当って決勝打に変わった。極めつけは、その試合時間が、3時間33分だったことである。    
   平成30年5月1日    
    小学校の運動会は、今も昔も紅白に分かれて戦うと決まっている。その紅組白組を決めるとき、半世紀以上前の記憶をたどれば、男子はたいてい「紅は女の色じゃけえ、白の方がええ」と思ったものである ▼ところが、カープが赤ヘルに変って初優勝した、昭和50年の広島県の運動会では、男女を問わず紅組が大人気で、教師が大変困ったというニュースがあった。もう一つこの年の春、日南キャンプレポートで、忘れられないニュースがある ▼燃える赤に変った帽子を被って必死に練習する選手たちの中、一人だけ前年まで使っていた紺色のヘルメットを被って打撃練習をしていたのが、衣笠祥雄であった。だが、当時とくに話題にものぼらず、その理由は闇のまま長い時間だけが流れ、62年、衣笠は引退。さらに時は経ち、テレビ番組で真相を知る ▼衣笠は、運動会前の男子と同じ心境だったのである。番組で、「赤は嫌でしょう、男なら。運動会じゃあるまいし。だからわざと紺色を被ったんですよ」と、悪戯っぽく肩をゆすりながら笑っていた。やんちゃ坊主の野球少年の血は、生涯身体中を巡っていたのだろう ▼初優勝の年の5月には、「カープを優勝させる会」のメンバーで、作家の梶山季之が亡くなった。すると、その遺志が乗り移ったのか、カープは快進撃を続け、大願成就する。平成3年には、炎のストッパー・津田恒美が病に倒れるが、津田の執念は大野に乗り移り、リーグ優勝を果たす ▼先月には、数々の栄誉と実績に輝いた、レジェンド・衣笠を突然失った。哀しみは計り知れないが、紅組の目指すものは、唯一つに絞られたのだ。ほかの色の5組に勝つのはただの通過点として、37年ぶりの日本一を、衣笠の御霊に報告することである。    
   平成30年4月1日    
    昭和50年8月31日に全線開通したJR三江線が、3月31日、ついに廃線となった。沿線の利用者はもちろん、全国の鉄ちゃんにとっての惜別感はいかばかりかと、鉄ちゃんの端くれとして心が痛む ▼まるで、身体の一部をもぎ取られたような喪失感がある。本州で100㎞以上の路線が廃止になるのは初めてということも、その感を増幅させる。だが、平成28年9月にJR西日本が廃線を表明して以後、沿線自治体には早々に諦めムードが広がったようにみえた ▼将来も明るくない赤字線となれば、誰もが考えつく結論であろう。JR西日本もそれなりの協議をしたであろう。だが、その前にもっと別の切り口から可能性を絞りだしてもよかったのでは。JR西日本も自治体も、最初から廃線ありきだったように思われる ▼昭和5年の部分開通から88年が経過した、たかが2本のレールだが、それは人や物を運ぶだけのものではない。立派な文化的、歴史的遺産であり、廃線になればまず復元は困難なのだ。江の川の川面に車体を映しながら走るキハ120ののどかな光景は、二度と帰ってはこないのである ▼失うものの大きさを考えれば、絶対に銭金だけの物差しで決めてはならない話だ。対策の一例をあげると、三次町に静態保存している8620型蒸気機関車がある。莫大な資金はかかるが、これを走れる状態に戻らせるのだ。その答えは「SLやまぐち号」をはじめ、全国各地にある ▼全線開通の昭和50年は、カープ初優勝の年で、初の3連覇を狙う今年が廃線の年。少々こじつけ気味だが、何やら運命的なものを感じる。また、JR西日本の三江線への対応と緒方監督の梵への対応には、規模は違うが同じ色の冷たさも感じる。はたして今季のカープや如何に。
   
   平成30年3月1日    
    学生、医師として15年間東京で暮らしたことは、以前にも書いたことがある。その間、西の空を見て、一日たりとも広島と三次に想いを馳せぬ日はなかった。その頂点にはカープがあり、下には多くの〝広島アイテム″が点在していた ▼先月、梵英心と話す機会があった。その中で梵もやはり、ふるさとへの想いと鯉心が強い男だということが分かった。ただ望郷の念に浸っていればいい者と違い、梵の場合、三次町出身のカープ選手という大きな十字架を背負っている立場でもある ▼それだけに、昨年6月13日、三次で行われたオリックスとの交流戦に出場できなかったことを悔やんでいるようであった。だがそれ以上に、年に一度の地元の試合でさえ、一軍に呼ばれなかったことがショックだったという。梵を見られなかったファンもショックは大きかった ▼梵は、入団と同時に攻守、好打でカープの勝利に貢献。新人王にも輝き、約10年間にわたりカープの屋台骨を支えてきた。ところが緒方監督は、これという理由もなく、一昨年開幕から梵を二軍に落としたままで、結果的に退団に向かわせたのだ。緒方の梵への理不尽な処遇は許せない ▼その冷酷な対応を筆頭に、三次では、緒方への批判が鳴りやまない。2年連続リーグ優勝など、何の防波堤にもならないどころか、その波は高まるばかりだ。病院の待合室でも居酒屋でも、「勝ったのは選手のお蔭、敗けは緒方のせい」という話が飛びかっている ▼これまでカープの報道は積極的に見てきたが、今はそういう気持ちになれない。なかでも、安部の背番号「6」を見るのが辛い。せめてあと1、2年は空白にしといて良かろうに。三次市民にとって、カープの背番号「6」は、ふるさとを想う梵英心の、永久欠番である。    
   平成30年2月1日    
    カープ初優勝の助っ人外国人といえば、ホプキンスとシェーン。ホプキンスは確実な打撃で勝利に貢献し、シェーンはスイッチヒッターとして初の一試合左右打席本塁打を打つなど活躍した。アッパースイングが持ち味でもあった ▼当時は日本でも、レベルスイングかダウンスイングが常識だった時代。大リーグでも、アッパースイングはもはや過去の遺物に過ぎなかった。ところが昨年大リーグでは、ボールを上方に飛ばす打法が注目を浴び、打撃に革命を起こしたのである ▼その名もずばり「フライボール革命」という。その始まりは、2015年から「スタットキャスト」という、データ分析システムが導入されたことによる。それにより集められた膨大なデータから、もっとも本塁打の出やすい打撃法が編み出されたのだ ▼「バレル【Barrel】(銃身)」と呼ばれるそのゾーンは、打球速度と角度の組み合わせから割り出される。バレルの大リーグ平均値は、打球速度158㎞以上で、30度前後の角度だという。一例をあげると、角度が27度では52%が本塁打になるが、20度では3%に激減するのだ ▼バレルゾーンの解明により昨年の年間本塁打は、6105本と史上最大を記録した。バレルの申し子と呼ばれるのが、昨年のア・リーグ本塁打王、ヤンキースのA・ジャッジ。飛距離150・9mという最長本塁打を放ったが、28・4度はともかく、190・9㎞という打球速度が度肝を抜く ▼ほかにも多くの打者が、アッパー気味にボールを少し下から叩くことで、本塁打数を飛躍的に増やしている。日本ではまだこういう動きはない。ならば、後期高齢者ではあるが、シェーンを臨時コーチに招いて、カープに本塁打量産革命を起こしてはどうだろう。
   
   平成30年1月1日    
   明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。カープは昨年37年ぶりの連覇を達成したが、日本一には届かなかった。今年は34年ぶりの日本一に向け、チームもファンも赤い血潮を燃やしていることだろう ▼ところが小欄は、どうしてもそういう気分になれないのだ。その理由は、やはり梵英心の退団である。一軍で充分戦力になれるはずが、約2年間二軍に追いやられて、あげくにこの沙汰はないだろう。梵ファンは今後の指標を失って、虚脱感に襲われている ▼症状からして、「梵ロス症候群」によるうつ状態と自己診断をした。このまま書き続けると深みにはまりそうなので、突然だが、昨年の自己トップニュースについて書く。ここ20年余り、年間第一位の出来事といえば、毎秋四国で行われるヒストリックカー ラリー参加と決まっていた ▼だが昨年の第一位は、秋の京都鉄道博物館でのことである。現役を引退した車両たちを懐かしく観て回っていると、そこに大規模な鉄道ジオラマがあり見ようとしたが、満員のため次の回にとのこと。そこでほかの展示物などを見たあとジオラマの前に戻ってみた ▼運よく入れ替えの時間で、観客席に座ることができた。全国各地の有名な列車の走行が再現されるショーにすっかり魅せられ、外に出ても少々ボーッとして立っていた。ふと見ると、娘一家が、ジオラマから出てきて立っているでは ▼一瞬何が起きたのか。夢か現か幻か。「あらま、どうしたの」、と娘と同じ台詞を口にする。もし前のショーに間に合っていれば、この奇跡の出会いはなかったろう。ところが上には上があるもので、大学の後輩が、ローマ空港で医局の秘書の女性に偶然会った…、という話には、さすがに負けた。
   
   平成29年12月1日    
    3千本安打の張本さんが、「いま、日本の総理大臣が安倍さんで本当によかったとしみじみ思いましたね。(中略)安倍晋三さんは間違いなく、(総理として)トップクラスです。『安倍一強』の何が悪いんですか」『月刊Hanada』12月号〈飛鳥新社〉と語っている ▼至極真っ当な意見に、失礼ながら意外な感じがした。というのも、毎週日曜日に放映される、出演者は左翼の人間ばかりを並べた、超偏向番組の「サンデー モーニング」(TBS)に出られている張本さんも、その同類と想像していたからだ ▼大監督とは第一に厳しさ、という話では、「まず、水原、三原、鶴岡、川上の四氏が四大監督だと思います。次に、〇・五点下がって広岡、野村(克)、森(祇晶)の三氏でしょう」という。だがこの三氏のあとで良いから、名将・古葉監督も入れてほしかった ▼古葉監督にも前述の監督同様に厳しさがあったが、同時に選手を想う優しさも兼ねそなえていた。一例として、前年まで本塁打149本だった三村(故)を、昭和57年、あと1本のため57試合に出場させたのだ。だが三村は無念にも、その恩に報いることなく58年に引退している ▼それに引きかえ、緒方監督の梵に対する処遇は、大きく人間味を欠いている。何度も言うが、緒方は一昨年9月、千本安打にあと10本とした梵を、大した理由もなく突然二軍に落とした。当然記録もそのままで、梵はユニホームを脱ぐはめになったのだ ▼入団以来、堅実な守備とねばり強い打撃で弱い時期のカープを支えてきた梵の退団で、三次町を中心に落胆と怒りの衝撃が走った。至極真っ当な意見を持つ、広島市段原町で生まれ育った張本さんの目に、古葉、緒方両監督はどのように映っているのだろう。    
   平成29年11月1日    
    「国破れて山河あり」ではなく、「鯉破れて惨禍あり」である。10月24日夜、クライマックスシリーズ(CS)勝利を信じていたカープファンは、関ケ原の合戦に敗れた西軍の兵士が、戦場の惨禍の中をあてもなく徘徊しているような心境、といえば大袈裟か ▼先月も触れた広島大学の留学生を含め、すべてのカープファンは、「ナゼナンダロウ?」と考える。ペナントレース終了からCSまで中16日という長期間の空白。骨折の鈴木誠也、死球の安倍と、けが人による戦力低下等々 ▼だがやはり、最大の原因はベンチワーク。首脳陣の作戦ミスと言わざるを得ない。昨年あれだけ悔しい思いをした経験が、どこに活かされていたのか。CS、日本シリーズを通して短期決戦の難しさは、いやというほど味わったはずなのに ▼短期決戦は、ペナントレースとまったく違った戦い方が求められる。一つのエラー、一つの采配ミスが、一気に流れを変えてしまうのだ。その最たるものが、第三戦でバント失敗と併殺打を2回づつやらかすまで起用し続けた、石原である。少しでも早い段階でベンチに下げるべきだった ▼第五戦では、先発藪が打ち込まれたあと、九里に替えたのも間違いだ。ここは、より球に力のある投手を惜しまずにどんどん継ぎ込むべきだった。東軍の将・アレックス ラミレスのように。そのあと1点リードされた攻撃の無死満塁で、代打岩本、小窪が連続三振した場面の采配は、解析不能だ ▼今回の一方的惨敗のA級戦犯は、まぎれもなく西軍の将・緒方孝市である。26日のドラフト会議で西軍の将は、広陵高校の中村奨成のクジを引き当てて笑顔をみせた。だがそれぐらいのことで、いまだに戦場をさまよう兵士たちの虚脱感を癒すにはほど遠い。
   
   平成29年10月1日    
   タモリの昔のネタに、「留学生日本語弁論大会」というのがある。外国からやってきた留学生が、日本の風習やしきたりについて意見を述べるという芸で、その決めの台詞は、「ドウシテナンダロウ ナゼナンダロウ」とたどたどしく語るのだ ▼1年前、優勝に向かうカープの勝ちっぷりをみて、よくこの台詞が頭の中に浮かんでいた。というのも、前年とほとんど同じか、それ以下の戦力での優勝だから、正直、総括に戸惑っていた。テレビの評論にも、何から何まで良い巡り合わせで、運にも恵まれた、というのがあった ▼小欄も失礼ながら、この意見がその答えの一つと解釈していた。この傾向はマスコミにも浸透していたようで、今季開幕前の順位予想でも、昨年の覇者カープを優勝とした評論家より、読売の方が多かったと、しっかり記憶している ▼だが37年ぶりの連覇で、そういう発言は聞かなくてすみそうだ。カープは強いチームになったのである。今季の勝因はといえば、選手のあくなき練習による向上心は当然だが、選手の中に、同志としての忠誠心が芽生えてきたことだと思う ▼その強い絆は、4度の大型連勝にも現われている。開幕直後の10連勝を皮切りに、5月7連勝、6月6連勝、9月9連勝をあげている。合計すると32勝となり、今季の勝ち越し分にほぼ重なる。これだけ華々しい優勝で、とても嬉しいはずなのに、今ひとつはしゃげぬものがある ▼それは、やはり我が梵英心が、ここまで1度も1軍でプレーしていないことに尽きる。梵の実績や豊富な経験をして、2軍にいるような選手ではない。さらに安倍がけがで登録抹消という緊急事態なのに。広島大学の留学生は言う。「ナゼナンダロウ ソヨギガ イチグンニ イナイノハ」。
   
   平成29年9月1日    
   先月12日、夏休みで帰省していた孫2人と、読売戦を観にいった。孫は8歳と5歳の男の子で、長男は6年前一度経験しているが、次男はこれが、記念すべき、広島市民球場への初陣。というより、プロ野球の初観戦である ▼前回長男は、明らかに野球より外野席後方を走る新幹線の方に興味を示していた。しかし今回は、ルールを全部理解しているわけではないが、時折質問をしながら、最後まで試合に没頭していた。次男は、母親に指示されるまま、「やぶた、がんばれぇー」と叫んでいる ▼試合は、次男が応援した藪田が先発し、侍ジャパンのエース菅野と投げ合い、プロ入り初完封で読売を倒したのである。しかも最少得点の1対0で。何度かあったピンチは、鉄壁の守備で守り抜き、藪田は、九回表自ら志願して最後まで投げ切った ▼鉄壁の守備は、運にも恵まれた。七回表の一塁走者、長野のとき、藪田の投げた牽制球は一塁手も取れない暴投になる。ヤバッ、と思った瞬間ボールは一塁々審に当たり足元へ落下。長野は動けない。最悪一死三塁も覚悟する局面だったが、そのあとはダブルプレーでチェンジとなったのだ ▼この試合、もう一つ心に沁みたことがある。終盤、観客が藪田の一球ごとに、なかには立ち上がってまで、拍手と声援を送るのだ。大・リーグでは、次の球で三振というとき同じ行動をよく目にする。広島市民球場も、その造りばかりか、観客までもがメジャー級になりつつあるようだ ▼8月末現在、藪田が12勝、岡田も11勝をあげ、野村も安定感が増してきた。黒田と前田の穴はほぼ埋められ、カープ投手陣の世代交代は上手くいっている。お揃いの梵のTシャツを着て応援する孫たちをみて、まっとうなカープ男子としての成長を願った。
   
   平成29年8月1日    
   大リーグ・ボストン レッドソックスの本拠地は、フェンウェイ パーク。1912年に造られた米国最古の球場で、フィールド、スタンド、スコアボード等々、すべてに歴史の重みが散りばめられている ▼そのフェンウェイ パークには、他のどこにもない凄い記録がある。レッド ソックスはここで、2003年5月から15年4月まで、ポストシーズンを含め820試合連続の観客満員という記録をもっている。そのあとも、ほぼ全試合満員状態は現在まで続いているのだ ▼カープの本拠地、新広島市民球場ができたのは平成21年。新球場だから旧市民球場とは比較にならない観客が訪れたが、ウィークディはまだまだ空席のめだつ日もあった。その頃、広島がボストンのようになることは、夢のように思えたものだ ▼ところが、26年暮れ、黒田の復帰をきっかけに、年間指定席は即完売となり、27年、観客動員数は飛躍的に増えた。25年ぶりに優勝の昨年は、黒田の引退もあってさらに客足は伸び、今年は、切符入手が極めて困難なほど連日満員。新広島市民球場は、完全にフェンウェイ パークと化した ▼カープは現時点で首位をがっちりキープし、球場は熱気ムンムンだが、先月22日、古くからカープファンつながりの友人と中日戦を観に行った。横綱相撲のような展開で完勝するカープをみながら、彼は、「昔の市民球場が、やっぱり懐かしい…」と言ったのだ ▼一塁側入り口から暗い階段を駆け上がると、すぐに自分の年間指定席。座ってまずは生ビール片手に応援モードに入る。いつもの顔見知りの人たちと飲みながらカープ談義をするのが定番だった。10年経って、新球場とはまったく違う光景だが、昭和の匂いが濃いスタンドには、珠玉の時間があった。
   
   平成29年7月1日    
   現在三次市の人口は、53000人余り。その中で「ワシも、カープの監督」を心情とする人は、3500人はいる、と思う。この人たちに共通した意見は、ほとんどが緒方監督への批判である。カープは着々と首位固めをしているのに ▼最後にソフトバンクに負け、交流戦の優勝を逃した翌々日に会った友人は、その試合について語った。「先発の中村祐が失点したあと、普段と同じ継投で傷口を広げたが、そのあと4日休みがあるんじゃけえ、ええ投手からつぎ込まにゃあ」 ▼交流戦優勝が懸かった大切な試合に、いつもと同じ采配はないだろう。彼の意見にまったく同感だ。そういえば、この試合経過はどこかで見たような、デジャブ(既視感)に襲われた。昨年の日本シリーズで日ハムに優勝を決められた試合である ▼日ハムに王手をかけられ迎えた第六戦。あとがないカープは、中盤まで互角の戦いをしながら、ペナントレースと同じ継投をして大敗を喫してしまう。とくにこのシリーズ不調の続くジャクソンがとどめを刺されたのは、悲惨な光景であった ▼だが、緒方監督のもっとも理解に苦しむ点は、梵英心の処遇である。6月末で三塁手としてのメンバーは、安倍と西川だけ。2人とも打撃はともかく、守備では不安がつきまとう。もつれた試合展開の終盤で、梵の守備力が必要になることは必ずあるし、ベテランがベンチにいるだけで目に見えぬ戦力になるのだ ▼昨年に続き今年も、三次きんさいスタジアムの公式戦に梵の姿はなかった。なぜ、三次へ毎年カープがやって来られるのか。あと10本で一000安打を達成する梵をどう考えているのか。緒方監督に訊いてみたい。梵の一軍出場を待ち焦がれる三次市民は、38000人はいる、と思う。絶対に。
   
   平成29年6月1日    
   先月21日、母校東京医大の同窓会総会で、尊敬する3年先輩のA先生にお会いした。先生は、東京生まれの東京育ちで、根っからの読売ファン。先輩が言われたことには、たとえ違うと思っても「はい!」と答えるしかない、という校風では、カープに関しては少々難しいときもあった ▼先生には、「広島の田舎チームが…」みたいなことを時折聞かされたものだが、懇親会の席で、「今は、広島が一番バランスがとれてて、強いよなあ」とおっしゃったのだ。生まれて初めてカープへの褒め言葉を頂き、我が耳を疑ってしまった ▼この日は最下位の中日に連敗した翌日で、それは、3戦目が始まり先取点を取られたあとのこと。それまで無敗だった中日に有利な展開が気になって、せっかくの有り難いお言葉に小じゃれた返答もできず、先生には大変失礼なことをしてしまった ▼“隣の芝生は青い”もあってそう言って頂いたのかもしれないが、内情はそう思えないことも目につく。優勝の翌年はそのツケが回ってきて、予想外の事態が起こることは珍しくない。これまでのカープは、投手陣が最大の誤算である ▼開幕時の先発ローテーションの7人のうち、5月末現在残っているのが、大瀬良、九里、岡田の3人だけというのは、明らかに異常。だが、防御率、与四死球も、昨年を大きく下回っていながら、それを補っていまの順位にいられるのは、ほぼ打撃陣のお蔭である ▼ここまで書いたところで、「カープ 読売に42年ぶりの7連勝」というニュースが入ってきた。こちらは喜びに浸っていればいいが、先生の気持ちはいかばかりか。そういえば、一昨年暮れにお会いしたときにA先生は、「大竹は返してやるから、代わりに菊池をくれよ」と言われていた。
   
   平成29年5月1日    
   カープのことを「赤ヘル軍団」と呼ぶように、どの球団にも愛称や理念を示す呼び名やフレーズがあるものだ。昭和50年の初優勝時についたこの別名は、いまや日本中に根付いている。当時、帽子の色が赤に変わるというのは、かなりの衝撃で受け止められた ▼というのもそれ以前「赤ヘル」といえば、全学連の中の「ブント」という極左組織の象徴であり、中道右派を自認する身には、嫌悪感しかなかった。ところが40年余りの時を経て、赤ヘルといえばカープ、そのユニホームは、日本一カッコいいと断言する ▼それに引きかえ読売の場合、「常勝軍団」や「球界の盟主」など、超上から目線の表現ばかりで、黒いヘルメットには、「GIANTS PRIDE」という、何様?と思えるようなロゴもある。だがこれらを根底から覆す事件が、一昨年オフ報じられた ▼読売の3選手が野球賭博に関わり逮捕されたのだ。現役復帰は道義的にも無理だろうと思われたが、先月日本野球機構は、読売の申請どおり、1年間の失格処分を受けていた高木京介の現役復帰を認めた。明らかに奇妙で甘すぎる裁定である ▼この顛末をみて、昭和44年に起きた「黒い霧事件」の池永正明氏のことを思い出した。氏は、暴力団に脅された先輩から八百長を強要され、仕方なく現金を預かったが、その試合には登板せずそっくり金を返している。司法も白と判断したが、西鉄の若きエースは野球界を永久追放されたのだ ▼もう一つ、平成2年5月12日の広島市民球場の出来事も思い出した。読売戦で、忍者姿の男がバックネットによじ登り、「巨人軍は永遠に不潔です」という垂れ幕を掲げたのである。御用となった男にカープファンは、よくぞやってくれたと、心のなかで拍手を送ったのだった。    
   平成29年4月1日    
   主に広島の巷では、「今年は、昨年の忘れ物である33年ぶりの日本一を獲りにいかにゃあ…」という声を耳にする。そこで、カープが前回日本一になった昭和59年にさかのぼってみようと思う ▼54、55年の連続日本一のときのぶっちぎり優勝とは違い、中日と激しい首位争いを繰り広げ、10月4日、大洋に勝ってやっとリーグ優勝を決めた。この年の最大のトピックスは、昨季の鈴木誠也と同じく、9月の読売戦で長嶋清幸が打った2試合連続サヨナラ本塁打であろう ▼このとき、漠然と優勝を確信したような気がする。日本シリーズは、阪急との戦いになるが、ペナントレース同様、厳しい戦いになる。しかし、胴上げ投手となった山根やMVPに選ばれた長嶋の大活躍で、カープは三度目の日本一に輝いたのである ▼いつもの年ならこれでプロ野球は幕を閉じるのだが、この年はさらに続きがあった。カープはそのあとさらに5試合行っているのだ。場所は読売の本拠地後楽園球場で、相手は、ワールドシリーズを制したボルチモア オリオールズである ▼そうなった理由だが、実は、裏に読売の策略があった。球団創立50周年を記念し、日米の真のチャンピオンを決めようと計画していたのだ。勝手に読売が日本一になることを決め込んで。ところがその思惑は外れ、カープは初戦に川口がオリオールズに完封勝利をあげたのである ▼読売にとっては、トンビに油揚げ。カープにとっては、棚からぼた餅の勝利であった。先月行われたWBC準決勝で、全員が大リーガーの米国チームと、敗れはしたが互角に戦う侍ジャパンをみて、33年前とのレベルの違いに驚かされた。と同時に侍ジャパンに大リーガーは青木一人というのは、あまりに不公平ではないか。    
    平成29年3月1日    
    川口、江藤、金本、新井、大竹といえば、カープファンならずとも、ピンとくる名前であろう。平成5年にできた、フリーエージェント(FA)制度を利用し、国内の球団へ移籍したカープの主力選手たちである ▼いくら合法的行為といっても、カープにとっては裏切り者でしかない。川口が早速6年に読売へ出て行ったのを皮切りに、残る4人も順々にカープを去って行った。あたかも全員の、「弱いカープじゃ優勝できないので、強いチームへ変わろう」という共同謀議でもあったかのように ▼FAが始まったのは、カープが前回優勝した年。そのあと主力が次々抜けたのだから、チームの戦力は落ちるに決まっている。さらに、独立採算の経済力では、FAで高額な選手は得られず、最初からFA宣言後の残留を認めないという方針も致し方なかった ▼5人の中でもっとも衝撃が大きかったのが、新井の阪神移籍である。金本とのつながりとか、カープ球団との不協和音とかもあっただろうが、やはり新井も優勝を第一に考えたのであろう。しかし阪神での7年間は、一度も優勝できなかった。小欄にとってはそれが唯一心の支えであった ▼ところが26年オフ、出場機会も年俸も激減した新井が、子供の頃から大好きだったカープの扉をもう一度叩いたのだ。何をいまさらと思いつつ、ファンは、恥を忍んで戻ってくる新井を、それまでの経緯に反発することもなく迎え入れた。さりとて、期待はごく少な目に ▼ところが新井は、予想を大きく覆す活躍で、昨季は2000安打、300本塁打を達成。優勝にも大きく貢献し、MVPに選ばれた。新井の野球人生は、『鯉の恩がえし』という物語となって、100年後の「日本昔話」で放映されているかもしれない。    
   平成29年2月1日    
   先発投手なら、誰もが一度は夢見るのが完全試合ではなかろうか。だが、1人の走者も出さず27のアウトをとるという究極の勝利を成就させた投手は、セ・パ両リーグでわずか15人という狭き門なのだ ▼カープには、昭和43年9月の大洋戦でこの記録をつくった、外木場義郎が1人いるだけである。しかし彼は、それ以外に、何とノーヒットノーランを2度達成しており、トータル3度というのは、外木場だけ。いまとちがい弱小球団の時代だけに、この記録はより輝きを増す ▼昨年引退した黒田博樹にも、やはりチームが勝てない低迷期があったが、この2人には運命的な共通点がある。2人は、球団創立25年ぶりの初優勝を決めた試合と、昨季25年ぶりのリーグ優勝を決めた試合に各々が先発し勝利投手になっているのだ。敵地で読売が相手というのも同じである ▼勝ち敗けが一つちがっていれば、この劇的結末はなかったかもしれない。9月10日、黒田はローテーションどおり東京ドームのマウンドに登った。この、まるでシナリオでもあったかのような黒田の巡り合わせは、人の能力を超えた別次元の力が働いたような気もする ▼7月には、日米通算200勝を達成し、最後は41年ぶりの優勝パレードで黒田の現役時代は幕を降ろした。永久欠番が決まったときの、「15番は自分だけのものではなく、ファンの皆さんのものでもあり、15番を見たら今季の優勝を思い出してほしい」というコメントがいかにも黒田らしい ▼大リーグから復帰後は、黒田本人はもちろん、後輩選手、ファン、カープ球団、そして広島県民のすべてにとって濃密な2年間であった。外木場のように試合では成しとげられなかったが、これまでの黒田の野球人生そのものが完全試合である。
   
   平成29年1月1日    
    明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。昨年のカープは、日本一を逃した以外ほぼ完ぺきだったのに、暮れには「神ってる」が流行語大賞にまで選ばれ、平成28年の”広島伝説“は完結した ▼以前も書いたが、この流れの源は、5月27日のオバマ大統領の広島訪問にあったと思えてならない。大統領の鎮魂の情は、徐々に熟成され広島の地に拡散し、原爆で亡くなった人も現代を生きる人も、すべての広島の人々の魂を癒し、目に見えぬパワーを与えたのではと ▼それはもちろんカープの選手にも降り注ぎ、6月14日からの11連勝につながったのである。この11連勝は、優勝の大きな原動力となった。この連勝中に放った鈴木誠也の2試合連続サヨナラホームランをして、緒方監督に「神ってる」というコメントを言わしめたのである ▼流行語大賞だから大いに使ってもらいたい。だが、先月の党首討論で蓮舫・民進党代表が使った「神ってる」は醜悪であった。蓮舫氏は安倍総理に、「息をするように嘘をつく」「気持ちいいまでの”忘れる力“を何とかして下さいよ。首相の答えない力、逃げる力、誤魔化す力、まさに神ってる」と嚙みついた ▼神ってるとは慶事に対して用いるもの。それも言うなら、「悪魔ってる」だろう。だがそれ以外に、蓮舫氏は、民進党代表選の際、二重国籍問題で日替わりメニューのように発言を変え、まさしく息をするように嘘をつき続けたのだ ▼4年前まで政権の座にいた民進党(当時民主党)の凋落ぶりは、ここ十数年の社会党と重なってみえる。政党でも球団でも、いかに日頃の切磋琢磨が不可欠かということだ。今季のカープは、地道な練習と絆で、神ってなくても勝てる力を身につけることである。      
   平成28年12月1日    
   昨年10月7日、中日との最終戦に敗け、カープはCS出場を逃した。黒田が復帰し、マエケンも残留し、大きな期待のなかで始まったシーズンだけに、マツダスタジアムのスタンドの落胆は、半端ではなかった ▼しかも、敗戦後緒方監督は一言もなくグランドを去り、打たれた大瀬良は悔し涙にむせんでおり、観客はやり切れない気持ちに耐えて家路についたのだ。このとき、1年後にカープが優勝すると想像できた人が何人いただろう ▼ところが、マエケンが抜けたにもかかわらず、カープは信じられないような快進撃をつづけ、「まさか」を「本当」に変えてしまったのである。なぜ、昨年とくらべここまで勝てるチームになったのか、「先ずはこれだ」という理由が、未だに見出せないでいる ▼それにひきかえ、シーズンを通しての「この試合」は人それぞれにあると思う。その第1位は、おそらく8月7日、2位読売との首位攻防戦で、9回2死から逆転サヨナラ勝ちした試合であろう。確かに、敗ければ3・5ゲームに縮まるところを5・5差に戻したのは大きかった ▼その次に小欄があげる「この試合」は、6月26日の阪神戦である。1週間前、鈴木誠也の3試合連続決勝ホームランなどで前日まで8連勝で迎えたこの試合。9回裏、阪神の外野手2人がぶつかってフライを落球、ボールが転々とする間に鈴木誠也が生還しサヨナラ勝ちしたのである ▼このプレーは、明らかに観衆の大声援でお互いの声がかき消されたからに外ならない。このあとカープは連勝を11まで延ばし首位固めをしたが、もし敗けていれば8月7日の戦いはもっと厳しい展開になっていたかもしれない。黒田が言う「世界一のカープファン」の熱い応援がもたらせた勝利であった。
   
   平成28年11月1日     
   人は人生の節々で、自分や近親者にその時起きたことをだぶらせてみることがある。私事で恐縮だが、カープ初優勝の時、同学年の山本浩二のヒーローインタビューをみて、28歳の英雄に果てしない未来をみた ▼と同時にそれは、医者になって3年目の、仕事に明け暮れた大学病院の勤務医時代であった。この年は長女が生まれた年でもあり、振り返ってみて、これ以上中味の濃かった年はないように思う。また、長女誕生から約1カ月後、黒田博樹がこの世に生を受けている ▼10月18日、その黒田の引退会見が行われたが、誰もが頭の隅にあった“黒田引退”が、ついに現実のものとなった。自分の子供と同学年のプロ野球選手が現役を引退する年齢になったという事実は、予想以上にずっしりとくるものである ▼黒田は「私」より「公」を優先する信念に溢れている。その気持ちは、カープ復帰の理由が、「ぼくが他球団のユニホームを着て、広島市民球場でカープファン、カープの選手を相手にボールを投げることが想像できなかった」という言葉によく現れている ▼黒田はカープに戻ってから、「一球の重み」とか、「常にこれが最後の一球になる覚悟で」というようなことをよく口にしていた。この先、そうは長くないであろう現役生活を考え、偉大な選手なるがゆえに、自分の身の引き際を大切にする想いが言わせたのであろう ▼だが、黒田現役最後の場面は、日本シリーズ第3戦で突然やってきて、あっけなく終わってしまった。6回裏、大谷をスプリットで打ち取ったあと、両下肢に異和感を覚えてベンチに下がり、それ以後登板機会はなく、これが「最後の一球」となったのだ。シリーズ終了後の黒田は、現役中には見られなかった穏やかな表情をしていた。
   
   平成28年10月1日    
   
 平成16年に亡くなった、大学の同級生で作家の永井明君と最後にカープを観たのは、その3年前の横浜スタジアムだった。楽勝ムードから逆転サヨナラ敗けという試合展開に、「もういっぺん優勝が見たいのぉ」と言った彼を思い出す ▼その想いは、カープ好きなら強まることはあっても弱まることはなかった。昨年黒田が復帰してその期待は大きく膨らんだが、まさかの4位。マエケンが抜けた今季、野球評論家の順位予想が、カープOB以外はほぼ全員Bクラス、というのも頷けた ▼ところがどっこい、苦手の交流戦で、終盤、鈴木誠也の大活躍もあって3位になったあたりから、すべてが良い巡り合わせになってくる。その勢いは、大きな山場である8月戦線も何とか乗り切り、25年ぶりの優勝へ、マジックを着実に減らしていったのだ ▼25年ぶりといえば、偶然にも球団創立から初優勝までと同じ期間になる。だが、年数は同じでもその意味合いは、まったく別ものである。被爆の焦土に芽を出し、何度か枯れそうになりながら、真っ赤な大輪の花を咲かせた、いわば無から有を成した25年間とは、次元が違うのだ ▼マジック2で迎えた9月8日の中日戦でカープは勝ったが、読売も勝ち、地元優勝は叶わなかった。9日も読売は勝ち、まるでそういうシナリオができていたかのように、10日、東京ドームに舞台を移し読売との決戦となる。黒田が先発したこの試合、今季42度目の逆転勝ちで頂点を極めたのである ▼その直後から多くのメールや電話を頂いた。その中に大学の後輩I君から、「おめでとうございます。25年ぶりということは、次回は先生が95歳の頃ですね。楽しみですね」というメールが来た。「死んでも95まで生きてやる!」と返信しておいた。
   
   平成28年9月1日    
    先月のリオデジャネイロ五輪で日本は、史上最高の41個のメダルを手にした。その価値に優劣などあるはずもないが、敢えてつけるとすれば、陸上男子400mリレーの銀メダルを、最高の栄誉と決めさせていただくことにする ▼山縣、飯塚、桐生、ケンブリッジ飛鳥の4人がこの偉業を成し遂げた。日本には100m9秒台の選手が1人もいないという不利を克服して。それを補う、寸分の狂いもないバトンパスが見事に決まり、ジャマイカに次いで2位となったのである ▼のちに失格となったが、米国を3位に従えてのこの順位には、鳥肌が立った。日本の陸上短距離で米国に勝るというのは、史上初のことである。この結果をみて、「これで71年ぶりに大東亜戦争の敵をとった」と叫んだ元軍国少年もおられたのでは ▼次にすごいのが、女子競泳200m平泳ぎで金メダルに輝いた、金藤選手であろう。何といっても、庄原市生まれで三次高校卒というご当地アスリート。広島県東北部初の金メダルをもたらしてくれた。三次のスイミングクラブ時代の練習場所は、よくぞここから金メダリストが…、というようなプールだ(失礼) ▼三次高校卒のアスリートといえば、梵英心だが、昨秋以後一度も一軍登録がなかった。三次では不満や怒りの声が日増しに強まっていたが、先月28日、やっと一軍に合流したのだ。三塁の守備位置に立つ梵の姿に、心の底から安堵した ▼梵には、残り20試合、思う存分存在感をみせつけてほしい。そして、25年ぶりの金メダル獲得に貢献し、その栄光の瞬間は歓喜の輪の中で迎えてもらいたい。カープは8月末で2位読売に12ゲーム差をつけ、マジックが10。これで先月まで封印していた「優勝」の二文字は、完全に解禁である。
   
   平成28年8月1日    
   外傷後ストレス障害(PTSD)とは、医学事典によれば、「 心身に脅威を及ぼし、強い恐怖や無力感を感じる心的外傷体験によって生じる病態」とある。要するに、過去に起きた悲惨な経験が再現するような不安感が強くなることという意味だ ▼7月16日、RCC(中国放送)テレビで、「カープが優勝する5つの理由」というローカル番組が生放送された。その中で、視聴者も参加して、「あなたは『優勝』という言葉を解禁しますか、封印しますか」というアンケートが行なわれたのだ ▼この時点で2位に11ゲーム差をつけた首位のカープなのに、結果は、「封印」が約7割であった。せめて、五分五分あたりかと予想していたが、やはりカープを愛すれば愛する者ほど、20年前のあの悪夢の再来を恐れるのであろう。小欄の答えも当然封印である ▼これぞまさしく、PTSD。思い出すまいとしても、平成8年の、崩壊してゆくカープが頭によみがえってくる。7月9日、11・5ゲーム差で迎えた札幌での読売戦で大逆転敗けを喫して潮目が変わり、8月29日の読売戦では、江藤が打球を顔面に受けリタイヤし、読売に逆転優勝されたのである ▼そこで今季のカープだが、数字的にはトップレベルなのに、どこか不安で、なぜか強いと実感できないでいるのだ。7月末で8ゲーム差があるのに、妙に追いつめられた心境になるのは、眼下の敵が読売、というPTSDのなせる業か ▼8月戦線の正念場をむかえ、眼下には、読売の近くに横浜の機影まで確認される戦況になってきた。上位にいるカープにとって大切なのは、同一カード3連敗だけは回避しなければならないことだ。とくにこの2球団には。それができれば、9月には、晴れて「優勝」を解禁しよう。    
   平成28年7月1日    
   5月27日、米国のオバマ大統領が、初めて被爆地、広島を訪れた。その一連の動きをみて、広島市県民はじめ多くの日本人は大変驚いたと同時に、現職大統領の広島訪問を心から歓迎した ▼大統領は伊勢志摩サミットを終え、空路岩国経由で旧広島西飛行場へ到着。そこから大統領専用車で、広島高速から吉島通りを経て、原爆資料館に降り立った。これまで世界あちこちでの映像を見ているが、あのオバマ大統領が、吉島通りを走ったのである ▼以前吉島に親戚があったため、これまで何度もクルマで走ったことがある、あの吉島通りを米国大統領が…。そのテレビ中継をみながら、「夢か現か幻か」というか、不謹慎ながら、「生オバマが広島を走っている」という不思議な感覚に襲われた ▼原爆がらみでかならず出てくる話が、いまだ米国にはびこる「原爆投下が戦争終結を早め、結果的に犠牲者を減らした」という傲慢で非人道的な意見だ。規模はちがうが、これと同一線上にあると思われるのが、イチローに最多安打記録を破られたピート ローズのコメントである ▼日米合算の数字だから、イチローも言うように、同じ価値だとは誰も言っていない。それなのに、わざわざイチローを貶める発言をしている。それに引きかえ、大リーグの本塁打王・バリー ボンズは「イチローの記録は日米通算であっても、十分リスペクトされるべきだ」と、知的に語った ▼平和公園で、全人類的立場から演説をしたあと、オバマ大統領は原爆ドームの近くまで歩を進め、広島に対する鎮魂の想いを捧げた。その想いは、原爆ドームを越え、道路を挟んだ旧広島市民球場跡地を介して、カープの選手に届いたのでは。でなければ、6月のカープの快進撃は、説明がつかない。
   
   平成28年6月1日    
 
 少々まえの話だが、4月1日の読売戦に、ドラフト1位の新人、岡田が先発登板した。1月に亡くなった大親友と同じ名前の投手だけに、まずは1勝をと、期待と不安のなか、気合を入れて観ていた ▼投球内容は、初めてにしては十分合格で、6回を終ってカープが3対1とリードし、7回表の読売の攻撃となる。1点を取られ、2死一、三塁となったところでジャクソンに交代。次打者は平凡な三塁ゴロだったが、これをルナがエラーし同点となった時点で、岡田の初勝利は露と消えた ▼ルナは打撃はともかく、守備では一試合に4つもエラーをするなど、大きな不安を抱えている。4月17日以後けがで一軍を抹消されているため、堂林、安倍、小窪、西川が代役をつとめているが、この布陣には、どうしても合点がいかない ▼カープファンならずとも、三次町民でなくても、もうお分かりだろう。なぜ梵英心が一軍のベンチにいないのか、ということだ。昨秋一軍を外れて以後、いろいろな所からいろいろな話が入ってくる。その情報を分析すると、やはり緒方監督との行き違いが原因と思われる ▼これまで、扁桃腺の奥あたりで留めていたが、梵英心後援会長としては、もう黙っていられないので、言わせていただく。監督とは、感情的な理由で選手を起用しても良いのだろうか。あくまで、選手の力量で判断するべきではないのか ▼前にあげた選手たちとくらべ、すくなくとも守備力では梵が優っている。あの読売戦で、梵がルナに代わって守っていれば、岡田に初勝利が付いていたはずだ。緒方監督への抗議の意味で、梵が身体的理由以外で一軍にいないなら、6月28日の三次きんさいスタジアムのヤクルト戦は、後援会長として観戦をボイコットする。
 
   
    平成28年5月1日    
   夏の甲子園の決勝戦で、駒大苫小牧と早稲田実業が死闘を繰り広げてから、ちょうど10年になる。駒大・田中将大,早実・斎藤佑樹の両エースが投げ合い、引き分け再試合の結果、早実が頂点に輝いたのであった ▼勝った斎藤は、その甘いマスクもあっていきなり時の人となる。ズボンのポケットにしのばせて使っていたことからついた、『ハンカチ王子』というニックネームは一世を風靡した。加えて、ここというところでの活躍が、『持ってる男』という称号も誕生させたのである ▼今年カープから大リーグのドジャースに移籍した前田の投球をみていて、その『持ってる男』というフレーズが甦ってきた。それは、いきなり初先発のときのこと。6回を投げ0点に抑えただけでもすごいのに、2打席目の初安打がホームランという離れ業まで演じたのだ ▼だがこの試合、もう一つそういう場面があった。5回裏、三塁走者との本塁ベース上でのタッチプレーでのことだ。一塁手からのバックホームはアウトのタイミングだったが、捕手のタッチが少し緩慢だったため、スローではセーフにみえた ▼日本ではまだないが、メジャーでは「チャレンジ」と呼ぶビデオ判定を要求することができる。だが結果は変わらずアウト。この裁定は、大リーグの女神が、持ってる男の真価を認めた証ではなかろうか。前田は4月、5試合に先発し、3勝1敗、防御率1・41と、最高のスタートを切った ▼また、メジャーデビューから14回2/3無失点は、先発投手では球団歴代1位。さらに、デビュー以後、30回1/3投げ失点1というのは、大リーグ史上初の快挙だという。9月に予定されている交流戦で、ヤンキースの田中将大との投げ合いが実現することを願うばかりである。    
   平成28年4月1日    
    昨年7月、新潮社から村上春樹著『村上さんのところ』が出版された。村上ファンが直接メールで質問し、村上さんがそれに答えるという内容である。昨年1月から5月までの37465通の質問に、473通の返答をしたものが載っている ▼当然のことだが、質問はあらゆるジャンルにわたる。村上ファンには常識だが、村上さんは昔からのヤクルトファン。ということで、ヤクルトに関する質問が多々ある中、ただ一つだけ、カープファンからの質問があった ▼「カープは2年連続Aクラスや、カープ女子ブーム、黒田復帰と大盛り上がりです。(中略)村上さんは、今年のセ・リーグ、どうなると予想してますか?」。だがその答えは、「(カープファンにはひと言もなく)上の方はどうでもいいので五位と六位だけ予想します。五位 ヤクルト。六位 横浜。」 ▼もう一つ、福岡の22歳の女性からの質問。村上作品に賛辞を贈った後、「ヤクルトがセ・リーグを制して、日本シリーズでホークスと試合するのを楽しみにしています。その際は、ぜひ福岡までお越し下さい。」 ▼それに対しては、「そうですね。日本シリーズで福岡に行けたら素敵ですね。そううまくいくかどうか。」と答えている。どちらの返事にも、前年最下位だったヤクルトへの期待感はまったくみえない。だがヤクルトは優勝して、ホークスと日本シリーズを戦ったのである ▼希望的予言をした福岡の女性も、村上さんも、この結果にさぞ驚かれたであろう。これを読んだとき、なぜか村上さんが、昭和53年4月神宮球場で、ヤクルト対カープの開幕戦を観戦中、物書きになる決心をした、という話を思い出した。この大作家誕生に一役かった相手チームのカープにも、今年は何かご利益を。    
   平成28年3月1日    
   
 70年近い人生で、親友と呼べる友人を2人亡くしている。だがこの度、無情にも、3人目となる親友を失ってしまった。本来なら先月書くべきところだが、そのショックの大きさで気持ちの整理がつかず、今月にずれ込むことになった ▼その男とは、「親友」というより「同志」という間柄でさえあった。母校東京医大の同級生で同じ釜の飯を食った岡田重憲君が、1月4日、心臓発作を起こし帰らぬ人となったのである。その訃報は、正月気分を瞬時に消し去ってしまった ▼あえて普段どおりに呼ぶが、岡田は、多少やんちゃな面はあっても、曲がったことの大嫌いな、常に正道を歩く強い発信力を持った男だった。自ら創設した奈良県の山の辺病院と青丹学園には、母校と同じ『正義・友愛・奉仕』という理念を掲げ、人としての道を一生貫いたのだ ▼岡田はそういう男だから、手前味噌な話だが、十一代にわたり医業に携わる荒瀬家を、ことあるごとにリスペクトしてくれた。「おまえなぁ、そんなもん絶対途切らしたらアカンで」という台詞が忘れられない。それにしても、あの声がもう聞けないとは… ▼岡田はまた母校への愛校心の強い男であった。学生時代所属した相撲部と、卒業後入局した麻酔科と、春山外科(現春山記念病院)をこよなく愛していた。そして麻酔科教授の故三宅有先生と、春山外科院長の故春山廣臣先生のお二人を、恩師と仰いでいた。今秋の母校創立百周年をともに祝えないのが残念でならない ▼岡田といえば、今季カープにドラフト1位で、岡田明丈投手が入団した。キャンプ、オープン戦とその実力の片鱗をみせている。カープの岡田よ、ぜひともローテーション入りを果たして、小欄の、同志岡田を失った寂寥感を慰めてくれ。
   
   平成28年2月1日    
   子供のときに口ずさんだ唱歌に『汽車』がある。♪いまは山中いまは浜 いまは鉄橋渡るぞと 思う間もなくトンネルの 闇を通って広野原♪という歌詞だ。車窓からみえる情景がコンパクトにまとめられている ▼みえる景色は、いずれも心踊らせられるが、できればトンネルは短い方がよかろう。とくにこの時代のSLには、煙と煤煙の混入がつきものであり、その思いはより強かった。もっともいま走っているSLに乗るときは、それがかえって懐かしくもあるが ▼トンネルが長ければ長いほど、出たときの明るさが眩しいものだが、大相撲初場所がまさしくそうであった。平成18年初場所に横綱栃東が日本人力士として優勝して以来、ちょうど10年ぶりに大関琴奨菊が優勝を成し遂げたのである ▼日本の国技に日本人が優勝できないという奇妙な現実現状を琴奨菊が打ち破った瞬間、国技館も、実況中継のテレビ画面も、さしずめ日本人がオリンピックで金メダルを獲ったかのような雰囲気であった。外国人力士の厚い壁を破っての優勝が、どれほど日本人を喜ばせたことか ▼長いトンネルといえば、24年間優勝から見放されたカープも然りである。今季は、とうとう25年ぶりの優勝をめざすことになる。25年ぶりといえば、球団創設から初優勝までと同じ歳月。物心ついてから初優勝までの長さを思うと、気が遠くなるような時間が流れたことになる ▼だが、25年ぶりの優勝に立ちはだかるのが、マエケンの抜けた穴である。それを残った投手が埋めて…というのは、まず無理と考えたほうがいい。あくまで、今季先発に戻る大瀬良を含め、二桁勝てる新たな投手が現れるか否かにかかっている。そうなれば、カープはトンネルの闇を通って広野原へ出られる。    
   平成28年1月1日    
   明けましておめでとうございます。今回は、これからの日本のプロ野球について、小欄の初夢を語らせていただく。その前に、お手本となる本家本元のメジャーリーグとの比較をする必要があるだろう ▼日本でペナントレースと呼ばれるレギュラーシーズン(RS)は、米国162試合、日本143試合を行ない、大きな差はない。だが、ポストシーズン(PS)に関しては、クライマックスシリーズ(CS)と日本シリーズだけのプロ野球と雲泥の差がある ▼米国では、ア・リーグ、ナ・リーグ各々に15球団があり、東、中、西の3地区に5球団づつ所属している。交流戦も含め、各リーグで地区を越えてRSを戦い、各地区の勝率1位の3球団と、リーグ全体でそれに次ぐ勝率の2球団を加えた5球団、全部で10球団がPSに臨む ▼ワイルドカード(WC)という、その2球団の勝者を加えた4球団でリーグ優勝をかけ、デイビジョンシリーズ(DS)を戦う。その勝者が米国一をかけてWシリーズにやっと出場できるのである。この間、最大20試合に及ぶ激しい戦いが10月中くり広げられ、球団の地元は熱気に包まれるというわけだ ▼そこで提案だが、日本のプロ野球に、6球団の新しいリーグを創る。人材や資金面など大きな壁はあるが、“オラが町にプロ野球球団を“の御旗のもと、官民合わせた協力や、カープ創設時の広島県民のような情熱をつぎ込めば、可能性はある ▼米国と同じようには無理にしても、そのあかつきには、DSと同じ規模のPSがみられることになる。そうなれば、2位と3位の勝者が1位と戦うという、いかにも姑息なCSはなくなり、WCを勝ち上がった球団と1位の3球団で日本一を決める制度になる。これは大いに盛り上がるはずだ。    
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