三次・この人
   
☆本通り商店街活性化の立役者
森藤 芳弘さん☆

私は三次町本通りにあります「みよし本通りMORITOU」の店長をしています。もともとは私の父の2代前、明治28年に呉服衣料雑貨卸店「もりとう」としてこの地で産声をあげたんです。父の代になった昭和30年代、少しづつ世の中が変わって呉服から洋服へと移り、昭和40年代には洋装品店に変わりました。私は三次高校から東京の大学を卒業後アパレル関係の会社に就職しましたが、家業を継ぐために平成元年に三次に帰りました。もうあれから30年も経ったんですよね~。
 私が帰った頃のこの本通り商店街は、この通りの店舗がその前にできた大型スーパーへ出店した後でもあり、いわゆる歯抜け状態だったんです。でも私は小売り専門店として、やはり路面での店舗にこだわりました。
 私の父は、今から42、3年も前に「VAN」の商品を店で扱っていたんですよ。凄いことですよね。私も大学時代に、3年間VANの会社でバイトをした経験があります。VANは石津謙介氏が創業したアイビーファッションの会社で、その第一次世代はいま75~77歳で、「みゆき族」と呼ばれた方達です。荒瀬先生もトラッドファッションがお好きですが、第二世代になります。ちなみに私は第四世代です。
 私がお店をやるようになってから、VANの他に犬のマークの「DOG DEPT」や「LABRA」の商品も取り扱うようになりました。どちらもアメリカンカジュアルです。



 三次町の歴史的地区環境整備事業が平成8年に施行されました。私の父がその会長をしていましたが、構想はその20年前から始まっていたので、実に長い年月がかかりました。「卯建(うだつ)のにあう町」をスローガンに、「町家再生・石畳舗装・電線地中化・街路灯整備」をして、昭和の香りのする懐かしい商店街をめざしたんです。
 商店街としての行事はいろいろありますが、毎年4月29日に催す「れとりーとふぇすてぃばる」は大きなイベントです。「辻村寿三郎人形館」も、商店街の販売促進活動として開設したものですので、いろいろな想いがあります。チャレンジショップのお手伝いもありましたね。
 振り返って考えてみると、元広島東洋カープの梵英心君の応援のために三次町英心会を立ち上げ、荒瀬先生には会の代表になっていただきました。英心君がカープにいた12年間は、年に何度もバスを連ねて、三次町英心会の皆さんとマツダスタジアムへ応援に向かったものでした。それは、本当に情熱的で濃く、楽しい時間を過ごしたものだと心から思います。
 来年3月には三次文化会館跡地に「日本妖怪博物館」がオープンします。いろいろデジタル化した展示もあるようで、大いに期待したいですよね。デジタル化した博物館とは対照的に、この本通り商店街は、やはりアナログな昭和の雰囲気を大事にしたいと思っています。  
☆三次町の有名人である森藤さん。お父様から続く情熱を本通り商店街に尽してこられました。その活躍は目を見張るものがあります。もちろんメンズファッションに関しても素敵な情熱を感じます。これからも頑張って下さいね☆

   
☆珈琲、その魅力を伝えたい
早船 浩美さん☆

「自家焙煎 エイコーンズ」は三次町本通りにある珈琲豆の専門店です。私の祖母が、今から50年前にヤマザキパンの店を営業していたんですが、時代の変化にともない、母と一緒に新たに珈琲豆専門店「エイコーン」を開店しました。26年前のことです。エイコーンとはドングリという意味です。ドングリは地中深くしっかりと根を張ることから、地元に根付き愛されたいということで名付けたそうです。最初はエイコーンですが、15年前に少し離れた現在の2号店に移転しました。それでエイコーンズと複数形にしたんです。
 私は現在27歳ですが、陸上の長距離選手として、小、中、高、大学と過ごしてきました。ですが、大学2年の時に身体を壊してしまいまして、そのまま大学を続けることが難しくなり、故郷の三次に帰る決心をしました。帰ってからは吉舎郵便局に勤務しながら、日彰館高校の陸上のコーチをしていたんです。そして5年前に、家業のエイコーンズを継ぎ現在に至っています。
 私が入る前は地元での珈琲豆の販売と配達が主な仕事だったのですが、私が特に力を入れたのは、西日本ではまだ需要のなかったイタリア製のエスプレッソマシーンを、全国のホテルやオフィス、レストランに広めて回ることでした。マシーンを買っていただくか無料で貸し出しをして、うちの珈琲豆を買っていただくのです。珈琲豆もそこに合うように、味、香りなど完全にオリジナルなものをプロデュースします。営業を始めてもう2年ですが、最初は広島、山口から。そしていまは名古屋、仙台、熊本、香川、高知へと広がってきました。費用節減のために宿泊はせず、車での移動です。寝袋持参ですよ(笑)。郵送ではなくこうして自分で伺うのは、その施設の雰囲気や特徴をしっかりつかむためなんです。そしてオリジナルなものを考えるんです。それが私のこだわりなんですよ。他に珈琲の移動販売もしています。サンフレッチェ広島、備北丘陵公園、ドラゴンフライズ、それからカープローソンにも入っています。
 エイコーンズも3号店が広島市宇品出島にできました。このお店はオリジナル珈琲を作る施設なんですが、「ワンパーソン・ワンブレンド ワンカンパニー・ワンブレンド」というコンセプトなんです。それまで会社向けではオリジナルなものをやっていましたが、個人向けに記念日用などを作れるようにしています。それは年代物の焙煎機、30年も使っているもので作ります。



 珈琲は同じ焙煎機でも、使う人の性格や気候によって味の違いが出る微妙なものです。私も昨年10月にアメリカ西海岸へ勉強に行ってきました。最近よく耳にする「サードウェーブ・コーヒー」ですが、それはアメリカの珈琲文化の第三次ムーブメントのことなんですよ。車で1500kmもドライブしながら、色々な珈琲店を回りました。
 珈琲豆は色々ありますが、よく知られているのはブルーマウンテンでしょうか。ブルーマウンテンは珈琲の王様と呼ばれて高価ですが、世界的にみると珈琲豆の基準が上がっていますので、ガヨウマウンテンなど他の豆も美味しいと思います。それから珍しいものですが、インドネシアのコピルアクという豆で、希少価値のある珈琲があります。シリアルナンバーがついているんですよ。ロンドンのホテルでこの珈琲が一杯9500円で出されたことがあるんですが、お客さんが絶えなかったそうです。この珈琲豆はキリマンジェロがベースで、その豆がジャコウ猫の胃袋に入ると中和されて甘みが出てくるんです。甘くてスッキリした味ですよ。うちでも年に何度か仕入れますので、他の豆とのブレンドなどで個性的な味を楽しんでいただけら嬉しいです。
☆珈琲にはアンチエイジング効果、リラックス効果、脳の活性化、消化促進など数々の効能があります。一人で静かに飲む珈琲、友人、家族と楽しむ珈琲と、どんな時も珈琲は幸せな時間を運んでくれますね。早船さんのご活躍をお祈りいたします☆

 
☆患者さんの身体と心を見つめて
佐古 篤謙(さこ あつのり)先生☆

私が三次市作木診療所で常勤医師として診療をするようになったのは、今年の5月のことです。もともと私は奈良市の生まれです。それまで勤めていた岡山県北部にある診療所を辞めて、家族を岡山県津山市に残しての単身赴任なんです。皆さんはなぜ私が作木町で…、と思われることでしょうね。
 私はへき地で、なんでも診られる医師として働くことを望んでいたんです。少し事情がありそれまでの診療所を辞め、岡山県での新しい求人を探していました。でもなかなか希望に合うところが無く、お隣の広島県を探しましたら、「ふるさとドクターネット広島」がありまして登録をしたんです。そうしましたら、すぐに担当の方からご連絡をいただいて、それからは、とんとん拍子で決まりました。やはり作木町にご縁があったんですね。
 現在月曜日から土曜日の午前中まで診療、往診をして、それから津山市に帰ります。家族と日曜日を過ごし、また月曜日には、朝5時頃に家を出て、車で2時間かけて診療所に帰る、というスケジュールです。
 私は滋賀医科大学を卒業後、大阪府の民間病院での研修を終え、岡山県奈義町や美作市内の診療所に勤務しました。私は子供が4人います。その当時は上の子供がまだ小学校3年生で幼かったのです。ですがその子供たちもいまでは、上の子供は20歳、あとは小、中、高が3人です。私が作木町に来るにあたり、やはりその子供たちが転校をすることは無理でした。もう家も建てちゃってますからね~~(笑)。



 私は「家庭医療専門医」という資格を持っています。医師は内科、外科などの専門がありますが、それはそれぞれの学会が認定するものなんです。家庭医療専門医もその一つです。「プライマリーケア連合学会」というところの制度で、小児科、内科などの経験やレポート、症例を出したり試験に合格すると認定されます。子供からお年寄りまで、幅広く診られるということです。いまは医療が専門分野化されていますね。ちょっと風邪をひいてあちこち具合が悪いと、どこに行って診てもらえばいいのか困ることがあります。私は患者さんを、『まずは、診る』ということを大切にしています。医療が専門分野化されて、患者さんの背景にあるもの、家族構成やお仕事、その方の価値観などが見失われつつあるように思えます。医療の大事な原点にかえるためにも、私は家庭医療専門医として頑張っていきたいのです。
 私が赴任した時、作木町では盛大な歓迎会を開いてくださったのですよ! びっくりしました。「ご飯、食べとるか~~」と聞いてもらったり、野菜やおかずが届けられたり、静かな町ですが、皆さん優しいですね。ただ雪の多い地区(診療所のあるところは比較的少ないとか) なので冬が少し心配です。
 岡山では登山が好きであちこち登っていたのですが、こちらではまだ行けません。何か趣味をと思い、自転車に乗ることにしました。あまりに壮大な計画だったのですが、今年8月6日に、作木町から広島市の平和記念公園まで自転車で旅をしたんです。ある懇親会で、そういう方の話を聞きまして、思わず「私も行きます!」と即決してしまったんです。当日は、作木町を朝4時30分に出発。江の川沿いの国道375号線、国道54号線、芸備線沿いの県道37号線を走り、その後見慣れた広島駅付近を経て、路面電車の行き交う道を通り、八丁堀、紙屋町の雑踏のなかを、ゆっくりと平和記念公園に向かいました。作木町からの総距離86・07㎞、休憩を除く実質走行時間は4時間39分。午前11時10分、無事目的地平和記念公園に到着しました。わずか3日前に決断した旅でしたが、自分でもよくやった!! と思っています。
☆2年前から常勤の先生が不在だった作木診療所。佐古先生が新たに赴任され、地域の方々はどんなにか喜ばれ安堵されたことでしょう。へき地や過疎の町であっても人々の健康が守られ、より良い暮らしが続けられますように、これからもどうぞよろしくお願いいたします☆ 
   
☆地域活性化のパイオニア
酒居 君枝さん☆

 私が三次市穴笠町で菊の栽培を始めたのは、昭和48年のことです。きっかけになったのは、農家の水稲の減反政策が昭和45年から始まったことですね。当時色々考えましたけど、稲作の他に、2反分の田圃で菊を作ることにしたんです。まだ子供が小さかったので、菊作りなら、家にいて子供の世話をしながら出来ることも魅力でした。現在は年間10万本弱の菊を出荷しています。
 三次菊生産組合が、原爆の日である8月6日の広島の平和祈念式典のために菊の花を送ったのは、昭和47年からのことでした。私も生産組合にすすめられ、その翌年から毎年小菊を送っています。もう45年になるんですよ。私の作った菊も含めて、三次菊生産組合として無償で3千本の菊を、原爆で亡くなった方々への献花として送り続けているんです。
 菊作りの他に、はぶそう茶や味噌、焼き肉のタレも作っているんですよ。私の地域では、はぶ草を植えている家が多いんです。以前は皆、自分の家で出来たものをお茶にして飲んでいました。でも昭和56年頃、JA女性部の活動の一環として、はぶそう茶の出荷を始めたんです。それぞれが自分の畑で栽培し乾燥までしたものを集め、まとめて焙煎するんです。いまでは皆が持ち寄る乾燥した状態のはぶ草は、年間1トン以上にもなるんですよ。はぶそう茶を使ったクッキーが発売されたり、この間は広島在住の方が、はぶそう茶を10㎏も買われたんです。その方はスイーツにしたり、色々なお茶とブレンドして、フランス人の好む紅茶の味にし、フランスで展示会をされるそうなんです。フランスではぶそう茶がブームになったら嬉しいですよね~(笑)。



 味噌作りは昭和58年頃に始めました。私がJA河内女性部支部長になったのをきっかけに、当時5人で作り始めました。なにしろ、自分のところで作った大豆はあるし、米も作っている。米麹無添加の美味しい味噌を作るといいよね~、とまず自家製の味噌を作ったんです。それで沢山できたら、今度は販売するといいよね~、ということになったんです(笑)。産直市、「トレッタみよし」「三次ワイナリー」などに出荷しています。
 その他にも、焼き肉のタレを作っています。JA女性部に、家庭菜園グループというのがあるんです。私はそこの班長になったので、野菜の植え方や苗の作り方、管理などを皆で勉強していました。たい肥も自家製で作り、無添加の野菜を作っていました。学校給食にも出していたんですよ。それで学校給食は、野菜の規格がありますよね。どうしても、クズといってはいけないけど、玉葱なんかでも、小さい規格外のものが出来ますよね。それをグループで買い上げて焼き肉のタレを作ることにしたんです。玉葱、ニンニク、生姜、林檎が主材料です。1回16㎏の玉葱で、400g入りの製品を100本作れます。林檎以外は自家製ですよ。
 これらの活動はすべてボケ防止になりますし、地域の活性化にも貢献出来ますし、それぞれが収入を得ることが出来ます。いいですよね~~(笑)。でも私達も年々高齢化しています。こういう仕事は、なにより継続することが大事ですよね。若い人が、農業に興味を持ち理解してくれたらいいんですけどね。農業は、仕事としては確かに大変です。暑い日、寒い日にエアコンのあるところにはいませんからね。でもその厳しさが、逆に健康を保つことにつながると私は思っています。
☆坂居さんの作られた菊の花の美しさは、その鮮やかな色どりと強さだと思います。田圃で育ち、三次地域の朝晩の温度差に耐えてこそ生まれるものなのでしようね。はぶそう茶、味噌、焼き肉のタレ、どれも坂居さんのアイデアと努力から生まれた地域の誇りの品々ですね☆
 
☆お筝の音色が流れる町に!
小田 きみこさん☆


 私は三次市吉舎町出身で、姉がお箏のお稽古をしていたので、幼い頃からお箏は身近な存在でした。それで平成8年に、好きだったお箏を習い始めたんです。
 箏は一面、二面と数えます。箏と琴は別の楽器なんですよ。箏は柱(じ)という可動式の支柱で絃の音程を調節するのですが、琴は柱がなく、絃を押さえる場所で音程を決めるんです。日本古来からある「こと」は和琴(わごん・やまとごと)と呼ばれていて、六本の絃を持つ楽器です。ことは弥生時代の遺跡からの発掘があります。奈良時代になると中国から十三絃の楽器が伝来し、それが一般的な箏となっていきました。
 私は平成20年に4名の子ども達を教え始めました。その年、「子ども達によるお箏遊びの会」を発足しました。その後1年に一度、色々な場所でお箏によるボランティア活動をするようになりました。



 これまでお箏をやってきて、一番の思い出というと、平成25年に文化会館で「第37回県北合唱祭」がありまして、無名の私と生徒にゲストとしての演奏を依頼されました。生徒の中の年長だった高校卒業前の2人と、中学生と尺八を加え「黒田節による幻想曲」を弾いたのですが、それが本当に素晴らしい演奏だったんです! 合唱の審査員の先生がとっても褒めてくださって、「子どもの勢いを、久々に感じることができて、今日は来た甲斐がありました」と言ってくださったんです。生徒たちに、人前で演奏するということで、大事なハードルを乗り越えさせてあげた気がしました。
 もう一つは、中学生の教え子が、平成27年7月に行われた「全国箏曲コンクール」に入賞したことなんです。どちらも忘れられない嬉しい出来事でした。
 これからの私の夢は、「邦楽フェスティバル」というイベントを三次町でやることなんです。三次町には空き店舗や空き家がありますよね。それを活用したいのです。仙台市に「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」という催しがあります。ジャズが、期間中、それはもう街中の色々なところで演奏されているんですよ! 三次町でもそういうイベントが出来たらいいな~~、と思っているんです。
 今年の三次町本通り商店街主催の「レトリートフェスティバル」では、4カ所で箏曲の演奏をしました。ギター演奏をされた方もおられましたよね。来年は演奏者がもっと増えて、三次町のあちこちに心地よい音色が流れるといいなと思っています。
 それから私が提唱したのですが、「絃(いと)・・・・遊び」の会というものがあります。女性4人で、1年に一回ですが演奏会をするのです。三絃、十三絃、一七絃、二五絃の組み合わせです。一人でも多くの方々に聴いていただきたいと願っています。

☆絃は不思議なものですね。お箏、三味線、ギター、バイオリンなど、張られた絃は楽器になり様々な音色を奏でます。見知らぬ人と人をも結ぶような音色が、一日中、お店や町家、公園などで聴こえてきたら、なんて素晴らしいことでしょう!☆
  
   
☆頼もしい “葡萄王子”
        伊豆 美輝さん☆


 私の両親は野菜作りなどの農業に従事していましたが、1974年7月、農事組合法人・三次ピオーネ生産組合の設立とともに、三次ピオーネの生産をすることになりました。私は長男ということで、幼い頃から父の跡を継ぎたいと願っていましたので、ごく自然に28歳の時にピオーネ作りの世界に入ったのです。
 現在は19戸の組合員が、1軒につき1.7~2haの土地を業務委託されています。全部の栽培面積は35.35haありますが、カープのマツダスタジアムの7倍もの広さなんですよ。
 ピオーネは、昭和32年に静岡県でカノンホールマスカットと巨峰をかけ合わせて作られた品種です。ピオーネという名前は、パイオニア(開拓者)のイタリア語読みなんですよ。
 三次ピオーネにはハウス栽培と露地栽培があります。ハウス物は7月上旬から8月のお盆前後までの出荷販売、露地物は8月下旬から10月上旬までです。贈答用の2㎏入りの箱には、三次出身の梵英心選手、永川勝浩選手のサインと、毎年作られるキャッチフレーズを入れているんですよ。毎年9月初めにカープの試合を観戦するのに合わせて、球団に「今年も頑張って下さい!」とピオーネを差し入れしています。選手に食べてもらえたらとても嬉しいですからね。



 三次ピオーネの栽培作業は1年を通して行っています。12月から翌年の3月中旬くらいまでは、伸びた枝切りをする剪定作業です。この作業をしながら、1月にはハウスのビニール張り、そして2月上旬にはハウスの加温をしていきます。まあ作物を騙す(笑)というか、春の環境を作るんです。もう春ですよ~~と。外は雪が降っていてもですね(笑)。そうすると3月上旬にはあおい芽を出します。もうそこからはどんどん大きくなっていくばかりです。3月下旬には房作りをします。葡萄の花というのは30~40㎝になりますので、その先の方の3.5㎝だけを残す作業です。4月上旬からはジレベリン処理といって、葡萄を種なしにするための作業があります。中旬から下旬にかけては摘粒作業で、不必要な実を取り除く作業をするんですが、一粒一粒、数を数えながらやっていきます。三次ピオーネは、1房で32~35粒までにするという規定がありますので。なんといっても、この作業が一番人手と手間がかかります。でもとても大事な作業なんですよ。そして、5月上旬からは袋掛けです。鳥や獣たちから守るためですね。5月下旬、ハウス物の作業はこれで終わりですが、今度はすぐに露地物の房作りです。そして種なし処理があり、摘粒作業が6月上、中旬から始まり、7月のハウス物の出荷が始まる前までに終わらせるという順序になります。ハウス物の収穫、出荷を終え、今度は露地物を出荷し終えるのが10月上旬ですが、その後は来年に向けての管理ということになります。元肥をやり土作りをするんですが、葡萄棚のメンテナンスも同時にやります。雪や台風、大雨など葡萄作りには常に自然災害がつきものですからね。
 三次をこれからもっと盛り上げていくためには、やはり若い人たちの力が必要です。活気のある街づくりのアイデアがどんどん出てくるといいなと思います。
☆黒い真珠・三次ピオーネは、三次盆地の特殊な気候を力に、そして伊豆さんはじめ組合の方々の長年の努力の積み重ねで生まれた葡萄です。疲れた日には、葡萄を食べるのがいいですね。ポリフェノールがたっぷりで、身体の中に爽やかな甘さがしみ渡り疲労回復効果があります。また葡萄は老化防止、美肌効果、アレルギー症状の緩和にも効果があるとか。広島県以外には出荷していないので、お宝葡萄です☆ 
   
☆ふわり、新しい風!
杉田 雄一郎雄一郎さん☆
 

 私は三次町本通りから続く石畳の道にある「杉田薬局」で薬剤師をしています。杉田薬局は、私の曽祖父にあたる杉田金助が初代です。薬局という環境で育ちましたが、小さい頃から特に薬剤師になろうと思っていたわけではなくて、高校生で薬学部を選び神戸薬科大学に進学し学びました。なんとなく、という感じですね(笑)。特に家を継ぐという気持ちは、当時はなかったんですよ。私は設計士に憧れていたんですけどね。
 大学を卒業後、10年くらいはドラッグストアに勤務していました。ですが、やはり実家を継ごうと決心してからは、米子の調剤薬局に3年間務めました。いま、全国でドラッグストアが増えてきましたよね。2009年の改正薬事法で「登録販売者」という資格が新たにでき、一般医薬品を販売することができるようになったんです。これは国家資格です。薬品には一部薬剤師でなくては売れないものがありますが、それ以外は、登録販売者の資格があれば販売することができます。
 今年1月には三次に帰りましたが、それまでは母が長く薬剤師としてこの薬局を切り盛りしてくれていました。今回私が新たにやっていくうえで、やはり店舗の改装が必要になりました。外装は三次町の町並み保存地区にふさわしく、少しレトロなものです。



 三次町は歴史のある良いところですから、それを活かして、もっと観光客に来てもらいたいですね。この近辺にも食事処などの店舗が増えてほしいです。
 薬剤師というのは、まず医師から処方されたお薬をチェックすることが大事です。お薬の量、飲み合わせ、飲むタイミングなどです。患者さんによっては医師に病歴をちゃんと話されていないこともありますから、お話ししているうちに、この薬はどうなのかな? ということもあります。その時は、医療機関の先生にお聞きすることになります。
 私のこの調剤薬局がお薬だけではなく、ふらっと立ち寄っていただいて、気軽にお話しができる場所であるようにしたいと思います。患者さんのなかには、医師にはちょっと話がしにくい、などということもあるでしょう。医療とお薬の良い橋渡しのような存在でありたいと願っています。
☆古くから代々薬局を営まれていた場所で、新たな志を胸に帰郷されたことに深い敬意を覚えます。新装なった薬局は町並み保存地区の新しい顔であり、人々の健康と安心をしっかりサポートしていかれることでしょう。今後のご活躍を期待しております☆
   
☆日本伝統工芸展に何度も入選して
松岡 裕治さん☆

私は郷里である三次市三良坂町で「MATU工房」を立ち上げ、漆、挽物、刳物の制作をしています。以前は父親が昭和25年から「三良坂盆」で盆作りをしていました。
 私は中学卒業後、宮島に挽物(ろくろ)の修行に行きました。師匠は広島県無形文化財に指定されている小林健一郎さんでした。もう高校の合格通知もきていたのですが、見学に行ったときに見たろくろ作業の工程に衝撃を受けたんです。刃物で、しかもフリーハンドで形が自由に出来ていくということにです。父親はルーターマシンという機械を使って、ある程度形にして仕上げるという作業でした。ルーターマシンというのは大型で、刃が1分間に2万回転くらいするんですよ。とても危険な機械です。宮島で2年4カ月修行しましたが、やはり基本的なことだけでしたので、その後昭和45年三良坂に帰り、父親と一緒に仕事をしながら学びました。昭和60年にろくろの機械を購入しましたが、人間国宝の川北良造氏のお世話だったんです。いまでも大切に使っています。



 平成2年に岡山市の明日香画廊で初個展をし、日本伝統工芸中国支部展に初出品しました。「黒柿拭漆漆香盆」で初入選でした。その後平成4年に、本展である日本伝統工芸木竹展に初出品して「欅拭漆沈金喰籠」が初入選しました。日本伝統工芸展は毎年9月に日本橋三越で開催されます。日本のすぐれた伝統工芸の保存と後継者の育成が目的で、私のやっている木竹工、陶芸、染織、漆芸、金工、人形、諸工芸を審査される公募展です。
 私も15歳でこの仕事を始めてからもう49年が経ちました。現在は日本工芸会正会員、三次市伝統工芸の匠、林野庁森の名手名人の認定を受けています。ですが、いまの日本で私のやっているような伝統工芸は、なかなか生業として難しいのです。特に東日本大震災の後は高額作品は売れなくなりました。それに材料を中国が買い占めたり、材料のコストがかかるようになってきましたから。
 伝統工芸品は商品としてだけではなく、その作品の芸術的な存在感に価値があるとされます。でもそういう作家の作品でなくても、低コストで作られた生活の中で使う”用の美”にかなったものを広く使っていただきたいと思います。「MATU工房」のホームページは、Yahoo、Googleで検索できます。作品一覧があり購入もできますので是非ご覧ください。(℡・fax0824-44-2192 )
☆桑、楓、栃、欅などの持つ木目の美しさと松岡さんの魂が融合した作品は、どれも見る人の心に強く響きます。それは伝統工芸という日本の素晴らしい文化を、松岡さんが大切に守ってこられたからだと思います。困難の伴う道でしょうが、今後のご活躍をお祈りいたします☆ 

   
☆夫婦で繋ぐ仕事と町の歴史
藤田 良浩さん☆


 有限会社「藤田板金工業」は、創業が明治38年で私で3代目になります。私は三次の高校を卒業後、広島市で設備関係の仕事についていたんですが、父親の跡を継ぐために父親が60歳の時に三次に帰りました。
 板金という仕事は、昔は「ブリキ屋さん」と呼ばれていたんです。飾り金物といってバケツ、ジョウロ、灯ろう、衣装ケースなどを加工していたんです。
 昭和40年ごろからは、ブリキの手仕事から建築板金が主体になりました。プラスチックやビニール製品が安価に作られるようになりましたからね~。まだ当時はトタンで雨樋などを加工し取り付けたりしていましたが、そのうちどんどん板金の仕事も変わり、ブリキの需要は少なくなっていきました。
 平成に入ると屋根や壁の建築材が、金属サイディングといって、柄付された金属板と断熱効果のある裏打ち材で作られた外壁材が主流になりました。これですと一貫した製造ラインで工場生産され、塗装仕上げはなくて工期は短縮されますからね。木彫、塗り壁調、石、レンガなど色々な種類から選べます。そのかわり、昔のような大工さんや建具屋さん、左官屋さんの仕事が少なくなってしまいました。時代がどんどん変わりますね~。
 ブリキ屋さんではなく建築板金の仕事をするには、国家試験の2級建築施工管理士、2級建築板金技能士の資格が必要です。藤田板金も今では仕事の量が増えましたが、息子の真悟が4代目として帰り一緒に仕事をしてくれています。もう息子が帰ってから12年くらいになりますね。



 4月29日の昭和の日に行われた「上市栄通り ふぇすてぃばる」も、今年で6回目になりました。去年までは「いぶし堂」として銅板を使ったオブジェやアクセサリーを作っていたんですが、今年は私の妻が来春オープンするカフェで催し物をしました。元「えびす屋」さんという履物店を改装します。地元のお洒落なカフェを目指して妻も張り切っているんですよ。
☆そういえば、いつの頃からかブリキで出来たものが生活の中から姿を消しました。現代はカラフルでモダンな用品がどんどん安価に作られ消費されていきます。でも藤田さんの作られるいぶし堂の銅製品のように、味のある生活、そして人情のある町が大切です。カフェもそんな人々の心のオアシスになるといいですね☆
   
☆自然と人を結ぶ美術館を
植田 千佳穂さん☆

私は三次市三良坂町出身で三次高校を卒業後、龍谷大学で学び広島県庁に入りました。私の専門は考古学です。 広島県教育事業団埋蔵文化財調査室長、県立歴史民俗資料館長、県教育委文化財課長を経て、福山市の県立歴史博物館長をしておりました。この4月から、三次市東酒屋町にあります「日本一、月が美しく見える美術館!」と銘うつ「奥田元宗・小由女美術館」の館長を務めています。
 奥田元宋・小由女美術館は、三次市吉舎町出身の奥田元宋と小由女ご夫妻の作品を常設し、企画展示室、茶室、レストランなどを持つもので、平成18年に開館し昨年10月に来訪者100万人を達成しました。
 特に奥田元宋の作品「待月」は、三次市の長土手にあるなだらかな松山から、月がいまにも顔をのぞかせようとした瞬間をとらえた代表作です。館内ロビーの東をのぞむ大きな窓からは、月の出が観賞できます。満月の日には特別に午後9時まで開館時間を延長していて、ロビーコンサートなども行っています。
 企画展は1年に6回ほどやっておりまして、先月行いました「放浪の天才画家・山下清展」は盛況でした。やはり山下清という画家は皆様に愛されているのですね。私も色々なところで鑑賞しているのですが、何度も観たくなります。 山下清は、見た映像を驚異的に記憶できた人なのです。代表作の「長岡の花火」は貼り絵なのですが、現地で見た花火の光景を、20年後に大変細かく美しい作品として現わしています。
 三次市民の方の展覧会、ギャラリートーク、講演会
の他にも、市内の小学生のためのワークショップも開催していて、6月19日には「じゃばら絵本をつくろう」という教室を開催する予定です。



 奥田元宋・小由女美術館の特色のひとつなのですが、「OGS夢スタッフ」という制度があります。市民の方のボランティア活動で、受付、展示ガイド、茶室・待月庵での呈茶などをお手伝いしていただいているんです。それは皆さんが、「市民が育てる美術館」ということで熱心にやって下さっているのですね。
 私の趣味が美術館・博物館巡りなものですから、今回の館長という仕事にも情熱を感じています。今後は美術作品を良く観ていただくための努力、また作品が自然や風土を感じ取れるような工夫などをしていくことで、三次市民の方だけではなく、広く県外などからも観光と合わせて来館いただきたいと思っています。松江尾道自動車道の開通で遠方からの来館も増えましたので。
 三次市という歴史的風土を持った魅力的な地域で、美術館や各種観光施設がうまく機能するように、また三次発で、伝統を継承しながら歴史や文化の発信ができれば素晴らしいことだと思います。
☆都会なら不思議なことではなくても、山あいの小さな街である三次市に「奥田元宋・小由女美術館」があるということは、市民にとってどんなに嬉しく心豊かなことでしょうか。館内常設の、魂が燃えるような奥田元宋の絵の赤色、小由女の人形の静かであたたかな優しさ、各種企画展なども魅力的です。疲れたらお茶室でひと休み、またレストランで食事もできます☆
   
☆名職人の道をめざして
細川 猛さん☆


 私は三次少年野球クラブ、三次中学野球部、広陵高校野球部と、小さい頃からまさに野球に明け暮れる生活を送ってきました。大学に進学してからも、野球のことを考え続けていたんです。それで大学卒業後に三次市にある 「コダマスポーツ」に就職しました。コダマスポーツでは野球の分野に力を入れていて、私もやりがいを感じていましたが、地域の野球をもっとサポートしたいと強く考えるようになってきて、16年間お世話になったコダマスポーツを退職し、去年(2016年)10月に実家である三次町にある建材店の事務所に、野球用品店「細川スポーツ事業部」を開店しました。とにかくこの店は野球用品の専門店なんです。
 私は、守備のファインプレーを呼び込むグローブ作りに力を入れています。野球のグローブは皮製品なので、最初はとても硬いのです。それを使う人の手に合わせて使いやすくしていくという仕事をしています。まずお客さんの手形を取ります。そしてグローブをばらして湯に浸けます。そうすると、皮ですので乾くととても硬くなります。その後でスチーマーを使って蒸気で柔らかく戻すんです。そうすることによって、グローブの伸ばすところは伸ばしていき、注文を受けた方にとって、より使いやすいグローブにしていくんです。この作業は下準備だけでも半日をかける仕事なんです。



 グローブは高価なものですと6万円くらいします。私も最初はそれを湯に浸けるのが恐くて、恐くてね(笑)。その技術をコダマスポーツで仕事をしながら、九州や名古屋や兵庫県で住み込みをして修行したんです。その時にお師匠さんから、「まあ、500個ぐらいかまったら、グローブの足元が見えるんじゃないか…」と言われたんです。それは本当に厳しい指導でした。仕事をしながらでしたので1年に10日ぐらいでしたが、6年間かけて学びました。そして修行を始めて10年ぐらいたってから、やっとお客さんから喜んでもらえるようになったんです。それまでは何個も何個も失敗を重ねました。
 いま石畳の続く三次町で小さな店舗を構えましたが、この仕事はそんなに大きな店舗はいらない気がしています。ちょっとわかりずらい場所ですが、三次市内だけではなく、遠くからも口コミでお客さんが来られるのでありがたいと思います。
 広陵高校時代、恩師である中井哲之監督から、野球の技術だけではなくて感謝する心を強く教わりました。野球をやれるのは父や母のお蔭であることも当時言われました。私が故郷三次で地域に貢献したいという気持ちを持ったのも、その恩師の教えがあったからです。
 いま中学生を対象に野球教室を開いています。秋から3月までの期間ですが、中学3年生も高校になったらボールが硬式になりますので、その指導や道具のメンテナンスの仕方なども指導するんです。
 現在三次も少子高齢化の社会になっています。私の子供時代には、小さなスペースを見つけてはバットとボールを持って遊んでいたものです。最近はそういう光景があまり見られなくなりました。野球少年がもっと増えてくれるといいですね。

☆石畳の続く歴史の町の一角にできたこだわりのお店です。店内には、カープの梵英心選手、鈴木誠也選手、田中広輔選手、現在大リーガーの前田健太選手の使用したシューズが、細川さんを応援するかのように並べられています。野球の素晴らしさ、そして地域の持つ力の大切さを多くの方々に広めていただきたいと思います☆
   
☆カープソースはカープを応援しています
毛利 敬壮さん☆


 「カープお好みソース」を作っています毛利醸造株式会社の創業は明治2年、社長である父親は6代目になります。私は現在専務取締役として主に製造にかかわっています。大学卒業後に父親の跡を継ぐために三次に帰りましたが、もう26年の年月が過ぎました。
 毛利醸造は親戚3軒が始めた会社で、最初は甲立町で日本酒を醸造していたそうですが、それに失敗してから醸造酢を作ったそうです。現在は醤油、酢、ソース、味醂の製造をしています。
 毛利元就が築城した広島城は別名鯉城ともいわれます。勢いよく昇るという鯉から、カープソースと命名したそうなんです。我が家の祖先の毛利は毛利元就の本家筋ではないのですが、分家筋の枝分かれではないかと、私の祖父が言っておりました。
 甲立町から現在の三次町に移転したのは約60年ほど前、父親が小学校高学年の頃のことです。当時は近所に借りた場所で醤油や酢の製造をしていました。その後三次市三原町に本社を置きそこで製造もするようになりました。



 カープソースの原料のベースはトマトなんですよ。トマトに砂糖、大豆から作ったアミノ酸、玉葱、香辛料などを加えます。1日の生産量はだいたい3600リットルで、1升瓶ですと2000本です。私が特にこだわるのは、甘みと辛味と酸味のバランスです。普通のカープソース以外にも少し辛味の強いソースもあります。私はなによりも、商品を安心・安全に消費者の方に提供することが大事だと思っています。
 カープソースという名前から野球の広島東洋カープと関係があると思われているんですが、これはうちの独自の登録商標なんです。どうもはっきりしないのですが、カープ球団創設よりも前にカープソースとして売り出していたようなんです。去年のカープのリーグ優勝で カープソースも少し恩恵を受けて注目されました。カープソースは卸業者を通じてスーパーなどで販売していますが、東京のアンテナショップ「TAU」にも置いてあります。
 三次市の今後ですが、文化の面でも運動などの面でもメジャーなものはかなり充実しています。ただそれ以外の活動の受け皿になる場所が少なく感じます。若者にとって仕事はもちろん大事ですが、いまは余暇の時間も必要なので、色々な活動の場所を提供できるといいと思います。運動ならスケートボードを練習する場所、文化的な面では、高校生たちがバンド練習をするスタジオなどがあるといいですね。

☆荒瀬外科の7軒先にあります毛利さんが、あのカープソースを作られている!! 本当に嬉しく誇りに思います。他のメーカーのものよりもずーーっと美味しいですね。ますますのご活躍をお祈りいたします☆

   
☆人々を「森」に招いて
      佐々木 崇行さん☆


 私は昨年11月に故郷の三次市三良坂町で「Mirasaka Coffee(ミラサカコーヒー) 」を開店しました。小中学校を三良坂で過ごした後、高校卒業後、広島工業大学に進み建築・環境・デザインを学びました。それから三次市向江田町にある「ミサワ環境技術(株)」に就職し15年間お世話になりました。
 その間福島県会津若松市、福井県福井市と転勤しましたが、その頃には、そろそろ三次に帰りたいという希望を持つようになり、今から8年位前に三次の会社に戻りました。それで三次に帰っては来たのですが、やはり週に3回ほどは関西方面への出張でした。地元ではなかなか働く機会がなかったんです。
 そんな時に私の心に浮かんだのが、故郷の三良坂町のことでした。とりわけ商店街は寂しい。この大好きな三良坂の町を何とかしたい…、との想いからカフェを作ることになりました。
 お店のコンセプトは、とにかく「コミュニテイーの場」です。コーヒーは趣味でドリップや焙煎をしていてその延長でコーヒーを提供したいと思ったんです。 このカフェの建物は明治時代のものです。それをリノベーションしました。ちょうどチャレンジショップで事業を起こしたい人のためにというものでした。もともとは銀行だったということで、天井が高くて(5m以上)窓ガラスも高いところにあり、良かったんです。実はこの窓と天井に惚れて決心したんですよ~(笑)。でもなにしろお金はないんで自分で設計しました。塗装もしたりしたんですが、職人さんや友人、知人など大勢の方に協力していただいて完成することができたので、本当に感謝しています。



古い建物ですけど設備は最新式ですよ~(笑)。古い中に新しいものがあったらカッコいいですよね。店内に置いてある大きな水槽や暖炉にもこだわりました。「森」をイメージしているんですよ。
 コーヒーは三良坂の町をイメージした「みらさかブレンド」「スペシャルティーコーヒー」などをハンドドリップで、エスプレッソはイタリアのチンバリ社製のエスプレッソマシーンで抽出します。目で楽しめるラテアートも自慢なんです。フードメニューはエスプレッソを染み込ませた「みらさかティラミス」「シフォンケーキ」「フレンチトースト」などを楽しんでもらいたいんです。このあたりのお年寄りはティラミスというものをご存知なかったんです。うちに来て初めて食べた、といって嬉しそうにされます。それがまた、私は嬉しいんですよ。
 今後私個人的にはコーヒー豆の焙煎をしたいんです。焙煎機を買ってね。より美味しいコーヒーを提供したいと思います。お店としてはもっと若い人が自活できるように情報を提供する場にしたいんです。それで商店街が賑やかになったら良いですよね~。
 三次市も私の店のようなコミュニティーの場が増えると、皆さんが元気で長生きになれるんじゃないでしょうか。特にお年寄りはね。私はなぜかお年寄りのことを一番に考えてしまいます(笑)。それに共感できるような若い人が来てくれたらいいですよね。それから私のお店は出会いの場でもあるんですよ。いろんな方から良い人はいませんか、と相談を受けます。父親の時代は喫茶店は出会いの場だったと聞いています。そんな昭和を思い出すような時代性も出していきたいです。
☆朝7時からオープンしている「Mirasaka Coffee」。なによりもお客さん目線を考えられているからでしょう。朝目覚めて、ふと立ち寄れるコーヒーショップ、それが「森 」のようにさわやかだったら、どんなにか幸せな気持ちになるでしょう☆
   
☆厳しくもあたたかく鵜の心に寄りそって
日坂 文吾さん☆


 三次の鵜飼は450年の歴史があります。その始まりは初代三次藩主浅野長治公が参勤交代の折に長良川の鵜飼いを見て、三次に帰り始めたというのを私は子供たちに伝えています。私は三次の小・中学校で語り部をしていますので。
 私の出身は三次市向江田町ですが、鵜匠という仕事は、過去粟屋地区の人が主に継承されてきていたので、私のような粟屋町以外の出身の鵜匠は初めてのことのようです。私の鵜匠としてのデビューは、いまから22年前です。当時は40年ぶりの後継者の誕生ということでマスコミにも取り上げられたんですよ。
 そもそも私が鵜匠という仕事につくきっかけとなったのは、アルバイトで鵜飼いの遊覧船の船頭をしたことからなんです。その折に当時の観光協会会長から、「ちょっとお前、鵜匠になってみんか」と言われたことから始まったんです(笑)。
 鵜飼という仕事は、とにかく鵜とのコミュニケーションが大事なんです。もともと野生の鵜を人に馴らして鵜飼の仕事をさせるのですから、信頼関係がなくてはできません。鵜匠の修行第一歩はまず鵜にさわれなくてはいけませんよね。鵜は人間を見ますから、わかるんですよ。人が手を出すと、「あっ、こいつは鵜匠じゃない」と逃げたりしますので、それを怖がらずに手を出して首をつかまえます。その単純作業が最初はなかなかできないんですよ。鵜のクチバシは鋭角ですが、犬がするような甘噛みをしてきます。そこで人間としては怖いので手を引くと怪我をするんです。ですから恐れずに手を出すことが大事なんです。次にお客さんに見てもらう手綱さばきの訓練です。最初は2羽、3羽、4羽、5羽と徐々に増やします。でも当然ですが最初はもつれます(笑)。三次の鵜飼いの手綱は全国一長くて、6m75㎝あるんですが、私は長いほうが楽で簡単、短い方が難しいです。鵜は俊敏性が高いので、水の中を自由自在に動き回るんですけど、自分達についている手綱のことはわかっているんですよ。ですから人間がどのように手綱を操るかなんです。鵜は川の中でもだいたいどこで魚を捕るか、ポジションが決まっています。そこを鵜匠がわかってやって、手綱を操るんです。だから長い手綱で鵜を操るのではなくて、鵜に操ってもらう…、という方が正しいのかもしれませんね。


烏帽子に黒い法被、腰蓑姿の日坂さん 凛々しい姿です

 鵜には川鵜と海鵜がいますが、三次では川鵜が2羽います。川鵜は海鵜よりも身体が小さく、喉とクチバシも短いです。海鵜の方が体力がありますので良く仕事ができます。でも川鵜はとても人懐っこいんですよ。私が歩くと後からついて来ます(笑)。それから中国から来た白い鵜もいます。鵜は魚ならなんでも獲ります。それこそブラックバスでも。でも調教して鮎を追うようにします。鮎は他の魚に比べると泳ぐスピードが速いんです。そのすばやい鮎をちゃんと追えるように鵜を調教し体調管理をするのが大事なことなんです。
 私が鵜匠になったころには2人の鵜匠がおられました。この仕事は職人の世界なのです。それぞれの鵜匠には流儀というものがありますから、私としてはその良いところを受け継がせてもらったということです。
 今年初めに鵜が14羽も死んでしまう事件がおきて、1羽しか残りませんでした。手塩にかけて育てた鵜ですからそれは凄いパニックになりました。6月には鵜飼のシーズンが始まりますしね。5月に新しい鵜が来ましたけど、その1羽だけ残った鵜が、新しく来た鵜にいろいろ教えたんですよ。新しい鵜を調教しているときのことです。その残った鵜は強くて仕事のできる鵜だったので、何年も前から一番舟の帆先に陣取っていたのに、それを新しい2羽の鵜にゆずり、後には2羽の鵜をこさせて自分がその間にいて、新しい鵜たちの指導をしていたんです。とても感動する出来事でした。そういうことも功を奏して6月からの鵜飼にもなんとか間に合いました。
 鵜匠の仕事はそれだけでは生活できません。他の仕事との兼業です。将来、私の後継となる人が鵜匠だけで生活できるようになれば嬉しいのですが。観光としての鵜飼の意義は大きいのですが、三次の伝統であるということを私は強く思っています。

☆鵜匠・日坂文吾さんは2008年に三次市無形文化財保持者として認定されました。夏の馬洗川の観光遊覧船からの鵜飼、鵜匠との強い信頼によって調教された鵜たちが鮎を捕る姿を、鵜匠の見事な手綱さばきで間近に観ることができます。何代もの鵜匠によって伝えられた誇るべき三次の伝統の技です☆
 
 ☆幸せな気持ちになる料理を
岡田 浩二さん☆


私の出身は三次市吉舎町です。日彰館高校を卒業後、大阪の辻学園で2年間学び、その後大阪や広島のホテルなどで働きました。平成26年12月、三次市十日市東に「Bistro K」というイタリア・フランス料理店を開店したんですが、もうすぐ2周年を迎えます。Bistro KのKは私の名前・浩二の頭文字からつけました。
 料理の道を志したのは高校を卒業する少し前のことです。もともと料理が好きでしたから、ピッツァなどを焼いたりしていたんです。
 料理の食材はなるべく三次近隣産のものを使うようにしています。やはり地元のものは美味しいですからね。パスタは近所の江草商店で作った生パスタを使います。これはタリアッテレという少し太めの平麺なんですが、もちもちしていて食べごたえがあります。クリーム系や濃いソースのものによく合います。カルボナーラなどです。
 

 
 イタリア料理に使う塩漬けした豚バラ肉をパンチェッタといいますが、これは生ベーコンなんです。パンチェッタを燻製したものがいわゆるベーコンで、私は自分で作って料理に使用します。生ハムにもこだわりがあって、スペイン産のハモン・セラーノを使います。ハモンとは熟成したもの、セラーノは山のという意味です。黒豚のイベリコ豚から作るハモン・イベリコと違い、白豚で作るハモン・セラーノは柔らかく、鮮やかなピンク色です。塩味と食感に特徴があります。色々な料理に合うように、ワインにもこだわっています。先日もお店で「ワイン試飲会」を開いたのですが、盛況でしたよ。ワインを飲み比べてもらいながら料理を食べる、という趣向でした。
 私のポリシーとして、なかなか普段食べられないような料理や、うちのお店でしか味わえないようなものをお客さんに提供したいと思っています。それで喜んでもらえたら、とても嬉しいですね。
 三次市は今後も活気のある町になって欲しいです。私はいま37歳ですが、若者の力をどんどん発揮していくことが大切だと思います。

☆寡黙で少し照れ屋の岡田シェフですが、お料理に対する情熱は大変強いものを感じます。ピッツァ、ワインのおつまみ・アンティパスト、各種パスタにメイン料理…。食べ終わったお皿を下げにこられたシェフに、「美味しかったです~!」と言ったときの満面の笑顔がとても素敵です☆
 
 ☆未知の世界への橋渡しを
有光 七重さん☆

三次市立図書館は、三次市より指定管理者の指定を受けた「株式会社 暮らしサポートみよし」によって運営されています。他には三次市民ホール、三次市営球場などがあります。私は現在、三次市立図書館で館長をしています。三次市十日市東にあるこの三次市立図書館ができたのは平成11年です。昭和27年には、三次町に最初の図書館ができました。
 現在この図書館は、午前10時から夜8時まで開けているんです。夜8時の閉館は遅いと思われるかもしれませんが、高校生や仕事帰りの方などに利用してもらっています。受験シーズンには、『合格しおり』というお守りのようなものを、受験生に渡しているんですよ。図書館を利用している受験生には積極的に声をかけるようにして、コミュニケーションを大事に考えています。



 月に一度ですが、三次ケーブルビジョンで「おしえて図書館ほんとのはなし」というコーナーに出演しています。この図書館の職員だけではなく、三次市にある他の図書館の職員の方も、交代で出演しています。「ほんとの」と「本」をかけているんですよ(笑)。その番組では、『とっておきの一冊』といって本を紹介することになっています。私のとっておきの一冊、といえばこの本です。私が三次市立図書館に勤務した最初の頃に、当時朝礼で紹介した、永井明著『あやしい船医 南太平洋をゆく』です。私は尾道市出身で、父は外国航路の船乗りでした。でも父は私が4歳のときに、船の上で亡くなったんです。それで、「船医ってどんなことをしているんだろう」という興味から手にした本でした。それが読んでみると、荒瀬外科と荒瀬先生が登場したんです。驚きましたね~(笑)。それはもう、ここまで書いていいのかしら…、というほどユーモアにあふれていたんです。私にはそれがとても素敵だな、と思ったんです。
 一般的に図書館というと、本の貸し出しだけというイメージだと思いますが、最近では「地域のお役に立つ図書館」という目標をかかげ、さまざまなサービスを行っています。ただ図書館で待っている、というのではなく、どんどん地域のイベントに参加したり、学校や保育所、高齢者施設などに行き、移動図書館、定期的な本の配達、そして「おはなし会」や「ブックトーク(テーマにそって本の紹介をすること)」などを行っています。三次市立図書館では、自分達の図書館を自分達でよくしていこう、という意識が様々なアイディアを生み、昨年度の「子ども読書推進文部科学大臣賞」を受賞しました。
 いま私は、三次市の小中学校に司書が配置されて、もっと子供たちが本への興味を持てる環境になることを願っています。私達図書館の司書も各学校に出かけますが、それはやはり限界がありますので。
 「本」は想像の世界を広げ、新しい発見を生み、読む人の心に寄り添い、自分自身を見つめなおすきっかけを作ります。これからも、常にそのことを心に留めていきたいと思っています。

☆「本」という生き物が待つ図書館は、深い海の中のような静寂につつまれていて、新たな世界へと人々を誘います。図書館司書である有光さんは、アイディアを駆使して、そのことの大事さを教えようとされているのですね。心から応援いたします☆
    
☆人形作りの型と精神を伝承して   
      川崎 員奥(カズオ)さん☆

 私は今年6月にオープンした三次町にあるアトリエジュサブロー「木綿兎(もめんと)」で、辻村寿三郎先生の人形の展示や小物販売などをしています。そして9月からは、このアトリエで人形教室、いけばな教室を開くことになっています。
 私と辻村先生との出会いは40歳のころでした。私は子供時代からいけ花に興味があり池坊でお稽古をしていましたが、20歳の頃には講師になっていたんです。その関係で、東京のカルチャーセンターでいけ花を教えていて、会場で辻村先生にお会いしたんです。当時私は、辻村寿三郎先生のことを知りませんでしたが(笑)。先生は三次市出身、私は大竹市出身ですが、父親が三次ということで「同郷だよね~」と、先生は親しく思ってくださったようでした。それで何回か先生のアトリエに伺っているうちに、電話番のようなことをすることになったんです。それに辻村先生の人形作りをそばで見ているのは、華道をやっている自分には、とても興味深いことが多かったんですよ。先生の色彩学や立体美はそれはもう素晴らしいんです。先生は普通の人形作家じゃないですから。本当に優れたアーティストなんですから!! 私も先生のマネジメントなどをしているうちに、いつしか人形を作るようになっていました。その時から私は、華道家・人形作家・辻村寿三郎人形教室講師として先生とともに今まで生きてきたんです。もう25、6年が経ったんですよ。



 辻村先生が、「もう私も歳だから広島に帰ろうか」と言われるようになったころに、ちょうど三次町本通りの「辻村寿三郎人形館」を開設するお話があったんです。その後「木綿兎」も開設することになり、去年の10月には、東京人形町にあった人形館・アトリエと住居も三次に移設するということが決まり、11月には三次町に引っ越してきました。
 三次町の「木綿兎」は、東京人形町時代のアトリエを模してあります。辻村先生の干支は酉年なんですが、酉年の向かい干支(自分の干支の反対側)が兎なんですよ。兎は平安時代から福を呼ぶといわれていて縁起物なんです。以前辻村先生が耳の長い兎を作って東京高島屋で展示されたんですけど、とても反響がありました。
 最初に辻村先生が東京人形町の浜町に小さい工房を作られたときに、「木綿兎」と命名されたんです。先生は人形制作に、もちろん絹の縮緬(ちりめん)などを使われますけれど、木綿は昔から庶民のものでしたよね。地位や名誉を欲しない、そして虚栄をはらず、ひっそりとつつましやかに生きる辻村先生の精神を込め、それに向かい干支の兎を合わせて作られたものなんです。かけてある看板の文字は、辻村先生が書かれたものを彫らせたものですよ。
 私も三次に来てから、やはり大変なこともあります。でも生活は早寝早起きで、東京時代には考えられない健康的な暮らしです。本通りの「辻村寿三郎人形館」とこの栄町の「木綿兎」が、少しでも三次市の活性化のお役に立てるならとても嬉しいです。若い人たちが、三次で辻村先生の人形作りを学んでくれたらもっと嬉しいですね。

☆辻村寿三郎先生とともに長年人形作りをされ、その素晴らしさを多くの方々に伝えたいと三次町に移住されたこと、ほんとうに嬉しいことです。自然豊かな環境のなかで、また新たな寿三郎先生の世界が広がっていくことをお祈りいたします☆

 
☆三次から世界に向けて、ワインで発信
 山縣 隆さん☆

  (株)広島三次ワイナリーがオープンしたのは平成6年ですが、私はその準備段階から入社しました。最初はバーベキューガーデンの店長をしていまして、その後支配人として現在に至っています。主に年間2500台くらい入る観光バスのセールスに全国を廻ったり、ショップや製造部分の全体を把握することが仕事です。 
 もともと三次では、昭和30年代から葡萄の栽培がされていたんです。そして昭和50年からピオーネが三次の特産品になり、生産がどんどん拡大していた頃に、葡萄に付加価値をつけて加工できないか、ということでワイナリー構想が始まったんです。その時点で三次市、農協、生産者の方々が色々なノウハウを出し合って葡萄を作り、最初は山梨に委託醸造をしてもらい、三次の葡萄でワインができるかということと、三次の土地柄に合うかどうかということで、三次の卸業者さんがやっておられたんです。その結果、非常に好評で「三次の葡萄で作るワインは美味しい!」ということで、三次にワイナリーを作ることになりました。現在は年間40万人もの方に訪れていただいて、ワインの種類も50種類くらいを販売するようになりました。
 各種イベントもやっていまして、5月に「三次ワイン祭」、秋にも「三次ワイン秋祭」をしています。それ以外にも9月に「備北酔い処まつり」、それから11月には「ヌーヴォーまつり」があります。あとはレストランでコンサートやライブ演奏を聴きながら食事をするということもやっています。以前荒瀬先生のバンドも演奏してもらったことがあるんですが、それはお客様が喜ばれて盛り上がったんですよ。



 日本ワインコンクールで、国内でとれた葡萄を100%使ったもので、昨年「TOMOE´マスカット・ベリーA」が金賞、「TOMOE´小公子マスカット・ベリーA」が銀賞を獲得したんです。どちらも赤ワインです。
 先日4月10日、11日に行われたG7広島外相会合で、食事に三次ワインが使われたんです。外務省の方から直接お電話をいただいて、広島での開催なので、広島の食と地酒や地元のワインを使いたいということでした。それなりのレベルのものでないと提供できないということでしたが、日本ワインコンクールでの受賞がポイントとなり選んでいただきました。赤ワインは「TOMOE´メルロー」、「TOMOE´小公子」、白ワインは「TOMOE´シャルドネ・クリスブ」、「TOMOE´シャルドネ新月」を使っていただき、反響がとても大きかったです。
 赤ワインはピオーネなど黒葡萄や山葡萄を使いますが、ブルーベリーのようにしぼると紫の色素が出ます。それがアントシアンです。葡萄の軸だけを取り除き、皮と種と実の部分をタンクや樽に入れて発酵させます。白ワインは緑の白い葡萄をすぐにしぼって果汁を使います。ロゼは黒葡萄を白ワインのような作り方で摘み取ってすぐにしぼります。それで薄いピンク色になりフルーティーな味になります。ワインはとても繊細な飲み物です。多くの方々に楽しんでいただきたいです。

☆ワインの美味しさを感じるのは、やはり料理とのコラボレーションでしょうか。地元産のワインを、家族や仲の良い人たちと味わう時間はとても幸せなものですね。三次盆地の土と空気の中で育つ葡萄は、やがて人々の手を借りて極上の三次ワインへと熟成していきます☆ 

 
☆陶芸一筋に生きて
佐藤 俊郎さん☆


 私の出身地は青森県弘前市です。私が17歳、高校2年の時に、父親が兵庫県丹波にこういう話があるけど行ってみないか、と丹窓窯で働くことをすすめたんです。私は高校を卒業してから行きたいと言いましたが、こういうことは早い方がいいということで、単身丹波に行くことになりました。そこで4年間修業した後、倉敷市の倉敷みなと窯で14年間修行したんです。 
 独立して仕事を始めたのが、昭和55年、三次市志和地町というこの地でした。念願だった京都式登り窯で焼き物をつくることになったんです。陶芸も全国の各窯によって、作るものや考え方が違います。もちろん土も違います。昔は粘土のある場所には必ず窯があったものですが、今は流通がよくなったので、他所の粘土を取り寄せて自分の窯で焼いたりすることもあるようです。でも私はそれは絶対嫌なんです。とにかく全部この地元、志和地の材料で焼きたいんです。すべて自然にあるもので焼くので、私の焼き物は優しく自然な色だといわれます。材料だけではなく、焼く温度や木の灰などを水に溶かして使う釉(うわぐすり)でも色は変化します。私は日常生活で使うものを大事に焼きたいと思っているんです。



 この志和地町から川立町、秋町はずっと粘土質の土地ですよ。このあたりは昔瓦を焼いていたくらいですからね。焼き物はとにかく焼いてみないと出来はわかりません。鉄分が多いと黒っぽくなりますしね。私には粘土層の多い土地というのは見てすぐにわかります。木があまり生えませんし、あっても低木です。車で走っていても、この辺は粘土層が多いなというのがわかります。17歳でこの仕事を始めてから、もう53年になるんですからね。
 私は作陶のかたわら、三次市近隣で陶芸教室を開いています。月に2度の教室で、皆さんペンダントやお湯飲みなど面白いものを作られますよ。
三次市は古墳があったりして歴史が古いのですが、色々な面でちょうどいい町ですね。3本の川が1本の江の川になるのも面白いですよね。私が以前住んでいた倉敷は文化的な面はとても高くていいんですが、暑いところだったんです。有名な瀬戸の夕凪という、それはピタッと風が止みます。ですから三次の気候は私にとってちょうどいい寒さなんです(笑)。
 私は3人子供がいますが、だれも私の仕事を継ぐつもりはないようです。それも残念ながら仕方ないと思っているんですよ。作陶は修業期間が長いし、あまりお金にならないですからね(笑)。今の時代はすべて便利が良すぎますよね。色々な面で流れがよくて、文化もしっかり根付かないということがあります。陶芸などというものは、不便でそれしかない…、というようなところでやれるものでしょうから。

☆その地の粘土、釉の木の灰汁、窯の温度、そして作者の心を表す佐藤さんの志和地窯。日常生活のなかに溶け込む食器や花瓶は優しく穏やかな色合いです。その器を使う人と佐藤さんのあいだには、目に見えない何かで結ばれているような気がします☆
 
 ☆小さな町の、大きな力
瀬戸 昇三さん☆


 有限会社「ブルーリバー」は、2002年に設立されました。設立メンバーは私を含め9名で、1人100万円を出資し、不動産の賃貸・管理、農作物及び加工販売を定款としています。名前は私の住んでいる町が青河町ですので、ブルーリバーです(笑)。
 なぜこの会社を設立したかといいますと、2001年頃、行政改革の一端として学校の統廃合が進み、青河小学校もその対象になりました。学校というのは地域の宝物なんです。学校を守ることが、小さな青河町を存続させることでもあると思ったことがきっかけでした。それで統廃合の対象にならないために(20人を切ると対象)、生徒数を増やすことを考えるようになりました。この地域から仕事の関係などで他の町に出て行った人や、他の町からこの町に移り住む人の誘致のために、住宅の建設事業を始めました。場所は町で一番環境の良いところです。2003年に2棟完成し、横浜市と広島市から入居されました。私達ブルーリバーは行政には頼らず、10年間で14世帯60人の移住者を迎えました。入居条件は、小学生もしくは未就学児がいること、青河小学校に通学させること、学校教育への理解と協力ができること、地域行事に極力参加すること、地域常会には必ず加入することです。
 他には空き家を利用して「よりんさいや」という朝市もやっています。毎週水曜日と土曜日に開いて、地元の野菜や卵などを販売します。安くて品質がいいので他所からも買いに来られますよ。
 全国の地方紙と共同通信社が設けた「第2回地域再生大賞」に、2012年、私達のブルーリバーが受賞しました。企業や自治体にはできないきめ細かなコミュニティー維持の手法が評価されたんです。


生き生きした青河小学校の生徒と瀬戸さん
瀬戸さんが持たれているのは「第2回地域再生大賞」の表彰状です

 青河小学校は小さな学校ですが、大きい学校ではできないことがたくさんあります。地域が学校を中心に考えていますので、地域の人々は学校に対する思い入れが強く、お年寄りと子供達との交流もあり、子供達はお年寄りと交わることで多くのことを学ぶのです。小学校時代の感受性の強い時に、自然豊かな場所で、地域の人と交わりながら勉強していくことが子供には大切だと思うんです。先日も卒業式に参列しましたが、それは子供達が素晴らしいんです。私は、小学校では人間というものを勉強するものだと思うんです。そのうち中学、高校と自分の本当の勉強をしていきますが。どんなに勉強が出来ても、小学校時代に人間の基礎が出来ていなければ駄目でしょう。
地域の活性化として大事なことは、とにかく行政に頼るとか人に頼るということではなく、地域のことは自分達が自分のこととしてしっかりやるんだ、という気持ちを強く持つことです。

☆少子高齢化や地方の過疎化が問題視されてから、様々な解決策が議論されています。しかし机上の理論ではなく、まず深く考え、大切なものを守るために行動を起こすことから始まったブルーリバー。月日の経過とともに子供達の笑顔ははじけ、ますます青く輝きながら河は流れているようです☆

   
☆自然と人間の調和とは(後編)
         菅 昭和さん☆

 私は長年草花や野鳥をカメラやビデオに収めてきました。写真集では『尾関山の山野草』を出しました。でもこの中にあるいつくかの山野草は、もう幻になっています。何年か前に、尾関山公園の大々的な改修工事があったんです。水洗トイレになり、遊歩道はコンクリートに変貌しました。工事付近の野草はかなりコンクリートの下敷きになりましたので、発芽することができず、多くの野草は残念ながら死滅したんです。
 我々人間は人類誕生から、地球の地表をはがしたり穴を掘ったりして、他の動植物の生活圏を犠牲にしても、人間の文明生活を向上させるために勝手に改良してきました。その時に犠牲になったのが野鳥や草花なんですよ。人間の便利さのためにこういう生命は無視されたんです。私一人の力では、こういう野鳥や草花を救ったり残すことはできません。ですが、せめて次世代の人達に「尾関山には、こんな花が咲いていたんでぇ~~」とわかるように、日時を入れて、できるだけ背景も写し込んで撮っているんです。未来の子供達のために、草花や鳥の姿を資料として残しているんですよ。


「絶滅のおそれのある草花」「広島県の野鳥77種」他
菅さんの作られたDVDの数々

 野鳥に関しては、『広島県北の野鳥80種』『広島県北の野鳥77種』等を解説付きのDVDにして販売もしています。
 私は君田町で熊棚という珍しいものも撮影しています。熊棚とは、熊が木の上に作った巣なんです。5月初旬頃に、熊は神野瀬にある「ヒメザゼンソウ」を食べに出るんです。冬眠した熊は内臓に寄生虫がわきます。目覚めて餌を食べる前に、この毒草を食べて腹下しをします。 
 祝い事、吉事があると咲くといわれる吉祥草(きちじょうそう)という花が、南畑敷の河川敷に群生する場所があります。去年、それを国土交通省の工事で撤去されそうになりました。大変なことです。私は困り果てて、広島ホームテレビに訴えて、このことを放送してもらったんです。それが大変貴重な花なんで。そうしたら、その番組を観た国土交通省の方が来られて、そこだけは伐らずに残しましょうと言ってくれました。嬉しかったですね~。
 三次は、それはもう自然豊かな、まだまだどんな貴重なものがあるかわからないくらいに、素晴らしいところなんです。私が三次で発見した、中国地方では、ここにしかないような草花もあります。三次の地は古墳のある場所なんですから、人類はかなり古い時代から根をおろして住んでいたわけですよね。野草も、この地にしかないようなものが残っているんです。でも知らず知らずのうちに、人間はそれを滅ぼしているんですよ。滅びたものは、もう決して元にかえすことはできないんです。せめて私は、写真やビデオで撮影して、後々まで残しておきたいと願っているんです。
☆菅さんの作られたDVDは観る人の心に響きます。郷土三次の優しい言葉で語られる野鳥や草花は、まるで菅さんの大事な友達のよう。自然と人間の調和とは、まず友達のように愛することから始まるのでしょう。次世代の子供達へのよき語り部として、これからもご活躍ください☆
   
☆自然と人間の調和とは(前編)
         菅 昭和さん☆
 私は三次市三良坂町で生まれ高校まで過ごしました。その後東京でクリーニング学校に入り、14年間、わりに大きな会社の工場で仕事をしていました。でも1988年に三次に帰りクリーニング店を開業しました。それは、子供の頃過ごした、自然の中での遊びや生活がどうしても忘れられなくてね。東京ではなにしろ、ビルやマンションなどがコンクリートの中ですからね~、西も東も。それに朝起きてから夜寝るまで、会社の売り上げなど、すべて頭の中が会社の仕事で一杯だったんです。私にはそういう人生がどうも虚しくてね。土や草花や木のある自然の中で生涯をまっとうしたいという望みが強くて、それで三次に帰りました。



 三次に帰ってクリーニング店をやるかたわら、自然の中でのびのび楽しみたいと思い、海釣り、渓流釣りをするなかで、院長先生の叔父になられる荒瀬敏博先生(十日市荒瀬外科)と知り合ったんです。敏博先生はウナギの穴釣りなどがお好きでね~。ウナギの穴釣りでは先生の右に出る者はいませんでしたよ。その年に出た、まっすぐな梅の木の枝の皮をむいて干してね、それをウナギのいそうな穴の中に差し込んで釣るんですけど、それはもう名人でしたね。
 写真は学生時代から好きでした。三次に帰ってから20年間、写真やビデオで広島県内くまなく花や鳥を撮影したんですよ。
 平成26年には、NHKの「アマチュアビデオ映像賞」で最優秀賞をもらいました。田んぼの中に巣を作った「ケリ」を撮影したものなんです。卵を無事に孵化させるまでの姿を、手作りの固定カメラで撮りました。それから、NHKで金曜日の夕方放送している「私のベストショット」という番組があるんですが、それにはもう15年くらい前から写真を投稿しています。その番組の月間賞で、何度もトロフィーをもらっているんですよ。三次ケーブルビジョンのピオネットでは、水曜日に私の持ち番組を作ってもらっているんです。
 私の一番好きな花は「イシヅチラン」という蘭の仲間です。幻の花といわれ、廿日市市吉和町あたりでしか見られない希少種です。鳥は猛禽類のタカ、ワシ、トビが好きですね。猛々しい姿がいいです。
 私の愛用カメラはずっとNIKON一筋です。今までに15台くらい買い換えましたが、NIKONは部品を買い換えても、レンズの径が変わらないのでいいんです。    

☆子供の頃につちかった感性は、大人になっても心の奥底に生き続けるのですね。そして人として何が幸せなのかを、いつも問いかけているのかも知れません。故郷三次で撮り続けてこられた草花や野鳥は、子供時代の菅さんの遊びのかたわらで、菅さんを見守っていたものたちなのでしょう☆

   
☆ふらっと立ち寄りたくなるお店です
立山 達之さん☆

私は三次町本通りで「たつ膳」という居酒屋を営業しています。お店を開いてから、来年の2月でもう4年になります。
 私の出身は大分県の日田市です。父親は転勤族でしたので、小さい頃に三次に住んでいました。小学校入学は三次小学校で、その後また転勤で他所に住んでいて、小学校6年でまた三次に帰ったので卒業も三次小学校ということになります。その後高校卒業まで三次に住んでいました。
 日田市は三次に似ているんですよ。やはり山の中の町で、石畳の道や町家があり、鮎がとれて鵜飼いや花火大会もあります。
 大分の郷土料理で「鳥天」というものがあるんです。私は開店と同時にこの鳥天をメニューに入れたんですが、このあいだテレビの取材を受けたんです。鶏のから揚げは一般的ですが、鳥天は鶏の胸肉を使って下味を付け、天ぷらの衣を付けて油で揚げます。辛子とポン酢で食べるんですが、あっさりしていて美味しいんですよ。各種定食は昼と夜に出しますが、夜はお酒のあてになる一品料理も作っています。
 


 この店はご近所の方々に支えられていますが、観光で来られた方や、あの有名な「カープ女子」も来られますよ。なにしろ梵 英心君の実家がすぐそこの専法寺ですからね~。三次でカープの試合があると、東京や大阪などから英心君のファンの「カープ女子」がやって来ます。結構顔見知りになるんで、広島市民球場でも「やあ、やあ!」と声をかけられたりするんです。英心君の応援をしている「三次町英心会」の忘年会や新年会の後にはこの店で二次会になるんですが、前に面白いことがあったんですよ。やはり本通りで「モリトー」を経営している森藤君が、「ああ~っ、来られましたよ~!」と面白可笑しく言ったんです。そうしたらファンの女の子たちが、「わあ~、梵 英心が来たんだ~!」と期待していたら、なんと現れたのが荒瀬先生だったんです(笑)。みんな拍子抜けしたんですが、先生は英心君の後援会長ですし、話が面白いのですごく盛り上がって楽しかったんですけどね(笑)。
 12月14日は赤穂浪士の討ち入りの日ですね。鳳源寺には四十七士の木像を安置した義士堂があって、義士祭の日は、搖泉院や四十七士に扮装した人たちが町内をパレードします。でも今年は、残念なことに都合で開催されないようなんですが。
 私は、三次は今後いろいろなことが出来る可能性があると思います。商店街と町の人々が協力して、歴史と風土を活かした魅力ある町づくりが出来るといいなと思います。

☆地元の商店街は、歩いて買い物が出来ることがいいですね。ぶらぶらしながらお店の人と会話したり、知り合いに出会ったりの本通り商店街で、お腹が空いたら「たつ膳」さんへ。午前11時から午後2時までと午後5時から夜は10時まで開いています☆
 
☆その笑顔が、素敵です
瀧本 良恵さん☆

 私は現在「三次ケーブルビジョン」のキャスターをやっています。2006年に開局したときから携っています。それ以前は3年間「阪急百貨店」梅田本店に勤務し、阪急グループの創業者小林一三氏のお客様第一主義のもと、サービス業についての厳しい接遇マナーを受けました。その後「国際花と緑の博覧会」でコンパニオン、大阪・ツインタワー「パナソニックスクエア」のアテンダントコンパニオンとして入社しました。そして結婚とともに三次に住むことになったんです。その当時ブライダルの司会をされていた和田正紀氏に師事し、1996年の広島国体三次会場の開会式の司会を務めました。
 三次ケーブルビジョンで仕事を始めてからもう10年がたちましたが、早いものですよね。当時小学校に入学したばかりだった息子が、もう高校生ですよ。いまは木曜日と金曜日だけの出社なんです。それ以外は結婚式の司会をやっています。最近の披露宴は、それはすごいんですよ。まるでエンターテイメントのようです。ですから結婚される新郎新婦の想いを受け止めて作り上げていくのが私の仕事でもあるんですが、楽しいですよ~(笑)。お友達の余興などはまるでディナーショーのようです(笑)。私も司会進行をしながら、いつも感動するんです。
 


 三次ケーブルビジョンでは、カメラの前で喋るという初めての経験で戸惑いもありました。でもケーブルビジョンのスタッフの皆さんに一から教えていただき、開局と同時にスタートした生放送を、スタッフ一丸となって、がむしゃらに頑張ってきたんです。不慣れでたどたどしい番組進行にもかかわらず、三次の視聴者の方々が、本当に温かく寛大な心で応援してくださったことに感謝しています。
 10年間色々な方の取材をしてきましたけれど、人と人の出会いの素晴らしさを改めて感じます。最近では今年の箱根駅伝の優勝チーム、青山学院大学キャプテンの藤川拓也選手へのインタビューが心に残っています。彼は庄原市出身なんですが、地元の方から「是非取り上げて」と言われて、色々な方に電話をかけまくり、やっと本人に直接インタビューすることができたんです。本当に嬉しかったです!
 私は気管と喉が弱いので色々気を付けています。それにいつも生放送ですのでとても緊張します。ここで噛んではいけない~と思うと余計に(笑)。
 ケーブルビジョンの番組は、地元三次の皆さんと一緒に作っていると思っています。これからも皆さんに喜んでいただける番組を作っていきたいと願っています。

☆天性の明るさと人懐こさで、テレビのキャスターからブライダルなどの司会までこなされる瀧本さん。三次の情報や話題なら、ケーブルビジョンの情報ストリート「あっちこっち三次」です。生放送は大変でしょうが、人と人、人と町、人と自然をつなぐ番組で、とても意義深いお仕事ですね☆

  ☆トラブル解決のために
   岡崎 伸哉先生☆

 私の出身は広島市ですが、平成22年に三次市十日市南で「備北さくら法律事務所」を開業しました。当時三次では弁護士の数が少なく(4人)、私の願いは弁護士の過疎地区で働きたいというものでした。
 私は大学時代は法学部ではなく、まったく法律に興味はなかったのです。卒業後会社員になり、頑張って出世し幸せな家庭生活を築いていくことを考えていました。それが父の、ある建築のトラブルから、私の人生は変わっていきました。父の場合、民法の知識があれば避けられたトラブルでしたが、建築会社が倒産して家は建たないのに、一括して支払った建築費用は戻らず、多額のローンだけが残ってしまったのです。両親のそのときの落胆は大変なものでした。でもそのときご相談した弁護士の方に親身にしていただき、可能な限り現実的な助けをもらうことができたのです。いまでもその先生には感謝の念でいっぱいです。それをきっかけに、私は困っている方のお役に立ち、気軽に相談してもらえる弁護士を目指すことにしました。 
 


 三次地区での法律相談で多いのは、相続と夫婦関係の問題、借金問題、刑事事件です。詐欺事件もあります。ネットでの「アダルトサイト」とか、「お金を貸します」というサイトにアクセスすると、「あなたは入会しました」という形になり、それを抜けるためには何十万円という金額を支払えという詐欺があります。ですがこの場合、相手にしては駄目です。これは、こちらから電話さえ掛けなければ、基本的には相手に連絡先はわかりません。メールアドレスからは個人情報はわかりませんから。それからいわゆるヤミ金被害の場合などは、借りるときは困っていますから膨大な金利でも借りてしまい、職場や家族の連絡先を知られると、大変追い込まれてしまうということがあります。相続の問題などでもそうですが、そういう時は、私のような弁護士でもいいですし、無料相談の窓口もありますので、一人で抱え込まずに相談し、傷口が広がる前に対応策を考えることが大切です。高齢者の方で振り込め詐欺で騙されてしまう場合ですが、いまは劇場型といって非常に手が込んで巧妙化しています。まずは、家族に確認の電話をして下さい。そして地域の隣近所や友人に相談するというのも大事です。怪しい電話があったと相談して、解決していくのです。
 三次、庄原、安芸高田地域で問題になっているのは、中心部から外れると、土地や建物を誰が相続するのかということです。金銭ではなく家と田畑と山林です。空き家問題もありますし、引き取り手のない不動産の問題です。管理する者がいないと、山林や田畑はどんどん荒れてしまいます。田畑などは農地法があるので、簡単に人に譲ったり売ったりもできませんので解決が難しいのです。
 私の趣味は月並みですが、読書です。それから最近興味があるのが、三次に小さな土地を買って家庭菜園をやりたいということなんです。季節の野菜を自分で作って料理し、健康的に暮らしたいと思っています。 

☆お父様のトラブルがきっかけで弁護士の道に進まれたことは、多くの困難な人々を救う原動力となられることでしょう。「迅速」「丁寧」「改善」「努力」「感謝」という言葉を判断や対応について常にチェックされているとか。ご活躍をお祈りします☆
  ☆唐麺から始まった人の輪と和
江草大地さん☆

 「江草商店」は私の曽祖父が三次町でパン屋としてやっていたのが、大正10年に十日市に移り麺の製造を始め、私で4代目になります。
 私は江草商店を継ぐために三次に帰ってきて、今年で10年目になります。それまでは東京で機械の営業をやっていたんです。営業中にたまたま入ったラーメン屋さんで替え玉を頼んだんですが、その時「白と赤あるけど、どうする?」って聞かれたんですよ。赤い麺?何それ、と驚きました。麺に色がついているのなんて初めてだったので。もう翌年は三次に帰ると決めていて、自分なら、どんな麺を作ればいいかなと模索していた時だったので、麺に色なり味なりがついているのもいいなという発想のきっかけになりました。
 


 2006年に三次に帰ってから、麺にどんな味をつけるかを考えました。私は辛いものが好きなので、麺に美味しいと感じる辛さをつけることにしました。辛味といってもいろいろあります。唐辛子、胡椒、山葵などです。それでそれらを試作してみたら、やはり唐辛子だったんです。それで唐辛子を練り込んだ麺を、最初はラーメンにと思い「鳥小屋」さんに持ち込んで作ってもらいました。たまたまその帰り道にあった「宝来屋」さんでは、お好み焼にも入れてもらったんです。どちらのお店も私の幼なじみがやっているので、我が儘や希望を聞いてくれてありがたかったです。半年くらいは試行錯誤の連続でしたが、地元の友人たちとラーメンやお好み焼に入れて食べているうちに、仲間うちで、この麺に名前をつけよう!ということになりました。それで「唐麺」とつけて、近所に住んでいた横尾順子(旧姓宗清)さんが唐辛子と唐麺の絵をデザインしてくれたんです。それで一気に商品らしくなりました。
 私が当時副会長をしていた三次商工会議所青年部の飲み会の時、あれこれ三次のことを話していたんです。その場所がお好み焼屋さんだったんで、メンバーの一人が突然、「これ、やろうよ!」と言ったんです。その人は唐麺をその時初めて見たそうなんですが、「お好み焼に入れる麺を唐麺にして!」と頼んだ時に、このお好み焼に名前をつけて看板メニューにしてもっと広めよう!!と。そこにいたみんなは唖然としたんですけどね(笑)。そのお好み焼は「三次唐麺焼」と名付けられました。その定義は、三次の毛利醸造社の「カープソース」の辛口を使うこと、江草商店の唐麺を使うこと、広島風のお好み焼きであることの三つです。それで、三次商工会議所青年部のプロジェクトとして、「広島てっぱんグランプリ」に出て優勝しよう!ということになっていったんです。2013年の初出場では惜しくも準優勝。すごく悔しかったですよ。そして研究と練習を重ね、みんなの力を集結して2014年には見事優勝することができました。
 三次には春の「さくら祭り」夏の「きんさい祭り」「花火大会」があり賑わいます。私はそれに加えて秋祭りがもっと盛んになるといいなと思います。神社の神様は宗教であり、私達の身近な道徳でもあるとても大切なものだと思っていますので。 

☆『辛いんが三次流』の唐麺焼。辛口カープソースと相まって、まさに三次の味です。食べるとそこには軽やかなサンバのリズムが聴こえそう(笑)。熱っ、暑っ~~、と汗をかいて南国気分になりますよ☆ 

 
☆お金では買えない蝶の魅力
曽根 保さん☆

 私の出身は島根県の羽須美村、現在の邑南町です。羽須美の高校を卒業後、大阪で2年間薬屋の仕事をしていました。その後広島で薬問屋に入りましたが、父親の病気などで、三次で働くことになりました。昭和60年頃に荒瀬外科の担当をしていたこともあります。現在は君田町に住んでいますが、結婚して私は入り婿になったんです。この君田町の石原は婿が多いんですよ~。
 私は蝶が好きなんです。でも、それがいつからなのか定かではないんですけどね。小学校、中学校、高校と蝶の標本ばかり作っていました。昆虫全体が好きというわけではなく、とにかく、なにがなんでも蝶だったんですよ(笑)。
 「キアゲハ」という蝶は非常にきれいな蝶なんですよ。記憶をたどってみると、私の子供の頃の4月3日はお節句だったんです。それでお弁当を作ってもらって、子供だけで近くの小さな山に登ったんです。その時、私はキアゲハが緑色の葉の上に、ひゅっと止まったのを見たんです。それはきれいでした。その時からですかね~~、蝶が好きになったのは。
 


 大阪から広島に移ってから、「広島虫の会」と「比婆科学」に入会しました。これは広島県の昆虫を対象にしている会です。蝶の場合、新種というのはもうほとんどいませんが、君田町などで、どんな蝶がいたという報告をしたりします。蝶の飼育をして、写真を撮ったものを出したりもするんです。こういうことは、やりだしたらとても面白いんですよ。奥が深いですからね。
 君田あたりにいる「シジミ」ですが、これはゼフイリスと呼ばれ、ブナ科の植物を食べます。私はこのシジミの卵を冬に採取するんです。雪の中を、木に登って採るんですよ。シジミは新芽の近くに卵を産みますのでね。この卵を家に持ち帰り、プラスティックの容器に入れて冷蔵庫の中に保存します。食べさせる餌はクヌギやカシなどですけど、ちょうど芽が出た良い時期を見計らって箱の中に入れてやります。そうすると、幼虫になったものが木の新芽の中に入り込むんです。幼虫はとても小さくて、0・8mmくらいなんです。それを毎日ルーペで覗いて観察するんですよ。だんだん大きくなっていくのが楽しみなんです。会社から帰宅するのがどんなに遅くなっても、餌をやって糞の処理などをして、毎日世話を続けるんです。自分がご飯を食べなくても、幼虫のための餌を採りに行くのに必死になるんです。餌が無くなるとすぐに死んでしまいますからね。
 もう25年ほど前から、君田小学校の3年生に毎年蝶の話をしに行っています。ちょうど3年生の理科で「モンシロチョウを飼育しましょう」というものがありますのでね。子供たちは喜んでくれます。授業ではないですが、魚釣りも子供たちと一緒にして、あれこれ教えているんですよ。
 子供たちには、人の痛みのわかる人間になってもらいたいと思います。自然の中での色々な経験から学ぶことはとても大きいのですよ。

☆曽根さんは、蝶の魅力はその鱗粉の色、形など大変デリケートなものだといわれます。そして、さなぎから羽化したばかりの蝶は、言葉にならないほどの美しさだそうです。それは、蝶から曽根さんへの感謝を込めたプレゼントなのでしょうか☆
 
☆人形に魂を感じて
       所 秀之さん☆

 私は三次町本通りにある「辻村寿三郎人形館」(2013年10月開館)の学芸員をしています。といっても、出身は東京都清瀬市なんです。何故三次に?と思われるでしょうね。私は2013年に創価大学文学部を卒業して、半年くらい美術館で研修した後、ハローワークで学芸員の就職先を探していたんです。ちょうどこの人形館を開館する前で、学芸員を募集していました。それで東京のハローワークで応募しましたら無事受かりました。でも私は、それまで広島市へも行ったことがなく、頼りにする親戚もいない三次という町で働くことには、やはり不安を感じました。それでも純粋に、美術に関する仕事がしたい!という気持ちが強く、寿三郎先生の人形の素晴らしさを知ってから、たとえ知らない町であっても、学芸員として働くために「三次へ行ってみよう!」と思いました。
 私はもともと、大学とその後研修した美術館で、日本美術や伝統工芸を専門に勉強してきました。寿三郎先生の人形には、そういうものとはまた違った良さがあります。先生独特の雰囲気があり、少し妖しさまで感じるところに魅力があると思います。寿三郎先生の人形は、表面の綺麗さだけではなくて、人間の内面の汚れた部分や醜いものまでをも表しています。2013年までの人形は、背は低めで顔の表情や着物の仕立の細かいところに力が入った人形が多かったんですが、2014年以後は、「源義経」「平将門」「マリーアントワネット」など人形が大型になってきています。
 


 現在開催中の展覧会は「壇ノ浦陰謀説」(平成27年4月18日~平成27年9月27日まで開催)といい平家物語で、「源義経」と「安徳帝を抱き入水する時子」が今回のメインの人形です。皆様どうぞお立ち寄り下さい。
 三次の印象ですが、よく「三次って田舎でしょう?」と聞かれます。でも私の生まれた清瀬市も東京とはいえそれなりに田舎ですよ。家の周りは畑ばっかりですし。田んぼはさすがにないですけど(笑)。清瀬の駅の前にもビルなどはなくて、空が広がっている、という感じです。それで初めて三次に来た時には親近感がわいてきましたよ。でもディーゼルで走る芸備線の列車には驚きました(笑)。東京はすべて電車ですので。 
 私が初めて三次に来た2013年9月、この三次町本通りの石畳の白い色に、青空がきれいに映えていたことを今でもはっきり覚えています。 

☆所さん、はるばる清瀬市から三次町まで来て下さってありがとうございます。芸術の持つ力がご縁なのでしょうか。人間の内面を見事に表わした寿三郎先生の人形を鑑賞した後は、本通りで美味しいお菓子とお茶を頂くのがいいですね☆ 

   
☆山地酪農をめざして
松原正典・郁衣さんご夫妻☆


私たちは三次市三良坂町にある「三良坂フロマージュ」というお店でチーズを製造販売しています。正典は三良坂町で生まれ、その後大阪で育ち高校卒業までを過ごしました。それから庄原の県立農業技術大学校で2年間酪農を勉強しました。
 卒業後は酪農研修制度を利用して、アメリカで酪農を2年間学びました。その後日本に帰国、少し酪農の仕事をしてお金を貯め、今度は1年間オーストラリアの牧場で働いたんです。その経験から学んだのは、アメリカやオーストラリアのような大規模な牧場の機械的飼育ではなく、もっと牛を幸せに飼いたい!ということでした。日本は自然が豊かで緑の多いとても恵まれた国ですので、その風土を活かした酪農をしたいと思ったんです。
 2003年に私たちは結婚し、2004年に「三良坂フロマージュ」を開店しました。すぐに酪農をするのは資金的に大変でしたので、まずチーズ工房を、ということだったんです。最初チーズ作りは独学だったのですが、フランス、イタリアに行きいろいろ学びました。2008年には念願だった酪農を始めることができ、いまではブラウンスイスという品種の牛10頭、アルパインという品種の山羊50頭を飼育しています。
 


 国内のチーズコンテストが2年に一度開かれているんですが、それにうちのチーズも出していたんです。それで毎回出す度に賞をいただいていたんですが、そのおりに、JALのファーストクラスの機内食を扱う専門の会社の方が目にとめてくださって、それからJALのほうでも是非にということで、うちのチーズを使ってもらうことになりました。1年目は山羊の「フロマージュ・ド・みらさか・シェーブル」、2年目は牛の「フロマージュ・ド・みらさか」を出したんです。どちらも白カビの熟成チーズで柏の葉で包んであります。また三良坂店で販売する以外に、三次市のスーパー、広島のレストラン、東京のホテルなどにも納めています。
 チーズのお好みは性別、年齢などでさまざまですが、ワインに合うとなるとやはり熟成タイプの濃厚な「フロマージュ・ド・みらさか」ですね。これは2013年に行われたフランス・トゥールの国際チーズコンクールで銀賞をもらったんですよ。本場フランスからもたくさん出品しているなかで、日本のうちのチーズが受賞したことは本当に嬉しいことでした。
 今後はチーズやハーブティーを使ってランチを提供したり、夏休みなどに乳しぼりやチーズ作りを子供たちに体験学習してもらいたいと思っています。
 三次を若い人たちに大好きになってもらって、若者の仕事の場がたくさんあるように、そして子供たちが、生き生きと幸せに生活できるといいなと願っています。

☆三良坂に美味しいチーズ屋さんあり!という噂のとおり、「三良坂フロマージュ」さんのチーズは自然の恵みに満ちた味がします。それは牛や山羊たちが山里の草を食べ健康で幸せに暮らしているからなのでしょう。そして美味しい乳を出してくれることへの、松原さんご夫妻の感謝から生まれる味なのでしょうね☆
   
 ☆身体と心はつながっています
井原 智恵美さん☆

私は平成16年にフィットネスインストラクターの認定資格をとり、色々なところで活動していますので、皆さんはどんなにか元気いっぱいの人間かと思われるでしょうね。でも今から13年くらい前の私は、それまでには経験したことのない体調不良の毎日が続いていたんです。ウツのような気分で、これではいけないと何かすると、うまくいかなくて余計に落ち込んだりする日々だったんです。耳鳴りがしたり、早朝覚醒したり不眠だったり。そんな時にふと、私は身体を動かすことが大好きだったのに何もしていないな~、と気づいたんです。人からのお誘いにも応じず、自分で垣根をつくってがんじがらめになっていたんでしょうね。若い頃からの自分を否定してしまうほどでした。
 ある日、朝早く目が覚めるのでテレビを観ていると、ラジオ体操をやっていたんです。そうだ、ラジオ体操だ!とやっているうちに、身体を動かすことをもっとやってみたいと思うようになりました。テレビでプールでやるアクアビクスをやっていて、こんなのもいいなぁと漠然と思っていたんです。
 そんな時、今でも忘れもしません!三次フードセンターで買い物をしていたら、小学校の時から水泳をやっている同級生にばったり出会ったんです。その友人から、どう、プールに来ない?と誘われました。その時はとても悩んだんですけれど、勇気を出してトントンと戸を叩いてみました。結局はアクアビクスではなくエアロビクスの養成講座に通うことになったんですが、もしその友人にフードセンターで会っていなかったら、いまのような元気な自分はなかったと思います。



 いま私は大小のバランスボールを使ってフィットネスをやっています。腰痛の方などはリズムをとりながら動くエアロビクスはなかなか難しいのですが、バランスボールはいいですよ~。とっても楽しいんですよ~。椅子がわりに使っている会社などもあるんです。いま体幹を鍛えましょう、とよくいわれますよね。バランスボールで腹筋、背筋、骨盤底を鍛えると、筋肉がほぐれて姿勢が正しくなり代謝もよくなります。そうすると高齢者の方も転びにくくなります。
 私はまわりの方々に本当に恵まれていると思います。自分から声をかけなくても、どんどんお仕事の依頼を受けるようになったんです。現在三次ふれあい会館など各地で、身体を動かすことの楽しさや歓びを指導させてもらっています。以前の私のように、第一歩を踏み出すことが大変なのですが、たくさんの方々に、ぜひ良い汗をかいてスッキリして欲しいと思います。介護予防にもなりますよ~(笑)。

☆荒瀬外科の2軒お隣の井原時計店にお住まいの智恵美さん。いつもはつらつとした笑顔と身のこなし、さすがにフィットネスインストラクターは違うなあ…、と拝見していました。でもその智恵美さんに、ウツウツとした体調不良の時代がおありだったとは。本当に、身体を動かすことは人間らしく生きる源なのですね☆
    
☆走る歓びを知って
         佐々木 智先生☆

三次町で開業しています「佐々木医院」は、私の祖父が始めたものです。といっても最初は旭町にあったということなんですが、私が3歳のときに祖父は亡くなってしまい、記憶はあまりないんです。
 私は広島大学医学部を卒業後、広島鉄道病院、呉共済病院などで勤務していたのですが、平成15年、父が病気で診察が難しくなったことをきっかけに帰郷し跡を継ぎました。
 平成21年の正月のことです。年初めにちょっと一念発起して運動をすることにしました。以前テニスをしてはいたのですけど、その頃は何も運動らしいことはしていなかったんです。最初はウォーキングからはじめて、そのうち近所を走るようになりました。当時私は体重が87キロもありまして、中性脂肪も高かったんです。いまは75キロまで落ちました。
 走る楽しさを知ってからは、フルマラソンに挑戦するようになりました。今回東京マラソンに出場したことで21回目になったんですよ。最初に走ったのが松山の愛媛マラソンでした。それからは下関マラソン、徳島マラソン、神戸マラソン、奈良マラソン、佐賀マラソン、福岡マラソン、熊本マラソン、北九州マラソンなど西日本を中心に走っていたんです。
 

 今回、やっと東京マラソンに挑戦することができました。いままで何度も応募していたんですけど、なにしろ倍率が10倍ですからね、なかなか当たらなかったんです。今回の東京マラソンはフルマラソンでは3万人、10キロコースは6千人が走りました。すごかったですよ。今年はテロ対策で金属探知機のゲートをくぐって中に入ったり、荷物チェックに時間がかかったりして大変でした。
 当日マラソンコース39キロのあたりの一番しんどいところでしたが、私の後ろから高橋尚子さんが応援で走ってこられて、一緒に走ることができたんです。その時は20人くらいの集団でしたが、運が良かったですし、とても楽しかったです!そして私は無事完走して、記念のタオルとメダルをもらいました。ちなみに記録は4時間55分でした。
 三次町もこの頃はお店が増えたりしてにぎやかになってきましたが、私にとっては走るのに環境がとてもいいんですよ。土手などにも夜は灯りがついていますしね。荒瀬先生もお天気のいい日には自転車で走られますよね。そんな先生と時々すれ違います。
 マラソンはこれからの暖かい季節はシーズンオフになりますが、今後も1年に3回から4回くらいはフルマラソンに挑戦するつもりです。

☆普段の静かで端正な佐々木先生とフルマラソン。はじめは少し違和感がありました。しかしお話を伺ううちに、先生の内に秘められたマラソンへの情熱が伝わってきて、マラソンの魅力を感じることができました。これからもお元気で、ますます記録を更新されていかれることをお祈りいたします☆
 
☆んんっ、宇宙人登場?
ティムさん☆

 私は、宇宙生まれの変な宇宙人でぇ~す、なぁんてね~(笑)。本当はアメリカ・カリフォルニア生まれですが、3歳の時に日本に来て、それからはずーっと広島市内で育ちました。
 三次に来たのは2年前です。ご縁があり太歳町の「赤猫」さんに半年いました。いまは、毎週水曜日に移動販売「ミルキーウエィ・カフェ」を三次本通りでやっているんですよ。主にピッツァを販売しています。イベントなどではピッツァだけではなく、スープやコーヒーなどの飲み物、クレープを販売します。スープはなんと365種類も作れますよ。1日に1種類選んで作るんです。夏は冷たいスープですよ。それからクレープは甘さを控えた独特のもので、特製の隠し味をきかせているんです。食べた人は、あっと驚きますよ。自慢のピッツァはすべて手作りで、生地づくりには24時間かけますし、ソースは3日かけて作ります。すべて私のこのトラックの中でなんです。凄いでしょう!
 


 三次に来て良かったと思うのは、夜空がきれいだということです(笑)。というのも、私の趣味が天体観測なんですよ。いま住んでいるところは庄原と三次の中間で、本当に周りに何もない場所で、星がそれはきれいにたくさん見られます。天気のいい日はいつも天の川を見ているんです。天の川はミルキーウェイ、私の店はそれでミルキーウェイ・カフェとつけました。仕事で使っているトラックは色が紺なんですが、それは夜空の色をイメージして選びました。
 私のようによく夜星を見る人は、世の中本当に少ないんですよね~。プラネタリウムは簡単に星を見ることができますが、実際に星を見るには時間がかかるんです。子供は早いんですが、大人だと30分から1時間はかかります。みんなは夜空を見て、「ああ、何にも星は見えん」とあきらめて家に帰るんですよね。でも1時間くらい我慢していると、それはもう夜空は星で真っ白です。すごいですよ~!
 私は土曜、日曜日は主に広島へ、そしてお祭りなどのイベントで各地に移動販売に出かけますが、なんといっても大勢の人に出会える喜びがあります。この間は四国まで行きました。フェイスブックで友達になった人ですが、その人は四国でイタリアンジェラートのお店をやっているんです。たまたま同じ名前だということで、四国まで行き一緒にお店を出したんです。
 今後の三次町ですが、どんどん、どんどん人に来て欲しいですね~。そのための活動もお手伝いできたらいいなと思っています。私のピッツア食べにきてくださ~~い!!

☆ティムさんの焼くピッツァはとても美味しく、少し不思議な味がします。それはティムさんが宇宙人のようにはてしないロマンの持ち主だからかもしれません。三次の町でティムさんを見かけると、「あっ、外国人!」と思われるかもしれませんが、「あっ、宇宙人!」と思われた方がティムさんはきっと嬉しいのではないでしょうか。ユーモアあふれるティムさんですから☆
   
☆懐かしく そして新しい味
皐月 誠さん☆

「お餅とお菓子のピグレット」という完全予約制の工房を三次市山家町に作ったのは、平成19年のことでした。実は私は以前刑務所の看守、特別国家公務員だったんです。高校卒業後から12年間刑務官として働きましたが、そこで目にしたことは、当たり前ですがやはり特別なものでした。本当に勉強させてもらったと思っています。
 結婚と同時にその仕事は辞めました。私のお嫁さんはケーキ店で働いていたんですけど、思うような仕事が出来ないからと、自分の実家のある山家町に工房を持つことにしていました。私は入り婿なんですよ(笑)。そこで一緒にお菓子を作ることになったんです。
 山家町で始めた頃は予約制で、注文を受けてからケーキを作っていたのですが、より多くのお客様に食べてもらいたくて、病院、市役所、介護施設、ショッピングセンターなどに車で行き移動販売を始めました。私は営業向きなんでしょうか。いろいろ問題にぶつかるとかえってやる気がおきます。そのうちデパートの催事やビジネスフェアなどにも参加するようになりました。
 平成24年8月には三次町本通りに「お菓子のお店Piglet」と名前を変え出店しました。
 山家町の頃に最初に手がけたお菓子はロールケーキです。ブルーベリーや無花果など自家製のフルーツを使って、出来たてのものを食べていただく、というコンセプトでした。そのうちドーナツ、レモンケーキ、プチチーズなどを増やしていきました。



 ここ本通りに来てからは、地元の老舗「東地屋」さんの泡雪を使ったロールケーキを作りました。私はこの町が大好きなので、一番古い東地屋さんと一番新しいピグレットがコラボレーションしたことがとても嬉しいんですよ。地元酒蔵「白蘭」さんともコラボして「さくらプリン」を作りました。
 うちで販売しているお餅は自分たちが苗から育てたもち米を使います。三次唐麺焼というお好み焼きにも、うちのチーズ入りのお餅の入ったものを開発し(ピグおこ焼き)、「元祖たむ商店」さんで販売していますよ。そのまま食べてもいいスイーツとして作ったお餅ですが、唐麺焼の辛い麺と辛いカープソースとの取り合わせもまた面白いと思います。
 私は安芸高田市甲田町出身ですが、歴史ある三次町のたたずまいが好きです。残していきたい古い建物や独自の文化を自分たちの世代が維持し、また次の世代へとつないでいきたいんです。古いものが、形を変えて新しく生まれ変わるというのもまたいいですよね。
 うちのお店は小学生からおじいちゃん、おばあちゃんまで幅広く来てもらえます。昭和の時代のような垣根のない地元に密着したお店を開くのが夢でしたので、それがいま実現していることがとても嬉しいです。

☆まだ移動販売の時代に食べたプチチーズ。チーズの香りが口に広がりとろける美味しさでした。これはただものではない!と感じたのを思い出します。いまではドーナツや泡雪ロールなど、どこか郷愁を誘うお菓子が、当院から歩いてすぐの場所で皐月さんの笑顔と一緒に並んでいます☆
 
☆スウィングしましょう 
      小山 直美さん☆

 私は三次市吉舎町の日彰館高校から神戸の甲南女子大学に進学し、短期大学部英語科で学びました。最初は寮に入ったのですが、2年生のときには部屋を借りて一人で住みました。アメリカに留学することに決めていたので、勉強に集中するためでした。その時あの阪神淡路大震災が起こりました。
 卒業後、念願だったアメリカに行きました。とにかく英語を話せるようになりたかったので、短期の語学留学ではなく大学に入ることにしたんです。オハイオ州のマウントユニオンカレッジ(現在はユニバーシティ)に入学しました。学部はそれまで好きだった音楽を選び、声楽とピアノとフランス語を学ぶことにしました。 大学のあるアライアンスはショッピングモールまで車で30分もかかるような田舎町でした。三次のような町だったんですよ(笑)。アライアンスは日本でいうと秋田県に位置し雪が多くとても寒いところでした。白人が多くてどちらかというと保守的なところです。アメリカの大統領選で「オハイオ州を制した者が大統領選を制する」といわれているような。
 フランス語を第2専攻に選んだので、2年生の時にフランスに1カ月短期留学したことが本当に楽しい思い出です。この時滞在したのはPau(ポー) という町ですが、これまた田舎で三次みたいでした(笑)。
 そんな楽しかったアメリカ留学ですが、あの2001・9・11が起ったんです。あの日、朝からテレビでは飛行機がビルに激突する場面が何度も流れていました。後で聞いた話ですが、ペンシルバニア州ピッツバーグに墜落した飛行機は私の行った大学の上を飛行していたということです。
 私はアメリカ人になりたい(笑)!といってアメリカ留学をしたのですが、この事件の後では不思議な感情が支配するようになりました。 アメリカ人の祖国に対する感情はそれは強く、当然この事件に対する猛烈な反応は日本人の私の理解を越えていたのです。アメリカ人の友人にさえもそれを感じました。アメリカが嫌いになったわけではないのですが、「日本に帰る!私がいま必要としている人たちはアメリカではなく、日本にいる!」と…。周囲の反対(こんな事件の後も家族は帰国をうながさなかったのです) を押し切るようにして、私は2年半という留学生活を終えました。

直美さんとジャズウクレレの桑田さん

 今では結婚して三次に住み3人の男の子の母親ですが、ジャズウクレレ奏者の桑田浩さんと出会い、Piccolo(ピッコロ) という名前で音楽活動をしています。私はボーカルと鍵盤ハーモニカです。戦前ジャズ、1930年~40年の音楽ですが、「リンゴの木の下で」、「ブルー・ムーン」、「サニー・サイド・オブ・ストリート」などの名曲があります。
 高校生の時にもバンドを組んで歌っていたのですが、現在のように人様から依頼を受けて歌うということにとてもやりがいと喜びを感じています。多くの皆様に音楽を通じて出会いたいと思っています。 

☆アメリカ留学中に起きた9・11。その衝撃はどんなに大きかったことでしょう。それでもアメリカはやはり直美さんの憧れの地ですね。ジャズの軽やかなスウィングで三次の町や人々を輝かせてください☆
   
☆子供の健康と幸せを願って
          丸本 垚さん☆

 三次人形というのは菅原道真を模った天神さんをはじめ、加藤清正、源義経などの武者物、菊、牡丹を抱いた女物など多くの種類があります。三次地方では旧暦3月3日(現4月3日)に、男児には天神や武者物、女児には女物の人形を買って初節句を迎える子供のお祝をする習わしがあったんです。天神さんは菅原道真で学問の神様ですが、三次では子供の健康を願う守り神とされています。三次人形は、三次藩主浅野長治公が江戸の人形絵師を三次に連れ帰り、宮ノ峡(みやのかい)で忠臣孝子の人形を作らせたのがはじまりといわれ、もう350年の歴史があります。広島県の無形文化財に指定されました。こういう節句人形というのは、東は京都・伏見人形、西は博多人形をモデルにして造られたことが多く、西にいくほど大型のものが多いですね。三次人形も30㎝以上の人形が多いです。伏見など東では10~15㎝の小型になります。
 人形を作るには型を作ってそこに粘土を入れますが、竹を使う型というのがなかなか難しいものです。いまある型は初代か2代目が作ったもので、150年ぐらい経っているんですよ。形成したものを素焼きにして焼き上げ、最後に彩色と膠(にかわ)を塗布します。表面に塗った膠が出す光沢から「光人形」ともいわれます。最初に三次人形を作ったのは、石見国からきた瓦職人の大崎忠右衛門という人でした。1854年(安政元年)のことです。忠右衛門は三次市宮ノ峡で窯を築き人形を作り始めたといわれています。この地の人形は宮ノ峡人形と呼ばれました。明治17年頃に丸本儀十郎が三次市十日市南で新たに人形窯を開いて、華やかで美しい人形を作りはじめ、三代目の藤一の代には第二次世界大戦で休止しましたが、昭和31年に丸本十九瓶(とくへい)が藤一の指導で窯元を復活させ、三次人形として現在に至っています。
 

丸本さんが持っておられるのは
凛々しい武者姿の「馬乗り加藤清正」です

 父は私が20歳の時に亡くなったんです。それまで私は、三次人形を作るつもりは全くありませんでした。大学受験の浪人中だったんです。兄はもう就職していましたし、姉は結婚していて妹は高校生、結局私が継ぐしかなかったんですよ。それで焼き物の勉強のために愛知県の瀬戸市に行きました。1年間基礎的なことを学んで三次に帰り、人形作りをしていた母からいろいろ教え込まれました。
 昔は旧暦3月3日頃に「デコ市」と呼ばれる市が開かれたんです。このあたりでは人形のことを「デコさん」といいますから。お雛様の節句にあわせて三次人形が売られていたんです。昭和の初めまではあったと思います。三次市だけではなく、庄原、東城、甲山などでも開かれました。私の父親の時代は、広島市まで往復3日ぐらいかけて、荷車に人形を乗せて運び売っていたそうです。現在では三次本通りの松本玩具店や市内の玩具店などで販売しています。
☆三次人形は土人形です。郷土の土で焼かれ美しく彩色された姿に、はるか昔からの子供たちへの祈りが偲ばれます。三次人形で祝われた子供は大人となり、また次の世代へと想いをつないでいきます☆
 
☆仏の教えとは
        明山 晃映さん☆

 私は三次町にあります明鏡山照林坊の住職をしております。私で23代目ということで24歳のときに父の跡を継ぎ、もう30年あまりが経ちました。
 照林坊の開基である明光上人は関東六老僧の一人で、親鸞聖人の直弟子でした。鎌倉時代建暦(1212)年に明光は親鸞聖人から「中国西国に下りて法義引通すべき」との命を受け、福山鞆の浦で念仏の教を広め、その後福山市沼隈町に照林坊を建立したのです。慶長7年(1602)年に現三次町に移転しまして現在に至っています。照林坊には、開基明光上人から800年という年月が流れているのです。
 本堂は嘉永5年の建立で160年経っていますが、寺のなかでは一番新しいものです。庫裏が210年くらい、裏に書院と奥には御成の間というのがありますがそれはもっと前のものです。3年前に本堂の修復をしたのをきっかけに、本堂、客殿、御成の間、庫裏、渡り廊下、山門、鐘撞堂、経蔵は、国から登録有形文化財の指定をいただきました。
 昔の寺小屋からの流れと思いますが、三次幼稚園を私の祖父が大正11年に開園しました。広島県で2番目に認可の古いもので、荒瀬先生やカープの梵英心君も通われたと聞いています。多いときは150人くらいの園児がいましたが、少子化で平成16年に閉園しました。
 


 私は京都から三次に帰りましてから、色々な方々とのつながりができました。三次ロータリークラブもその一つで、他業種の諸先輩方から教わることは多いです。7月からは54代会長を仰せつかりまして、私なりのスローガンを考えました。私はお寺の僧侶ですのでお陰様ということを考え、『オアシス』にしました。ロータリークラブは毎週木曜日の12時半から1時間ほど例会があります。この場で異業種の会員の方が、このオアシスで、情報交換をしたり、安らいだり美味しい昼食を頂いたりして、またそれぞれの職場に帰りましょう、という願いを込めたんです。砂漠にあるオアシスのようにです。それに当て字をつけました。オアシスの「オ」はお陰様で、「ア」はありがとう、「シ」は幸せをで、「ス」がすべての人にです。これはロータリークラブの奉仕の精神にもつながるものです。
 私が龍谷大学に入学して最初に習ったのは、「仏になる教え」ということです。仏教を仏になる教えと読むようにといわれました。私たち凡夫は仏になる立場ではないけれど、仏にならせてもらえる教えがあるということです。何年も経った今でも心に強く残っています。
 私の趣味は音楽とゴルフです。三次中学の頃から吹奏楽でトロンボーンを吹いていたんです。三次高校、京都の龍谷大学とずっと音楽に親しみました。大学の4回生の時には、吹奏楽の選抜メンバーとしてドイツに40日行きましたが、とても楽しかったです。
 三次町の本通りは、この頃は余所からの観光客が休日などに歩いておられます。三次町の人口は減少していますが、魅力のある町になり観光などで賑やかになるといいなと思います。照林坊では朝8時過ぎから夕方5時まではどなたでもご自由にお参りいただけます。

☆長い歴史のある照林坊様。周囲の塀には由緒ある寺院の証しとして、5本の線が刻まれています。その住職としての重責を背負い、またロータリークラブでの会長としてのお仕事もご多忙と思います。どうぞご趣味のトロンボーンの音色がお気持ちを癒しますように☆
   
☆美と癒しを どうぞ
    山本 しげ子さん☆

 私は三次町本通りで美容室「髪結(かみゆう)」とエステ・痩身「Canna(カンナ)」を経営しています。といっても、出身は新潟です。主人が三次の人で、お義母さんから「三次の本通りに、三次市の〝空き家対策制度〝があるけど、ここでやったらどお?」と言われたのがきっかけです。美容師の資格を持っているのは娘で、私と息子はエステを担当しています。家族ぐるみでやっているんです。私はエステの資格をとってからもう30年以上がたちました。
 髪結をオープンしたのは、平成17年の3月です。店の名前をカミユイではなくカミユウにしたのは、ちょっとこだわりがあったんです。三次市の方からお店を白壁と格子戸のイメージで作ってほしいと言われました。カミユイという名前は他で聞いたことがありますが、カミユウはあまりないのではないかと思いました。本通りの町家に合うような気がしたんです。
 


 オープンした当時から、いつもお客様の癒しを第一に、町家作りの空間で寛いだ時間をゆったりと過ごしていただけるように、そしてより美しくなっていただきたいと願っています。『髪も顔も身体も』ということなんです。それからフーレセラピーというものも取り入れました。これは手でするマッサージではなく、足を使うんです。フーレとはフランス語(Foulee)で歩幅という意味です。セラピーは療法・癒すという意味です。足のいろんな部位を使い、手の何倍かの力で、撫でたり、さすったり、トントンと叩いたりします。疲れがとれて、リンパや血液の流れが良くなり身体全体の治癒力を高めます。このセラピーは珍しく、広島市内でも3、4店舗、呉市で1店舗そして三次市は当店しかないんです。
 私が新潟から三次に来た当時は、この本通りも空き家がいっぱいありました。このお店の前身も築130年という古い建物でした。びっくりしましたし不安でしたよ(笑)。でもだんだん空き家を改造した店舗が増えてきて、石畳になり、電柱の地中化になったりで趣のある良い通りになってきました。これからも店舗がもっと増えて、発展して賑やかになるといいなと思っています。 

☆町家の美容室とエステサロン、素敵です。ゆったり流れる空気のなかでの珍しいフーレセラピーも体験の価値ありですね。ご家族でされているお仕事、明るい笑い声が通りまで聞こえてきそうです☆

 
☆敗けた学校だったからこそ、
やってみたかった
重弘 和司さん☆


 私は法政大学を卒業後、広島市の三菱重工広島製作所に勤務して社会人野球をやっていました。しかし母親が一人暮らしだということと、やはり故郷三次に帰りたいと思い、平成13年4月から(株)加藤組に勤務することになりました。
 私は三次小学校4年生の時から少年野球をやり始めました。その後三次中学校でも野球部に所属し、高校は広商(広島県立広島商業高校)に入りました。何故広商で野球をやりたいと思ったかというと、昭和57年小学生の時ですが、広商が、甲子園の決勝戦で徳島県の池田高校と対戦してぼろ負けをした試合をテレビで観たんです。確か12対2だったと思います。何故かその試合を見て「広商で野球をやりたい。そしてなにがなんでも甲子園で勝つんだ!」という気持ちになったんです。池田高校のパワー野球に負けたことが悔しくてたまらなかったからです。
 広商野球部は部員が百名ぐらいいる厳しい世界でしたが、1年生の秋からはレギュラーになり、2年生の春には甲子園出場を果たしました。この時は2回戦でPL学園と対戦したんですが、敗けました。やはりパワー野球に(笑)。
 昭和63年、私は3年生になりサードを守り4番を打つようになりました。そして念願の第70回甲子園野球で優勝をすることができたんです。準々決勝は大分県の津久見高校と対戦、5対0で勝ちました。その時のピッチャーは元ヤクルトの川崎憲次郎さんでした。川崎さんの球は速かったですよ。150キロ近かったです。後で川崎さんからは広商野球をからかって、「2ストライクからバント?それは反則だ~」と言われましたが(笑)。準決勝では埼玉県の浦和市立高校と対戦。4対2で勝ちました。そして決勝は福岡第一高校でした。その時のピッチャーがロッテに入団後中日、巨人と移籍した前田幸長さん。試合は1対0で勝ち、優勝することができたんです。いや~、嬉しかったです。

 
 
 三次に帰ってから、私は地元にご恩返しをしたいと思うようになりました。私に出来ることといえばやはり野球です。母校三次中学校野球部の指導をすることになり、もう10年間コーチをしています。子供たちと接するようになって、私の頃と違うことに気づきました。何かに向かっていく(ハングリー精神という言葉は使いたくないんです)ことの表現方法を知らないんです。相手に自分の気持ちを伝えることが苦手です。もっと人に向かって行って、自分の気持ちをはっきり伝えなさい!といつも言っています。いわゆる先輩と後輩という縦のラインも教えます。グラウンドに入って、皆で一つのボールを追いかける時は、それはないです。グラウンドを出たら、ちゃんと上下関係をはっきりとるようにということです。
 私は三次町を元気にしたいんです。そのためには、まず子供です。子供が元気になり、大人になればまた故郷三次に帰ってくるようにと願います。子供が元気になるためには、やはり周りの大人のサポートが必要です。関心と愛情を持って接して欲しいと思っています。  

☆人間にとって大事なものの一つは、信念のもとにひた走る気持ち。そして手にした栄光をまた誰かに手渡すことでしょうか。静かに、あくまで謙虚に話された甲子園優勝!の言葉の数々。それは栄光を手にすることの困難さを強く感じさせるものでした☆
   
☆心はカープの赤い色
宮脇 範榮さん☆

 私は宮脇写真館の五人姉弟の三女として生まれました。宮脇写真館は明治20年に呉市で写真館を始めたのですが、日露戦争が終わり世の中が不景気になったので、大正2年に私の祖母の関係で三次に移り住みました。
 私は昭和32年、25歳の時に結婚して秋田県に住みました。主人は同和鉱業(現DOWA)という会社に勤めていました。会社の転勤で秋田から岡山へ。その後、西宮市の甲子園に13年間住みました。それが、私の野球大好き人生の始まりでした。
 昭和39年、現院長先生のお父様の秀隆先生が、甲子園球場に阪神対南海の日本シリーズの試合を観にこられたことがあります。カープが誕生する以前は阪神を応援する人がありましたから、秀隆先生も当時阪神ファンでした。私が甲子園球場の側に住んでいたので、先生から「今から野球を観に行くから切符を買っておいてくれないか」と、突然チケットの購入を頼まれたんです。慌てて甲子園球場に行ったら、1人1枚しか購入できないと掲示板に書いてありました。先生は3人で観に来られるし、どうしよう…、とすごく焦りました。球場の売り場の人に「広島県の三次から車で野球を観に3人できているんです。1枚というわけにはいかないから、3枚いただけませんか?」と言ったんです。そうしたら係の人に「奥さん、どっちのファン?」と聞かれて、「もちろん阪神です!!」と答えたんです(笑)。そうしたら何と3枚売ってくれたんですよ。嬉しかったです。先生方は良い席だったと上機嫌でした。今でも懐かしい大切な思い出です。


三次町英心会の赤いウインドブレーカーを着て

 私の主人が昭和62年に亡くなり、平成元年に故郷三次に帰りました。近所に岩本義行さんという元プロ野球選手の方がおられて、毎日三次高校へ野球の練習を見に行かれていて、私も一緒に行っていました。そこに梵英心君がいたんですよ。岩本さんは英心君を見て、「あれは身体が柔らかいし、ええ選手になるで~」と言われていました。英心君は予言どおりになって活躍していて私も嬉しいです。
 私は健康そのもののように思われますが、病名のつかない病気に長年悩まされていたんです。三次に帰る前のことです。突然寒気がするなと思ったら、急に震えがきて40度の発熱です。検査をしても何もわかりません。膠原病を疑われましたが、それでもないんです。もうこれ以上の検査はできませんとお医者さんに言われました。それが故郷三次に帰ったら、嘘みたいに元気になったんです。故郷はやはり心も身体も慰めてくれます。三次にはお友達もたくさんいますしね。子供の頃、私は近所の川でよく泳いだんです。今でも水泳が好きで、プールに25年間通っています。クロールで1km泳ぎますよ。この頃は500m泳ぎ、半分はプールの水の中を歩いたりしています。
 私は梵英心君を応援する「三次町英心会」に入っていて、会の皆さんと一緒にマツダスタジアムに応援に行きます。院長先生が会長ですが、先生に負けないくらいの大ファンなんです。

☆宮脇さんに初めてお目にかかった時、その若さと頭の回転の良さと明るくチャーミングな性格に驚いたものです。でもその裏には、原因不明のご病気に苦しまれた時代がおありだったのですね。本当に、故郷の山や川や友はありがたきかな…、です☆
 
 ☆死の淵から生還して
田村謙宗さん☆

 「田村ガラス(株)」は私の曽祖父田村照吉が大正2年に創立しました。私は4代目になります。仕事の内容は、板ガラスを仕入れて、それを切って販売するというものです。今一番力を入れているのは、住宅のリフォームなどで熱を伝えにくいガラスに入れ替えて、お客様から冬の寒さを改善できて快適になったと喜んで頂くことです。住宅の防犯用には、車のフロントガラスと同じ構造で、泥棒がガラスを割っても、ガラス自体は割れますが中のフィルムは補強してありすぐには貫通しないという合わせガラスがあります。昨年秋には創業百年を記念して、三次市内の小中学校にアルミサッシ、窓ガラス等の修理に利用できる金券を贈呈し、災害時に割れても安全な合わせガラスの防災安全ガラスに、三次市内の小中学校の体育館で張り替え工事を行いました。会社の今後ですが、公共事業などですと、仕事としては金額が大きいのですが、現在はそういう仕事の利益はあまりなくなっています。一般のガラスの取り替えなどですと金額は小さいですが、お客様に喜んでもらえるということが一番の歓びになるので、そういう方向にいきたいと思っています。



 平成21年12月8日、私は心肺停止の状態になったんです。くも膜下出血でした。その数日前から頭痛がしていて、おかしいなぁと思っていたんです。でもその時は、インフルエンザばかりを疑っていました。普段頭痛がしても夜眠ると治るんですけど、その時は治らないんです。仕事の打ち合わせを終えて、やはりおかしいから病院へ行こうと思い、三次中央病院へ自分で運転して行きました。あまりよく覚えていないんですが、普通の外来の手続きはせず、救急外来の受付に行ったんです。そこで椅子に座って待っている時に、脳出血を起こしました。すぐに看護師さんに見つけてもらいましたが、すでに心肺停止状態でした。もしも病院に着く前に発症していたら、車の事故を起こしてしまっていたでしょうし、そのまま命を落としていたと思います。三次中央病院で緊急手術していただき77日間入院し、その後三次医療センターに半年ほどリハビリで入院しました。現在は右半身の動きが少し難しいという後遺症がありますが、日常生活は普通に送れていてありがたいと思います。
 私はそれまで、妻に対して頼ろうという気持ちがなかったんです。この病気をしたことで、いかに妻に助けてもらったかと身に染みました。もちろん三次中央病院の先生や看護師さん、三次医療センターのスタッフの皆様にも本当にお世話になりました。心配をかけた両親にも申し訳なく思っています。中央病院に入院していた時に、私が無意識に点滴を抜いてしまうので、手足をベッドに抑制帯で固定されていたんです。見舞いにきてくれた娘が「パパが可哀そうだから、ほどいてあげてもいい?」と看護師さんに聞いてほどいてくれたらしいです。私は頭がぼーっとしていて覚えてないんですけど。以前は家での晩酌が楽しみだったんですけど、思春期の娘の監視があり、食事はお酒が無いので簡単になりました。でも、それもいいかなと思っています。

☆「田村ガラス(株)」の二代目田村 勇氏が『誠実』を社是とされました。また『他人の喜びを吾が歓びとする』という自利利他の精神で会社経営をされ、それを日常生活にも活かしてこられた三代目田村修二氏ご夫妻。生と死の振り子が生に引き寄せられた四代目謙宗氏の幸運はそこに源があるのでしょう☆
 
☆音楽は心のエッセンス
仮野 進一郎さん☆


 私は三次市南畑敷町出身です。広島の大学を卒業して、広島市紙屋町にある現在の「エディオン」本店の6階楽器フロアで7年間勤務しました。でもそこを辞めて、1年間は別の仕事をしていたんですが、結局故郷である三次に帰ることになりました。
 1986年、十日市の中央通りに楽器やCDを扱う「メインストリーム」を出しました。次に畠敷町に移転し8年くらい営業していて、そして現在のこの三次町本通りに一昨年の10月に開店したというわけなんです。ここはいままでと違い、建物は古くて味わい深く趣がありますよね。
 事業内容は最初から同じで、楽器、CD、レコード、音楽もののDVDの新品と中古品の販売です。DVDは店頭には音楽関係のものを置いていますが、それ以外に映画やアニメなども仕入れることはできます。楽器はスペースの関係で、ギターを何本か置いています。あと弦やストラップなどのギターの小物があります。取扱いはギターに限らず、管楽器なども入れることはできます。大型のピアノとかは無理ですけど(笑)。
 昔の中央通りの時代は、中高生がお客さんの主流でした。でもだんだん変化して、ここ三次町の本通りでは、年齢層の高い方がふらっと立ち寄って下さるんですよ。本通りという立地から一見のお客さんがみえたりします。
 うちでは基本的に演歌は置いていないんですけれど、時々注文されるお客さんがあります。まあどんなご注文にも応えさせていただきますよ。



 私の店には、ギターを始めたいという方などにおすすめの入門用のものが多数置いてあります。レコードは中古品で何万円単位のプレミアがついたものがたくさんあります。楽器もそういうものがありますよ。興味がおありでしたら是非お立ち寄りください。 私は楽器はキーボードをやります。音楽仲間とたまに演奏をしたりします。去年11月には三次プラザでライブ演奏をやりました。
 三次町本通りは本当にいい商店街だと思います。でも時代によって色々なことが変化していきますよね。いまは新しいお店が出来てきています。これからもそういう店が増えることで人の流れも変わるでしょう。私としては時代の流れを読みながら、自分のスタイルを大きく変えることなくやっていけたらいいなと思っています 。お店は年中無休で朝10時から夜7時まで開けています。
          
☆荒瀬外科を出て南方向に本通り商店街を歩くと、理髪店、薬局、衣料品店、玩具店、マッサージ店、スポーツジム、造り酒屋、美容室、洋品店、カフェ、スーパーマーケット、菓子店、家具店、雑貨店、時計店、呉服店、写真店などがあります。そして一昨年からは仮野さんのお店「メインストリーム」ができました。のんびり歩きながらあれこれと品物を選べたり、個性的なお店に立ち寄ったりできたら良い時間が過ごせますね。生活のスパイスのような音楽専門店があれば、これはもう『鬼に金棒』です☆
   
☆伝統の味を守って
俵 和正さん☆


 「東地屋(とうちや)」は安政2年(1855年)創業の和菓子店で、三次浅野藩御用達でした。現在私で9代目になります。5代目の俵和助が明治28年に内国勧業博覧会で初めて泡雪を出品しました。京都に旅したときに食べた山芋料理の上品さにヒントを得て考案したといわれています。
 私は福山市で生まれましたが、父の仕事の関係で15歳までは埼玉県に住んでいました。その後三次市十日市町で暮らしていましたが、20歳になったころに、それまで頑張ってきた祖母が東地屋をやっていくのがおっくうになったということで、私にやらないか、という話が持ち上がったんです。それで孫になる私が跡を継ぐことになりました。
 泡雪は卵白を泡立て、寒天と砂糖を溶かしたものを混ぜて作ったお菓子です。卵の黄身を使った玉子羊羹も作ります。私の泡雪に対するこだわりといえば、やはり創業以来の製法をひたすら守り続けているということです。すべてが手作りなので1日24箱分しかできません。
 

看板には「御上菓子所」と書いてあります
風格のある包装紙も素敵です

 『ノジュール』という旅と暮らしの情報誌に東地屋の紹介記事が出てからは、お陰様で三次市内だけではなく、地方からの注文が増えてきました。三次で昔から注文を続けていただくお客さんも多いのですが、地方発送でお送りした方が「美味しかったから、またお願いします」と注文されることもあります。
 ご近所の洋菓子店「ピグレット」さんでは、「泡雪ロール」といってロールケーキの中に泡雪と玉子羊羹を入れてあるお菓子も誕生したんです。なかなかユニークでいいですよね。
 三次町が個性を持ちながら発展していって欲しいと思います。私もこれからあくまで伝統を守って、名菓といわれる美味しい泡雪を作っていきたいと思っています。

☆東地屋さんは三次町の静かな住宅街にあります。看板がなければ、普通のお家と間違えそうです。でもそこでは長い時間をかけて営々と伝えられた和菓子が秘かに作られています。泡雪の名前のごとく、お口の中で甘くふわ~りと溶ける和菓子。お相手は日本茶でもコーヒーでも紅茶でも、そっと寄り添う不思議な優しさを持っています☆
 
☆信仰はより深く
    児玉 哲也さん☆

  私が入った東本願寺系の学校は、最初は1年の予定でした。でもその後、中等科で2年間学びました。1か月に3回通い、お彼岸、お盆、報恩講、お正月の法要の行事に参加しました。私が所属する寺は東本願寺眞無量院で、僧侶として活動するのは京都に限定されています。
 修行内容ですが、仏教、真宗学、声明(しょうみょう・お経をあげること)の3科目を1年間講義を受けました。仏教学は仏教入門から始まり、仏教の根本的な教義を学びます。真宗学は親鸞聖人の教えを中心に、最初は正信偈からです。それから浄土三部経といわれる大無量寿経、仏説阿弥陀経、観無量寿経を学びます。次の年からは仏教入門から仏教学へ、真宗入門から真宗学へ、そして声明もだんだんと難しいものへと変わり、月2~3回のペースで2年間勉強していきました。いまはさらに高等科に進み、お経と真宗学を勉強するために1か月に1度通っています。現在の私の活動は、京都の本山での朝夕のお勤め、各種法要に出仕することと、東山浄苑というところにお墓が3万基くらいあるんですが、そこで墓前勤行をあげるということをしています。
 

2012年10月 東本願寺眞無量院にて

 僧侶になってから何が変化したかといえば、眞無量院の御住職殿(ごじゅうしょくでん)からも「僧侶としての自覚を持て」と言われていますが、自分でも行動や言動が、僧侶としてどうなのか?という“ふりかえり”をいつもするようになりました。介護の仕事をやるうえでも、いろいろ仏教的なものの考え方ができるようになったのではないかと思います。以前の会社での営業の仕事というものが、「競争・競争・競争」だったので、いまの自分はその頃に比べるとずいぶん変化してきたように思います。
 日本の仏教はいわゆる「葬式仏教」になっているようで、葬式という儀式のためのお寺であり僧侶ということですよね。もっと日常的な心の拠り所や、人生を考える指針になるような宗教でなければならないと思うんです。キリスト教や他の宗教も、困った人たちの助けになっていないんじゃないかという気がします。宗教に対する若い人の考え方にも変化があるのかもしれませんが、浄土真宗は本当に良いと思いますので勉強してもらいたいものだと思います。
 私の趣味は読書や映画鑑賞などいろいろありますが、音楽はロック、ブルース、ジャズなどが好きです。最近は昭和歌謡が好きになって(笑)。歌詞がいいですよね。カラオケにも行ったりします。本は院長先生もお好きな村上春樹をよく読みますが、いいですよね。『ノルウェイの森』は30回ぐらい読みました。そんなに読む作品は他にはないです。夏目漱石、芥川龍之介なども好きです。オートバイも好きで、気候のよい時期にはツーリングなどにも行きたいと思っています。
 三次は私の故郷、自然が豊かで食べ物が美味しくて好きです。ただ映画館がないのがね。あったらいいですよね。私が自分で造れたらいいんですけど(笑)。上映会のようなものから始まり、そのうち映画館になればいいなと思います
      
☆日常的な心の平安…。それは多くの人間の願いですね。児玉さんが得られた仏教の教えを、周りの方に伝えていただきたいと思います。お若い頃の龍谷大学学長先生のお話が大きく実を結び、児玉さんをここまで導かれたということに感動いたします☆

 
☆さわやかな求道者
    児玉 哲也さん☆


  私は「サンキウエルビィ(株)介護センター三次」というところに勤めていますが、その前は薬品の卸業「サンキ」でした。平成8年に介護保険が始まった年にサンキが介護保険の会社を立ち上げたんです。いまの会社はサンキの子会社で、平成23年に出向というかたちで働くことになりました。仕事の内容は、訪問介護事業でヘルパーさんを高齢者や障害者の方に派遣して、排泄介助、清拭介助などの身体介助と掃除や料理などの生活援助をします。また視覚障害の方の通院介助もあります。ヘルパーさんは現在12人で私は管理者ということになっています。私の仕事はヘルパーさんの人員確保と利用者さんの獲得のための営業確保などが主なものです。三次市、安芸高田市、庄原市がエリアです。
 


 実は、私は僧侶なんです。私の父は2年前に亡くなったんですが、認知症になりまして、平成12年からの10年の間に、だんだん父親の人格が壊れていく過程を家族として見ていました。私も50歳を過ぎて、サラリーマン生活も晩年に入っていく寂寥感を感じるなかで、心のよりどころを求めていましたし、いままでにはない別の価値観も探していました。そのなかで仏教の『諸行無常』ということについて思うところがあって、そのことを勉強してみたいと思ったんです。もう一つ、私は京都の龍谷大学に入ったのですが、卒業時に学長から、「将来、どこかで働く時、いつでもいいので仏教(浄土真宗)に貢献できることがあったら、是非皆さんの力を期待します」と言われたんです。何故かその言葉が私の頭の中にずーっとあったんです。それに私は大学から奨学金をもらっていました。しかもそれは返済しなくていいというものでした。金額は多くはなかったんですけど、いつかはやはりご恩返しをしなくては…、という気持ちがありました。そんなことも僧侶になろうと思う決断の元にありました。
 実際に僧侶になってみると、現実の生活のなかで、自分は僧侶としてこれでいいのか?という内省が多くなりました。ジョークは別ですが(笑)。私の母親に対しても、こんな物の言い方はやはり良くないなぁ、と思うこともよくあります。
 私が仏門に入ると言ったときに、子供は何も言いませんでしたが、「なんで?」と家内は言いました(笑)。でもその後は何も言わず、平成21年に初めて得度した時、黒い着物と袈裟と袴などを家内が用意してくれたんです。絶対反対、というわけではなくて、仕方ないなぁということだったんでしょう。
 仏門に入るための方法を最初にインターネットで探した時に、西本願寺系ではなくて東本願寺系の施設だったんです。京都の駅前にある教室で、月に1回か2回ということだったんです。京都駅だったら三次から通えるかな、月に1、2回なら何とか出来そうだということで、宗派は違うのですが、同じ浄土真宗ですし、浄土真宗に貢献するということでは、東も西もないんじゃないかと思い、平成20年にここに入学しました。その後は勉強と修行の日々があったのですが、また次回にお話ししたいと思います。         

☆いつも穏やかで優しい雰囲気のなか、時折垣間見える精神の強さは、仏教の教えに導かれたものなのでしょうか。児玉さんはジョークが大好きで、院長との掛け合い漫才のようなやりとりは周りを楽しくさせ、ほのかな安らぎさえ感じます☆
   
☆美味しいパンに魅せられて
小久保 麻里さん☆


 「mugimugi cafe」が三次町本通りに開店したのは2005年のことです。もともとは三次市三良坂町にある「三良坂パン工房 麦麦」というパン屋さんが、三次市のチャレンジショップ募集にこたえ、麦麦で作ったパンをゆったりした空間で食べてもらおうと出店したのです。三良坂から毎朝運んだパンの他に、カレーやグラタン、ピザなどランチメニューがあります。他に見るだけで楽しく、プレゼントにもいい素敵な雑貨や洋服も置いてあります。
 私は広島市出身なのですが、大学卒業後一時他の業種で働いていたんです。でも昔からパン屋さんが大好きで、当時もう27歳になっていたんですが、どうしてもパンに関わる仕事がしたくて。それまでいろいろなパン屋さんでアルバイトをしていましたけれど、スーパーに入っていたり、チェーン店で冷凍の生地を使っていたりで、こんなパン屋さんはどうなのかなぁ?という疑問をもつお店が多かったんです。それでパンのことをちゃんと勉強をしたい!と思い、大阪の辻調理師専門学校の製パンコースに入り一年間勉強しました。
 麦麦のオーナーシェフ(野島 訓さん)もそこの卒業生だったので、学校に求人募集のパンフレットが置いてあったんです。それを見て、絶対ここがいい!とひらめき三良坂のお店に入りました。その後、この三次のカフェの店長を務めています。



 オーナーは三良坂にお店を開く前は、神戸の「コム・シノワ」というパン屋さんで修業し、ほとんどそこを任されるまでになりました。そろそろ自分でお店を開きたいと思っていたときに、三良坂町から小麦を作るからその小麦を使ってパンを焼いてほしいという依頼があって、三良坂を訪れたそうなんです。シェフは岡山県倉敷市の出身ですが、もともと田舎でパン屋さんをやりたいと思っていたこともあり、自然豊かな三良坂を選んだそうなんです。
 パンに対するこだわりはとても強くて、小麦、野菜、果物など地元産のものを使用し、パンに使う天然酵母も自家製です。小麦、レーズン、酒種などから酵母を作るのですが、それぞれの酵母で味に深みが増したり日持ちがしたり食感が変わったりするんですよ。美味しいパンを提供したいといつも思っています。いまはお店のほかにいろいろなところにパンを出しています。東京銀座にある「広島ブランドショップTAU(タウ)」にも麦麦のパンがあります。
 野島オーナーからもいつも言われていることですが、私はいつもお客様に美味しいものを食べたり楽しい雑貨を見たりして、心から満足していただけるように、そしてスタッフ全員ゆったりと楽しく仕事ができて、気持よく接客もできる空間をつくりたいと願っています。         
         
☆三次町本通りの中心地、町家を改装してつくられた「mugimugi cafe」。そこでいつも優しい微笑をたたえた小久保店長さんに会えます。店内に入ると各種焼き立てパンやデザート、可愛い雑貨などが目に飛び込んできて、のんびりゆったりした気持ちになります。さぁて、今日は何を買いましょうか。それともレトロな椅子に座って美味しいランチを食べましょうか。一人で味わうもよし、家族や友人とワイワイ言いながらもよし。素敵な時間が過ごせます☆

   
☆いつも音楽のある場所で
和田 由宇子さん☆


 私は「スナックDuO」というお店をやっています。お店は昭和52年から住吉町のビルの地下にあって、そこで主人がギターの弾き語りをやっていました。「DuO」はお客さんと店との二重奏という意味です。
 私の出身は広島市です。音楽大学を出て、ヤマハの音楽教室の講師の資格をとり、たまたま三次で教えていました。そのころにお店に行き、主人と出会ったんです。主人はそれはハンサムでカッコ良かったんですよ~~。ほとんど一目ぼれ状態でした。結婚して、その時からもう35年の年月が経ちました。
 荒瀬先生も東京から三次に帰られて、お店によく来られるようになりました。当時主人と気が合って、一緒にバンドをやろう!なんて話も出ていたんですよ。まだ先生はバンドを始めておられなかったですから。
 その後、平成5年に内町でこの店を始めたんです。でも4年後には最愛の主人に先立たれて、一時はどうなることかと思いました。幸い男の子が3人いましたから、子供を育てお店を経営することに必死になり、何とかここまで来られた気がします。子供たちも皆音楽が好きで、家族でバンドを作ったことも楽しかった思い出です。
 今数人の子供にピアノを教えているんですよ。子育ての一環みたいに、子供とあれこれしゃべりながらやっています。教えている子供を音楽嫌いにはさせたくないですから、かなり一生懸命です。大人の方も教えたいなと思います。


 音楽の勉強をして中学校の講師もやったことがありますが、このお店でピアノを弾き、お客さんに喜んでもらえて、「あぁ、こういう音楽の活かしかたもあるんだなぁ」と思います。
 このあいだは荒瀬先生に頼まれて、「危険なふたり」という曲の譜面作りをしたんですよ。音をひたすら聞いて譜面を書いている時は、なんにも考えずただ無我夢中!いい時間なんです。まぁ、ず~~っと聞いていたら耳にタコができたみたいで、しばらくあの曲が耳から離れんかったですよ(笑)。
 お店のメニューは、昔から「焼きそば」を作る店で知られていて、ここの焼きそばは美味しいと言ってもらっています。もちろんお酒にあうおつまみなども色々作りますよ。



 三次に来た若いころは、三次を音楽の好きな人でいっぱいにしたい!と思ったんですよ。それが夢でした。でも今の若者って、会話とかが少ないですよね。人間付き合いをもっとしてもらいたいです。こういうお店で、いろんな世代の人と話すことなんかもいいんじゃないかと思います。人生の先輩から教わることはたくさんありますよね。それはしょうもない話もあるけど、勉強になることもあります。私のお店が、ピアノやギターなどの音楽を通して、人間同士の触れ合いの場になれば、とても嬉しいです。
           
☆和田さん、少しはにかんだような、でもはじけるような笑顔で迎えてくださいますね。深い音楽の心をお持ちで、お話される言葉に心地よいリズムを感じます。お店は町の社交場、しかも音楽付き!人々の喜怒哀楽を包み込むその優しさがとても素敵です。先日の卑弥呼蔵ライブで院長のバンドが「危険なふたり」を無事初演できました。ありがとうございました☆。
    
☆三次太鼓の音色とともに
天野 英樹さん☆


 私は三次町大内通りで天野石油店を経営しています。 私が「三次太鼓」を始めたのは、(というか何かに与えられたという感じなんですが)、37歳で青年会議所に入ってからです。ちょうど三次に中国縦貫道が通るということで、三次を通りすがりの町にしてはいけないと、青年会議所の皆でいろいろと考えたんです。そこで郷土色のある「祭り」をしよう!ということになりました。1976年(昭和51年)、それが現在の「きんさい祭り」の誕生でした。その内容は、秋祭りのように神輿を担ぐんじゃなくて、山車を作って吹奏楽部が演奏をしたりするパレードをしようということになったんです。そのなかに三次太鼓という郷土芸能の案もでたんですよ。
 北海道で青年会議所の全国大会があった時、天野宣先生が和太鼓を打たれたんです。その素晴らしさに皆感動して、三次青年会議所も天野先生にご指導いただこうということになりました。たまたま“天野”という名前のご縁で、皆さんから「これは天野君がやらにぁいけん!」ということで私が三次太鼓をやることになりました。
 きんさい祭りが始まって3年目のときに、パレードだけではなくて、みんなが参加できる太鼓のリズムで何かないかと天野先生にご相談して、練り込み囃子の「どんちゃん」ができたんです。三次巴峡の夜を飾る鵜飼の光景を盛り込んだ8拍子のテンポの曲です。どんちゃんという名前は、私が7回目のきんさい祭りの実行委員長だった時に、市民の皆さんから公募した中から選ばれたものなんです。どんちゃんは“大きく・でっかく・思いっきり”というイメージがあるでしょう。 三次太鼓はいままで数え切れない演奏をしてきました。広島フラワーフェスティバルをはじめ、各市町村のお祭りやイベントに参加したんです。思い出深いのはハワイ公演です。2回行きました。台湾での公演もありましたよ。1987年には広島文化賞、2007年には広島県地域文化功労者受賞、三次市芸術文化賞もいただいたんです。何が楽しいといって、芸能人じゃあないけど「よくやったぁ~~!!」と拍手してもらえたら、嬉しくてそりぁ病みつきになりますよ。今まで三次太鼓を続けてこられたことは、私には宝です。



 きんさい祭りも今年は7月27日(土)に開催され、第38回を迎えます。この祭りを郷土芸能としてこれからも残していくことが大事なんです。“地道に・ゆっくり・長く”次世代につないでいきたいんですよ。それにはやはり人と人との触れあいやつながりが何より大切だと思います。いま小学生に三次太鼓を教えています。小学生との触れあいもまた楽しいものですよ。
 私の子供の頃は、三次の秋祭りいうたら学校は昼から休みになったんです。学校から帰ったらまず風呂に入って、それからばら寿司を食べるんですよ。その頃には近所に神輿がきて見に行きました。あのわくわくする不思議な祭りの心が、子供に故郷と自分を結ばせる大事なことじゃないかと思います。だんだん成長すると、あの神輿が担ぎたい!と思うようになったものです。
三次町もだんだん高齢化しますが、皆が住みやすい町になるようにと思います。生れて育ったこの歴史のある町、その歴史をしっかり自信をもって語れるようになればいいですよね。子供から100歳のお年寄りまでが住みやすく、そしてそれぞれがつながりを持てる町になればと願っています。

☆天野さん、三次太鼓での勇壮な姿は人々の心に深く刻まれています。郷土を愛すること、心を開いて一生懸命にやること!が大事なのですね。天野さんのその精神は必ず次の世代に引き継がれていくことでしょう。☆
 
☆いつも明るく前へ!
瀬戸布子さん☆

  私は三次市三次町の生まれで、広島市の理容学校を卒業し免許をとりました。三次からは2時間かけて汽車で通いました。当時はまだのどかな時代で日活の石原裕次郎の映画を、学校をさぼって観に行ったりしたのが楽しい思い出です。
 昭和40年に主人と恋愛結婚してこの「瀬戸理容院」を始めたんです。その前に主人の父が昭和13年に店を出したので跡を継ぐ形でした。
 私は以前は巨人ファンだったんですよ(笑)。荒瀬先生にいつも「あんた~、カープファンにならんにゃ!」と言われていて、「はい、わかりました」と返事していたんですが、梵英心君がカープに入団した時にスッキリとカープファンになりました。英心君は近所で育ったし子供のときから私が散髪しましたから。小さいときから活発でそれは可愛いかったんですよ。いま現役で頑張っていますが、引退したらカープの監督になってくれるのが私の夢なんです。私の店には英心君の写真やカープグッズがあふれるほど置いてあります。色々思い出深い写真もたくさんあるんですよ。
 私の趣味は薙刀で、週に一回お稽古に通っています。もう12年続けているんですよ。いまは初段ですが、もっと若いときにはじめていたらよかったと思います。いまの稽古場には小学校1年生の子供がいますが、やはり小さいときにやり始めると違うとつくづく思いますから。1年に1度全国大会があります。広島県の大会に勝つといけるのですが、私も何度か出場しました。いままでで一番遠かった会場は北は仙台、南は鹿児島でした。
 私は理容師のプライドとして、店の鏡と椅子は自分では決して使いません。鏡も椅子もお客さんのものだと固く思っていますから。お客さんのカットした髪の毛も踏んだりはしませんよ。昔のことですけど、やはり理髪をされていた先生から、「髪の毛は神の毛だ」と教えられたんです。いまでも大事に守っています。
 三次町もいっときは過疎の問題があり大変でしたけれど、ぼつぼつではありますが前に進んでいるという実感があります。本通り商店街も石畳ができたり電柱の地中化など環境がよくなりました。ただやはり高齢の方が多く、なんとか2代目、3代目の方に帰っていただきたいんですよ。就職のことなど容易くはないでしょうけど。それからこの通りにもう少し食べ物屋さんができると嬉しいんです。ちょっとほっとできるカフェもいいですよね。子供が遊べて、親や近所の人がコーヒーを飲んでとか。昔は荒瀬外科のもう少し太歳町よりに「船越食堂」と「梅木食堂」など3軒くらいの飲食店があったんです。有田さんのお好み焼き屋さんもあって。荒瀬外科の前には「大学食堂」もありましたよ。ラーメンが美味しくてね、入院患者さんが抜け出して食べたりして(笑)。
 三次町は荒瀬先生がおられるので住民はほんとうに助かっているんです。荒瀬外科がもしなくなったらどうしようといつも思います。こんな近くですぐに診てもらえるし、入院施設もあるし。いまどきこんなありがたい病院はないでしょう。荒瀬外科がなくならないように、ず~っと存続してほしいと。そして荒瀬先生には元気でいてもらおうね、といつも町のみんなで話しています。



☆瀬戸さん、いつも明るく周囲を楽しくさせる名人です。どこからそのエネルギーが湧くのか不思議でしたが、薙刀でさっそうと戦う強い姿、カープ、梵英心君の必死な応援、三次本通り商店街の発展に愛情いっぱいで尽力されるその姿に秘密があるようですね☆

 
☆故郷、三次のために…
小田 大治さん☆


  いまの日本の抱える問題のひとつに首都東京と地方の関係があります。東京にばかり人が集まり、田舎に人がいなくなり過疎になる状態です。東京は地方に比べて地価が高いし人が多すぎますよ。東京の住民に強制的に地方に移ってもらえればいいのですけど、そうはいきませんよね。
 荒瀬先生にいつもお話ししているんですが、18歳から20歳までの2年間、国のために農業、漁業、林業、そして自衛隊のいずれかに属するという義務を与えたらどうかと思います。農業、漁業、林業ですからこの2年間は地方で暮すことになり、人は田舎に集まりますよ。そのための施設は、地方にはいっぱいあります。2年間の義務をはたしてから、やっと選挙権をもらえるということにしたらいいんです。また大学受験資格ももらえると。そして500万円の納税プリペイドカードが国から支給され、自動車税や消費税などをそこから払うことにするんです。税金の先払いですから納税が毎年確実に増えます。社会に出来たそのお金が、結局田舎のお金として残るというわけなんです。若者も、2年間くらい国のために奉仕すればいいと思いますよ。
 
 それから私は政府を三次にもってきたいと言っているんですよ(笑)。雪が降るというだけであれだけ都市機能がマヒする東京ですよ。それにもし直下型地震が起きればどうなるかと心配です。人が動くということを法律でつくるのは難しいですが、政治家が政治判断をして、自分たちが動こうと考えればいいんですよ。日本のなかでも地震の少ない三次がいいんです(笑)。
 日本という国は不思議な特別な国ですよ。外国からみれば。いつも海外旅行をして思うのは、日本人はやはりどこかズレているということです。日本の常識は世界では通用しませんよ。中国を例にとれば、中国はどこからでも人が入ってこられますよね。陸続きですから。いつ騙されるか、いつ殺されるかというような状況で人々は住んできたんですから、そこの常識でいえば、騙されたほうが悪いということになるんですよ。日本はそんなことはないでしょう。隣の人が鉄砲を持ってるわけじゃないし。でもそういうのを無鉄砲っていうんですよ(笑)。教育の問題にしても、中学、高校と長いこと英語を習っていながら英会話ができないことって変ですよ。みんな変だとわかっても、それを変えようとはしないんですからね。 
 
 私が住んでいるこの家は、元は浅田直吉商店さんでした。10年前、浅田さんがこの建物を取り壊されるという情報を聞きました。この建物は材料がしっかりしているしもったいないなと思い、改築して住むことにしたんですが、土間は道よりも低かったので、泥を固めたタイルを置きました。他にも改築、改装のためにいろいろ苦労をしました。思った以上にお金もかかりましたしね。でもやはり昔の建物、時代を超えた魅力があり素晴らしいです。


浅田直吉商店の時代の風呂敷です

☆十日市方面から赤い巴橋を通り三次本通り商店街に入ると、石畳の町並みにしっくり溶け込む情緒ある小田邸があります。当院とも深いつながりのあった元老舗の薬問屋・浅田直吉商店の建物が取り壊されることなく、町の新しいシンボルとして生まれ変わったことはとても意義あることですね。また三次が日本の首都となるという発想、ユニークで市民は大歓迎です。☆

 
☆素晴らしきロータリアン
小田大治さん☆


  私は三次市布野町で「三次レミコン」という会社を経営しています。仕事の内容は、コンクリートの製造業と建設業、そして運送業が主なものです。近年『コンクリートから人へ』ということで、公共事業が圧縮され私たちの業界は打撃をうけました。いま少し明るさも見えていますが、まだわかりません。
 私の会社では定年を99歳(笑)にしています。うちの会社があり皆さんも元気ならば、ず~っと働いてもらっていいですよと言っています。ですから年齢層は高いです。
 


 ロータリークラブでは荒瀬先生とご一緒していますが、私は現在52代目の会長をやっております。ロータリーというのは国際奉仕団体で、活動の趣旨は『自分の職業を通じて自発的に時間と援助資金を傾注して奉仕する』ということです。ロータリークラブにはロータリー財団という組織があり、奨学金を出して学生を援助したり、日本に来ている留学生を支えたりというようなこともしています。世界中でポリオ(小児麻痺)をなくすための活動をしているのもロータリークラブで、あともう少しでポリオという病気を撲滅させることができます。といっても、アフガニスタンなど戦争や紛争がおきている地区ではなかな困難なのが現実ですが。
 三次は国際ロータリー2710地区になっていて、広島県と山口県のロータリークラブとの合同地区になっています。広島と山口で74クラブあって、それを12グループに分けてあります。三次には、三次ロータリークラブの他に、吉舎ロータリークラブと三次中央ロータリークラブがあります。三次ロータリークラブがホストクラブです。ホストクラブというのは、各ロータリークラブの会合で、世話役となって計画を立て実施の主役をつとめるものです。この地区には他に東城ロータリークラブと庄原ロータリークラブがありますが、それらは三次ロータリークラブが作ったものです。基本的に、ロータリークラブに入会するのは一業種一人ということになっています。ただ最近は業種の幅は広くなっています。
 全国的にそうですが、三次でも公共事業などが少なくなったことで建設業は大変です。若者の働くところがなくなれば、田舎が駄目になっていく状態です。そういうのをチホウショウというんですよ(笑)。
 東京にばかり人が集まって、田舎に人がいなくなる過疎の問題がおこっていますが、来月またそのことなどをお話しさせていただこうと思います。

☆小田さん、ご多忙ななかロータリークラブの熱心な
ご活動本当にお疲れ様です。来月はまた他の分野での深く楽しいお話をお聞きできることを楽しみにいたしております☆

 
☆茶道は心の友
        加笠喜美恵さん

 私が茶道を始めたのはまだ30歳代で、たまたま隣に住んでおられた住司牧子先生のご指導でした。当時は草月流の生け花を、近所の方と一緒に教えていただきました。ですが住司先生は広島に転居され、三次まで教えに来てくださっていたのですが、先生も多忙になられたので、私が広島まで通いました。40年間もですよ。主人の協力があったのでできたことだと感謝しています。
 私が広島に通い始めてしばらくして、院長先生のお母様が一緒に生け花を始められたんですが、だんだん生け花よりお茶を熱心にやられるようになりました。院長先生のお母様はとてもチャーミングで楽しい方で、それは楽しくお稽古をしたものです。お母様からいろいろ学ばせてもらうことも多かったんです。
 私は茶道が本当に好きで、いままで長い間やってこられたと思います。主人を亡くしたあとも、お茶をやっていたことにずいぶん助けられました。一番多いときのお弟子さんは、今から30年くらい前ですが、30~40人もおられたんですよ。茶道と華道の両方を教えていました。今では私も8?歳になりましたので、お弟子さんは10人です。お稽古がある日は、掃除をしたりお道具を出したりで身体はつらいこともあります。帰られたあとも後片付けがありますし。でもどんなにしんどくても、お茶が好きなのでできることだと思います。お稽古の合間におしゃべりをして、若い方が、「ここにきてお茶ができるのが、楽しい!」と言ってくれますので、私も嬉しいんです。若い人からいろいろ学べますよ。ファッションもね(笑)。いままで一番楽しかったのはお茶会です。お弟子さんも一緒にお茶席にいくのがね。みなさんもとても喜んでくれました。一緒に島根県の美術館に行ったことも楽しい思い出です。
 去年の4月29日に「れとりーと三次本通りフェスティバル」があって、栄町の有田さん宅でお茶席をしたんです。たくさんの方々が来て下さって、皆さんとても喜んでおられたんです。お天気もよくてね。栄町の若連中が熱心にいろいろされていたのに感心しましたよ。また今年も参加したいものです。三次町もこんなことで活性化していくことを願っています。



☆加笠さん、長い間多くの方々に茶道と華道を教えてこられました。そのご苦労や喜びはどんなにか大きいものと思います。院長のお母様や児玉順子さんとご一緒に、本宅のお茶室で、お茶を点てたりおしゃべりをされていた楽しそうな声がいまでも聞こえるようです。どうぞこれからもお元気で、茶道の素晴らしさを皆様に伝えられますように☆
 
発酵食品のエキスパート
児玉敏宏さん

  「児玉醤油店」は創業が明治23年で、私が5代目になります。私は平成12年にあとを継ぐために三次に帰りましたが、それまでは大阪、東京、広島で色々な仕事をしていました。
 醤油の原料は大豆と小麦です。大豆は蒸し小麦は炒って熱風にかけてデンプンをα化させるんです。それに麹菌を加えます。醤油麹にさせてから食塩水を入れ5~7か月くらいで出来ます。以前はその後うちで一升瓶に詰めていましたが、昭和47年から60社くらいで出資して出来た広島県の共同工場に運んでいます。醤油は一般的に樽の中では精度のいいものが出来ます。ですがそれをある成分まで塩水で割ってのばすんです。もったいないと思います。私の父親も醤油を水で割るのが嫌いだったんですが、私も一番搾りの未調整ということを重視しています。市販の醤油はある程度水でのばして高温処理しています。その上醤油の裏の成分表に書いてあるように色々なものを調整して入れています。
 


 祖父や父の時代は一軒の家族単位が多く、醤油の一升瓶を6本とか10本とかいう注文が入っていました。私が帰ってきたころにはそういう家庭はごくわずかになって、ほとんどの家庭はスーパーで買うというスタイルになりました。醤油を使われる量は昔に比べたら激減したんです。それで私は醤油だけではなく、醤油をベースにした加工品のポン酢、出汁醤油、麺つゆなどにシフトをしていくようになりました。父は“醤油とはこんなものだ”という先入観があって、加工品はあまり作りたがらなかったんですが、私はほかのものに手を付けるのに抵抗がなかったんです。加工品にシフトしていくようになってから色々な方とのつながりが出来ました。柿羊羹を製造している方から、廃棄する柿4、5百キロを酢にしてくれないかという話があり、柿で出来るんなら林檎や芋もいいんじゃないかと思い、今はそれぞれ柿酢、林檎酢、芋酢を作っています。味噌、甘酒もつくります。甘酒の材料は米麹ともち米で、両方を合わせるとブドウ糖が出来ます。これにはアルコール分はありません。酵母をつけてやればお酒になりますが、うちの甘酒は甘いお粥のようなもので,私が作るのは“食べる甘酒”です。ブドウ糖だけなので、”食べる点滴”というわけです。女性のお通じに良いと言われたり、お年寄りからは、これを食べると風邪を引きにくいといわれます。もちろんこれも三次のお米を使っています。それから私は「三次霧下そば」にも関与しています。私はそばが好きだったので、三次産のそばを作ろうと一連の機械を買いました。刈りとったそばを乾燥する機械、みがき、石抜きするもの、それからそばの選別機。選別したものを石臼にかけてから最後にふるいにかけます。その後は江草製麺所に持っていき霧下そばになるというわけです。そばつゆは私が作っています。
 私がこだわっているのは、広島県、特に三次で出来た食材を使うことです。それから人間の健康にとって大切な発酵食品を作りたいということです。ちゃんと発酵させることが重要なんです。発酵食品は日本の食文化ですから。 
☆荒瀬外科の厨房では、児玉さんの醤油と味噌を使い美味しい給食作りに励んでいます。これからも発酵食品の開発を頑張って下さい。先月11月26日にご尊父児玉一宏様がご逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。☆
   
☆畳職人~西川辰明さん☆

 西川製畳所は、大正13年に私の祖父が始めた店で、私で3代目ですが、いまでは三次町で畳の仕事をしているのはここだけになりました。長男が跡を継ぐために帰ってくれて、畳だけではなく襖や壁紙の仕事を始めたのが5年前です。この頃はアパートなどで畳と壁紙や襖をセットで新しくする、ということが増えましたので。息子ははじめからここを継ぐ気はなくて、以前は大阪でトラックの運転手をしていたんですが、辞めて三次に帰ってくることにしたようです。3年くらいよそで修業をしました。別に私が強制したわけではなく、本人の意思で帰ってくれたんですよ。近所には友人で同じように跡を継ぐために三次に帰った人もいて。
 私の父親の時代は待っていても仕事が入ってきたそうですが、今は環境の変化などでこちらから仕事を取りに
行かなくてはならないんです。息子が帰ってきましたけど、これからまた息子の時代には変化していくんでしょうね。どう変わるかはわかりませんが。
 畳を作るのに今ではほとんど機械を使いますが、材料は昔と全然ちがいます。今はワラを使いません。表も半分以上中国産です。先日の尖閣諸島の問題で、材料が入るのが遅れているんですよ。日本の技術者が中国へ行って、機械も持って行って作ってから日本へ輸出しているんです。国内で生産しているのは熊本県と福岡県で備後はもうないんです。
 畳はボードというものを3枚縫い合わせて作るんですが、その中の1枚にお茶を混ぜて、表にもカテキンを使ったお茶の畳というのがあるんです。抗菌と消臭作用があります。昔は畳の下に新聞紙を敷いてDDTを撒いていましたが、今はDDTは使用禁止です。その代わりにお茶とか炭とかを畳に使ったり、ほう酸のシートを使うんです。年末の大掃除で畳まで上げるのはもう少ないでしょうが、畳にとっては1年に1度でも風を通して掃除することがいいんです。
 畳職人として心がけているのは、とにかくお客さんに喜んでもらいたいということです。他所よりは、同じ値段でもいい材料を使おうとか。これは私の祖父の時代から大事にしていることです。私の父はもう仕事をしていませんが、時々息子に畳作りを教えています。家内と息子とで仕事を頑張っています。


後列左から二人目が辰明さん 三世代同居です

☆西川さん、荒瀬外科のお隣さんで、いつもご家族仲良く仕事をされていますね。仕事場の前を通るとい草の匂いがして、いつもトントンと手際よく作業されています。とてもほほえましく嬉しくなります。☆

   
☆蔵の守り人~ 宇坪涼子さん☆

 私は以前三次駅の隣で「卑弥呼」という喫茶店を経営していたんですが、そこが立ち退きということになり色々候補地を探していました。でもここ三次町だけは住みたくないなと思っていたんですよ(笑)。それが知人からの紹介で540坪の旧万寿の井酒造のこの酒蔵を見てから気持ちが変わりました。ここにはじめて来た日は雨が降っていたのですが、かつては130年間も杜氏たちで賑やかだった蔵が、今では人の出入りがなくなり、土壁ははげて崩れ、風雨にさらされていたるところが壊れてしまっていたんです。私にはこの蔵が理不尽な想いで泣いているように感じました。何とかして蔵を残したいという想いに突き動かされて、2006年に貯金をはたいて購入し三次町に住むことになりました。現在大正12年築の建物を改造した喫茶店「赤猫」と、宿泊施設「青猫」を経営しています。「青猫」は自分が素に戻れる小宿をめざして作りました。蔵の扉を使った玄関を入ると土間があり、冬場にはまきストーブが燃え、各部屋から山に登る月が見え、西城川が望め水音も聞こえます。テレビや電話はなくLAN回線(構内情報通信網)のみです。 
 私は三次町が町ごと博物館になればいいと思っているんです。生れてくる子供たちがこの町に住んで誇りをもってくれるような。子供たちが町を知り観光客などにガイドできたりしたらいいですよね。そういう教育面が充実するというか。でもそれは上から強制的にするものではなく、体育座りをしながら話をして、子供たちが「いいなあ、ここ!」と古い蔵のよさなんかを感じてくれるのが夢なんですよ。



 蔵を残すには存在を広く知ってもらい、蔵で多くの人の足音を響かせるのが一番だと思って始めた「蔵プロジェクト」ですが、今年でもう6回になり9月15日、16日に、「三次町北の蔵プロジェクト」と銘打って神楽を上演しました。音響装置は使わないで肉声のみで演じてもらったのですけど、蔵に反響して味わい深くなりました。「僕らのサードプレイス卑弥呼蔵」と題したパネルディスカッションやジャズライブも楽しんでもらったんです。でもこのプロジェクトも第10回で終了するつもりなんです。その頃にはこの蔵が存続するかどうか答えがでると思うからなんです。
 私のいまの悩みは、雪や雨で蔵が斜めになり壁が落ちていく、梁が落ちていく、それに対応することです。ものすごくしんどいことなんです。でもいろいろな人に助けてもらっています。先日もふらっと京都の職人さんが、屋根の修理をしてくれましたよ。コーヒー1杯飲ませてくれたらいいからと言って。私は神様に会ったことはないですけど、神様みたいな人はたくさん来てくれます。辛いときのほうが人のありがたさがわかるものですね。 私はよくいろんなことに積極的だと言われますが、日々この蔵の中で努力しているだけで、皆さんが「本当に大変だろうね」と思われたときに手を貸してもらいたいので、そんなにぐいぐい行くタイプではないんですよ。「来る人にやすらぎを、去りゆく人に幸せを」、これを蔵の精神に掲げこれからも頑張っていきます。

☆宇坪涼美さん、その発想力の豊かさ、行動力、バイタリティーにはいつも感嘆しています。古くなり、忘れられていた酒蔵を保存していくことの大切さと、壮絶なほどの困難さ!神様はその日々の努力にきっとほほえんでくださることでしょう。☆
 
☆野菜を愛する~景山 守さん☆

  私の野菜は堆肥だけを使った無農薬野菜です。以前は三宅水道という会社で働いていて、85歳まで仕事をしました。65歳からの入社なんで20年務めていたんです。65歳から野菜を作りはじめて、いま91歳になりました。野菜作りは本当に面白いですよ。ほとんど一日中ここで畑仕事をします。
 茄子、胡瓜、ピーマン、トマト、豆類、大根、苺、西瓜、ゴーヤ、葱、玉葱、じゃが芋、白菜、広島菜、南瓜、ホウレン草、聖護院大根、蕪などいろんなものを作っています。でも我が家で食べるのは、ほんのちょっとだけ。人様に食べてもらうのが嬉しいんです。それで荒瀬外科の院長先生や職員さんのところへせっせと運んで、「美味しかったよ!」と言われるのが楽しみです。
 苦労といえばやっぱりお天気で、水は雨水をためて畑まで運ぶんですよ。雨が少ないと土が固まってしまうので必死で耕して水を運ばないといけないですからね。
 野菜作りは全部好きですが、今は山芋を作ってみたいと思って頑張っているところです。うまく出来たらまた荒瀬外科へ持っていきますよ。楽しみにしていて下さい。



☆ 影山さん、いつも新鮮な野菜をたくさん下さってありがとうございます。重い野菜の入った大きなカゴを運んで下さるので「重くて大変でしょう~、すみませんね」と言うと、「まだ若いけえ~~、大丈夫!」とニコニコしながら帰っていかれますね。人間として大切なものをいつも教えてもらい、野菜も美味しく頂いています。どうぞお元気で☆

 
☆梵英心選手のお兄ちゃん、そして
若き僧侶~梵大英さん☆

 私は梵英心の兄ですけど、よく英心に似ているって言われます。顔の部品は違いますけど、なんかシルエットがね。似ているみたいで。英心のファンの人がこの専法寺にお参りにこられて、私を見てびっくりされる…、そんなこともあります。でも私が似たんじゃなくて、あっちが私に似たんですから(笑)。
 父の跡を継ぐために三次に帰ってもう3年がたちましたけど、以前は鎌倉に住んでいて、音楽関係の仕事をしていました。いまの生活とは正反対というか、生活スタイルが全く違いましたね。前は夜中までミュージシャンとスタジオに入っていたりで、そんな生活が8年間続きました。
 専法寺は今の住職である父で17代目、私で18代目になります。以前は真言宗で中所にあったんですけど、この場所になってから浄土真宗に変わり、約500年が経過しています。僧侶の資格、得度というんですけど、剃髪をする儀式を京都で高校生の時にしました。また住職になるための研修期間が別にありまして、それは一昨年すませました



 私はこの専法寺で、『お寺の朝市』などいろんな企画をしてきたんですけど、先月7日に『三次町七夕土曜夜市』という催しをして、500人の方にきてもらいました。地元三次の方や十日市、八次、遠くは東京や岡山からもこられて賑わいましたよ。地元の皆さんもこんなことを待ち望んでおられたのかな、と思いました。浴衣を着て、子どもを連れてね。夜市に出かけるって懐かしい感じですよね。こういう企画はお寺の行事ではなく、場所を提供しているということなんです。その都度地元の本通り商店街や十日市のお店を持っておられる方々で実行委員会というのを立ち上げて、「何かやろうや!」ということでやっています。夜店で屋台のたこ焼きやヨーヨー釣りがあったり、松本玩具店さんが花火を持ってきて子どもたちとやったりです。それから『お寺のショットバー』といって、生ビールサーバーとカクテル数種類を用意しました。それから本堂でお笑いのライブもやりましたよ。お寺なのにこんなことをやっている!というギャップの面白さや楽しさを皆さんに感じてもらったと思います。
 それから檀家の方々に「よくお寺で色々やってですね~!」って言われるんです。私としてはお寺を賑やかにしよう、という気はあんまりないんですよ。お寺で何かをやることで、地域や商店街がより賑やかになっていくということがいいことなんで、お寺がその一端を担えたらと思っているんですよ。それから『お寺の朝市』という催しをやっていますが、春、夏、秋、冬と定期的にやることにしています。お寺の境内が朝市で、お米や野菜、水産物などを生産者の方が持ち込んでくれます。本通り商店街の「エイコーン」さんが珈琲を販売されますので、珈琲を飲みながら、「風季舎」さんの焼きドーナツを食べてお買いものですよ。「やあやあ、久しぶり~」なんて近所の人との会話も弾みます。お寺が地域交流のお手伝いをさせていただけたらとても嬉しいんです。葬儀や法事ももちろん大事ですが、お寺が地域の喜びの場になるのもいいことだと思います。

☆大英さん、いつも素晴らしい企画で町の皆を驚かせたり楽しませたりして下さってありがとうございます!僧侶姿も素敵ですね、これからもご活躍下さい。☆

   

☆優しい気遣いの~天野芳明さん☆

 私は現在コンビニエンスストアー「セブンイレブン」三次巴橋西店を夫婦で経営して、もう5年たちました。その前は建設業「天野工務店」をやっていましたが、建設業は当時不況で、いつも「ここで何とかしたい!」と思っていたんです。そんな時今のお店の前を通りかかったら工事中で、「何ができるのかなぁ?」と見ていましたら、それはセブンイレブンだったんです。そしてそこにオーナー募集の看板が出ていました。もう建設業では生きていけない…、という切実な気持ちでしたから、「これだ!!」と思ってすぐに女房に相談したんです。夫婦での経営が条件だったですから。「お父さんがそう思うんなら、やったら」と女房が言ってくれたんです。それで天野工務店をたたむ決心がつきました。従業員さんには誠意を尽くしたうえで新しい第一歩を踏み出しました。
 研修は東京で2週間、広島で1週間あったんですけど、本当に大変でした。でもまあ何とかクリアしてオープンの日を迎えました。最初はお客さんが来てくれるかなぁと心配していましたら、三次町の皆さんがたくさん来店され、そうそう荒瀬先生にも開店祝のお花をいただきました。あれから5年たちましたけど、いまあの時の決断は正しかったと思います。



 苦労といえば、品ぞろえです。お客さんがこられて希望の品がない時は、申し訳ない気持ちでいっぱいになるんです。だから発注するのを多めにしてしまい廃棄が出てしまいます。それはもったいないのでバランスをとるのに苦労しますね。それからお客さんから従業員教育が出来ていないとか、商品のことなどでクレームがくるのが恐いです。
ですからお店をいつもきれいにして、従業員教育も頑張るつもりなんです。
 いまでは三次町の人から「セブンイレブン」ではなく「アマノセブン」と言われるんですよ。苦労は多いですけど、お客さんから「これ美味しかったよ!」とか「来て良かったよ!」と言われると嬉しいですし、三次町の活性化にも役立てたらもっと嬉しいです。

☆天野さん、これからも町のコンビニ「アマノセブン」頑張って下さい。天野さんの笑顔は周りを幸せにします。☆