花街柳巷
蒼を背景に、白が流れていく。
解け、結び、再び解けていく白。
白が解けた先にうっすらと見える蒼。
夏が、来ている。
と。
雷鳴。
あ、という間もなく――雨が風を濡らした。
蒼は駆逐され、灰色が天蓋を満たす。
木々も。
街も。
そして人も。
雨に打たれていた。
雨上がり、洗い流された蒼が姿を現した午後。
冬哉は思わず素っ頓狂な声を上げていた。
「・・・はぁ?」
目の前にいるのは、北斗の恋人である奏。
「あのね。本気で言ってる?」
半眼で、正気かどうかを問うてみる。
「本気だけど。美咲さん、最近すっごく綺麗じゃないですか」
どうやら本気らしい。
「どこからそんな言葉が出てくるんだ?そもそも美咲はすぐ怒るしすぐ殴るし」
続けようとして、冬哉が感じたのは殺気。
「ふふふ、そーゆーこと言うんだ」
嫌ーな予感を感じて振り向くと、美咲はにっこりと笑っている。
引きつった笑顔かというとそうではない。
目だけは笑っていないかというとそうでもない。
怒りなど微塵もない様な笑顔なんだけど。
「美咲さん。あなたのその、『ああ可哀相にねぇこれから自分に降りかかる悲劇も知らないね』と言いたげな、そこはかとなく悲しみのこもった笑顔は一体?」
冬哉の疑問に答える様に、美咲は何かを包んだ両手を突き出した。
子供が自分にとっての宝物を親に見せるときのように。
そして。
「ほら」
「どわぁっ!」
美咲が手を開けば、右手に乗っかっていたのは緑色の小さな生物。
その背中を美咲がちょいとつついたならば、緑の存在はぴょいんと跳ねた。
跳ねた先は、冬哉の腕。
そして腕を、上がっていく。
ぺたしぺたし。
けろけろ。
けろけろけろ。
ぺたしぺたしぺたし。
「――――!」
声にならない悲鳴。
確かに腕を振るえばカエルは腕からは離れる。
しかし、どこに行ったか解らなくなる。
それは絶対に避けたい。
意志の制御から離れた左手で払えば――ともすると、常世送りにしてしまう。
それこそ限りなく避けたい。
為す術もなく、腕を登るぺたんぺたんとした触感に耐える。耐える。耐える。
などと耐えることが出来るはずもなく。
「・・・耐えられっかぁっ!」
冬哉、疾走開始。
「あ。やりすぎたかな?」
しまった、といった口調の美咲の呟きが、僅かに冬哉の耳に届いた。
どれくらい走ったろうか。
辿り着いたのは公園。
後ろを振り返り、誰もいないことを確認すると冬哉はにやりと呟いた。
「ふん、まだまだ甘いな美咲さんよ」
右腕にくっついたままのアマガエルを左手で包み込み、紫陽花の葉に移す。
「ほれ行け」
アマガエルは何だか名残惜しそうにしていたものの、大人しく紫陽花の枝に飛び移った。
「・・・ふぅ」
冬哉は安心したように溜息。脂汗が流れている辺り、どうやら我慢をしていたらしい。
「よくよく慣れないなぁ・・・」
その声に反応したのか、先ほどのアマガエルが冬哉に向き直った。
「くっ!」
思わず一歩後ずさったところで――
「カエル、嫌いなんですか?」
声をかけられた。
「とてつもなく苦手ですってうわぁっ!」
「?」
きょとんとした目で見ているのは、ここ最近出会うことの多い美咲と同年代の女性。
冬哉ががっくりと肩を落とし、
「やられた、秘密を知られてしまった」
と呟いたなら、彼女は笑ってこう言った。
「やった、秘密を知ってしまいました」
2人で公園を歩く。
木々の緑を眺めながら、真面目な顔、真面目な口調で冬哉。
「アマガエルとか、小さいのなら直視出来ますけどね。トノサマガエルくらいの大きさになると駄目です。ウシガエルになると・・・もぉ声もあきません。泣いて謝りたくなります」
「はぁ」
「他のでしたらねぇ・・・声だけなら平気なんですけどね。あれは駄目です。第一、声に可愛げがない!う゛もぉう゛もぉという重低音!」
拳を握って力説。
「言うならばコンサートに紛れ込んだ携帯の呼び出し音!全てを壊す不協和音!」
「な・・・なんでそこまで・・・」
思わず冷や汗を垂らす『彼女』。
そんな『彼女』に冬哉は懐かしむように答えた。
「トラウマがね・・・あるんですよ・・・」
「トラウマ、ですか・・・」
『彼女』はそれだけ答えた――そうとしか答えることが出来なかった。
「でも、紫陽花に雨蛙って絵は――嫌いじゃないんですよね。不思議なことに」
「触りたくないけど?」
「触りたくないけど」
笑いながら、歩く。
木立を抜けて吹く風が、翠色に染まったかの様な錯覚さえ感じる。
「夏、か・・・」
「夏、ですね・・・」
誰に言うともなく呟いた冬哉に答えるように、『彼女』も――誰に言うともなく呟いた。
名前を知っているわけではない。
仲が良いというわけでもない。
時々出会うだけの――ただの、知り合い。
しかし何となく、本当に何となく感じる懐かしさに冬哉は『彼女』に手を伸ばしかけて――止めた。
らしくないなぁ、と苦笑して。
縁があればまた会える、と自分を説得して。
「じゃ、また・・・どこかで」
微笑って、さよならを告げる。
彼女は意外そうな顔と、少しだけ――哀しそうな表情を一瞬だけ見せて。
「ええ。また・・・どこかで」
さよならを告げて。
そして2人は別れた。
別々の方向へと。
「ぐーてんたーく北斗、元気かぁ?」
四季彩館の扉を開けつつ声をかけたなら、
「・・・冬哉。またサボりか?」
溜息混じりの北斗の声。
「さぼりじゃないぞ」
と言い返し、
「じゃぁなんだ?」
と言い返されて。
冬哉はとてもとても哀しそうな声で――しかし笑いながらこう言った。
「美咲にいぢめられたから逃げてきた」
「?」
怪訝そうな表情の北斗に、冬哉は短く。
鳥肌を立てながら。
遠くを見つめて、呟いた。
「アレをね・・・」
「ああ。アレをか・・・」
同情に満ちた目で北斗は冬哉を見、
「辛かったな・・・」
ぽむ、と肩を叩いた。
しばしの沈黙が保たれて――冬哉は不意に口を開いた。
「北斗・・・」
「ん?」
アイスティーを一口飲んだ北斗に、問うというよりも確認する。
「今年も、行くんだろ?」
「ああ・・・」
その答には澱みはない。
迷いもない。
「でも今年は――一人じゃないんだよな?」
「ああ・・・」
しかし今度の問いに対する答は――どこか、遠慮しているような響きがあった。
冬哉は苦笑。
「バカ。何て顔してんだよ。笑ってろ笑ってろ。でないと彩さん、心配するぞ?」
「お前は・・・」
何か言いかけた北斗を遮り、冬哉はやや強い口調で断言した。
「違うって。引きずってる訳じゃないよ。15年も昔だよ?」
「嘘だな・・・お前、まだ引きずってる」
そう言った北斗は、親友を心配しきった表情で。
しかし、冬哉は――笑顔で。
どこにも傷のない笑顔で答えた。
「引きずってないって。憶えてるのと、引きずってるのは――違うだろ?」
「じゃぁ、何で」
なら、と北斗が投げかけたのは恋人とかを作ろうとしないんだ、という問い。
それに対しても冬哉は飄々と。
「縁がないんじゃない?」
と。
北斗は思わず大きな溜息をついた。
「・・・・・・」
「何だよ呆れた様な顔して」
それは呆れるだろう。
何しろ――北斗とつるんでいた頃の冬哉はそこそこ人気があったのだから。
だから。
苦笑したのだが。
「呆れてんの。まぁ、鈍いなとは思ってたけど」
「放っとけ。・・・気付いてないわけじゃなかったよ。ただ、さ・・・言葉にしなきゃ――何も、通じない。何も言葉にしないで気付いて欲しいってのは――違うだろ?」
冬哉は一見笑っているようには見える。
しかし、目は笑っていない。
だから北斗は怒鳴ろうとして――止めた。
「・・・俺は、さ。好きだとか、そう言うのは――ちゃんと、伝えて欲しいし――伝えたい。そう思ってるから・・・傲慢、なんだろうけどさ」
そして北斗に答えるように、冬哉はそう言って笑った。
「伝えられるのか?」
という、思わず漏れた問いに。
「伝えるさ。好きだ、と迷いなく言える人を見つけ出せたらね」
迷い無く、答える冬哉に。
「そっか」
北斗は安堵し。
「それで、だ。冬哉」
残酷な事実を教えるために、口を開いた。
「ん?」
そのときの冬哉の表情は、嫌な予感半分。わけわかんない半分。
北斗はそれを満足そうに眺めて、冷たく優しくこう告げた。
「お前にとってはとてもとても辛いことになるのだけど・・・あっち、見てみな?」
「ああ・・・」
目を向けた先は、四季彩館の扉。
ドアベルの音とともに、誰かが入ってきて。
「・・・・・・」
にっこりと笑う。
――美咲だった。
冬哉は冷や汗を一筋垂らし。
「離脱!」
疾走開始。
「あ、逃げたっ!」
「ああ逃げるっ!」
「なんで逃げるの冬哉!」
「追いかけてくるからだ!」
妙に楽しそうで。
北斗は苦笑を漏らし、2人を見送った。
穏やかに、雲は過ぎゆき。
穏やかに、風は流れる。
日は昇り、日は沈み。
月は昇り、月は沈む。
なんて事のない毎日。
なんて事のない日常。
しかし、確実に――
そう、確実に変化している。
確実に傷は、癒えている。