海潮音
僕は、彼女が好きだった。
彼女も、僕を好きだった。
僕たちはずっと一緒にいたかった。
それは好きあっているなら当然のことなんだと思う。
でも、僕たちにはそれは許されなかった。
なぜなら僕と彼女は――
違う存在だったのだから。
僕が彼女に出会ったのは、春の海だった。
僕は何となく――そう、何となく海に来ていた。
特に理由があったわけではない。
多々単純に、黄昏の海が見たかった。
ただそれだけ。
海浜公園に車を停めた僕は、そのまま堤防を乗り越えて海岸を歩いていた。
金色に染まる海。
なんて、綺麗で。
なんて、儚くて。
でも、心が癒される――
そんな、海。
「・・・ふぅ」
僕は大きな溜息一つ。
いきなり何の脈絡もなく海に来たのは良いけれど。
何しろ綺麗だったから。
それでもやはり、何となく寂しいなんて思った。
多分、僕は――独りに、疲れていたのだろう。
そしてぼぅっと沈みゆく太陽を見ていた。
金色。
藍色。
赤。
紫。
そんな色に染め上げられた空。
何故か、泣けて。
そんな僕に、彼女は声をかけた。
「ねぇ、辛いの?」
と。
正直言って驚いた。
人の気配なんてなかったし、そもそも声をかけられるなんて思ってなかったから。
驚いている僕にお構いなしで、彼女は心配そうに
「何が辛いの?」
と訊いてくる。
見透かされてしまった気恥ずかしさからか、僕は黙って立ち去った。
もう、会うこともないだろうと思って。
でも、それは大きな間違いだった。
黄昏時の海。
僕はまたあの場所に来ていた。
期待していた訳じゃない。
むしろ、会いたくなかったと思う。
でも、彼女はやはりそこにいて。
僕に問いかけた。
「辛いの?」
と。
そのときの僕は多分疲れ切っていたのだろう。
「ああ・・・」
と、そう答えてしまっていた。
彼女はそう答えた僕に一歩近づいて。
顔を見上げて、言った。
「じゃ、遊ぼう?」
と。
面食らった。
まさかいきなり遊ぼうなんて言われるなんて。
でもまさかはいそうですかと答えるわけにも行かず黙り込んでいた僕を彼女は強引に引っ張って。
海に、突き落とした。
「わ、何する!」
と思わず怒鳴った僕を一体誰が責められる?
何しろ季節は初春。
海の水はまだまだ冷たい。
正直言って心臓に悪かった。
もの凄く。
がたがた震えている僕を、彼女は楽しそうに見て――
走り去った。
そのとき僕は決心した。
きっと仕返ししてやる、と。
それから――
僕と彼女の奇妙な関係が始まった。
「ははっ!あたしの勝ちー!」
とはいえ結局負け続きで、彼女に仕返しできなくて。
季節は過ぎていった。
夏。
夜の海、遠くの花火の音を聞きながら、濡れたままバカな話をしたりした。
秋。
午後の海、青い空を見上げながら子供の頃の話をした。
冬。
早朝の海、雪に手を伸ばしながら寄り添い初めて抱きしめた。
そう。
僕は――
いつの間にか、ここでしか会えない彼女に恋をしていた。
それは多分、彼女も同様で。
でも、それだけ――
僕と過ごす時間が積み重なった分、彼女は嬉しそうな笑顔を見せてくれた。
でも、僕も本当は気付いていた。
彼女の表情が、どこか辛そうな風を纏わせていることに。
そして春。
彼女と出会った季節――
「ごめんね」
金色に染まる海を見ながら、彼女はぽつりと呟いた。
「ごめんね」
そしてもう一度。
僕は、何を言っているか解らない、といった表情をしていたんだろうと思う。
「あたしは――あなたを、引き込みたかった」
辛そうに言ったのはそんな言葉。
「本当はね――あたし、もう死んじゃってるんだ」
何でもないことのように、彼女はそう言って。
僕から一歩離れた。
「寂しかったんだ。
独りで。
だから、誰でも良かった」
懐かしむように。
自嘲するように。
「そう。
誰でも良かった。
そのはずだった。
だからたまたまあたしを『見てしまった』あなたを――
あなたを殺してしまって、ずっと側にいてもらおうと思った」
なんて。
なんて、現実離れした。
なんて現実感のない。
でも、それは――彼女の真実。
「最初に海に落とした時ね。
そのときにあなたは死んじゃうはずだった。
心臓、苦しかったでしょ?」
その言葉に、僕は黙って肯いた。
「でもね。
駄目だった。
苦しそうなあなたの顔を見た瞬間――
力が、抜けちゃった。
でも、そのときは良いやって思った。
殺すならいつでも出来るから」
ぽつり、ぽつりと。
「でも・・・
でも、駄目だったね。
殺せなかった・・・」
僕は思わず彼女に訊いていた。
「・・・なんで?」
彼女は、軽く笑って――
答えた。
「あなたのこと――
好きに、なっちゃったから。
狡いよ。
好きにさせて」
そして、悪戯っぽく笑って――
一歩、後ろに飛んだ。
「でも、信じてね。
あたしが――
あなたを好きになったのは、嘘じゃない。
絶対に嘘じゃない。
だってほら。
あたしは今――」
こんなにも幸せなのだから、と。
今まで見せたことのない、最高の笑顔で。
彼女は言った。
でも、その姿は――
現実感なんかなくて。
今、彼女がそこにいるかどうかさえ解らないほどに現実感がなくて。
僕は思わず手を伸ばしたのだけど。
彼女に、届かない。
「あ、もう、か」
虚ろなまま、彼女。
「あはは・・・
ねぇ。
本当は、消えたくないよ。
ここにいたいよ。
あなたと一緒にいたいよ。
ずっとずっと一緒にいたいよ!」
そんな、彼女の嗚咽にも似た声。
僕も、答えた。
「僕も――
僕だって、一緒にいたい!
だから――」
僕を殺してしまえばいい、という僕の言葉は――
彼女に遮られた。
「――駄目。
それは、駄目。
だって、私は――」
あなたのこと、本当に好きだから。
それは、言葉にならなかった。
彼女は、風に――
海の風に、消えてしまったから。
でも、彼女が最後に残した笑顔は――
どこか、子供っぽくて。
どこか、切なそうで。
どこか、懐かしくて。
でも、僕が大好きだった――
本当に大好きだった、そんな笑顔だった。