一緒に行けたらどんなにも〜金魚草〜





 街中に愁いの色が散りばめられる季節。
 あたしは悩んで、悩んで、悩み抜いて。
 何とか答を手に入れようともがいている。
 何とか、欲しいものを手に入れようともがいている。
 そんなあたしの指の隙間をすり抜ける風は肌寒く、晩秋の香りを運んでいる。
 その、香り。
 そう言えば、去年も一昨年もこの匂いがしてたっけ。
 遠くから聞こえるその音に、秋は否応にも深まっていく。
『石焼き芋ぉ〜栗より美味い十三里〜』
 ああ、秋だなぁ。
 ・・・誰?なんだ食い気かって言ってるのは?
 悩んでてもね、お腹は減るでしょ?





 永倉仁紀は嬉しそうに石焼き芋を抱えた碓井奈月を見て、苦笑しながらこう言った。
「お前、よく食べるね」
 その言葉をどう受け取ったのか、奈月が浮かべたのは不敵な笑み。
「笑止!美味しいものは食べるのが礼儀!違う?」
「いや、大いに賛成。というわけで一個くれ」
 ちゃい、と出された仁紀の手。
「仕方ないなぁ」
 奈月は勝利者の表情でその手に割と大きめの芋を一個のせた。
「お、ありがと」
 にか、と笑い、仁紀は芋を一口。
 習う様に奈月も芋を一口。
「あ。これは・・・この芋の品種は・・・」
「間違いない、ベニアズマだ!」
 奈月の言葉を補足する様に、仁紀。
「泣かせるよね、金時じゃなくてベニアズマ使うなんて!」
「うん、やはり秋はいろいろ美味しくて良いなぁ」
「そうだねー」
 顔を見合わせて、二人はあははーと笑っていた。
 悩みを、表面に出すことなく。


「駄目、だな。どうしてもあんな話になっちまうな・・・」
 先ほどの奈月との会話を思い出し、仁紀は苦い表情を浮かべた。
「何でこうなるんだろうなぁ?一言・・・たった一言でいいのに」
 その声に含まれるのは自嘲。
 その表情に浮かぶのは焦燥。
「・・・要するに、不安なんだな。どうしようもなく」
 このままで良いのか、と自問する。
 このままじゃ駄目だ、と自答する。
 ならば。
「相談、するか?・・・でも誰に?」
 誰に相談すればいいのだろうか。
 思い当たる人物といえば――
「北斗さんか・・・あるいは、そうだな」
 そこまで思考して、顔を上げる。
 前方3.8mに、見慣れた後ろ頭があった。
 だから、という訳ではなかったろう。
 つまり、そこまで切羽詰まっていたのか。
 気付いたら声をかけていた。
「これこれそこ行くみーさんや」
 何とも気合いが抜けていくが、仕方ない。
 あくまでも自分はこのペースを守らなければならないのだから。
「・・・その呼び方止めて欲しいんですけど、永倉さん」
 振り向いたのは、美咲。
 その顔に苦笑を浮かべつつ、美咲は何の用かと訊いてきた。
 うむ、と仁紀は頷いて、
「ちょいと相談事があってな。お前さんのバイト先の店長紹介してくれい」
 とりあえずこう言ってみたら、美咲はにや、と微笑っていった。
「・・・四季彩館のケーキセット」
「うわ、えげつな!」
「取引と言ってよ取引と。で、どうするの?」
 どうしたものかと悩む仁紀に、美咲。
「秘密は守りますよ?あたしも、冬哉も。
 止めておいても、誰にも喋らないし」
 それは信頼出来る。
 美咲は口が堅いことでも有名だったのだから。
「・・・仕方ない。その条件、飲んだ」
「おっけです。じゃ、ちょっと待ってて下さい」
 美咲は仁紀の答を聞くや、携帯電話を取り出した。



「暇だ・・・」
 土曜日。
 普段ならそれなりに人が出ているはずの商店街も、さすがに寒さのせいか行き交う人は少ない。
 しかも今日は美咲は休み。
 ここぞとばかりに四季彩館に逃げ出しても良いのだが、もしも出会ったらそのときこそが恐ろしい。
「しゃぁないなぁ」
 呟き、
「寝るか」
 冬哉はいつも花をラッピングする机に突っ伏した。
「寝ないで下さいよ・・・」
 ふと、響いてきた声に突っ伏したまま答える。
「いや、だって眠いし。選び終わったら声かけてくれたらいいから」
 その声の持ち主は溜息を1回だけつき、本当に疲れた声を出した。
「あのですねぇ・・・」
「はは。さすがに冗談ですってば」
 ひょい、と冬哉は身を起こした。
 その表情のどこにも眠そうな風情はない。
 つい、と彼女の頭越しに幾つかの花を選んでいって。
「今日は・・・そうですねー。こんなんどうです?」
 軽く、束にしてみせる。
 選ばれていたのはかすみ草と、ユリ、金魚草。
「・・・どうでしょ?」
 少しだけ不安そうに聞けば。 
「わ。なんだか落ち着いた感じです。
 金魚草もなんだかかわいいし」
 彼女は気に入った様で。
「ん。少し寒くなって来たから、こんな暖かい色の、いいかと思いまして。
 では、これで良いですか?」
「はい、勿論ですよー」
 にっこりと彼女は笑い、だから冬哉も微笑った。
「んでは、お代は3,500円ですねー」
「はい」
 花を手渡し、代金を受け取りながら――
「でも、よく来てくれますねー。何だか、嬉しいです」
 冬哉は不意にこう洩らした。
 その言葉に、彼女は嬉しそうな表情で、でも少し狼狽えた様な声を上げた。
「え!?え、ええ」
「花がよっぽど好きなんですねー」
 その瞬間。
 彼女は、少しだけ切なそうな表情を見せて。
「そう、ですね・・・」
 呟いた。
「好き、です」
 その瞳の色に、冬哉は息をのんで。
「・・・それじゃ」
「あ・・・はい。どうも有り難うございました」
 去っていく彼女を、ただ見送った。
 そして、苦笑。
「・・・何ドキってしてんだか、俺も」
 だけど、と呟く。
 ――なぜ、こんなにも気になるのだろうか?
 思考の海に沈もうとするのを止めたのは電話のベル。
「はい、花信・・・」
 全てを言い終えないうちに聞こえたのは、やたら元気な声だった。
『やっほー、冬哉?あたしあたし』
「あーはいはい美咲さんですか。・・・で、何の用?」
 何か考え込む様な冬哉の声に躊躇しつつ、美咲は要件を告げた。
『あのさー、冬哉。また相談受けちゃってさ。これから連れてきていい?』
 ふぅ、という吐息。
『冬哉?どしたの?』
 心配する様な美咲の声に、ようやく現実に戻ったのか。
「また厄介なことに首突っ込んで・・・今なら四季彩館の紅茶セットで手を打つが?」
 冬哉は少しばかり意地の悪い声で、言ったのだけど
『おっけー。どうせその相談相手の奢りになるし、四季彩館で待ってるね』
 その提案はあっさり承認された。
「・・・うわ、悪党だよ。まぁいいや、とりあえず片付けたら行くから」
『早く来てよねー』
「はいはい」
 受話器を置き、空を見上げる。
「・・・・・・」
 暫く空を見上げた後、冬哉は花を店内に入れ始めた。
 四季彩館に、向かうために。


 ドアベルの音と共に、店内の猫が一斉に顔をドアに向けた。
 中にはとてとてとその人物目掛けて走っていく猫もいる。
 そんな猫たちの中から一匹の三毛猫を抱え上げ、冬哉は店内を見回した。
「あ、冬哉こっちこっち」
 その声の出所はカウンター。そこには美咲ともう一人、時折花信風で鉢植えを買っていく若い男が座っていた。
「や、待たせた」
「うん、待った」
 彼は?と問いたげな冬哉の目に答えるように、若い男。
「呼び出したのはこっちですから・・・。あ、俺、永倉仁紀といいます」
 どうぞと促され、席に着きつつカウンターを見れば、皿が3枚、カップ2杯空になっている。
「・・・食べたねぇ」
「食べたよ。だって奢りだし」
 言いつつ美咲がつついているのは4つ目のケーキ、ザッハトルテ。
 そしてシナモンティーが一杯。
 冬哉は仁紀につい同情の眼差しで投げかけた。
「奢らされております・・・」
 だが、冬哉は同情の表情を浮かべただけ。
 すぐさま北斗に注文を投げかけた。
「なるほど。んじゃ、俺も。
 おーい冬哉、アールグレイとピーチメルバね」
「はいな了解」
 言うや、北斗はディスプレイからピーチメルバを取り出し、冬哉はそれにホークを突き立てたのだが――その瞬間、仁紀はついに突っ伏した。
「ううう・・・酷い、酷いよ・・・」
「あのさ、初対面ってわけじゃないけど」
                       学生さんに奢らせるわけないでしょ。
 だが、そのセリフは途中で遮られた。
 仁紀の、本音によって。
「・・・ピーチメルバ、それで最後だったのに!」
 そう。
 仁紀が嘆いていたのはピーチメルバを食べることが出来なくなったからである。
 確かに出費は痛いが、目当てのケーキを食することが出来ない痛みに比べれば大したことはない。
「なんだ・・・そっちか」
 北斗は意外そうな声を出し、
「狙ってましたもんねー、実は」
 美咲はケーキを食しながら、
「ああ・・・くそ、今度こそ喰ってやる!」
 仁紀は心底残念そうな表情で。
 そして冬哉は思い切り疲れた声を出した。
「・・・俺、帰っていいか?」
「うわ、待って下さいよう!」
 本気で席を立とうとしている冬哉にしがみつき、仁紀は必死になっている。
「冬哉。聞いてやったら?」
「そうそう。でないと奢りじゃなくなるし」
 北斗は本当の親切で。
 美咲は・・・多分、照れ隠しなのだろう。
 冬哉は苦笑し、席に戻って仁紀に話を促した。
「はぁ、分かったよ。・・・で?
 相談って、何?」
 その言葉に安堵し、仁紀はようやく冬哉から離れた。
 そして冬哉の隣に腰をかけ、目を閉じて話し出した。
「えーとですね、こんな奴らがいるんですけどもね・・・」



 それはとある大学のとある研究室でのこと。
 男と女は大きな鞄を持ち込んでいた。
「じゃぁ、今日はかねてからの予定通り・・・」
「うん。準備はしてきたよ」
「良し・・・」
 その呟きと同時に男が鞄の中から取りだしたのは2〜3人用の土鍋。
 周囲に広がるどよめきを無視し、更に携帯コンロと固形燃料を取り出した。
 土鍋に昆布を敷き、ペットボトルに入れていた水を注ぐ。
 そして、女がそれを取り出した瞬間、周囲に感嘆が溢れた。
 女が取り出したもの。それは――
「おいコラ」
「なに?」
「これも食うのか?」
「当然。調理宜しく」
 スッポンだった。
 既に切り分けられているわけではなく、まるまる一匹。
 しかもまだ生きている。
「ど・あ・ほ・う・かぁ!」
「えー!なんでー!?」
 不満そうな女の声。
 だが、男は言葉を止めはしない。
「こんなとこで調理出来るか!家とかならともかく、包丁なんか持ってきてるわけないし!」
「ほう・・・じゃぁ包丁があればいいのね?」
「まな板とかボウルとかも必要だぞ、言っておくが」
 一縷の望みを託した声も一蹴。
 女は壁際に近付いて、つまらなそうに柱を一蹴りした。
「・・・ちぇっ」
「なんだよその『ちぇっ』てのは」
「包丁だけは持ってきたんだけどなー」
 どうしようこれ、といった目で心持ちぐったりとしているスッポンをみやる女に男冷たく宣告した。
「そんな目で見られても無理。というか嫌だぞ俺。こんなところでスッポン解体ショーなどしようものなら間違いなく俺、教授に首絞められる」
 しかし女は納得しない。
 どうやらよっぽど食べたいらしい。
「むー。じゃぁどうするのよこれ」
「とりあえず持って帰れというか連れて帰れ」
 説得しても無駄と悟ったのだろう、女はスッポンを流しに置いた。
 さすがに鞄の中に入れっぱなしだといつ息絶えるか分からない。
 嬉しそうに流しを這いずるスッポンを見ながら、女はぼそっと呟いた。
「はーい・・・仕方ないなぁ。じゃ、次の機会にしようかな」
 その言葉にスッポンの動きが止まったのは――多分、偶然なのだろう。
 止まったスッポンを見ながら、男は苦笑。
「最初から捌いたの持って来てくれ・・・。で、だ。まさかとは思うが、こいつしか持ってきてないとか?」
 気になっていたことを問い質した。
 その問いに対する女の返答はシンプルなもの。
「当然」
 この一言。
 男は一気に疲れ果て、食事のことを思って絶望的な声を上げた。
「威張って言うことじゃないだろが・・・どーすんだよ」
「んー、ご飯はあるからおかゆとか」
 首をかしげながら提案する女の頭を軽くはたきつつ、男。
「土鍋でおかゆかよっ!」
「贅沢言ったら駄目」
 女の声は先ほどと打って変わって落ち着いている。
 男はつい頷きそうになったのだが、気力を振り絞り女に指を突きつけた。
「誰のせいだと思ってるんだ誰のせいだと」
「ふっ。日本にはね、連帯責任っていう言葉があるんだよ」
「きっぱりとお前のせいだろーが!」
 結局その日、二人は学食のおばちゃんに頼み込んで卵を分けて貰い、なんとか卵雑炊を貪り喰らったらしい。



「とまぁ、こんな感じなんですが・・・。この二人に割り込む隙、あるでしょうか?」
「無いなそりゃ」
 その問いに、冬哉はは即答した。
「あまりにも息が合ってる。一度ずれたら致命的なんだろうけど・・・でも、それでもまた元に戻るだろうね。ま、諦めた方が良いね」
 その答は意外だったのか、仁紀は目を見開いた。
「え?そうなんですか?」
「うん・・・酷だけどね」
 しばし、沈黙。
 仁紀は俯いたまま黙っている。
 冬哉が何か声をかけようとした瞬間、
「よっしゃぁ!」
 絶叫。
「は?」
「なんだ・・・端から見たらやっぱりそうなのか・・・」
 それはとても嬉しそうな声で。
「えーと?」
「ありがとう、勇気が出ました!」
 推測。
 結論。
 次に確認。
「なぁ、美咲さん。ひょっとして?」
「ん。実は話に出ていた男本人」
 ・・・確定。
「・・・へぇ?」
「なるほどねぇ?」
「北斗」
「ああ」
 頷き合う漢たち。
 そして北斗は厨房に消え、冬哉はさり気なく身体の位置を動かした。
 そう。
 仁紀が逃げ出しても、すぐに掴まえることが出来る位置に。
 それを確認しつつ、美咲。
「あ、永倉さん。言わなかったけど、この人たちの前では自分のこと話す時はちゃんと話さなきゃ駄目ですよ。酷い目に遭うから」
「みーさんよ、そう言うことは先に言ってくれ・・・」
「もう遅いんだよな、これが」
「北斗、準備はどうだ?」
 着々と膨れあがる、途轍もなく嫌な予感。
「ああ、すぐ出来る」
 準備。
 その言葉の響きの不吉さに、仁紀は戦慄していた。
「な、何ですかその準備ってのは!?
 みーさん、教えろ!俺は一体どんな目に遭うんだ!?」
 美咲も凄い剣幕の仁紀から目を逸らし、綺麗な目をして言うだけ。
「ごめんなさいねー、だって一度ギャラクシーフルコース見てみたかったんだもの」
「・・・何それ?」
 仁紀の問に答える様に、液体が入ったグラスが3つ置かれた。その色はいかにも『人工着色料ですー!』といった感じの赤、青、黄色。
「これをどうしろと?」
 恐る恐る冬哉に聞けば、答は一言。
「飲め」
「は?」
「飲め」
 救いを求めて北斗を見れば、北斗は苦笑。
「冬哉。3杯は残酷だよ。せめて1杯にしてあげなきゃ」
 そうして、グラスを三つとも引っ込めた。
「北斗さん・・・あんた」
 だが、北斗は冬哉よりも残酷だった。感涙しそうな仁紀に笑いかけながら、3つのグラスの中身を全て一つのジョッキに注いだのだから。挙げ句の果てに、とどめの一言。
「ほら、これで1杯だ。これなら大丈夫だよね?」
 それは、とても優しげな笑顔で。
「伝説は語り継いだげるから、安心して飲みなさい」
「ああ、花信風でも語り継いでやるから」
 そう言う二人の目には、冗談の色はない。戦士の目だ。
「要りませんって・・・俺、もう行きますね」
 そう言い残し、立ち上がろうとしたのだが――冬哉の言葉に、仁紀は身体を凍り付かせた。
「ほう。周囲の期待を裏切るのかな?」
「・・・げぇっ!?」
 振り向いたら、四季彩館中の客が集まっていた。
 注目を集めているのは、自分の前に置かれている1杯のジョッキ。
 その、中身。
 黒く。
 渦を巻く、それ。
 何か途轍もなく邪悪な。
 何か途轍もなく危険な。
 黒の、液体。
 それから逃れる術はない。
 完全に包囲されている。
 逃げられない。
 首謀者たちは、
「ふふふふふ、逃げられまい」
「わくわくわくわく」
「漢を上げるチャンスだぞ?」
 と周囲を更に煽っている。
「あんたら悪魔だ・・・」
 涙目で冬哉たちを睨みつつ、仁紀はジョッキに手を伸ばした。
「自己責任。さぁ飲め」
 ああ。
 こんなことなら例え話みたいな感じじゃなく、自分の話として相談すれば良かった。
 微かに理不尽なものを感じつつ、仁紀はそのジョッキを呷った。
 周囲の注視の中、黒が仁紀の喉に滑り込んでいく。
 ごくり。
 ごくり。
 ごくり。
 その音だけが店内に響いていた。
 ごくり。
 ごくり。
 ごくり。
 猫の鳴き声すらも聞こえない。
 ごくり。
 ごくり。
 ごくり。
 ・・・とん。
 ジョッキの底と、テーブルの織りなす音が響いた。
 瞬間、四季彩館を支配したのは歓声と拍手。
 背中を強く叩かれつつ、仁紀は何かをやり遂げた漢の表情で一言言い残してテーブルに伏せた。
 即ち。
「渦巻く銀河に手が届いた」
 と。


 復活した仁紀がずるぺたんずるぺたんと去っていく様を見ながら、冬哉はすっかり冷めた紅茶を一口飲んだ。
「全く・・・なんて言うか、そういうのって本人たちには分からないみたいだねー」
 誰に聞かせるでもない呟き。
 その呟きに反応したのは美咲。
「それって・・・冬哉にも言えるよ・・・」
 だが、その声はとても小さなもので。
「ん?」
「なんでもなーいー!」
 ほんの少し。
 痛みを覆い隠した表情で。
 美咲は、笑顔を冬哉に向けた。



「な、なかなか酷い目にあったぞ・・・」
 一方そのころ、仁紀はボロボロになった身体で家に辿り着いていた。
 と、ドアの前でしゃがんでいる人影一つ。
「あれ?奈月?」
 仁紀の呼びかけに、その人影――奈月はすぐさま立ち上がった。
 その手に、土鍋を持って。
「遅い!何でこんなに遅かったの?」
 その鋭い声に、仁紀は目を逸らした。
「・・・酷い目に、あったんだ」
「・・・・・・そう。で、どんな」
 奈月の声は、寸分の嘘も赦さない。
 そんな響きで。
 仁紀は仕方なく、その言葉を口に出そうとした。
 忌まわしい記憶に耐えながら。
「ギャラク」
 だが。
「わ!その先は言わなくていいよ!・・・そう。酷い目に、あったんだね」
 どうやら、奈月も知っているらしい。
 あの、恐怖を。
 あの、戦慄を。
 死線を乗り越えた戦士の様に頷き合い、何とはなしにサムアップして――
 不意に浮かぶ疑問。
 はて、奈月は何故にここにいるのだろうか?
「で、今日はどうした?」
 仁紀の問いに、奈月はちょっと戸惑い気味に。
「ん、どしたって事もないんだけど。ご飯、もう食べた?」
「まだだけど?」
 その答にようやく安堵して、奈月は次の問を投げかけた。
「じゃぁ、ね。今日の昼食べられなかったスッポン、捌いてもらったから持ってきたんだけど・・・一緒に食べてもいいかな?」
 ほら、と鍋を突き出して。
「きっと美味しいよー」
 とても、嬉しそうな声で。
 聞いている仁紀の方も嬉しくなる様な声だったから。
「そりゃ、もちろん」
 了承。
「わ。なんだか素直に了承したね、今日は」
 怪訝そうに。
 嬉しそうに、奈月。
 その、嬉しそうな表情故か。
 ギャラクシーにより意識抑制が働かなくなっていたのか。
 仁紀はつい、言葉に出していた。
「だって、ほら。
 独りで食べても美味しいものなら、大好きな人と一緒に食べたら――
 どんなに美味しいだろうな?」
 自分の、想いを。
「あ。今・・・」
 先ほどの自分の声に驚愕しつつ、しかし言えたことに歓喜を感じつつ。
「・・・そう言うこと。俺、奈月のこと好きだよ」
 だめ押しの様に、告白。
 しかし。
 奈月は。
「・・・ごめん、あたし今、そんなこと言われても・・・困る」
 戸惑いの表情で。
「・・・・・・え?」
「困るよ・・・」
 答えた。
 だから仁紀は俯いて、それでも明るい声を出そうとして。
 でも、出せなくて。
「・・・・・・悪かった」
 声を、振り絞って。
 忘れてくれ、と言おうとして。
「だって、そんな大切なこと、土鍋持った状態で言われても困るよ」
 驚愕。
「は?」
 つまりは。
「確かに嬉しいよ。だってあたしも仁紀のこと好きだし」
 こういう事で。
「でもね、言ってくれるなら、やっぱりシチュエーション考えて欲しいもの」
「は・・・ははははは」
 奈月は土鍋を持ったまま。
 仁紀はそれを見つめたままで。
「というわけで、やり直しを要求します」
「りょーかい。やり直しを承認しました」
 安堵と歓喜の涙を、一滴だけ流した。





 少しずつ、少しずつ。
 二人の話が多くなっている。
 あの店のネギ焼き、美味しかったから一緒に行こう。
 とか、
 あの甘味処のぜんざいは絶品だから連れてってあげる。
 とか。
 ・・・まぁ、相変わらず食べ物の話し、多いんだけど。
 美味しかった、じゃなくて美味しいから一緒に行こう。
 この言葉が、とても嬉しい。
 でも、本当――そうだね。
 独りで食べてても美味しいものなら、大好きな人と食べたらどんなに美味しく感じるだろうね?
 ましてや、その大好きな人が作ってくれた料理とか、大好きな人のために作った料理なら、尚更だと思う。
 だから今、こっそりと仁紀の好物を特訓中。
 ふっふっふ、誕生日・・・覚悟してよね?