樹雨 〜皐月〜
気が付いたら好きになっていた、なんてのはよくある話で、僕はいつの間にか彼女のことを好きになっていた。
彼女は日の当たる場所でよく寝ている。
つくづく幸せそうに寝てるなぁ。
これじゃ起こすに起こせない。
とは言え・・・そろそろ起きてもらわなきゃ困る。
なんせ彼女が寝ているのは僕の席なのだから。
樋山慎太郎は少し困った顔で自分の席で眠り続ける鹿嶺翠を見下ろしていた。
「鹿嶺、そろそろ起きろ」
「すー」
「おーい、起きてくれー」
「すーすー」
「起きんかコラ!」
「すーすーすー」
起きる気配がない。全く起きる気配がない。
チャイムが鳴るまで後僅か。
慎太郎はある決心をした。・・・かなりイレギュラーな決心ではあったが。
そして友人の水口鷹介、橘亮平、南雲晶久に声を掛けた。
「・・・おーい鷹介、亮平、晶久、貴哉・・・は無理か。すまん、手伝ってくれー」
「おう」
「何だ、一体?」
「来たぞ」
慎太郎は開口一番。
「これを動かすのを手伝ってくれ」
「「「またか」」」
「あ、雪緒に晴日も手伝ってくれると助かる」
「まぁ、構わないけど」
「仕方ないね」
クラスメートも承知しているのだろう、翠の机と椅子がまず避けられた。
そして慎太郎の席から続く道が開かれる。
まるでモーゼの奇跡のようだ。
「んじゃ、いくぞー」
「ほい」
鷹介と慎太郎が椅子の背の左右を持って持ち上げ、雪緒と晴日がそれをサポート。
亮平と晶久が机を持ち上げ、高さを調整。まさに絶妙のコンビネーションであった。
6人は翠の体制をキープしたまま、じわりじわりと進んでいった。そして2分後。
「すーすーすーすー」
全く変わらない体制で眠り続ける(ただし今度は自分の席の位置で)翠の姿がそこにあった。
「いつもすまないなぁ」
「それは言わない約束だろ」
「ほらおとっつぁん、お粥が出来たよ」
「すまないなぁ、本当に・・・って缶入り中華粥なんてよく見つけてきたなぁ」
「こんな事もあろうかと用意していたのだ・・・3ヶ月前から」
慎太郎はその発言が気になり、ひっくり返して賞味期限を見た――賞味期限はまさしく今日の日付だった。
「・・・・・・」
そして黙って翠の頭の横に缶を置いた。
「すーすーすーすーすー」
翠は当分起きる気配はなかった。
きんこんかんこん。
チャイムが鳴り響いき、同時に英語の教師が入ってきた。
「はいはいはい、みんな席に着くように」
わらわらと自分の席に戻る生徒達。
慎太郎は翠の様子を観察していた。
「幸せそうに寝てるし」
やはり目覚める様子はない。
「うむ、ドリーマー」
感心してしまう。
しかしこのまま放っておいて良いものだろうか、と考えてみるにやはり起こすべきだと結論。
紙を丸めて投げてみる。
すこん、と命中。
しかし起きる様子はない。
もう1回。
また命中。
しかし起きる様子はない。
(ふっ。リーサルウエポンを使うときが来たか)
慎太郎は輪ゴムを取り出した。左手の人差し指と中指にひっかけ、切り刻んだ消しゴムを用意。そして・・・
(戦闘レベル・・・ターゲット確認・・・戦闘開始・・・マキシマムレベル・シュート!)
びし!
「いたぁぁぁっ!」
椅子の倒れるがたんと言う音。
そしてすっ飛ぶ中華粥缶。
起きあがり、あれ、なんでここに?と翠はきょろきょろして。
それを見て教師−日置−はにっこり笑う。
それに気付いて曖昧な笑みを浮かべる翠。
「鹿嶺」
「はいぃぃ・・・」
とぼとぼと廊下に向かう翠を慎太郎は悪いことしたなぁ、と思いつつ見送ったのだが。
「違う違う、良いもの持ってるなあと思って」
「はい?」
日置は黙って転がっている缶を拾った。
「これこれ。これをくれたら今回は見逃そう」
嬉しそうに中華粥の缶を手に取る日置。
(あんたもか?あんたもなのか?)
期せずしてクラスの過半数の意見はそこに集約していた。
「え、でも、それ・・・」
あたしのじゃないです、と言おうとしてた翠を遮り、慎太郎。
「翠、別にいいぞ。それはお前にやったんだから」
日置はにこにこしながら返事を待っている。
翠はひたすら困っていたが、。
「だからいいって言うのに」
という慎太郎の発言に背中を押され、結局。
「はい・・・解りました」
翠は承諾。
「さんきゅー!」
お目当てのものを手に入れた日置は大喜びであった。
その授業が終わってすぐ、翠は慎太郎に駆け寄った。
「樋山君、酷いよ」
「寝てる鹿嶺も悪いと思うが」
「起こしてくれたらいいじゃない」
「起こしたじゃないか」
「あーゆー起こし方じゃなくて」
「どんな起こし方が良かった?」
途端に真っ赤になる翠。
何も考えてないような慎太郎。
「う〜」
「拗ねるな」
「やっぱり酷いよ〜」
「ああもう、拗ねるなって。四季彩館で紅茶を奢ってやるから」
「ケーキも付けて」
「いい気になりやがってこの」
「付けてくれなきゃ泣く」
「くそ、分かったよ!」
「へへ〜ありがと〜」
「・・・仕方ねぇなぁ」
結局、慎太郎は翠に引きずられる様に四季彩館へとやってきた。
もっとも嫌がっているわけではないが。
軽い音。
いつもの様にドアベルが軽い音を奏でた。
「いらっしゃい。今日も二人だね」
ティーポットを仕舞いかけていた北斗が振り向き、微笑った。
「いつもって・・・それじゃいつもこいつと来てるみたいじゃないですか」
「違うの?」
にこにこにこ。
「違わねぇです」
「素直素直」
一方、その片割れは。
「なぁ〜」
「ここ、暖かいね〜」
猫と戯れていた。
「で、注文は?」
「えーと、俺はマサラティー」
「あたしはミントティーと・・・今日お薦めのケーキって何ですか?」
「そうだね・・・ザッハトルテ、苺のミルフィーユ、あと・・・」
そして北斗は悪戯っぽい顔で言った。
「勇気があるならマスターの新作」
なんだかんだ言っても当たりは美味しいのだ。
「えと、じゃぁマスターの新作」
「了解」
そこはなと無く嬉しそうに立ち去る北斗を見て、
「あたし、早まったかもしれない・・・」
翠は後悔していた。
3分後。
「お待たせ。マサラティーとミントティー、あとマスターの新作ケーキ」
ふわ、とスパイスの香りが漂った。
「これ、何ですか?」
「シブースト。自信作らしいよ」
「へぇ〜」
「では、ごゆっくり。後で感想聞かせてくれると嬉しいな」
「はい」
翠はとりあえずミントティーを一口飲んだ。
つられるように慎太郎もマサラティーを一口。
「うーん、危険な気がするけど行ってみようかな」
微かに苦笑いを浮かべて、翠はシブーストを一口食べてみた。
「・・・」
「おい?」
「・・・・・・」
「おい・・・?」
「・・・・・・・・・」
「どうしたんだ一体?」
「美味しいよ〜」
慎太郎は安堵のため息をつくと、
ぺちん。
と翠の頭を叩いた。
「心配させるな!びっくりするだろうが!」
「あ、心配してくれたんだ。でもね、美味しいんだよこれ〜」
ひょいひょいと食べていく翠。
嬉しそうに食べるのを見ていると、怒っているのが馬鹿らしく思えてきた慎太郎だった。
慎太郎は紅茶を飲みつつ、たむろする猫達を見ていた。
会話のない時間。
でも、ゆっくりと、穏やかに流れていく時間がそこにあった。
(なんかいいな。こんなのも)
ふと窓を見る。
ぽつん。
ぽつん、と雨の滴が窓ガラスを叩き始めた。
結構勢いが強い。
「うわちゃ、今日、傘忘れてた・・・鹿嶺、傘・・・って寝てるし」
「くー」
「しかしよく寝るなぁ」
「くーくー」
「そのうち猫になるぞ・・・」
「くーくーくー」
慎太郎は翠の髪に指を伸ばした。
「困ったものだな」
「くーくーくーくー」
と言いながらも慎太郎は少しも困った顔ではなかった。
愛しい人がすぐ側にいる。
その幸せを感じていたからだろう。
「よく寝てるね、本当」
「よく寝てるでしょ」
仕事が一段落付いたのだろう。
北斗がティーカップを手にやってきた。
そして一口飲んで楽しそうに嬉しそうに一言。
「一休み♪」
「北斗さん、何歳ですか?」
「ひ・み・つ♪男は少しくらいミステリアスな方がいいんだ」
「・・・・・・」
「とまぁ冗談はさておき。結構、いい感じだね」
に、と笑って。
「君ら」
びし!と指さした。
「えーと」
困っている慎太郎に笑いかけながら、
「茶化しに来たんじゃないよ。暖かい感じ、ってのかな?君らから感じてね」
紅茶を飲みながら、北斗。
「うーん、どう言えばいいのかな。そうそう、日向ぼっこしてるような感じ」
「俺らは縁側の猫ですか」
「その感が無きにしもあらず」
慎太郎は考え込んだ後、眠りの中にいる翠を見て、
「そーかもしれません・・・」
と、笑った。
「なんて言うんですかね・・・」
慎太郎は翠の髪を撫でながら呟いた。
「俺、こいつのこと好きなんだと思います」
気持ちよさそうに眠っている、翠を。
「ほっとけないんだけど、気が付くと俺の方が支えられてたりして」
慎太郎は少し黙り、言葉にした。
結論を。
「うん、俺やっぱりこいつのこと、好きなんですよ」
明るく、笑った。
「あたしもねぇ、樋山君のこと、好きだよ〜」
「どっから声を出してるんだお前は」
「えへへ〜」
いつから目を覚ましていたのだろうか。
翠が細い目をして微笑っていた。
「幸せそうに笑って・・・そんなに嬉しかったか?」
本当に嬉しそうに、微笑っていた。
「嬉しいよ」
「そか」
慎太郎は一度言葉を切り、囁くように告げた。
「実はな。俺もだ」
多少の照れを含んで。
「あ、晴れてる」
「割とすぐ止んだな」
北斗は慎太郎の背中をぽん、と叩いた。
「今日は奢りにしとくよ」
優しく、微笑いながら。
「でも、良いんですか?」
「悪いですよ」
微かな躊躇を含みつつ、慎太郎と翠。
「その代わり二人にはもっとここに来てもらうから。・・・どうも、有り難うございました」
北斗の声に送られて、雨上がりの街へ。
見上げれば、5月の青空が広がっていた。
「ねぇ」
「何だ?」
「あたしのこと、名前で呼んで欲しいな」
「俺のこと名前で呼んだらな」
「うう、狡い〜」
「冗談だよ」
深呼吸一つ。
心を整えて。
晋太郎ははじめて誰よりも大切な人を名前で呼んだ。
「翠」
「うん」
高鳴る鼓動を押さえて。
思いを込めて。
翠ははじめて大好きな人を名前で呼んだ。
「慎太郎」
雨上がりの公園を僕は君と歩く。
風が吹き渡り、木々を濡らした欠片が降り注ぐ。
まるで雨のように。
君は肩をすくめている。
僕はそんな君を見つめている。
ああ、そうだね。
こんな形の幸せもあるね。
風に散る緑の雨の中、僕は君にこの手を伸ばす。
そう。
僕たちは今、こんなにも近くにいる。
次回予告
止まない雨はない。
明けない夜はない。
でも、心に降る雨も必ず止むだろうか?
心の夜も必ず明けると言えるだろうか?
僕に出来るのはただ、背中を押すだけ。
四季彩記・水無月『行潦』
僕は君に笑って欲しい。