桜坂〜卯月〜





 あなたと出会ったのは受験の日でした。
 私は雪が舞い降りる空を見上げていました。
 そんなときに傘を差しだしてくれたのがあなたでした。
「これ、使ったら」
 あなたは優しく微笑い、私に傘を差しだしてくれました。
 受け取ろうか、どうしようか困っている私にあなたは無理に傘を持たせると、雪の中を走って去ってしまいました。
 引き留めることも出来ず、追いかけることもできないまま、私はあなたの貸してくれた傘を差し、駅へと急ぎました。
 試験の結果は、合格。
 だって頑張りましたから。
 合格して思ったのは、まずあなたのことでした。
 あたしと同じで、ここを受験したのかな。
 もう一度、会いたいな。
 その想いは日を追う事に強くなっていくばかりです。
 だから、と言うわけではないのですが、私はこの大学に入ることになりました。
 ええ、もちろんそれだけじゃありませんよ。
 私のやりたいことは、ここでしか出来ないことでしたから。
 でも、またあなたに会えるかも、と思っていたのも事実ですけど。
 だから──キャンパスであなたを見たとき、嬉しくて。
 本当に嬉しくて、泣き出しそうになりました。
 後日、傘を持ってお話ししたとき、あなたが先輩だと知って驚きました。
 でも、同じ大学に貴方が居る。
 それだけで十分です。
 私には、それだけで十分だったんですよ・・・





「榊さん、おはようございます」
「ああ、石動。おはよ」
 榊雅人は欠伸をかみ殺しながら石動真桜の方を見た。
 どことなく眼がとろんとしている。
 どうやら眠いらしい。
「春眠暁を覚えずとはよく言ったものだね〜」
「そうですね〜」
 暫し、春の風に浸る。
 ・・・・・・
 ・・・・・・
「1年、か」
「何がですか?」
 雅人は空を見上げて、言葉を繋げた。
「石動がここに入ってから。なんていうか、早いものだねーと」
「そう、ですね・・・」
 風に乱れた髪を真桜が掻き上げる。
 その仕草に雅人は言葉を失った。
「どうしました?」
「いや──何でもない」
 慌てて目を逸らす。
「見惚れていた」
 そう言葉にすればいいだけなのだろうけど、それが出来ない。
 言葉にしたら、何かが逃げていくような気がしたからだろう。


 そして二人はいつものように四季彩館へ。
 からん、と言う軽やかなドアベルの音が二人を迎えた。
「いらっしゃい。ちょうど良かった」
 北斗は嬉しそうな顔で二人を迎えた。
「どうしたんですか?」
「ん、新メニュー。マスターが知り合いに出してみてくれって」
「?」
 北斗は冷蔵庫からガラスの器を出し、雅人と真桜に差し出した。
「オレンジのコンポート。ちょっと試してみて」
 紅く、甘い匂いが漂う。
「んじゃ、遠慮なく」
「そですね」
 とりあえず、一口。
 雅人はふぅ、と息をつき。
「なんてか・・・クセになりそうな味ですね。美味いですよ」
 素直に賞賛した。
「そ?クローブちょっと効かせ過ぎたかも、って言ってたんだけど」
 しかし真桜は彼らを変な目で見ている。
「ん?どした?」
「これが・・・美味しいですか?」
 かなりきつい言葉。
 真桜のものとは思えないほどに。
 しかし、よく見てみると真桜の食べているのは色が微妙に違う。
 紅があまりにも鮮やかすぎる。
「ちょっとごめん!」
 北斗は言いしれぬ不安を抱きながらも真桜の前の皿を取り、食べた。
「・・・・・・」
 そしてかたかたと震えながらお茶を入れ、飲む。
 そしてあちこちを見た。
 何かを探すように。
 そして、それを見つけた。
 見つけてしまった。
「北斗さん?」
 北斗はため息一つ。
 そして。
「マスター?またやりましたね?」
 妙に優しげな声で。
「バレたか」
「バレたかじゃないでしょう何やってんですかあんたは!」
「遊び心は大切だぞ」
「当たった人はどーするんですか!可哀想じゃないですか!」
 それを聞いたマスターは――答えた。
「だからスリリングなんじゃないか」
 にやりと笑いながら。
「ま、フォローもするし」
「フォローはいいですから出さないでくださいお願いします」
 北斗のそれは半ば懇願に近かった。
 その懇願に対するマスターの
「冗談だよ。試作品以外に無茶はやらない」
 という答えに北斗は一瞬安心し・・・
「結局作ることに変わりないじゃないですかっ!」
 と悲鳴を上げた。
 マスターが料理に使ったもの。
 それは、ガラスの瓶に入った清涼飲料。
 北斗が見たもの。
 それは、無造作に捨てられたガラスの瓶。
 その瓶のラベルにはこう書かれていた。
『ギャラクシー』と。
「まったく、いつ来ても飽きないな、ここは・・・」
 苦笑しながら、雅人。
「そう、ですね・・・」
 対する真桜はどこか複雑そうな顔だ。
「そーいや石動は初めてだったっけ。マスターのあの手の料理が当たったの」
「はい。榊さんは何回か当たったことあるんですか?」
 雅人は遠くを見つめながら答えた。
「外れたのは今回が初めて」
「榊さん・・・」
「言うな・・・・・・」
 といいつつも、楽しそうであった。
 そう、今は。


 明くる日、雅人は一人で四季彩館に来ていた。
「珍しいね。一人とは」
 北斗がアールグレイを淹れながら、話しかけてくる。
「いえいえ。待ち合わせです」
 何の気なしにそう答え、出された紅茶を飲む。
「ふむ。デートか」
 その台詞に、雅人は咳き込んだ。
「あれ?付き合ってるんじゃなかったっけ?」
「付き合ってないですよ・・・まだ、何も言ってないですし」
 やれやれ。
 北斗はそんな顔で、話し始めた。
「・・・いつまで待たせるんだ?」
「いつまでって・・・」
「あの子は、待ってるよ。言葉を」
「・・・・・・」
「言えるうちに言わなきゃ。後悔、するよ」
 傷を含んだ北斗の言葉。
 その意味を問いかける前に、からん、とドアベルが鳴り。
 真桜が、来た。
「すみません、石動が来たので・・・行きます」
 逃げるように、雅人は立ち上がって真桜の元へと向かった。
「・・・ちゃんと言わなきゃ、駄目だよ」
 北斗のそんな台詞に送られて、二人は街へと出かけた。
「?どうしたんですか?北斗さん、哀しそうな顔してましたけど」
「・・・いや。何でもない」
 何でもないと言いつつ、気にはなっていた。
 言わなきゃいけない言葉。
 伝えたい言葉。
 でも、伝えるには勇気が必要な言葉。
 どうすればいい?
 どうすれば伝えられる?
 そのことに思考を捕らわれていた。
 そのためだろう。
 真桜の呼びかけにも、要領を得ない返事しか返せなかった。
 このままじゃいけないこと。
 それは解っていた。
 雅人も、真桜も。
 このまま、何も言わずに、変わらないまま。
 そのままでいるのは確かに安心できる。
 でも、安心できるだけ。
 変わらないといけなかった。
 口火を切ったのは、真桜だった。
「私・・・」
 不意に、真桜が言葉を漏らした。
「やっぱり、榊さんのこと、好きです」
 雅人を見つめながら。
「このままでもいいかな、って思ってました。でも、もう駄目なんです」
 何かに耐えるように、真桜。
「・・・・・・」
 しかし、雅人は何も言えないまま。
 真桜の言葉を待った。
「私は――同じ場所に貴方が居る。それだけで十分でした」
 この1年を思い出すように。
「私には、それだけで十分だったんですよ・・・・・・」
 そう言いながらも、真桜の目に涙が滲んだ。
「でも・・・今は──言葉が欲しいです」
 優しく、哀しく、真桜が微笑った。
「あなたの言葉が欲しいです。私のためだけの、言葉が・・・」
 海からの風に、桜と涙が舞った。
 しかし雅人は何も言えなかった。
 言わなかったのではなくて、言えなかった。
 言いたいことは沢山あった。
 しかし、沢山ありすぎて何も言えなかった。
 雅人のその態度をどう受け取ったのか。
 真桜は、舞い散る桜の中に姿を消した。
 反射的に、走った。
 仄かな紅に染まる視界の中、雅人は真桜の姿を探した。
 探して走り続けた。
 思い出す。
 今までを。
 いつだって真桜はそこにいた。
 雅人のすぐ隣に。
 失いたくなかった。
 だから、走った。
 ただ一人の人を見つけるために。
「真桜・・・!」
 舞い上がり、舞い降りる桜の中。
 雅人は真桜を見つけた。
 彼女は大きな桜の下、泣いていた。
 声を出さずに、静かに。
 風が、背中を押した。
 だから。
「真桜・・・」
 雅人は真桜を抱きしめた。
 強く、強く。
「榊、さん・・・?」
 言いたいことは沢山あった。
 でも、大切なことはただ一つ。
 伝えたいこともただ一つ。
「僕は君に恋してる」





 僕は桜並木の中、君の待つ場所へと急ぐ。
 君は桜の下で何とはなしに空を見上げていた。
 僕と眼があったときの君の嬉しそうな眼。
 あの時の君のままで。
 僕は思わず、微笑った。
 初めて逢ってから、1年。
 いつしか僕は君に惹かれていた。
 でも僕は君に何も言えないままだった。
 好きだとも、言えずにいた。
 このままじゃ、いけないのは解っていた。
 でも、もう少しこのままで──
 そう思っていたのが僕の罪だったのだろう。
 咲き誇る桜。
 吹き渡る風に舞い、桜吹雪に。
 視界が仄かな紅に染まる。
 でも、君を捜して走る必要はない。
 いつだって君はそこにいるから。
 僕のすぐ隣に。
 いつまで一緒にいられるだろうか?
 君は僕の側にいてくれるのだろうか?
 僕のそんな気持ちを知ってか知らずか、君は僕に微笑みかけた。
 大切なことはただ一つ。
「僕は君に恋してる」
 出会いは偶然だった。
 恋に育ったのは必然だった。
 それに気付いたから。
 僕は、君への言葉を。
 君に、伝える。
 いつでも。
 どんなときでも。
 君のためだけの言葉を。