細雪〜睦月〜





 1月。
 河の水は非常に冷たい。
 いったい何処に好きこのんで入る奴がいるというのだろうか?
 しかしこうして入っている自分がいる。
 それは何故かと尋ねられたら、こう答えるだろう。
「そこに猫がいたからさ」
 と。
 馬鹿なことしてると思うかい?
 でもね。
 助ける力があるのに何もしないのは──嫌じゃないか。





「うう・・・・・・寒い・・・寒いぞ・・・」
 水口鷹介はがたがた震えながら呟いた。
 身体はずぶ濡れである。しかも1月。
 寒くないはずがない。
 それを都築雪緒−鷹介の同級生−が呆れたような顔で見ていた。
「馬鹿なことするから」
「馬鹿なこととは失礼な」
 雪緒に少し本気でむっとする鷹介だったが。
「とは言え・・・やはり寒い・・・」
 この寒さは禁じ得ないようだった。
「しっかし物好きだね。河に落ちた猫助けるために自分も河に飛び込む?」
 そう。それが鷹介がずぶ濡れで震えている理由であった。
 懐から猫が顔を覗かせ──鳴いた。
「まぁ、俺が風邪ひくだけでこいつが助けられたんだから、それでもいいかなーと思うぞ」
 猫の頭をなでながら、鷹介。
 猫は目を細め、喉を鳴らしている。
「全く・・・鷹介らしいね。とりあえず着替えかしたるから、家においで」
 その言葉を聞き、鷹介はに、と笑い──
「・・・さんきゅ」
 と、それだけ告げた。
 曇った空から雪が舞い降りていた。


 喫茶店『四季彩館』。
 海沿いの国道の横にあるこの店を知らない華彩市の人間はいないだろう。
 店内に蔓延る猫。
 クラシックしか流れない店内。
 やたらとマイペースなマスター。
 そして、この街の誰もが認める紅茶。
 事実、この店の味を盗もうとする同業者が後を絶たない。
 しかし─何故だろうか。
 そこそこの味にはなってもこの店の味にはほど遠い。
 それが四季彩館の人気に拍車をかけているのだが−それはまた別の話。

 
「こんちわ〜」
 ドアベルがからん、と鳴る。
 店内では北斗−四季彩館の店員−がカップを拭いていた。
 他に人はいない。
 客も、店長も。
 珍しいな、と思いながら、雪緒はカウンターに腰掛けた。
 店内ではドリーブのコッペリアが軽快な旋律を奏でていた。 
「あれ、今日は北斗さんだけ?マスターは?」
 くす、と微笑って北斗は奥のテーブルを指さした。
 テーブルに突っ伏し、思い切り寝ている男が一人。
「あそこ、陽当たりいいからね」
 そしてマスターの頭の横には丸まって寝ている猫が一匹。
「・・・・・・親子」
 暫し、ぼけ〜っと彼らの方を見る二人。
「・・・で、注文は?」
 先に戻ってきた北斗が聞く。
 雪緒はしばし考えて、
「えーと、何か暖まるものがいいな・・・何かお奨め、あります?」
「んー、ジンチャーチャイなんてどう?暖まるよ」
「はいな」
 待つことしばし。
「はい、お待たせ」
 暖かい湯気を立てたジンジャーチャイが雪緒の前に出てきた。
 雪緒は一口飲み、呟いた。
 そう、思わず声になるほどに美味しかったから。
「あ、美味しい」
 思わず、顔がほころぶ。 
「風邪引きかけたときにはこれ、結構いいよ」
「風邪、か・・・。鷹介に飲ませたげたいな・・・」
 雪緒の呟き。
 北斗は何とはなしに、聞いてみる。
 その口調がいつもと違ったから。
「鷹介くん、どうかしたの?」
 に、と笑って――
「北斗さん、聞いて下さいよ〜。鷹介って・・・」
 雪緒は話し始めた。
 河に子猫が落ちて、溺れかけていたこと。
 鷹介が河に入ってその子猫を助けたこと。
 その後、がたがたと震えていたこと。
「ね、バカでしょ〜!北斗さんもそう思いません?」
 そう言って眼を上げると――
 北斗は優しそうな眼で雪緒を見つめていた。
「な、何ですか北斗さん?」
 そして。
「・・・・・・好き、なんでしょ?鷹介くんのこと」
 世間話をするかのように、北斗が呟いた。
「ば、ばっ!北斗さん、何言ってんですか!?」
「赤くなってる」
「あのですねぇ・・・!全っっっっっ然、好きじゃないですよ!」
 音を立てて立ち上がった雪緒に。
 北斗は、ゆっくりと、厳かに告げた。
「照れてはいけない」 
 雪緒はカウンターに崩れ落ちて。
「やっぱ解っちゃうか・・・あはは・・・」
 弱く、微笑った。
「難しいですよね、本当。」
 北斗は黙ってカップを拭き続けている。
「友達みたいな関係でいいって思ってたんですよ、最初は」
 ぽつりぽつりと雪緒が語り出す。
「でも、心の中で、鷹介が段々大きくなっていった」
 北斗はただ黙って聞いているだけ。
「側にいられるだけでもいいって思ってたはずなのに・・・」
 微かに、嗚咽が混じる。
「でも、気付いたらどうしようもないくらい好きになってた。鷹介じゃないと、駄目なくらいに・・・」
 涙が、こぼれる。
「好きだって言いたいんです、本当は。でも、言っちゃったらお終いになると思うと、言えないんです!」
 雪緒は泣きだした。
「でもね・・・・・・でも、言わないままだと、友達のままでいられるんですよね・・・?」
 北斗はそんな雪緒をただ、黙って見ていた。
「だから、言わない方が・・・いいんですよね・・・?」
 ただ見ていることしか、出来なかった。
 雪緒が落ち着くのを待ち、北斗は言葉を紡いだ。
「駄目だよ」
 微かに、寂しげな笑顔を浮かべて。
「駄目だよ。そのままでいると──心が、壊れる」
 なにかに、耐えるように。
「好きなら、言葉にしないといけない。でないと・・・」
 北斗はそこで言葉を切り−雪緒に眼を合わせて−言葉を続けた。
「伝わらない」
 北斗の台詞。
 それに背中を押されたように、雪緒は意を決して聞いた。
「北斗さん――ジンジャーチャイの作り方、教えて下さい!」


 一方。
 当の鷹介は布団の中で震えていた。
「うう・・・やはり無茶はするもんじゃないなぁ・・・」
 傍らでは猫が心配そうな声を上げた。
「心配するな。すぐ良くなる・・・多分」
 猫はにゃぁ、と一回鳴くと布団の中に潜り込んできた。
(・・・暖かい)
 この暖かさが嬉しい。
 この家は、広すぎるから。
 誰かに側にいて欲しい。
 ずっと、鷹介はそう思っていた。
 誰もいない家。
 両親は仕事でずっと海外にいる。
 鷹介が、中学校に入った頃から。
 両親が旅立つときの言葉を今も思い出す。
『鷹介はもう大人だから、大丈夫よね?』
 本当は行って欲しくなかった。
 でも、それを言うわけにはいかない。
 だから、笑った。
『大丈夫だって!』
 本当は大丈夫じゃなかった。
 全然、大丈夫じゃなかった。
 だから鷹介は−孤独を恐れた。
 友達を無くすのが怖い。
 大切な人を失うのが怖い。
 だから、言いたくても言えない言葉は我慢してきた。
 そう、今でも。
「雪緒・・・」
 友人を思い浮かべる。
 いつも元気で。
 いつも側にいてくれて。
 元気を、自分にくれる。
 そんな彼女を。
「言えるわけ、無いよな・・・」
 ため息を一つつく。
「好きだ、なんて、さ・・・」
 好きだと言いいさえしなければこのままでいられる。
 友達のままで。
 でも、狂おしいほどの想いがあるのも事実だった。
 好きだと言いたい。
 でも、言えない。
 言ってしまったら−拒絶されたら、また独りになるから。
 だから、言わない。
 このままでいい。
 そう結論したとき、チャイムが鳴った。
 鷹介はずるずるとした足取りで、玄関に向かった。
 そこにいたのは――雪緒だった。
「はろ〜。鷹介、差し入れに来たよ〜」
「・・・すまんこってす」
 こんな事を聞いたのは熱のせいだろう。
 いつもなら聞けないことを。
 いつもなら言えないことを。
 鷹介は――言ってしまった。
「何でお前、俺に構うんだ?」
「何でって・・・」
 口ごもる雪緒。
 それを見て鷹介は、雪緒は自分を友達としてしか見ていないと思ってしまった。
 そう、だから――こんな事を言ってしまった。
「お前、俺に構ってる暇あるのか?」
 しかし、雪緒の答えは鷹介の予想とは別のものだった。
「仕方ないじゃない!」
 想いが、溢れる。
「仕方ないじゃない!鷹介のこと、好きなんだから!」
「・・・え?」
「あ・・・」
 告白してしまった。
 その事実に、雪緒は黙り込んでしまった。
 気まずかった。
 その気まずさに、鷹介は。
 言ってしまった。
 雪緒の言葉を、ちゃかしてしまった。
「・・・また、冗談うまいなぁ。本気にするところだったぞ」
「冗談じゃ・・・」
 雪緒の涙が――風に散った。
「無いよ」
 その言葉を残して。
 雪緒は恭史郎の部屋から立ち去った。
「雪緒!」
 思わず、駆け出す。
(今更何をしている?)
 自問自答する。
(今更、何が言える?)
 ただ、走った。
(でも、好きなんだろ?本当は、好きなんだろ?)
 言えない想い。
 告げることの無かった言葉達。
 それらが渦巻く。
「雪緒・・・ごめん・・・」
 鷹介は立ちつくした。
 雪が降る街の中で。
 どこまでも寒い、風の中。
 ただ、立ちつくした。


 それから1週間。
 鷹介は風邪をこじらせ、入院していた。
 入院していた間、雪緒は――。
 来なかった。
(遅い、よな・・・)
 鷹介は呟き、四季彩館のドアを開けた。
「いらっしゃい・・・」
 北斗はいつものように優しく笑っていた。
 それが、嬉しかった。
 しかし、北斗は入ってきたのが鷹介だと認識すると。
 厳しい顔になった。
「雪緒ちゃんに会いなさい」
 ――どうやら北斗は全てを知っているようだった。
 鷹介は・・・出来るだけ、平静に答えようとした。
「・・・・・・今さらどんな顔して会えばいいんですか?」
「いつものように」
「それが出来ないから悩んでるんじゃないですか!」
 叫びにも似た、想い。
 はじめての本音だった。
 それに戸惑う鷹介に、北斗はゆっくりと聞いた。
「じゃぁ、会いたいとは思ってるんだ」
「そりゃぁ、まぁ・・・」
 一呼吸し、鷹介は――
「俺も−どうやら、雪緒のこと好きみたいだし」
 本当の想いを、告げた。
 そして、すぐに苦笑。
「今さら説得力無いかもしれないですけど、ね・・・」
 そんな鷹介を見て、ため息をつく北斗。
「全く、似たもの同士だね・・・」
「は?」
「あーいや何でもない。じゃぁ鷹介くんは雪緒ちゃんのこと好きなんだね?」
「・・・・・・好きです」
 北斗はにた〜と笑った。
(北斗さんのこんな笑い方、初めて見た・・・)
 北斗は鷹介にかまわず、厨房の方に向けて声をかけた。
 誰か、いるらしい。
「だ、そーだよ。どうする?・・・あーこらこら、逃げるな」
 その台詞で誰がいるかを悟った鷹介は逃げようとしたが――
 あっけなく捕まった。
「離して下さい!」
 しかし北斗は手を離そうとせず――まじめな顔で、告げた。
「このままでいいなら離すけど?」
 北斗の言葉。
 北斗の、顔。
 厨房から、出てきた雪緒の泣き顔。
 それらの意味を考え。
 自分なりの答えを出し。
 鷹介は、抵抗を止めた。
 そして雪緒に近付いて――
 始めて言葉にした。
 自分の想いを。
 本当に側にいて欲しい、ただ1人の人に。
 そして、二人の時が――動き始めて、間もないある日。
 いつものように鷹介と雪緒は四季彩館に来ていた。
 そして、ふと疑問に思ったことを、鷹介は聞いた。
 なぜ、自分たちのために動いてくれたのか、と。
 北斗は微笑いながら答えた。
「君らには僕みたいになって欲しくなったからね・・・」
 寂しそうな笑いを浮かべた北斗に、二人は鷹介と雪緒はただ。
 北斗の顔を眺めることしか出来なかった。
 海鳴りが、やけに大きく聞こえた。





 どこかで犬の声がする。
 ふと下を見ると、犬が流されているのが見えた。
 やれやれ・・・・・・
 ため息をつきながらも、河に飛び込む。
 ・・・・・・冷たいことこの上ない。
 震えながら河から上がった僕に。
 彼女は――
 すっと側にいてくれると約束してくれた彼女は――
 ずっと側にいて欲しいと願った彼女は――
 優しい顔で、迎えてくれた。
「ジンジャーチャイ、作ったげるから――早く鷹介の家に行こ?」
 空から雪が舞い降りてくる。
 寒いけど、確かに寒いけど。
 この寒さも、彼女の温もりを現実だと教えてくれる要素だから。
 僕はもう大丈夫だろう。
「雪緒!待てって!」
 そう、もう大丈夫。
 彼女が、いるから。