細波〜葉月〜





 どこまでも高い空。
 どこまでも遠い海。
 ただそれらを眺めていた。
 いつしか空は紫に、海は金色に染まる。
 赤い夕日が編み上げるその光景を、ただ見つめていた。
 もしも誰かが側にいてくれたら、この光景はどのように見えたろうか?
 誰か、と呟き、すぐに君の顔を思い浮かべて苦笑。
 やれやれ。
 どうやらもう遅いみたいだ。
 こんなにも君を求めている。
 しかし――君は遠い。
 空の高みと海の底の様に、あまりにも遠い。
 車に戻り、キーを回す。
 部屋に、戻るために。
 誰も待つ人のいない部屋に戻るために。





「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
「ひとりです」
「では、こちらのお席にどうぞ」
「ありがとうございます」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「止めよう、北斗」
「だな、翔生」
 高城北斗と日置翔生はにや、と笑い合った。
「相変わらず身内以外にはその喋り方か?」
 と北斗が苦笑。
「お前も似た様なもんだろうが」
 と翔生も苦笑。
「お前は本当愛想悪いよな」
「お前は愛想良くなったな」
「客商売ですから」
「客商売だからか」
 北斗が澄ました顔で言えば、翔生はああなるほどと頷いている。
「・・・信じるなよ」
「・・・信じてないよ」
「なら頷くなよ」
「だって頷いて欲しそうだったし」
 北斗は溜息一つ。
「で?」
「で?、って?」
「何か話したいことがあるんだろ?」
「・・・何故解った!?」
 驚いている翔生に、北斗は苦笑した。
「お前がそんな顔してるときは――大概は話したいことがあるときだろ?」
 北斗に言い当てられ、翔生は絶句。
「・・・解るか?」
「解るな。はっきりと」
 真面目ぶってうんうんと頷いている北斗。
 うげ、と呟いたまま固まっている翔生。
 やがて観念したのか。翔生は呟く様に聞いてきた。
「今日、いいか?」
 その声のトーンはあくまでも真面目で、冗談の入り込む余地はない。 
「・・・別に構わないが。場所は?」
「解ってるだろーに訊くなって」
 翔生は苦笑しながら、席を立った。
「9時頃な。じゃ、頼んだ」
 それだけ言い残し、翔生は店を出ていこうとして――北斗に肩を押さえられた。
「何だ?」
 不思議そうに翔生が問えば、
「今度来たときは注文してくれ」
 にっこりと北斗が答えた。
「へーへー」
 決まりが悪そうに翔生は苦笑して立ち去った。
 そしてドアを開け、出ていったと同時に2人連れと激突。
「あ、すみません・・・って名越か!」
「いえ・・・ってしょーちゃんやん!」
 翔生は驚いた晶久の頭に笑顔でとりあえず一撃加えた。
「教師をちゃんづけというのは戴けないですよ」
「う・・・はい、日置先生」
 と、悔しそうな晶久である。
 その声を聞いた瞬間、翔生の口調がいきなり変わった。
「って学校では言うんだけどな。今はオフだオフ」
「じゃぁ何で俺をどつくんですかっ!」
「コミュニケーション♪って睨むな睨むな。んで、名越の彼女かぁ・・・うわ!」
 雫の顔を見た途端、翔生の表情が凍った。
「お久しぶりです、日置先生」
「久しぶりだな、桂木」
 と懐かしそうな翔生と雫。
「・・・知り合い?」
 晶久は1人きょとんとした顔をしている。
「高校の時行ってた学習塾で講師しておられたの。で、その時水澄も・・・」
 と雫が説明するの翔生は遮った。
「悪い、ちょっと野暮用でね。また、今度」
 そして足早に立ち去っていく。
「どしたんだろ?」
「さぁ・・・」
 残された晶久と雫はしばし翔生を見送ったあと、四季彩館に入っていった。
「ちゃす」
「こんにちは」
「暑かった〜」
 晶久はそのままぐったりとカウンターに突っ伏した。
「だらしないよ、晶久」
「うう、雫は細かい・・・」
 雫はぐったりとしている晶久を無理矢理起きあがらせ、晶久はそんな雫に文句を言いながらもその言葉に従っている。
「・・・うまくいってる様だね」
 そんな二人を見ながら北斗はカウンターに水を差しだし、注文をとった。
 その言葉にあはは、と二人して笑っている。
 北斗はそんな二人を嬉しそうに眺めていた。
「えーと、俺キーマン」
「あたしは・・・ヌワラエリヤとシブースト」
はいな、と答えつつ、北斗はティーポットに茶葉を入れ、お湯を注いでいく。
 空気に紅茶の匂いが立ち上っていく中、シブーストを皿にのせ、雫の前へ。
「はい、お待たせ」
 と差し出されたボーンチャイナのティーカップにキーマンを注ぎながら、晶久は不意に問いかけた。 
「ところで、しょーちゃんいやいや日置先生のことなんですけど・・・」
「ああ、翔生ね。奴がどうかした?」
「実はですねぇ・・・」
 晶久が口を開き駆けたそのとき、ドアが開いた。
「あ、水澄さん」
「やっほー、水澄!」
 晶久が挨拶し、雫が手を振った相手。
 晶久の従姉妹にして雫の友人である大槻水澄だった。
「あ。晶久くんに雫だ。そっかー、二人は付き合ってるんだよねぇ・・・はぁ」
 水澄は溜息をつきつつカウンターにつき、力無い声で注文した。
「えーと、アールグレイをアイスで」
「了解」
 北斗は紅茶を淹れる
「げ、元気がない・・・」
「最近ずっとよ。どうしたんだろ?」
 晶久と雫の声は聞こえているが、今の水澄には答える元気が無い。
「はぁ・・・」 
 北斗がアールグレイを入れている間中、水澄は溜息をついていた。
「お待たせ」
 アイスアールグレイを出しても、 
「はぁ・・・」
 水澄は溜息ばかりついている。
「重症だね」
「重症よね」
 心配そうな二人を見やりつつ、北斗は水澄に問いかけた。
「どうかした?」
 北斗のその問いに、水澄は気弱な笑みを見せながら答えた。
「駄目ですねぇ。いつも少しだけ遅いんですよ、わたし」
 そのままカウンターに突っ伏しながら、顔を見せないまま水澄。
「彼女いない、って事だったんですけどね・・・。また、遅かったみたいです」
 溜息混じりに、訥々と。
「なんでわたし、こうなんでしょうね・・・もう少し勇気が有れば・・・こんな気持ちになることも無かったんでしょうけどね・・・」
 そう言いながら水澄は顔を上げ、寂しそうに微笑った。
「翔生でしょ、相手って」
 あっさりと北斗が聞けば、水澄もあっさりと認めた。
「・・・わかっちゃいましたか」
「ふーん、日置先生が水澄の好きな人、かぁ。うん、何となくわかるよ」
 雫は驚いた風でもなく、何となく納得した様な声である。
「うん・・・あたし、日置さんのこと、好き・・・だよ。でもね・・・もう、彼女いるみたいだし」
 とぎれとぎれの水澄の言葉。それを北斗は遮った。
「待ちなさいって。あいつ、彼女居ないはずだよ?」
「あ。俺も聞きましたよ。『彼女?俺に彼女が居る様に見えるか?』って笑ってました」
 そんな北斗と晶久の言葉に、水澄は弱々しく反論した。
「嘘です・・・顔は見えませんでしたけど、部屋に一緒に入っていくの、見ちゃったんです」
「うわ、それ本当、水澄さん?」
 水澄のその言葉に、晶久は思わず驚愕の声を出した。
 それもそうだろう。
 日置翔生という男は晶久達の通う学校に数ある変わり者の教師の中でもトップ3に入る存在である。
 しかも浮いた噂一つ無く――とは言えもてる要素がないわけではない――、ただ単に縁がないだけであろうというのが最近の生徒達の見解であった。
 その彼が女を連れ込んだ。
 晶久が疑ったのも無理はないだろう。
 しかし――水澄は、耐える様に答えた。
「うん・・・見ちゃったんだ、あたし・・・」
 水澄の顔はもはや泣き笑いに近い。
 北斗はやれやれ、と言った表情で問いかけた。
「嘘じゃないって。なんなら確認したっていいけど・・・どうする?」
「でも・・・」
「どっちにせよ今夜会うの約束してるし」
「水澄さん!」
「水澄!」
 水澄には二人の声が遠くから聞こえている様な気がしていた。
 世界が揺れる。
 どうしようか。諦めるのか。諦められるのか。
 ――諦められない。諦められるはずがない!
 だから。
「お願いします」
 そう、答えた。
「お願いします。わたし、やっぱり諦めたくないです!」
 その眼を見て北斗は微笑った。大丈夫だよ、と言った風に。
「そーだよ、水澄さん。諦めたら駄目だって」
「あたしと晶久が今付き合ってるのも、諦めなかったからなんだからね!」
「うん・・・ありがと」
 久しぶりに水澄は――笑った。


「・・・・・・」
 手の中にはグラス。
 グラスからは二つの音。
 一つは氷が溶ける微かな音。
 一つはガラスと当たる澄んだ音。
 グラスを揺らし、その音を楽しんだ後、翔生はグラスを口に運んだ。
 グラッパの甘い香りが口腔を満たす。
 その甘さと裏腹に、その眼に宿っているのは、苦い表情――悩みだった。
 恐らく、他人の前では絶対に見せない光――特に、生徒の前では。
「全く・・・」
 もう一口。
「どうしようも、無いな・・・」
 呟く。
「どうしたってんだ、俺?」
 自分に問いながらも答は解っているはずだった。


「待たせたな・・・あ、バカルディ、ロックで」
 北斗は注文を告げつつ翔生の隣に座った。
 バーテンは黙って頷き、氷を削り始めた。
 氷は球状に削られていく様子を北斗は黙って見ている。
 言葉は何もない。
 スピーカーから流れてくるマーラーの大地の歌、グラスの中で氷が立てる微かな音、氷が削られていく音。
 その3つの音が空間を支配していたが、やがて氷が削られる音が止まり、北斗の前にグラスが差し出された。
 北斗は無言でグラスを手に取り軽く掲げた後――口に運ぶ。
 冷たい、しかし熱い液体が喉を滑り落ちていく感覚。
 その感覚を楽しみながら、北斗は何も訊かず、ただ、翔生が話すのを待った。
 ――待ち続けた。
 グラスの中の透明な液体が半分ほど無くなった頃だろうか。
「早坂と最初に会ったのはさ、俺が学習塾のバイトをしてるときだった」
 翔生はぽつりぽつりと語りはじめた。
「無茶苦茶元気でさ。よくからかわれたよ」
 北斗は無言。
「で、な。あいつの大学受験の前、言われた。好きです、ってな」
 翔生はグラスを揺らしながら言葉を続けた。
「驚いたよ。でも、な。正直言って、信じてなかった。あの頃特有の一過性の熱病だろ、って」
 翔生は自嘲めいた笑みを浮かべた。
「でも、さ。結局好きだったんだよ、早坂のこと。逃げられてはじめて気付くなんて、さ。笑っちまうだろ?」
「・・・笑わないよ」
 グラスを弄びながら、翔生は独り言の様に言葉を繋いでいく。
「でも、今更だよな。今更、気付くなんてな。莫迦みたいだろ?」
 その言葉を聞いたとき、北斗は呟く様に――しかし、強い口調で言った。
「今更かどうかは解らない。それにな、翔生。気付いているか?」
「一体何に?」
「彼女はお前のことが好きだぞ」
「それはないな」
「なんでだ?」
「この前声かけたら逃げられた」
「ただ単に照れてるだけじゃないのか?」
「いや、あの見事な逃げっぷりは嫌われてるからだとしか思えん」
「いや、それこそお前の勘違いだ」
「何故分かる?」
「だって本人から聞いたから」
 北斗のその言葉に、翔生は思わず気の抜けた声を出した。
「・・・へ?」
「好きなんだけど、彼女が居るみたいだから諦める、とか言ってた」
 そして今度は驚愕した。
「いつ俺に彼女が出来たんだ?」
「お前が部屋に女を連れ込むのみちゃったんだと。お前が一番知ってるはずだろ」
 翔生はうーん、と唸った後、何かを思いだした様に手を叩いた。
「ああ、あの時か?そーいや部屋に連れて帰ったわ」
「ふむ。美人か?」
 やや興味深そうに、北斗。
「・・・男だっての。麻雀大会で一番負けた奴が女装なり男装なりするって罰ゲームしたんだわ」
「おいおい高校教師、何やってんだ一体?」
 冷や汗を垂らしながら北斗が言えば、
「うるさいわい。教師だってたまには羽目外したくなるっての」
 憮然としながら翔生が反論する。
「で、結局誰だった?」
 苦笑しながらも、興味深く北斗が聞けば、翔生は複雑な顔で答えた。
「高村。あいつが一番負けてな・・・」
「高村・・・あ、あいつねぇ・・・そりゃぁ、ある意味似合ってたかも知れない・・・」
 冷や汗を垂らしながら北斗。
「ああ・・・怖いくらいに似合ってた。ナンパもされてたぞ」
 溜息一つ。
 その溜息はあまりにも重く、あまりにも情けないものだった。
「うわ・・・」
 北斗はただただ嘆息するだけ。
「で、麻雀大会の後飲みに行ったんだけどな。結局高村の奴潰れやがってさ。俺の部屋が一番近かったから連れて帰ったんだわ」
 遠い目をしながら、翔生は言葉を続けた。
「酔っぱらったあいつ引きずって帰るときの何も知らない奴らの敵意の眼、俺は忘れられない・・・」
「知らないってのは・・・幸せだねぇ・・・」
 妙に慈悲深い顔で北斗が呟く。
「ああ・・・」
 北斗と翔生、しばらく沈黙。
「・・・」
「・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
 その沈黙――間抜けな沈黙を破ったのは北斗だった。
「で、どうする?水澄さんのこと」
「言うしかないわな。都合のいいことに写真があるし」
 嘆息しながら、翔生。
「見せるの?」
 北斗のその問いに、翔生は迷いの入り交じらない声で答えた。
「見せなきゃ納得しないだろーし。答を先延ばしにするわけにも行かない。あとこのまま終わったんじゃあまりにも酷すぎる」
 翔生の覚悟の程がわかったからだろう。北斗は笑った。
「・・・解った。高村のことは引き受けた。ばれたとしても――文句は言わせないよ」
「・・・いいのか?」
 やや驚いた表情で翔生が問えば、
「いいって」
 とあっさり北斗が答える。
 そんな北斗に、翔生は苦笑した。
「・・・お節介だな」
「・・・性分でね」
 対する北斗の表情は、微かに、寂しそうな笑み。
「やっぱり・・・」
 酒が入ったからだろうか。翔生は普段なら絶対に訊かないはずのことを――訊いてしまっていた。
「まだ、忘れられないのか?まだ引きずってるのか?もう誰も好きにならないのか?」
 そこまで言って翔生は自分の言葉の意味に気付き――驚愕。
「・・・悪い」
 気まずそうな顔の翔生に苦笑しながら、北斗は淀みなく答えた。
「・・・いや。いい。忘れられないのかっていう問いなら、答はイエスだ。忘れられるはずがない。引きずっているのか、という問いならば、答はイエスでもノーでもない。それには答が出せない。もう人を好きにならないのか、という問いなら――答はノーだ。彼女はきっとそんなこと望んじゃいない」
 その顔には一片の迷いもない。ただ、事実を事実として述べている。
「強いな・・・いや、強くなったな、北斗・・・」
 驚嘆する様に翔生。
「ああ。強くならなきゃいけなかったから、な」
 懐かしむ様に――誇る様に、北斗は微笑った。
 グラスの中、氷が澄んだ音を立てて揺れた。
「強くならなきゃいけなかった、か・・・」
「ああ・・・」
 二人はまた無言に戻った。
 しばしの沈黙の後、同時に、
「「フレンチコネクション」」
 同じ注文。
 二人して溜息をついた後、
「とりあえず、さ。明日誘ってみる」
 棚に並ぶ酒の瓶を眺めつつ、翔生が呟く。
「それで駄目なら・・・明後日誘ってみる!」
 そして拳を握りながら、力説。
「お、本気だねぇ!」
 その様子を見て北斗がくすくすと笑い、
「本気さぁ!」
 翔生がけらけらと笑う。
 そして
「全く。どうしようもないね」
 北斗が呟き、
「お互い、な?」
 翔生も素に戻って苦笑。
「まぁね」
 言いながら、北斗は差し出されたフレンチコネクションを一口。
 翔生も一口飲んだ後、呟く様に言った。
「お前も、さ。いい子が見つかるといいね」
 その言葉に北斗は黙ってグラスを掲げて――
 翔生も応えてグラスを掲げて――
 ガラスとガラスが当たり、綺麗な――とても綺麗な音を立てた。


 明くる朝。
「・・・眠いわぁっ!」
 翔生は怒声とともに鳴り響く電話に拳を叩き付けて――再び眠りに落ちた。
「お休み、俺・・・」
 安らかな眠り。
 しかし、何か忘れている様な――
「ってお休みじゃないだろ、俺!」
 跳ね起きて時計を見る。午後3時。
「うわ、こんな時間まで寝てたのかよ!」
 しかしこのまま水澄の部屋に行くわけにも行かないだろう。
 何しろ今の翔生は髪はぼさぼさ、酒臭い息を巻きちらす存在である。
「えーと、シャワー浴びて髭剃って歯磨きして飯喰って・・・ああっ!」
 自分のこれから為すべき事を並べ、それにかかる所要時間を計算した翔生は絶叫した。
「頼む、部屋にいてくれよぉ!」
 そして30分後。
 翔生は隣の部屋のドアを叩いた。
『はい・・・』
 インターフォン越しの物憂げな声。
 水澄は外出していなかった。
 していなかった――と言うより、する元気がなかった、と言った方が適切かも知れない。
 それほど水澄の声は疲れていた。
 翔生は大丈夫だろうか、と呟いた後、インターフォンに向けて話しかけた。
「あ。日置だけど。ちょっといいかな?」
『しょ、日置さん!?ちょっと待ってて下さい!』
 叩き付けられる様にインターフォンが切られた。そして多少のタイムラグの後、ドア越しに何かがひっくり返る大きな音。
「全く・・・」
 翔生は思わず笑っていた。
 5分ほど経った頃だろうか。
 扉はおずおずと開かれた。
「何でしょうか?」
 水澄は後頭部をさすっている。
 翔生は思わず笑いそうになったのをこらえて、一言。
「ちょっと付き合ってくれるかな?」
 翔生の誘いに水澄は――覚悟を決めた様に答えた。
「・・・はい」
「なら・・・行こっか」
 翔生は水澄を助手席に乗せると車を走らせた。
 海岸通りを抜け、臨海公園へと。
 結局臨海公園までは一言も会話が交わされることが無く、臨海公園についてからも二人は一言も発しないまま、ベンチに座り――海を見た。
 海からの風が頬を撫でていく。
 聞こえているのは波の音。
 何を話すわけでもない。
 ただ、二人は黙って海を見ていた。
 潮の匂いに入り交じって、波の音が聞こえる。
 1時間。
 2時間。
 ただ、時は流れていく。
 不意に海から強い風が吹き――それが合図だったかの様に、翔生は口を開いた。
「あの、さ・・・」
 言いにくそうに、翔生。
 水澄は僅かに体を動かした。
 聞きたくない。
 そんな風に。
 翔生は水澄のそんな表情を気にする風でなく、言葉を続けた。
「確かに俺はあの日、長い髪で結構派手な服来た人間を部屋に入れた」
 瞬間――水澄の表情は泣き笑いに変化した。
 聞きたくない。
 もう、聞きたくない――!
 その想いは言葉にならなかった。
 いや。
 言葉になる前に翔生が次の――ある意味決定的な言葉を発したから。
「でも、な。あれ・・・高村なんだわ」
「・・・は?高村先輩?」
 水澄の声は掠れていたがしかし、どこか間の抜けたものになっていた。
「麻雀やってね。一番負けの奴が女装または男装するって罰ゲームしたの。んで、そのまま飲みに出ちまった」
「・・・高村先輩が罰ゲームの餌食になった、と?」
 水澄はまだ信じられない、といった声。
 その声を聞き、翔生はポケットからある写真を差し出した。
「これ、証拠ね」
 水澄はおずおずと写真を受け取り――見た次の瞬間絶句した。
「これ見せたこと高村には内緒な?頼むから」
 そこに移っていたのは確かに高村だった。
 しかし写真の中の高村はカツラをかぶり、メイクをしている。一見すれば女性にしか見えない。その上流し目である。
「あはは・・・」
 乾いた笑いが洩れた。
 ・・・わたしは一体何を悩んでいたのだろうか?
 ああ、なんだかどーでもよくなってきた。
 そんな心の動きが翔生にはありありと見て取れた。
「おーい・・・帰ってこーい」
 心配そうな、からかう様な翔生の声。
「ご、ごめんなさい。もう駄目・・・!」
 水澄は涙を流して笑っている。
 その涙に混ざっているのは、安堵。
 その安堵の顔を認めて、翔生は切り出した。
「というわけで、だ。俺には彼女は居ない。故に・・・」
 一呼吸おき、水澄の目を見つめながら自分の想いを言葉にした。
「俺の彼女になってくれるとかなり嬉しい」
「え?」
「好きだ」
 水澄にとっては思いがけない言葉だった。
 自分が思いを寄せているひとから聞かされる、自分への想い。
「まぁ、駄目なら駄目でもいいけどね。俺も今更、って思ってるから」
 翔生の、その言葉に水澄は即答していた。
「駄目じゃないです!」
 強い、口調で。
「駄目じゃ・・・ないですよ・・・」
 答え、そして微笑った。
 その微笑みに、翔生は。
「そっか・・・」
 安心した様に。 
「そっか・・・良かったよ。間に合って」
 心から安心した様に笑った。
 そして二人で海岸を歩いた。
 夕暮れの海岸には人影はまばらで、あまりにも静かだった。
 寄せては返す波の音。
 塒へと帰っていく鳥の声。
 それだけしか聞こえない。
 そんな静かな海辺を、翔生と水澄は連れだって歩いた。
 何をするわけでもない。
 ただ、歩いた。
 しかし、そこには確かに心地よい静寂が漂っていた。
 その静寂を破り、お願いがあるんです、と水澄は呟いた。
「お願いって?」
 怪訝そうに訊く翔生に、水澄は笑顔で答えた。
「また・・・」
「ん?」
「また、海に連れて行って下さいね!・・・翔生さん!」
 翔生は黙って微笑い――水澄の髪を撫でた。
「当たり前だろ――水澄」
 そんな言葉とともに。
 宵の海の波音が優しく響いた。





 秋も近い海辺には盛夏の頃の面影は残っていない。
 空の色は一段と深まり、海の色は微かに秋の気配を漂わせている。
 変わらないのは寄せては返す波だけ。
 でも一番変わったのは自分自身だろう。
 それは――隣に君が居てくれる様になったこと。
 ただそれだけなんだけど、それは例えようもなく大切なこと。
 今も君はすぐ隣にいて、空と海を見つめている。
 約束しよう。
 来年も、再来年も、その次の年も。
 夏も、秋も、冬も、春も。
 君と出かけよう。
 空の蒼と海の碧が融け合うこの場所に。





次回予告
 夏が過ぎ、吹く風には秋の気配。
 木々の中、聞こえるのは蝉の声。
 遠くには、あの夏の日の思い出。
 近くには、君と紡ぐ物語の予感。
 どんなに遠くても、必ず会える。
 無邪気な約束が今、果たされる。
 四季彩記・長月『虫時雨』
 夕間暮、君の声が聞こえる。