空の蒼、舞い降りる銀





 10月21日の朝。
 僕は微かな不安とともに目覚めた。
「・・・今日、なんだよな」
 ずっと、準備を続けてきた。
 今日のために。
「この日のために頑張ってきたんだもんな・・・」
 うん、とのびをする。
「通らなきゃな・・・」
 僕は部屋を出た。
 試験会場に向かうために。

 電車の中でも僕は問題集を広げていた。
 とにかく、時間が惜しかった。
 思い出す。
 この1年間を。
 昼休憩。
 家に帰って御飯が炊きあがるまでの時間。
 問題集と闘いながら――比喩ではない――過ごしてきた。
 その御陰で今は百戦百勝。まず、間違いなく試験に通るだろう。 
「全部、今日のためだったんだよな・・・」
 だから、自信がある。
 絶対に、通る。


 試験会場に一番近い駅。
 ホームに降りた途端、着信音。
 僕はとりあえず電話に出た。
 聞こえたのは、懐かしい声。
『もしもし・・・』
 君からだった。
「・・・何?」
 出来るだけ素っ気なく僕は答えた。
 電話自体は嬉しかったけど、でも、戸惑いがあった。
 でも、僕のそんな心境に君は気付くことはない。
『貴弘さん・・・』
 僕の名前を呼び、ただ一言。
『逢いたい・・・』
 たったそれだけ。
 それだけのメッセージを残して、電話は切れた。
「何を・・・今更・・・」
 僕は携帯電話を持つ手に力を込めた。
 機械が軋む音が、手の中から響いた。


 別れを告げてきたのは君の方だった。
 半年前のことだった。
 いきなりの別れの言葉を告げられた僕は、それでも君を忘れられなかった。
 その証拠に、僕は君とはじめて行ったアミューズメントパークのコインを捨てられないでいる。
「未練・・・だな・・・」
 言いつつも、捨てられなかった。
 また、そのコインが僕にとっての大切なお守りになっているのも事実だった。
 だから、今日も持ってきたのだけれど。
「どうしろって・・・言うんだよ・・・」
 痛みが、僕を苛んだ。
 君は言っていた。
「わたし、貴方を不幸にしちゃうから」
 哀しそうな眼で、言っていた。
「だから、さよなら」
 辛そうに。
「あなたが私を嫌いになっても、私はあなたのことが好きだから」
 そう言って、最後に微笑った。
 でも、ならば。
 何で君は別れの言葉を口にしたのだろうか。
 僕は、それが解らなかった。
「僕は・・・」
 君のことが、まだ好きなのに。
 呟き。
 と同時に、また着信音。
「もしもし・・ああ。お前か」
 友人の高崎からだった。
『今日試験だろ?応援の電話をしようと思ったんだけど』
 そう言った高崎は、僕の様子がおかしいことに気付いたのだろう。
『貴弘。どした?』
 訊いてきた。
「ちょっと、な」
 僕は彼女からの電話のことを話した。
 しばらく黙っていた高崎は、重々しく告げた。
『貴弘。お前、知らなかったのか・・・?』
 声には驚愕が混ざっていた。
『あの子さ。入院してんるんだ』
 知らなかった。
 そんなこと、知らなかった。
『俺の彼女さ、ほら、あの子と友達なんだわ。んで、俺は知ってたんだけどな』
「俺・・・知らなかった・・・」
 病気の自分が彼女だと、重荷になる、なんて思ったのだろうか。
 僕は胃の当たりが重くなるのを感じていた。
『・・・そっか。で、な。もうすぐ手術だって言ってたんだけどな』
 一呼吸。
『成功率、低いらしい。成功すれば完治するけど、失敗したら・・・』
「嘘だ!」
 僕は叫んでいた。
「そんなの、嘘だろ!」
 思い切り。でも。
『嘘じゃない。それにな。今日電話してきたってことは・・・』
「手術は・・・今日か・・・明日か・・・」
 僕の弱々しい声の跡を継ぎ、高崎は教えてくれた。
『ああ・・・。入院先は・・・市立病院だ』
 そして。
 黙っている僕を叱咤するように、高崎は告げた。
『これからどうするかはお前が決めな』
 苦笑して、
『もっとも、答えは出てんだろうけどな』
 僕の背中を押した。


 試験場の前。
 僕は立ちつくしていた。
 もうすぐ、受付が終わる。
 僕は空を見上げた。
 蒼い、どこまでも蒼い空を見上げた。
 そして、自分に問う。
 今の僕にとってどっちが大切なんだろうか。
 資格だろうか?
 君だろうか?
 仕事をするためには資格が必要。
 でも、生きていくためには君が必要。
 でも。
 本当に、手に入れたいのは――
「・・・・・・」
 僕はお守り代わりのコインを取り出した。
 君とはじめて行ったアミューズメントパークのスロットで手に入れたコインを。
 指で強く弾いて、空に投げ上げる。
「表か、裏か・・・!」
 思い切り強く弾いた銀が、きらきらと煌めきながら降りてくる。
 その、銀色を――
 掴む。
 掴んで、走り出す。
 答えは、既に決まっていた。