魍魎狩(すだまがり)





 おいあんた、何処へ行くんだい?
 華彩だって?悪いことは言わねぇ。止めときな。
 何故行くなって言うのかって?知らないのかい、あんた。
 近頃あの街を騒がせている辻斬りのことさ。
 え?知ってる?じゃぁなんでまた・・・
 なんだ、帰るところだって?何だ、あんた住まいは江戸かい。
 なら知ってんだろ。ありゃぁ酷いね。刀の切れ味を試すでも無ぇ、拐かすでも無ぇ。ただ殺すために殺してやがる。
 しかも老若男女お構いなしだ。
 奉行所も頼りにならないねぇ。ひょっとして辻斬りの下手人って結構な身分の侍だったりしてな。
 もしそうなら冗談じゃないねぇ。一体何のための奉行所だい。
 奉行所も奉行所だけと神様も神様だねぇ。
 あんな外道をする輩を野放しにしてんだからさぁ。
 もし居たなら天罰とかあっても良さそうなもんだけど、辻斬りは続いてるらしいよ・・・全く、神も仏もあったもんじゃ無いねぇ。
 でもあそこまで行ったらもう人の所業じゃないね。鬼か魑魅魍魎の所業だよ。御祓い頼んだ方がいいんじゃねぇかって思えてきちまう。 
 おい、あんた、まさか・・・
 何だ、やっぱり帰るのかい・・・まぁ精々気を付けな。
 今度会うのがこの世だったら酒でも奢ってくれな。



「つまらぬ」
 男は感慨も無げに呟き、刀を振るった。
 悲鳴を上げることさえも赦されず、老人は息絶えた。
「・・・つまらぬわ」
「――様。まぁそう仰らずに」
 そう言っているのは商人風の男だ。その笑顔は人懐こいが――下卑ている。
「ふん。――屋。俺も面白くなかったぞ。もうちょっと抵抗してくれねば斬り甲斐が無い」
 もう一人。血に濡れたままの刀を持ったまま現れた男がいる。
「――様まで。仕様がないですなぁ」
 商人はやれやれ、と言った風情だ。
 しかし本気で呆れているわけではない。
 むしろ喜んでいると言った方が良いだろう。
「実はですね。そう仰ると思いましてね。ちょっと変わった趣向を用意させて頂きました」
「何だ、そうであったか」
「人が悪いぞ、久米屋」
「きっと喜んで頂けると思いますよ・・・さ、お出で願います」
 呼ばれて出てきたのは侍が二人。
 眼に宿っているのは諦めの光だ。
「おや、何ですかなその眼は?私から借金なさったのはあなた方ですよ?」
 その言葉に二人の侍は目を見開いた。その表情を見、商人――久米屋富蔵はにんまりと笑い――告げた。
「もしも、です。このお二方に傷一つでも追わせることが出来たならこの証文はこの場で破り捨てましょう。ご祝儀も弾みましょう。如何なさいますか?」
 しかし二人は黙っている。やれやれ、と言った風に久米屋は言葉を続けた。
「止めても良いのですよ?私はどちらでも構いませんのでねぇ」
 耳元で、囁く様に。優しく。
「・・・やろう」
「・・・解った」
「それで良いんですよ」
 そして、にんまりと嗤う。
「ふふふ。なかなか面白い趣向ではないか!」
「こうでなければなりませぬなぁ!」
 嬉々として刀を抜く侍二人。
「・・・・・・」
「仕方・・・あるまい」
 諦観して刀を抜く侍二人。
 彼らはそれぞれぶつかり合い、火花を散らし合った。
「ふふふ・・・楽しいな、楽しいぞ、山崎!」
「楽しゅう御座居ますなぁ、榊原様!」
 その名前を聞き、二人の侍のうち一人が凍り付いた。
「な、山崎!榊原様!まさか貴方様が!」
 しかし、腕の力は抜いていない。否、抜けない。
「城島・・・もっと俺を楽しませろ・・・」
 山崎は舌なめずりをし、城島を挑発したが、城島は後ろに飛んで刀を構え直した。
「そうでなければならぬ・・・そうでなければ・・・」
 その構えを見、山崎も刀を構え直す。本気の構えである。
「山崎、御免!」
 言うや、城島は紫電の如く山崎に斬りかかるが――
「甘いわ!」
 山崎は危なげもなく避け、
「さらばだ、城島。結構楽しませて貰ったぞ」
 楽しげに言い、城島を唐竹割りに切り捨てた。
 一方。
「ふふ、やるではないか!」
「・・・・・・」
 榊原と浪人――村井も斬り結んでいた。
 斬り結ぶ毎に饒舌になっていく榊原。
 終始無言の村井。
 一合。
 二合。
 三合。
 飛びずさり、斬りかかる。
 どれくらい経ったろうか。
 榊原は楽しげに言った。
「そろそろ本気で行かせて貰うぞ?」
 一瞬。
 反応が遅れ、村井の左腕が飛んだ。
「あああぁあああぁぁぁぁぁあああぁあ!」
 迸る絶叫と血。
「そうだ、その声だ!その色だ!」
 愉悦の色を滲ませる榊原。
「やられるか・・・やられるかぁぁぁぁ!」
 片腕のまま体勢を崩しながらも村井は斬りかかるが――
「ふふ・・・元気が良い事よ」
 首を――斬られた。
「ふふふ・・・ふ・・・はははははははは!」
 嬌笑が響いた。
「お楽しみ頂けた様ですな」
 二人の侍――華彩奉行所筆頭与力榊原典膳と同心山崎重正は頷き、闇に消えた。そして。
「ああ、これはお礼ですよ。なぁに、あの世でも金は入り用でしょ?」
 久米屋富蔵はくくく、と嗤い――小判を数枚つい今しがた命を絶たれた二人の侍と商人の懐に入れ、立ち去った。



 御門天神宮の境内。
 そこは普段と変わりなく人が集まっている。
 参拝の人々。
 彼らを標的にした出店の屋台や大道芸人。
 そして、いつもの様なざわめき。
 大道芸の呼び文句。
 柏手の音。
 そんな音に混ざり、瓦版売りの声が響いていた。
「さぁさぁ、最近世間を騒がすあの人斬りの鬼がなんとまたまた現れた!昨夜斬られたのは侍二人と町人二人!どちらも見るも無惨な有様だ!」
 瓦版売りは手に持った瓦版を指し示しながら売り文句を重ねていく。
「斬られたのは華彩奉行所同心の城島兵衛様と紀州浪人の横山そして出たのはなんと最近評判の呉服問屋松前屋の店先だ!詳しいことはこの瓦版に書いてあるよ!お代はたったの三文だ!」
 言い終わるや否や、我も我もと瓦版を買い求める町人達。
 彼らに瓦版を手渡しながらも、その瓦版売り――幻八郎は苦々しい思いを捨てきれなかった。
(嫌なことばっかり続きやがる・・・。たまにゃぁ面白ぇ事は起きねぇかねぇ・・・)
 生きるためとは言え、あのような事件を扱い、瓦版にしていると気が滅入る。
 ましてや、この辻斬り――人斬り鬼の評判は江戸まで知れ渡っているのだ。
 はぁ、と溜息をついた幻八郎に声を掛けた者がいる。
 御門天神宮の跡取りであり、宮司である御門天真である。 
「・・・幻八郎さん。どうしました、浮かない顔して」
「天真か・・・。いや、一寸な」
 雰囲気の暗い幻八郎に、天真は笑いながら
「そんな顔してるとお客さん逃げちゃいますよ。ほら笑顔笑顔」
 と言いつつ
「はは・・・お前さんにゃぁ敵わねぇなぁ」
 ようやく苦笑とはいえ笑った幻八郎に安心したのだろう。
 天真はじゃぁ私はこれで、と声を掛け町の方へと歩き去った。
ただ一言。鋭い――いや、鋭すぎる口調で。
「今宵子の刻――降魔殿。お願いしましたよ」
 と言い残して。


「旦那、いつもご苦労様」
「ああ、お前さんは今度祝言か決まったそうじゃないか。何よりだ、うん」
「有り難う御座います」
 うんうん、と頷きながら立ち去る同心――華彩奉行所の同心、九重京之介。
 彼は奉行所では可もなく不可もなく、毒にも薬にもならん男との評価であったが、殊の外町人に対する受けは良かった。
 良く泣き、良く笑う。
 つまらぬ事にも親身になってくれる。
 剣の腕はからっきしだが頼りになる。
 それが町での評価であった。
 そんな京之介に声を掛けた者がいる。
「京之介さん・・・」
「天真か。・・・何か用か?」
「ええ。今宵子の刻――降魔殿にて。お願いします」
「解った」
 そう答えた京之介の表情は普段の気のいい同心ではなく――どこか昏い影を持っていた。


 華彩の団子屋、吉祥庵。
 その店先に天真は来ていた。
「すみません、お茶と団子下さい」
「あらぁ、天真さんじゃないですかぁ。待ってて下さいね。美弥ちゃ〜ん、お茶とお団子お願いね〜」
 そう言って吉祥庵の女将である静は店の奥に引っ込み、程なくお茶とお団子が運ばれてくる。
 にっこりと笑いながら、
「お待たせいたしました♪」
 とお茶とお団子を差し出す町娘。
 吉祥庵の看板娘、美弥である。
「あら、天真さんだったんですか」
「はい、天真さんだったんですよ」
 暫しあははーと笑い合う天真と美弥。
 そして。
「では、頂きます」
 と天真はお茶を口にし、
「はい、どうぞ」
 と美弥は店の奥に戻ろうとしたが――
 天真は聞こえるか聞こえないかの声で囁いた。
「今宵子の刻、降魔殿。お願いしますね」
「・・・」
 美弥はこく、と軽く頷いた。
 そんな二人を見て静は笑いながら二人を――と言うより天真をからかった。
「あらあら天真さん、二股ですか?」
 その言葉に天真は思わずお茶を吹き出した。
「ななな・・・何ですかそれわ!」
 天真はつい先ほどの真面目な表情を失い、慌てふためいた。そんな天真を見て、静は人の悪い笑いを浮かべた。
「芳乃ちゃん、怒りますよ〜」
 芳乃――篠原芳乃。御門天神宮の巫女である。どうやら芳乃自身は天真を憎からず思っており、天真も気に入っているのだが――天真が朴念仁であるが故か、芳乃が色恋事を表に出すのを嫌うが故か、この二人まだその様な関係にあるわけではない。
 故に天真は冷や汗を垂らしながら反論した。
「あのですねぇ・・・何で私と芳乃さんがそう言う仲にならなきゃいけないんですかっ!大体芳乃さんはですねぇ、すぐに怒るしすぐにご飯を抜くし・・・」
 指を立ててあれこれと文句を言う天真であったが、
「あら、芳乃ちゃん」
 と言う静の言葉に思わず首をすくめた。そして
「うわっ!御免なさい!」
 思わず謝ってしまったのだが――芳乃の声は聞こえない。おや、と思いつつ後ろを見ても当然の如く芳乃の姿はない。
「・・・静さん」
 はぁ、と溜息をつく。しかし、
「冗談ですよ」
 にっこりと笑う静に天真はただただ疲れ切った声で文句を言うだけである。
「・・・止めてくださいよそう言う冗談は・・・」
 しかし懲りていないのか、静はまた先ほどと同じ言葉を口にした。
「あら芳乃ちゃんこんにちは」
「もう騙されませんよ・・・!」
 ふん、と笑う天真であったが、背後から響く声に体を強張らせた。
「天真さん・・・修行から逃げ出して何をして居られるんですか?」
 聞き慣れた声。
 芳乃の声である。
 その優しげな声に天真は振り向くに振り向けず、ただ固まる事しか出来ない。
「さぁ、帰りましょうねっ!」
 そして天真の頭に情け容赦ない一撃。
「い、痛い!痛いですよ芳乃さん!」
 ようやく振り返り、文句を言う天真であったが、
「痛い様にしてるんです!痛いのが嫌なら逃げないで下さい!」
 と芳乃はにべもない。
「そんなこと言われても・・・」
「解りましたね?」
「でも」
「解りましたね?」
「・・・善処します」
 がっくりと肩を落とし連れ去られて行く天真。
 その情けない表情を美弥は可笑しそうな、複雑そうな顔で見送った。


 子の刻。
 町は寝静まり、動く者は居ない。
 そんな時刻、御門天神宮の奥――一般の参拝客がまず立ち寄らない場所。いや、立ち寄りたくても立ち寄れない場所。
 そこに建っている質素な外宮――降魔殿。
 そこに集まっている者達が居た。天真達である。
「済まねぇな。遅れちまった」
「いえ。依頼人が来られるのはこれからですから」
 遅れてきた幻八郎が謝り、天真が苦笑しながら答えた。
 と、不意に世界は無音に支配され――その無音が砕けた。
 ざわざわ。
 ざわざわと、人の声。
 痛い。
 苦しい。
 憎い。
 悔しい。
 そんなの声が集まり、ざわざわとした騒音になっている。
「・・・ほら、来られましたよ」
 京之介はふむ、と呟き――虚空に目をやった。
「こりゃまた大勢だな」
 京之介。幻八郎。美弥。清浄な蒼い光を湛えていた。
 淨眼。
 そう呼ばれる眼を彼らは持っているのである。
 しかし――天真だけは右眼が蒼い光を、左目は紅い光を宿している。
 淨眼と魔眼。御門家の人間は代々この相反する二つの眼を持っている。これもまた、この世にありてあの世の者達の願いを聞き、恨みを晴らす者の証明であった。
 ざわざわ。
 ざわざわとした死霊達の中から二人の男が前に歩み出た。
 一人は侍。一人は商人である。身成は悪くない。
『城島兵衛と申す』
『松前屋の仁右衛門と申します』
 城島の顔を見、京之介は思わず呻き声を上げた。
「城・・・島・・・!」
『九重か・・・そうか。お前だったのか』
 城島は何処と無く納得した様な顔である。
「ああ・・・そうか。お前も斬られちまったんだな・・・」
 悔しそうに――本当に悔しそうに京之介は呟いた。
「お前達を斬ったのは――誰だ?」
『南町奉行筆頭与力榊原典膳、そして同心山崎重正・・・』
 城島に続き、仁右衛門が答え――
『手引きしたのは久米屋の主富蔵。そして大番頭の伸介』
 そして二人は頭を下げた。
『久米屋に巣くうこれらの魑魅魍魎を祓うこと、お頼み申し上げる』
 彼らが出した名前を聞いて、天真らは一応に溜息をついた。
「大物、だよな」
「大物、だなぁ」
「大物、だねぇ」 
「でも・・・やらないわけには行きません」
 吐息の様に呟く。
 そして、しかし、と前置きし、天真は言葉を続けた。
「私達も只で動くわけには行かないんです。それは解って下さい」
『はい・・・』
 死霊達は頷き合い、一斉に声を挙げた。
『御祓いの依頼料です。お納め下さい』
 その声とともに虚空から小判が現れ、卓に並べられていく。
 それを見、四人は頷き合い――告げた。
「ご依頼、お引き受けいたします」
 天真のその声が届いたのだろう。
 そして来たときと同様、ざわざわという音が遠のき――無音が訪れた。
 それを見送った後、天真が口を開いた。
「とりあえず――御祓いの仕事が入るよう仕込みますかね」
「そうだな。美弥、幻八郎・・・頼めるか?」
 頷きながら京之介は幻八郎と美弥に声を掛け、幻八郎と美弥は頷いた。
「はーい」
「はいよ」
 軽い溜息の後、京之介は皮肉な笑いを浮かべた。
「悪い奴らがいて、そいつらを殺されたが故に恨んでる奴がいて、そいつの無念を晴らす俺らがいる。全くよく出来た仕組みだね」
 天真はええ、と呟き、
「でも、生きてる奴らの恨みは仕事人とか、彼らに任せておけばいい。彼らは世間の影で、私達は世間の闇で。それぞれ恨みを晴らしていく。それだけのことです」
 穏やかな表情を変えないまま、言葉にした。
 その言葉はともすれば冷たく聞こえたが、しかしそれは彼らの仕事人との不文律であるのも事実だった。
「依頼人は人間以外で無いといけねぇってのが間怠っこしいがねぇ」
「でも仕様が無いですよ。悪い人たちに殺され、人ではなくなってしまった方たちの恨みを晴らす。それがわたし達の稼業なんですから」
 幻八郎がぼやき、美弥が窘める。
「どちらにせよ罪深いことには変わりありませんよ。私達も、彼らも、ね」
 違い無い、と苦笑しながら京之介が小判を手にし、やれやれだぁね、と幻八郎も依頼料を袂に仕舞い込んだ。
「大仕事ですねぇ」
 困ったのか困ってないか解らない表情で美弥。いつの間にか依頼料は消えている。
 それを確認し、天真は卓をどんと叩き――跳ね上がった小判を掴み取りそのまま袂に仕舞った。
「じゃぁ・・・始めましょうか」



 久米屋は祟られている。
 そんな噂は直ぐに流れ始めた。
 曰く、鬼火が出る。
 曰く、獣の唸り声が聞こえる。
 曰く、化け物が徘徊している。
 それだけではない。
 巷では久米屋に出向いた者、久米屋から金を借りた者も祟られるという噂が流れ始めていた。
 即ち。
 久米屋から金を借り、帰る途中鬼火に追いかけられた。。
 久米屋に顔を出しただけの薬屋が大川に引きずり込まれそうになった。
 そうなれば当然客足は遠のく。
 故に。
 久米屋富蔵は榊原に泣きついた。
「榊原様・・・何とかなりませぬか?こう注目されましては調達できるものも調達できませぬ」
 最近人を斬ることが出来なかったからであろう。榊原は憮然とした表情である。
「最近斬って居らぬ故、寝覚めが悪くていけませぬ。榊原様、何かいい手は御座居ませぬか?」
 山崎も同意する。ふむ、と頷き、榊原は考えを口にした。
「ふむ・・・その手のことならつてが無いでも無い。解った、早速行ってみよう」
「有り難う御座います」
 頭を床に擦り付ける富蔵であったが、榊原の次の言葉を聞き、にやりと笑った。即ち。
「いや、斬りたいのは儂も一緒だからじゃ」
 にや、と笑い――榊原が思い浮かべていたのは御門天神宮の主である御門左近であった。



「左近よ。久米屋の噂は知って居ろうな?」
「はい。化け物が出るとか、祟るとか。専らの評判で御座居ますねぇ」
 飄々としている左近にを苛立たしげに見やりながら、榊原は話を続けていく。
「久米屋は儂も懇意にしておってな。このままだと商売も出来なくなる。そこで、だ。内々に化け物退治を頼めぬか?」
「ふむ。化け物退治ですか。残念ながら――」
「貴様、儂の頼みが聞けぬと申すか?」
「いえいえ。最後までお聞き下さい。残念ながら私は多忙の身でして」
「やはり聞けぬと言うことではないか!」
 刀に手を掛けた榊原であったが――
「最後までお聞き下さいと申した筈ですよ?」
 左近の瞳に宿る冴え冴えとした光に、息を呑み――
「・・・続きを話せ」
 憮然とした顔で続きを促すしかなかった。
「天真――私の息子ですが、あれに任せましょう。なに、年は若いですが退魔の腕は私に引けを取りません。きっと久米屋に巣くう魑魅魍魎を祓うことでしょう」
 しかし榊原は気に入らない、といった顔である。当然であろう。御門左近の退魔の腕は聞き及んでいるが、その息子の腕は知らないのである。
「・・・本当に腕は立つのか?」
 左近はふぅ、と溜息をつき――天真を呼んだ。
「仕方ありませんね・・・天真、天真!」
 程なく天真が現れたが、天真は榊原の右の肩を見るや表情を強張らせた。
「何事ですか、父上・・・む」
 父親の前に座している、身分の高そうな侍。その右の肩を天真は見つめている。
「父上。この方は・・・?」
「うむ。華彩奉行所筆頭与力、榊原典膳殿だ。この方より退魔の依頼があったのだが。私は少々忙しくてな。お前に頼めないかと思ったのだが・・・」
 良いですよ、と答えながら天真は榊原の右肩をじっと見据え――不意に訊ねた。
「榊原様。右の腕の調子がおかしい、と言うことは御座居ませんか?」
 淡々と口にする天真を榊原は驚愕の眼差しで見上げた。
「・・・何故解る?」
「大層質の悪いものが憑いておりますよ。・・・失礼いたします」
 無礼者、という間もなく天真の右手が榊原の肩に触れ、何かを掴み取った。
「・・・何をする?」
 不機嫌そうな榊原をちらりと見やり、天真は呟いた。
「そうですか、榊原様には見えないのでしたね・・・」
 そして右手で掴んだ何かに左手の剣印を当て、念を込める。と。
 虫が現れた。
 人の顔を持ち、その足は刃の様である。
 そんな虫が天真の手の中できいきいと啼いている。
「・・・な!」
「貴方様に憑いていました魍魎ですよ」
 天真は言いつつ、右の手に力を込め――手の中で暴れていた異形の虫を消し去った。
「如何ですか、榊原様。天真ではご不満ですかな?」
「い・・・いや」
 右腕が軽くなっていたことに驚きつつ、榊原は叫んでいた。
「構わぬ。いや、頼めるか!?」
「ええ。お任せ頂けますでしょうか」
 にこやかに、しっかりと天真は頷いた。
「必ず魑魅魍魎を祓って見せましょう」
 天真のその言葉に榊原はうむ、と頷き、声を潜めて次の言葉を告げた。
「ただな、貴様等の様な者を雇ったと知れては店の信用に関わる、と久米屋は言うておってな」
「存じておりますよ。第一私は久米屋さんに詰める気は毛頭ありません」
「どういう・・・事だ?」
 怒りと疑問の入り交じった表情の榊原に、天真は淡々と答えた。
「相当な恨みを買って居られますね・・・貴方様と・・・後三人」
 榊原は無言で刀に手をやったが、天真の利用価値を思い出し、手を元に戻した。それを見ながら天真は言葉を続けた。
「勘違いなさらないで下さい。私は貴方達が何をなさってきたのか興味はありません。ただ、確かなことは一つ――今宵、魑魅魍魎は一堂に集います。貴方達の命は間違いなく喰らわれることでしょう」
「な・・・!それなら尚更・・・」
「私は魑魅魍魎の住まう場所に向かいます。元から絶たないと意味はありませんから」
 天真は言葉を続けた。
「そしてお願いしたい事があります。一つ。今宵は門を閉め、何方も入れず、何方も出さぬ事。二つ。貴方を含めた四人は別々の部屋にて朝をお待ちなさること。四人が一つ所におりますれば魍魎どもの良い目印で御座居ます。後一つ。朝をお待ち頂く部屋の四方にこの護符をお貼り下さい。これで私が魍魎を祓うまでの時間が稼げることでしょう」
 天真は一気に言い、護符を差し出しながら付け足した。
「ああ、部屋には何人居られても構いませんよ。むしろ多い方が良いでしょう」
「わ・・・解った」
 数枚の護符。
 その意味も知らず榊原は受け取り――久米屋に向かった。



「戻ったぞ」
「榊原様・・・お待ちいたしておりました。・・・御祓いの先生は?」
 きょろきょろと辺りを見回す伸介に、榊原は呟いた。
「富蔵と山崎を呼べ。内々で話がある」
 言い残し、榊原は久米屋の奥、自分に宛われた隠し部屋に向かった。
 部屋に着くや、榊原は刀を振るった。
「うむ・・・腕が軽い。あの者、若造とは言えなかなかやる・・・」
 にや、と笑うと同時に襖が開き、山崎と富蔵、伸介が入ってきた。
 榊原は憑き物祓いの件だがな、と本題に入った。
「本人は来ぬ。魍魎どもの住処を叩くと言っておった。それで、だ・・・」
 榊原は天真から言われたことをそのまま三人に告げていった。しかし、三人は一様に表情が暗い。明るいのは榊原だけである。
「なぁに、心配は要らぬ。その若造だが、結構な腕前であったぞ。ほれ、先日より右腕の調子が悪かったのだが、ほれ、この通りだ!」
 右腕を上げ下げする榊原に、山崎は嬉々とした声で話しかけた。
「また斬れますなぁ。一層腕が鳴るのでは御座居ませぬか・・・!」
「ふふ、全ては今日が終わってからだ。まずはあやつを斬るのも楽しそうだな」
 斬られる天真を思い浮かべているのだろう、榊原の表情は愉悦の色を宿している。
「ふふ・・・悪い人で御座居ますねぇ」
「久米屋よ、それをお主が言うか?」
「ふふふ・・・私だから言うので御座居ますよ。所詮同じ穴の狢ですからなぁ」
 くく、と笑う富蔵に追従する様に伸介は笑った。
「旦那様、それじゃぁ私ら自身が魑魅魍魎みたいではないですか。そんなことを言って居ると祓われますぞ?」
「なぁに、たかが憑き物祓い如き斬り捨ててくれるわ!」
「ははは・・・頼もしゅう御座居ますなぁ・・」
 4人は暫し笑い合い、それぞれに宛われた部屋に入っていった。
 誰もが数人からの破落戸を伴い、部屋に入っていったのだが、山崎だけは
「刀を振り回すの邪魔になる」
 と嘯き、彼らを外に待機させた。
 そして。
 一刻。
 一刻と時は過ぎ、子の刻も過ぎ、丑の刻――。
 月が、翳った。




「仕掛けは・・・施しました」
 降魔殿に天真の声が低く響いた。
 と。
 どこからともなく三人が現れ、天真に頷いた。
「魑魅魍魎どもはそれぞれ四方に別れているはずです・・・」
 手甲を身に着けながら天真。
「解った」
「ああ」
「お任せ♪」
 三人三様の答えが戻り――気配は消え、そして。
「では・・・御門天真――推して参る・・・!」
 呟きだけ残し、天真の気配も消えた。



「全く・・・何でこんな目に・・・」
 久米屋の大番頭である伸介は文句を言いながら寝っ転がった。
「ああ。むしゃくしゃする・・・!」
 すうっと、全ての人影が消えた。
「ああ?」
 気が付けば一人の女が現れていた――美弥である。
「はは、旦那様も気が利く・・・」
 酒が相当入っていたからだろう。別段疑問にも思わず、伸介は下卑た笑いを浮かべ、美弥ににじり寄っていく――が、美弥はするりと逃げてしまう。
「おいおい、それはないだろう?」
 情けない表情になった伸介に、美弥の呟きが届いた。
「食べちゃいたい・・・」
 その言葉の意味を推し量り、伸介は嬉々とした表情を浮かべ、更ににじり寄った。
「何だ・・・良いとも、食べさせてやろう・・・!くくく・・・」
 その表情を冷たく見据え、美弥は右の手を上げていった。ゆっくり、ゆっくりと。
「いえ・・・食べたいと言ってるのは・・・この子ですよ」
 美弥が差し出した右手。
 その先が歪み、獣が現れた。
「ひ・・・!」
 へたり込み、後ずさる伸介。
「でも駄目。こんなの食べたらお腹壊しちゃうから」
 め、と獣を叱りつける美弥。
 獣はくぅん、と情けない声を上げる。
 伸介はほっとしたが――美弥の次の言葉を聞き、凍り付いた。
「だから燃やしちゃいなさい。こんな汚い魂でも少しは綺麗になるでしょ」
 その言葉とともに狐火が浮かぶ。
 一つ。
 二つ。
 三つ。
 四つ。
 狐火は際限なく増えていき、伸介を取り囲み――焼き尽くした。
 そして狐火が消えた後に浮かぶのは伸介の魂。
「さぁ、食べちゃいなさい」
 美弥の言葉に獣は嬉々として――伸介の魂を喰らった。



「やれやれだ。本当に朝まで待たないといけないのかねぇ」
 富蔵がぼやきつつ目を伏せ、目を上げると――周囲に居たはずの者の姿が消えていた。
「・・・何だい、これは?誰か居ないのかい?」
 富蔵の声に答えたのは幻八郎一人だった。
「あたしで良ければ居ますがね」
「何だ、瓦版屋か。・・・あたしを護ってくれようと来た訳じゃないだろ?何で此処にいるんだい?」
「何だ、とはご挨拶ですねぇ。瓦版のネタを取りに来たんですよ。久米屋に巣くう魑魅魍魎退治ってネタをね」
 ゆっくりと、ゆっくりと近づいてくる幻八郎。
 富蔵は思わず後ずさり――襖に飛びついた。そして戸を開けようとするが――開かない。
「な、開かない!?おい、誰か!誰か!」
 戸を叩くが、誰も来ない。
 障子紙も破れない。
「く、来るな・・・!」
 富蔵はついに悲鳴を上げた。しかし。
「残念ですけどね。旦那様はやりすぎたんですよ」
 幻八郎は別段気にした風もなく近づいていく。
「御存知ですかい?世の中にはね、お札一枚で鵺やら大蛇を呼び出せる輩もいるんですぜ」
 幻八郎は笑いながら一枚の護符を取り出した。
「おや、お信じにならない。別に良いんですよ。信じる信じないは人それぞれですからねぇ。でもね・・・」
 眼に蒼い光を宿しながら、幻八郎はにこやかに告げた。
「目の前で呼び出されちゃぁ信じねぇ訳にはいきませんでしょ?」
 そのままお札を大地に叩き付ける。
 轟。
 炎が文字を描き、消えたその跡には――
 ―引き裂こう。
 ―喰らおう。
 そのような声とともに――鵺が現れていた。
 猿の頭。虎の体躯。蛇の尾。
 鵺は虎蔵を見据えるや、嬉々とした声を上げた。
 ―さても悪しき魂よな。
 ―さても醜き魂よな。
「ひ・・・ひぃぃぃぃぃぃ!」
 尻餅をついたまま後ずさりする富蔵に、幻八郎はむしろ優しく問いかけた。
「念仏は唱えたかい?」
 幻八郎のその言葉。
 それが久米屋富蔵が耳にした最後の言葉であった。



「静かだな・・・何も起こらないのではないか?」
 山崎は部屋の外に立ち、魍魎の禍に備えている浪人達の影を見ながら疲れた様に呟いた。「そうとは限らないぜ」
 答えたのはいつの間にか部屋に入ってきた京之介であった。
「何だ、九重ではないか。驚かすな。・・・何時の間に入ってきたのだ?気付かなかったが・・・まあ良い。俺の護衛に来たのであろう?」
 あくまでも傲岸不遜に告げる山崎に、京之介は冷たく答えた。
「俺が来たのは――魍魎を狩るためだ。あんたを守るためじゃ無い」
「とにかく化け物どもを退治に来たのであろう?ならそれは私を守るためではないか!」
「まだ解らないのかい・・・魍魎ってのはよ・・・あんた自身だよ」
 冷笑を浮かべながら、京之介は山崎に向けて手を付きだした。
 と同時に。
 山崎の視界に今まで彼が食い物にし――その結果命を絶った者達、或いは笑いながら斬り捨てて来た者達の恨みのこもった顔が映った。いくつも、いくつも。
「ほら。見えるだろ?あいつらの姿が。聞こえるだろ?早く来い、って・・・言ってるぜ?」
 ゆらり。ゆらりと、京之介が間合いを詰める。
 怨霊を従えるかの如く、一歩一歩間合いを詰めてくる。
「も、者ども!出会え!出会え!」
「無駄だよ。この部屋の声は外には届かない。部屋自体を斬らせて貰ったからな。・・・何だ、震えてるじゃないか。でもまぁ、安心しなよ。お仲間も直ぐに来るからよ」
 舞い踊る怨霊の中、にや、と笑う京之介に恐怖を憶え、山崎は斬りかかった。
「往生際が悪いねぇ・・・。でもそろそろ――狩らせて貰うぜ!」
 京之介は携えた愛刀――牙紋を抜いた。
「九重無尽流、忌技――蓮華」
 振るわれた牙紋は不可視の刃を生み、刃は典膳を切り裂き――血の蓮華を咲かせた。
 しかしいかなる事だろうか。血の花弁は床に降り立つ前に牙紋に吸い込まれ、幻の様に消え失せた。
「やれやれ・・・因果な刀だね。本当の力を出すために悪党の血が要るなんてよ・・・」
 京之介は呟きながらまだ微かに意識のある山崎に歩み寄り、無慈悲に牙紋を突き立てた。
 牙紋が赤く染まる――山崎の血を吸って。
「――!」
 やがて山崎の血を全て吸い取った後、牙紋はようやく元の色に戻った。見た者を魅了する、鋼の色に。
 最早山崎には血の一滴も残っていないはずだ。しかし、如何なる力が働いたのか。まだ、生きている。意志を保っている。京之介は山崎を一瞥し、呟いた。
「全く因果な刀だね。これでもまだ殺さないんだから」
 山崎はゆっくりと、しかし確実に訪れる死に絶叫しようとしたが声も出せず、最早唯一の救いである狂気に縋り、狂うことを望んだがそれさえも赦されず――ただ、恐怖した。



「眠れぬな・・・おい、酒を持って来い」
 榊原は近くにいた小者に声を掛けた。
 しかし、小者は答えない。
「おい!酒を持って来いと言うのが聞こえぬか!」
 榊原は大声を張り上げた。
「何がどうなっておるのだ!」
 恐怖を駆逐するためにことさら大声を張り上げるが、応える者はいない。
「よもや・・・彼奴か!」
 此処に至って榊原は漸く思い立った。
 この様な事態を起こしうる者を。
「ええい、貴様ら!何処を見て居る!儂は此処じゃ!」
 応える者は無い。いや――一人だけ在った。
「無駄ですよ。もはや貴方の姿は誰にも見えず、声は誰にも届きません」
 何処からともなく――天真が現れた。
 天真の言葉通り、確かに人はそこにいる。しかし、気付いていない。肩を掴もうと手を伸ばしたら、まるで逃げているかの様に避けられて仕舞う。
「何が――目的だ?」
 唸る様に、脅す様に須藤は声を荒げたが、天真は涼しい顔である。
「今宵参上いたしましたのは・・・彼の地に巣くう魑魅魍魎を祓う為。しかしよもや貴方こそが魑魅魍魎でしたとは・・・皮肉ですね」
 榊原はその言葉の意味を量り――理解し、恐怖した。即ち――天真は榊原を祓う、と言っているのだ。
「そのことならもう良いわ」
 微かな希望とともに口にした言葉も、天真はあっさりと拒絶した。
「いえ、そう言うわけにもいきません。あなたは私に退魔をご依頼なさり、私はそれを受けました」
 手甲で護られた腕。その右の手をゆるゆると眼前に持っていく。右眼の蒼と左眼の紅が一層強い光を放った。。
「一度引き受けた退魔行、例えどの様な魔であろうとも祓うことこそ道理・・・!」
 凛、と響くその声に榊原は逆上した。そして数多の民衆の血を吸った刀を抜き、天真に斬りかかったのだが――刃は天真を捉えることはなかった。
「無駄・・・!」
 短く呟き、天真は刀の腹に拳を叩き付けた。すると。
 あっさりと――あまりにもあっさりと、刀は砕けた。
「ば、化け物か・・・!」
 榊原はじりじりと後退していく。
 天真は左の手を榊原に向けて伸ばした。
 と、迸った気が榊原を束縛する。
 藻掻けども、気の鎖は解けない。
 そして榊原の感覚を異界に繋ぎ――
 榊原は眼にした。
 自分を取り囲む怨霊の姿を。
 そして耳にした。
 自分に対する怨嗟の声を。
「な、なんだ貴様らは・・・!」
『口惜しや』
『憎や』
『早うこっちに来い』
『こっちに来い』
 口々に恨み言を口にする怨霊の姿に、榊原は思わず後ずさっていた。
「く、来るな・・・来るな!」
 尻餅をついたまま、折れた刀を振り回しながら来るな来るなと叫び続ける榊原。もはやその姿には威厳は無い。殺人鬼としての狂気も無い。そこにいるのは死の恐怖に怯える一人の男だった。しかし――榊原は罪を重ねすぎた。その魂は人のものでは無く――人の世に居てはならないものである。故に。
 天真は顔の前で拳を握り――
「彼の地に憑きましたる魑魅魍魎」
 宣言し。
「――祓い奉る!」
 法術を発動させた。
 雷光が踊り、天真の腕に絡み付いた。
 そして一瞬にして間合いを詰め、咆吼する紫電を纏った右の腕を振り抜く。
「神鳴る力を受けるが良い!」
 雷の竜の牙は榊原の肉体を少しずつ、少しずつ消滅させていく。
 右腕。
 左足。
 右足。
 左腕。
 腹。
 胸。
 最後に頭。
 残るのは榊原の魂と雷光の残滓。
 しかしその魂も榊原自身が手に掛けてきた者達の死霊に捕まり――
 喰われた。
 榊原の悲鳴が響き、やがて消えた頃。
 怨嗟の声は――聞こえなくなった。
 そして天真は踵を返して立ち去った。
「魍魎、祓いまして御座居ます――」
 その言葉を残して。





「いい天気ですねぇ・・・」
 天真は境内の楠に寄りかかってあくびをした。
「こう良い陽気だと眠くなりますよ、本当・・・」
 言いながらもその眼は最早とろんとしている。
「あ・・・もう駄目だ・・・」
 ずるずると崩れ落ち、寝息を立て始めた天真。
 腹の上にはいつの間にやら猫が乗って丸まっている。
「天真さ〜ん、何処ですか〜?」
 と自分を呼ぶ芳乃の声も最早届かない。完全に熟睡している。
「まったく、何処に行っちゃったのやら・・・あ!またこんなところで寝てる!」
 芳乃は呆れた表情で天真に近づき、猫を優しくどけた。
「ちょっと御免ね・・・」
 そして――天真の頭を思い切り殴りつける。
「おおっ!頭が割れる様に痛い!」
 のたうち回る天真に芳乃は優しく、優しく語りかけた。
「あらあら、大変ですねぇ」
「いきなりなんてことを!芳乃さん、あまりと言えばあまりではありませんか!?」
 天真は痛む頭を抑えながら涙目で芳乃を睨む――が、
「怒りたいのはこっちです!」
 という芳乃の一喝で萎んでしまう。
「忘れたんですか?今日から神楽の準備なんですよ!」
「ああ」
「ああじゃありません!」
「おお」
「馬鹿にしてますか?馬鹿にしてますね?」
 芳乃はにこやかに微笑みながら天真の首をきりきりと締め上げた。
「さぁ、どうなさいますか来られますか来られますよね来ないなんて言いませんよね言うわけありませんよねぇ」
 にこにこと笑いながら手の力を強めていく芳乃。
 天真は折れるしかなかった。
「解った、解りましたよ!」
 その答に満足したのか、芳乃は天真の首から手を外し、代わりに腕を取った。
「なら早く行きましょう、天真さん」
 嬉しそうに、笑いながら。
 その笑顔を見ながら天真は呟くとも無しに呟いた。
「光があれば闇がある――って言いますが・・・この人にも心の闇はあるんでしょうかねぇ・・・?」
 その呟きが聞こえたのか、芳乃は怪訝な顔で天真を見上げた。
「天真さん?」
「いや、何でもないですよ」
 答えながら天真は空を見上げた。
「日々是好日、か」
 秋の空は何処までも蒼く、何処までも高かった。