月の舟〜神無月〜
冴え冴えとした光を放つ、銀の月。
船の様に、夜空を渡っていく。
もしも適うのならば――僕には安息を。
そして君には祝福を。
それを望んで――止まない。
君の事が、好きだった。
君の事を、護りたかった。
そう、思っていた。
それに嘘はない。
嘘はないけど、でも――
思い出すだけで辛くなるのも、嘘じゃなかった。
「うわぁあああっ!」
その日、高村光司郎の朝は絶叫に満ちていた。
「何よ、五月蠅いわねぇ・・・」
のそのそと布団の中で動きながら、文句を言う何かが存在していたためである。
「・・・何故に俺の布団で寝ている?」
半眼で九条香耶を見据える光司郎。
「ひどい・・・昨日の事、忘れたのね・・・?」
しかし香耶はよよと泣き崩れた。
光司郎は動揺するかと思いきや、
「忘れるも何も、俺昨日酒飲んでないし」
冷静であった。それを見て、
「ちっ。ばれたか」
ちぇーと悔しそうな香耶である。
「しかし・・・合鍵、まだ捨ててなかったのか」
半ば呆れた様に光司郎が言えば、
「実は持ってた」
にこにこと、鍵を取り出す香耶。そんな香耶に光司郎は苦笑した。
「捨てとけ。んなもん持ってたら誤解されるぞ」
しかし香耶は。
「絶対捨てたげません」
舌を出した。
そして。
「じゃ・・・またね!」
笑顔だけ――どこかに無理のある笑顔だけ残し、香耶は光司郎の部屋から出ていった。
部屋から出て行った香耶を見送りながら、光司郎はずるずるとフローリングの床に崩れ落ちた。
「今更・・・何で・・・」
嬉しいはずなのに。
逢えて、嬉しいはずなのに。
喜びには微かな苛立ちが混じっていた。
光司郎は立ち上がり、机の中から手紙を出した。
くしゃくしゃになった手紙。
別れの引き金となった手紙だった。
「駄目だな・・・」
香耶は光司郎の部屋の前で苦笑を漏らした。
「今更、だよね・・・」
手の中には合鍵。
捨てるに捨てられなかった合鍵があった。
「でも・・・捨てられないよ」
扉に額をこつんと当て、香耶は呟き――立ち去った。
そして、四季彩館へ向かう道の途中。
香耶は後輩の榊雅人と石動真桜を見つけた。
「あ。榊に真桜ちゃんじゃない。やっほー」
ぶんぶんと手を振る香耶。
「あ、九条さんだ」
「どーもです」
仲良さそうな雅人と真桜に、香耶は微かな嫉妬を感じながらも話しかけ、
「仲良いよねー。羨ましいぞコラ!」
そのまま雅人の首を締め上げはじめた。
「何すんですか九条さん、痛いじゃないですか!」
抗議する雅人。しかし香耶は涼しい顔をしている。
「いやね。お姉さん羨ましいなーと思って」
「んなことで人の首締めないでください!」
ぜえぜえと苦しげに、しかししっかり抗議を続ける雅人。
「九条さん、その辺で・・・」
香耶を押し止める真桜。その瞳には強い意志があった。
「ちっ。仕方ないなぁ。真桜ちゃんが泣いちゃうから赦したげる」
微かな痛みを感じながらも香耶は雅人の首に回していた手を離した。
雅人は深呼吸一つ。
した後、心配そうに香耶に話しかけた。
「九条さん、教育実習来週からでしたよね?あまり無茶やらないでくださいね・・・」
しかしそれを訊いた香耶の表情はどこか引きつっていた。
「無茶しないじゃなくて無茶やらないってのが気になるところだけど・・・」
うーん、と唸った香耶に雅人はにっこりと笑って告げた。
「ははは、聞いたままですよぐえ!」
瞬時に雅人の首に香耶の手が回った。
「そんな事を言う脳みそにはこうだ!」
そしてにこにこと優しげな笑みを浮かべながら、そのまま雅人を思い切り振り回した。
「うきゃきゃきゃきゃ〜」
呂律が回らなくなった雅人が哀れになったのか、
「あ。あたし、もう行かなきゃ」
ほい、と目を回している雅人を真桜に預けて香耶は駆け出した。
「でも・・・羨ましいな・・・本当に・・・」
そんな呟きだけ残して。
目を回しながらも、雅人は香耶を見送っていた。
心配そうな目で。
「・・・真桜」
「うん。九条さん、まだ引きずってるみたい・・・」
俯いた真桜の頭を軽く撫で、雅人は呟いた。
「早く何とかなったらいいのにな・・・」
四季彩館の前。
香耶は深呼吸していた。
「駄目だな・・・あたし・・・」
羨ましくて、ついかまってしまった。
それが自分でも辛かった。
思い気分のまま、香耶は四季彩館のドアを開けた。
「どーもです」
「いらっしゃい」
いつも変わらない、北斗の声。
それを聞いたためだろうか。香耶は力が抜けていくのを感じていた。
カウンターに向かい、座る。そして。
「ふぅ・・・」
香耶はそのままカウンターに突っ伏した。
突っ伏したまま、
「アップルティーお願いしますぅ」
注文。
した後、突っ伏したままで北斗に訊いた。
「何も訊かないんですね?」
北斗は、
「光司郎の事でしょ?」
あっさりと答えた。
「・・・何で解るんですかっ!」
がば、と起きあがりながら香耶は驚きがちに訊ね、
「・・・だって想像つくし」
はい、と紅茶を出しながら北斗は笑いながら答えた。
「う、何だか悔しいです」
そのためしばらく拗ねていた香耶だったが、リンゴの匂いが漂いだすと途端に上機嫌になった。
「あ、いい匂いだなぁ・・・」
呟き、紅茶を一口。
飲んだ後、香耶は呟いた。
「諦めませんよ、あたし」
強い意志を秘めて。
「だって、本当に好きだから」
自分に言い聞かせる様に。
「まだ、終わってないから」
北斗はそんな香耶に笑いかけ、ただ一言。
「それでいい」
告げた。
香耶はにっこりと笑い、
「じゃぁ、また来ます!」
来たときより幾分元気を取り戻して四季彩館から出ていった。
そして月曜日。
職員室に入った光司郎は
「・・・・・・」
思考能力を凍結させた。なぜならば。
「九条・・・何でここにいる・・・?」
香耶が居たからである。
「教育実習」
あっさりと答える香耶に光司郎は頭痛を感じ、
「九条先生ですが、高宮先生のクラスをお願いすることになりましたから」
そんな学年主任の言葉に頭を抱えた。
「うう・・・何事もなければよいのだが・・・」
不安一杯の光司郎と対照に、
「おっけ!」
香耶は元気に満ちあふれていた。
教育実習生、しかも女性となると男子生徒の質問は決まっていた。
スリーサイズ、彼氏の有無、その他諸々。
光司郎は仕方ないなぁ、といった表情で盛り上がっていく教室を眺めていた。
そして、またもやお約束の質問。
即ち。
「せんせー!どんな人が好みですか〜」
「そうねー、約束を守る人かな?」
ちらちらと光司郎の方を見ながら答える香耶であったが、
「何を言ってるやら・・・」
と光司郎は呆れた表情である。
「むっ」
と思わず光司郎を睨む香耶。
「ん?」
と香耶の視線に反応する光司郎。
生徒達はそんな二人をただただ怪訝な表情で見ることしかできなかった。
否、赦されなかった。
「ちゃーす・・・」
からん、とドアベルを鳴らして店内に入ってきたのは光司郎だった。
ぐったりとした様子でカウンターに近付き、そのまま突っ伏す。
「どうした?」
「北斗さん・・・俺、どうすりゃいいんでしょうね・・・」
心配そうな北斗に、光司郎は悩みまくってますと行った声音で応えた。
「香耶が・・・現れました」
「現れたって・・・魑魅魍魎の様に言わなくても」
苦笑する北斗。光司郎はそれに気付かず、言葉を続けた。
「俺。忘れたつもりだったんですけど・・・」
ぽつぽつと。
「忘れる事なんて・・・出来ませんよ・・・」
弱く。
「やっぱり・・・」
光司郎は言葉を続けようとして――止めた。
ドアベルの音。
と同時に香耶が入ってきたからである。
「北斗さん・・・」
はぁ、と北斗は溜息をついた。
「はいはい・・・今のところはね」
「・・・すみません」
様子がおかしいと思ったのか、香耶は一直線にカウンターに向かい、光司郎の隣に座った。
「北斗さん、アップルティーお願いしますね。で・・・何の話?」
怪しい、と呟いた香耶になんでもないと手を振りながら光司郎。
「何でもないよ。でもお前も暇だね」
つくづく呆れたように言ったのだが、香耶には通じなかった。
「・・・学生だもの」
あっさりと、一言。負けじと光司郎は言葉を続けた。
「彼氏いないのか?」
「そんなものいませ〜ん」
良かったねーと笑った後、香耶は北斗の方に向き直り、差し出されたアップルティーを一口飲んだ。
「お前好きだね、アップルティー」
あの頃から変わっていない。
そう言いそうになったのに気付き、光司郎は口をつぐんだ。
(まだ・・・終わって・・・無いのか・・・)
声に出さず、呟く。
しかし、香耶は光司郎のそんな様子に気付かなかったかのように明るく答えた。
「うん!」
と。
その笑顔は光司郎には辛かった。
だから。
「すまない。俺、今日は帰るわ・・・」
と香耶に呟き、
「北斗さん、俺、帰ります」
と話しかけた。
そして自分と香耶のレシートをレジに持っていった。
「あ」
と言う香耶の呟き。
「たまには・・・良いだろ?」
微かに寂しそうな光司郎の笑顔。
そして、ドアベルの音。
立ち去っていく光司郎と、それを黙って見送る香耶。
北斗は大きな溜息をついた。
「ほら・・・言いたいこと、あるんでしょ?」
「・・・はい」
香耶は、俯いて答えた。
「なら言わなきゃ。もうこれ以上、耐えられないんでしょ?」
優しく、促すように北斗。しかし。
「でも・・・」
香耶は俯いたまま、動こうとしない。
「これで良いなら行かなくても良いけどね。でも、そうじゃないんでしょ」
背中を押すように。北斗は、話しかけた。
「なら、追いかける!まだ間に合うから、さ」
「はい!」
香耶は顔を上げた。
「ありがとうございます!あたし、ちょっとだけ――」
そしてにっこりと笑い。
「ちょっとだけ、勇気を出してみます!」
光司郎を追いかけ、走り出した。
走り出して1分もした頃、香耶は光司郎に追いついていた。
光司郎が力無く歩いていたのに対し、香耶が走っていたためだろう。
「光司郎!」
思い切り、抱きつく。
光司郎の表情は驚愕と、僅かな喜び。
微かな期待と、そして甘やかな痛み。
それらが入り交じっていた。
光司郎はそんな感情を振り切るように頭を軽くふった。そして、問う。
「お前、追いかけてきたの?」
呆れたように。しかし。
「駄目だった?」
あっけらかんと香耶は答えた。
「駄目ってことはないけどさ」
はぁ、と光司郎は苦笑を洩らし、香耶に話しかけた。
自分の想いに決別するように。
「香耶。お前さ、いい加減誰か見つけろって。いつまでも俺を構ってないでさ」
「い・や・で・す」
べ、と舌を出して香耶は答え、光司郎は全く、と呟きいた後、諦めの表情になった。
「ちっ・・・好きにしろ」
はぁ、と溜息をついた後、光司郎はでも、と香耶に話しかけた。
「まさかお前が教生で来るとは思わなかったよ。しかも俺のクラスとはね・・・」
「嬉しいでしょ?」
にこにこと笑いながら――しかし、どこか無理のある笑顔で、香耶は訊いた。
「正直言ってあまり嬉しくないな」
はぁ、と溜息をつきながら答える光司郎。しかし。
「・・・本当は嬉しいくせに」
お見通しなんだからね、と言うように香耶。光司郎はその笑顔に溜息をついた。
「・・・はぁ。何だかな・・・」
これからどうするか、を考えているうち、つい、光司郎は洩らした。
「約束を守る人が好き、か」
どんな人が好きか。
そう問われたときの、香耶の答えを。
光司郎は、呟いていた。
「お前は・・・来なかったよな」
突き放すように。
別れを告げるように、光司郎。
しかし、寂しそうなその呟きを耳にした香耶は怪訝そうな表情になった。
「どういう事よ?」
解らない、といった風な香耶に、光司郎は微かな痛みを感じつつ、しかし答えた。
「お前のこと、好きだった。だから、告白したけど・・・」
苦しそうに、ゆっくりと。呟くように、答えた。
「お前の返事は手紙だったよな。その手紙の通り待ってた俺が馬鹿だったって訳だ」
そして自嘲の笑みを洩らし――その言葉に、香耶は混乱した。
「何のこと言ってるのか、分かんないよ・・・あたし、分かんないよ!」
香耶も、痛みを思い出しながら叫んでいた。
強く。強く。
「嘘言わないでよ!来なかったじゃない!光司郎、来てくれなかったじゃない!」
感情が絡み合い。
「何言ってんだ!ずっと待ってたのに来なかったのはお前だろうが!」
「嘘だよ!来てくれなかったのは光司郎の方だよ!」
激昂が交錯していた。そして。
「何で・・・何で来てくれなかったの・・・?」
その波が去った後。
「来てくれて、ちゃんと話してくれたら諦められたのに。あたし、諦められたのに・・・」
残っていたのは。
「これじゃぁいつまで経っても諦められないじゃない・・・!」
悲哀。
「終わらせる事が出来ないじゃない・・・!」
痛み。
「なのに、早く新しい恋を見つけろなんて酷いよ!あたし、まだ恋なんて出来ないよ・・・!だって・・・」
そして。
「まだ、終わってないんだもの・・!」
諦めきれない想いだった。
「光司郎との恋、終わってないんだもの!」
泣きじゃくる香耶を、光司郎は抱きしめていた。
「俺だって・・・終わらせたつもりはない」
強く、しかし優しく抱きしめていた。
その温もりが伝わったのだろう、香耶は次第に落ち着いていった。
そして、光司郎は生じた疑問に従い、香耶に訊いた。
「一つ、教えてくれ」
何かを確信しながら。
「あの日――お前はどこで待っていた?」
香耶は、掠れる声で答えた。
「公園の時計台の前・・・」
その答を光司郎は再度確認。
「駅前のじゃなくて?」
香耶は、きっぱりと答えた。
「公園のだよ・・・」
その答を聞いた瞬間、光司郎は呆れた様な溜息をついた。
「・・・・・・お前なぁ」
そして抱きしめていた右の腕を軽く振り上げ、
「自分が書いたことくらい憶えとけ、莫迦!」
振り下ろした。
「痛っ!なにすんのっ!」
当然香耶は怒ったが、
「お前、駅前って書いてたぞ!」
「ええ?あたし、公園て書いたよ!」
反論する香耶だったが、光司郎は余裕綽々でポケットに手を突っ込んだ。そして。
「ほう、じゃぁこれは何かな?」
差し出されたのは手紙。香耶はその手紙を声に出して読んでみた。
「・・・えーと。『昼12時、駅前の時計台の前で待ってます。 香耶』・・・あ」
氷結、と言うのが一番良い表現だろう。香耶の表情は一瞬にして固まった。
「あ、じゃないだろうがお前・・・」
光司郎は溜息をもう一回。
「あはははは・・・・」
香耶はただ乾いた笑いを洩らすしかなかった。
「ほれ、言う事があるだろ?」
そんな香耶の頭をぺちぺちと叩きながら、光司郎。
「むー」
頬を膨らませている香耶。
「ほれほれ」
再度、促すと、
「う・・・ごめんなさい」
ぺこ、と香耶は頭を下げた。
「よろしい」
光司郎は香耶の頭を軽く撫でた後、これで終わり、と手を叩いた。
これでこれまでの行き違いは終わり、といった風に。
にこにこと笑いだした光司郎を見上げながら、香耶は素朴な疑問を口にした。
「でも光司郎、ずっと仕舞ってたんだ。あの、手紙」
「う」
今度は光司郎が詰まる番だった。
「嬉しいなぁ。諦めてなかったんだね」
にこにこと、本当に嬉しそうな香耶。
その表情を見たためだろう。光司郎は、そっぽを向きながらも答えた。
「そう簡単に諦められるか」
「あはは」
照れている光司郎に香耶は思わず笑いを漏らした。
笑いは連鎖し、二人は何時しか笑いあっていた。
昔の様に。そして、ひとしきり笑った後、光司郎は香耶の名を呼んだ。
「で、だ。香耶」
昔の響きで。
恋人同士の響きで、呼んでいた。
「今更だけどな。まだ・・・約束には間に合うかな?」
その光司郎の問いに香耶は一瞬で答えた。
「今は駄目」
とん、と小さく前にジャンプし、振り返る。そして。
「だって。待ち合わせしなきゃ。でしょ?」
そう言って微笑い、香耶は駆け出した。
「12時に、公園の時計台の下!待ってるね!」
僕は夜の公園を歩く。
月明かりの中、時計台の下で待つ君の元へ。
もうすぐ約束の時間。
見上げれば銀色の月。
夜空を渡る舟の様に、確かにそこにある。
深呼吸一つ。
駆け出す。
君が居るはずの場所へ。
駆ける。
ほら、見えてきた。
少しだけ俯き、時計を気にする君。
だから。
早く。
一秒でも早く、君の元へと。
「ごめん。待たせた」
君は嬉しそうに顔を上げ、答える。
「待たせたのは・・・お互い様だよ」
抱きしめる。
君を強く。強く。
月の光が君の髪を濡らしていた。
そして。
月の光で織られた銀の糸。
銀の糸が君と僕の心を繋いだ。
確かに君はここにいる。
僕の腕の中に。
ああ。
そうだね。
こんなにも愛おしいのは。
こんなにも安らげるのは。
君だからなんだろう。
僕は君を抱きしめる腕に力を込めた。
二度と手放さないために。
次回予告
燃える様な紅。
恋心の様な紅。
山を覆う、紅葉の紅。
僕の恋は、そんな紅から始まった。
次回四季彩記・霜月『花筺』
あの頃、秋の風はいつも微かな切なさを帯びていた。