春告げる花は仄かに薫り〜梅〜
「ごめんなさい・・・・・・」
その言葉が発せられたのは、初雪の頃。
聞きたくなかった言葉だった。
でも、覚悟していた言葉だった。
その言葉に続いて彼女が何を言ったのか、憶えていない。
彼女は去っていく。
その事実だけで十分だったから。
それでも微笑って──なんとか、微笑って。
僕は彼女を見送った。
彼女が立ち去ったあと、僕は空を見上げた。
溢れるはずの涙を堪えるために。
でも──どうしてだろう。
涙は、出なかった。
「ふぅ・・・」
水口芳樹は大きな溜息を一つ。
やはり先月振られたのが効いている。
「おいこら兄」
「ふぅ・・・」
そんな兄に水口鷹介は拳を一閃。
「何しやがる弟!」
痛む頭を抑えつつ、振り向くが。
しかし。
「やかましいっ!この天気のいいのに溜息ばっかりつきやがって!」
鷹介は容赦なかった。
「あーもう辛気くさい!だからとっとと外に出て行け」
「おい」
反論しようとするも、
「言い訳禁止」
聞き入れられることはなく――
「・・・追い出されてしまった」
芳樹は家の外で寂しそうに呟いた。
「いかん・・・このままだと余計に沈んでしまう・・・」
突っ立っているよりはましだ、と芳樹は商店街に向かって歩いていった。
「はぁ・・・」
溜息をつきながら。
何度目の溜息をついた頃だろうか。
「・・・そこを気の抜けた顔で行くのは芳樹?」
呼び止める声。
「俺を呼ぶそのキツイ声はもしかしなくても七瀬だな?」
振り向けばそこにいたのは香坂七瀬。
幼なじみがそこにいた。
「・・・なんか凄く寂しそうだけど」
「しみじみと言うな・・・」
なお暗い芳樹を覗き込んで七瀬は提案した。
「そんなに寂しいなら七瀬さんのお供に任命してあげよー」
やけに元気が良い。
まるで芳樹の分を補うように。
好文は苦笑しつつ、
「へーへー」
とわざと気のない返事をしたが、七瀬は芳樹の手を掴んだ。
「分かったらほら行く!」
「どこに?」
「商店街に」
「誰と?」
「あたしと」
「何で?」
「殴られたい?」
「・・・お供いたします」
敗北感。
何かに負けてしまったという敗北感を背負いつつ、一路商店街へ。
「♪」
一方七瀬は――やたらと機嫌が良い。
芳樹はまた溜息一つ。
疑問を口にした。
「んで、何買うわけ?」
「お花。玄関に飾るの」
「・・・・・・」
「何その目は?」
「い、いやなんでもないぞ?」
結局誤魔化すことは出来ず――
芳樹は店まで延々と説教された。
そして到着したその店『花信風』。
入るや否や、威勢の良い声が響いた。
「へいらっしゃい!」
美咲は冬哉をすぐさま殴打。
「そんな威勢のいい花屋がどこにあるかっ!」
冬哉は殴られた頭をさすりながら強気に
「ここにある!」
「へぇ〜」
美咲は笑っている。
笑っているが――禍々しい笑み。
「待て、その握りしめた拳で君は何をしようとしている?」
笑みを絶やさず冬哉が訊けば、美咲は短く。
「こーする」
刹那。
拳が冬哉の眼前を駆け抜けた。
「危ないなぁ」
呑気に言えば、
「ちっ・・・避けたか」
心底悔しそうに美咲が呟いた。
冬哉は大きな溜息一つ。
「避けたか、じゃないでしょうに。ほら、お客さんが退いてるぞ」
ほれ、と指さしたその先に。
芳樹と七瀬が固まっていた。
「あ」
美咲、絶句。
冬哉は苦笑しながら、
「とまぁそれやこれやはこっちに置いといて」
いきなり素に戻った。
「本日のご注文は?」
「は?」
七瀬は思わず間抜けな表情で間抜けな声を出してしまったが、すぐに気を取り直し。
「えーと、梅、入ってますか?」
訊いてみた。
冬哉はふむ、と頷いて。
「白梅紅梅、両方有るけど・・・どうしましょ?」
訊き返す。
七瀬は少しばかり悩んだ後、
「えーと、お任せします。10本ほどなんですけどね」
注文した。
「はいな。今あるのは雪月花と・・・蘇芳梅。あと・・・真鶴と道知辺か」
呟きながら3本づつ選び、手渡して。
「美咲さんよ、これ包んであげて。僕はちょっとお茶してくるから」
「あ、逃げたな〜!」
と少しばかり恨めしそうな声を出したのも一瞬。
「少し待ってて下さいね?」
にっこり笑い、手際よく包んでいく美咲。
「うーむ、店員の鑑」
冬哉は唸りながら四季彩館に向かって歩き出した。
「しっかし・・・疲れたね」
うん、と伸びをしながら冬哉は呟いた。
『バレンタインデーと言うことで、それらしい花を頼む!』
という北斗の注文に応じた帰り道。
何故徒歩で、となったかと言えば――
配達注文が重なったためなのだが。
「美咲に歩いていけって訳にもいかないしなぁ・・・」
つまり。
近場の四季彩館には冬哉が徒歩で配達。
遠くには美咲が車で配達、となったわけだ。
「何はともあれ商売繁盛♪」
もう一度伸びをしながら、空を見上げる。
夕焼けに夜の色が混じっている。
「明日は・・・晴れるか?」
晴れたらいいんだけど、と呟きつつ。
視線を戻す。
「おや」
「あら?」
彼女は梅の木を見上げていたが、冬哉に気付いて会釈。
「花見ですか」
近付きながら問えば。
「ええ」
嬉しそうに、答えた。
同じように梅を見上げながら、ぽつり、と冬哉は漏らした。
「梅・・・か。
好文木。
香栄草。
別名はいろいろあるけど・・・
俺は・・・春告草、って名前が・・・好きですね」
「はるつげくさ?」
もの問いたげな彼女の声に応えて説明。
「呼んで字の如く。春を告げる草って書くんですけどね」
「へぇ・・・」
少しばかり嬉しそうな声。
冬哉は懐かしむように、言葉を続けた。
「なんか、暖かい感じがして・・・
もうすぐ春なんだから、って。
教えてくれてるような気がしましてね・・・
だから――好きなんですよ。春告草って言葉」
そこまで話し、冬哉は――
話しすぎちゃいましたね、と苦笑して――
「じゃ、また店に寄ってやって下さい」
別れを告げた。
彼女はただ短く。
「はい・・・」
とだけ答え――
帰っていった。
「さて・・・早く帰らないと美咲さんに酷い目に遭わされそうだ・・・」
少し震えて、帰途を急いでいたら――
また、見つけてしまった。
修羅場。
「うっわぁ、気まずいなぁ」
心底気まずそうに。
「なんてか、最近多いぞ・・・?」
困ったように冬哉は呟いた。
「でも、見ちゃったからには・・・放っておけないよな・・・」
七瀬は芳樹の沈んだ顔は見たくなかった。
ただそれだけだった。
だから。
勇気を出して、遊びに誘って。
勇気を出して、チョコレートを差し出した。
しかし。
芳樹の言葉は。
予想だにしないものだった。
「同情、か・・・」
自嘲めいた呟き。
「同情で誘われたりしてもね・・・」
そしてその言葉の温度。
あまりにも低くて――
七瀬は泣き笑いの表情に。
そして、訊いた。
「どういう・・・こと?」
「同情なら要らない。そういうこと」
答える芳樹の言葉の温度は更に冷たくなって――
凍えるほどに、冷たかった。
「芳樹は・・・あたしが同情で誘ったって思ったの?」
「・・・・・・」
帰ってきたのは沈黙。
七瀬は――泣いていた。
「馬鹿に・・・しないでよっ!」
思い切り芳樹を殴って――
「バカ!」
走り去った。
「・・・・・・」
何故だろうか。
彼女が去ったときよりも、遙かに。
遙かに、寒い――
「これが・・・やりたかったことなのか?」
自問自答しながら、理由の解らない焦燥感に迷う。
「・・・・・・」
思い出そうとする。
あの時、彼女は何と言ったのか。
記憶に、潜る。
(・・・は・・・を・・・い)
(あ・・・は・・・を・・・ない)
(あなたは、私を見ていない・・・)
そう。
最初から彼女のことは見ていなかった。
そのことに気付き――
「バカだよな・・・」
呟く。
「本当、バカだよな・・・」
泣きたくなるくらいに。
思い出してみれば――七瀬はいつも側にいた。
辛かったとき。
嬉しかったとき。
「そっか・・・俺は・・・」
一人でも大丈夫だって事を見せたかっただけだ。
気付いた。
そう。
「俺は・・・誰でも・・・良かったんだ・・・」
大丈夫。
自分は大丈夫。
そう思いたかった。
そして、走り出そうとして――断念。
「今更・・・追えないよ・・・な・・・」
苦笑。
諦観。
自嘲。
それらの入り交じった表情が――
「ブロウクンマグナムッ!」
「ぐはぁ!」
容赦ない一撃により、驚愕に変わった。
殴られた場所を押さえつつ、
「いきなり何するかあんたは!」
振り向けばそこにいたのは先日出会ったばかりの花屋の店員――冬哉。
冬哉はかなりいい笑顔で言い放った。
「天誅だ!」
思わず言葉を失って。
意味を考えて。
呟く。
「待て・・・」
「とまぁ冗談はさておき・・・」
しかし冬哉は気にした風もない。
芳樹はあっけにとられ、呟いた。
「疲れる人だな・・・」
「誉めるなよ。照れるじゃないか」
嬉しそうに返してくるので、思わず激昂。
「誉めてねぇっ!」
「とりあえずその話はあっちに置いといて。何で追わない?」
有無を言わさず、話を曲げる冬哉。
不意打ちだったと言えるだろう。
芳樹は一瞬言葉を失って――
「どの面下げて追える?」
俯いた。
冬哉はそんな芳樹を嘲るように。
「・・・確かにその面じゃ追えないね」
言った。
「・・・!」
思わず顔を上げる芳樹。
彼が目にしたのは、冬哉の表情。
馬鹿にしたような表情ではない。
心を見抜くような。
そんな視線。
「少なくとも・・・心を決めてからじゃないと追う資格はない」
でも、と冬哉は前置きし。
先ほどまでの真面目な雰囲気を消し、からかうように言った。
「気が付いたら・・・あらあらご愁傷様。彼女は他の男の腕の中に♪」
想像してみる。
――産まれたのは、恐怖。
嫌だ、と・・・
言葉に声にならない声で呟く。
それが聞こえたわけではないだろうが、冬哉は芳樹の肩を掴み、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「で・・・それに耐えられる?あの子が他の誰かとつきあうことに」
「・・・・・・」
言葉にしたら――意味のない叫びになりそうだった。
「それでいいなら・・・何も言わないけどね」
そう言った冬哉の声はあくまでも冷たい。
魂さえも凍らせるほどに。
鋭かった。
そして芳樹は。
ようやく。
「・・・・・・嫌だ」
これだけを言葉にした。
途端に冬哉は破顔。
「出てんじゃない。答え」
「でも・・・」
と迷っている芳樹の肩を叩いた。
「出した答に戸惑うな!戸惑うくらいなら・・・走っちゃいな!」
穏やかに笑っていたのはそこまでだった。
「いや、でも・・・」
とまだ迷っている芳樹を。
「とっとと行けっての」
思い切り叩いて。
「わ・・・!」
芳樹は躓きかけ、バランスを取ろうとして走ったような状態になり――
疾走開始。
したところで。
「あ、こけた」
転倒。
「おお、起き上がった」
復活。
「うん、走り出した」
疾走再開。
「・・・ったく」
冬哉は苦笑を漏らした。
走る。
走る。
追いかけるべき人の姿はまだ見えない。
だからただ走る。
でも、あと少し走れば――
「み、見つけた・・・」
七瀬は川縁に佇んでいる。
時々すれ違う車のライトが照らしていた。
七瀬は――
泣いていた。
だから。走ったのだけど。
七瀬はチョコレートを思い切り振りかぶって。
河に向けて投げた。
そして芳樹は河に投げ捨てられたチョコレートを――
「だぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!」
ジャンプして。
「よっしゃぁっ!」
空中で捕まえたものの。
「あ」
重力に抗えるはずもなく――
落下。
「あくぁぁぁぁぁぁぁっ!」
大きな水柱が上がった。
「む・・・無茶苦茶寒い・・・」
岸に上がって震えている芳樹に、七瀬は硬い声で訊いた。
「・・・何で?」
「何がだ?」
震えながら問い返せば、帰ってきたのは短い答。
「チョコ」
少し考え。
芳樹は答えた。
「・・・七瀬のチョコが欲しかった。それに気付いただけ」
その言葉の意味。
少し考えてみて。
理解して。
七瀬は。
紅くなった。
「・・・・・・え?」
芳樹はそっぽを向いて、一言。
「そういうことだ」
七瀬は俯き、短く呟いた。
「莫迦」
「莫迦ってなぁ・・・」
反論しようとした芳樹を七瀬は睨み付けて。
「莫迦だよ。この寒いのに河に飛び込んで・・・!」
泣きじゃくっている。
「でも・・・そうしなきゃ取れなかった」
七瀬のチョコを、とは言わない。
言わなくても解っていただろうから。
でも。
「止めろって一言言えば良かったじゃない」
指摘された。
指摘されてしまった。
考えてみたら見つけたときに声をかければ良かったのではないか?
「!」
思わず言葉を失った芳樹に。
七瀬は、今度は優しい響きで。
「莫迦」
と言って――
抱きついた。
「莫迦・・・心配、したんだからね?」
その言葉の、優しい響き。
そして。
温もり。
「お前も莫迦だぞ。抱きついたら寒いだろうに」
「・・・暖かいよ」
そう言って七瀬は一層強くしがみついて。
芳樹は七瀬の背中に手を回した。
「・・・確かに莫迦だよなぁ。こんな奴にはしっかりしたのが側にいないと駄目だな」
苦笑混じりに呟き。
「たとえば・・・・七瀬とか」
その人の名前を告げれば。
「ずっとな」
「え?」
驚いたような、声。
「そういうことだ」
照れてそっぽを向く芳樹に。
「もう一度、言って」
七瀬は詰め寄るが。
「恥ずかしいから却下」
やはり照れている芳樹は言いたがらない。
「むっ!」
だから、芳樹を無理矢理自分に向かせて。
「言って」
と。
「言って・・・不安、なの・・・」
と。
「側にいても良いのかどうか・・・不安なの」
と、不安を訴えたら。
「ったく・・・一度しか言わないぞ?」
ようやく芳樹は折れた。
「・・・うん」
そして芳樹は。
自分の想いを。
伝えるべき人に――告げた。
そうして君と付き合い始めたんだけど――
正直言って、気になっていた。
彼女は今、幸せだろうか――?
振られた相手を心配するのも妙な話だけど、彼女のおかげで僕は君を見つけることが出来た。
だから、彼女が元気でいるか?
ずっと、ずっと気になっていた。
でも。
ある小春日和。
横断歩道の対岸に。
僕は彼女を見つけた。
彼女は――笑っていた。
彼女の隣には僕じゃない誰か。
僕の隣には彼女じゃなくて七瀬。
彼女は僕に気付いて。
嬉しそうに微笑って。
だから、僕も微笑えた。
少しだけ、まだ痛むけれども――
僕たちは、本当に必要な人と出会えた。
そう、信じる。
「どうしたの?」
君が少しばかり心配そうな顔で見上げる。
「いや、なんでもない」
信号が変わる。
人波が動き出す。
そして僕たちはすれ違い――
微笑い合う。
側にいる人を誇るように。
そう。
『この人が、僕の大切な人です』
と。