八重雨〜風待月〜





 雨が降っていた。
 紫陽花が濡れていた。
 こんな時は、雨に濡れていたい。
 雨が涙を隠してくれるから。
 だから傘は車に置いたまま、僕は雨の中、坂道を上っていく。
 静かで。
 とても静かで。
 でも、寂しくて。
 君がいない、という事の意味を。
 君はもういない、という現実を。
 容赦なく突きつけられている様な気がする。
 ため息を一つつく。
 雨は当分上がりそうもない。





 それはまだ、僕が自分のことを『俺』と言っていた頃。
 君と出会ったのはある雨の日。
 君は電柱の横で座り込んでいた。傘を、差し出す様にして。
(気分でも、悪いのかな?)
 僕は特に何も考えず、彼女の横を通り抜けようとした。
 そのとき、君は急に立ち上がった。
「決めた!」
「うわ!」
 僕は君の急な動作に驚いて、滑った。
 そしてそのまま水たまりにダイブ。
 ・・・冷たかった。
「あ」
 君はちょっとびっくりした様に。
「えーと、ごめんなさい!」
 凄い勢いで深々と頭を下げた。
「いや、いい・・・」
 僕はそのまま立ち上がり、去ろうとしたけど。
「でも、ごめんなさい!」
 さらに凄い勢いで頭を下げた君が、勢い余って転んだのを見て。
 思わず、笑っていた。
「あいたたた・・・」
「あの、大丈夫、ですか?」
 笑いをかみ殺しながらも、僕は君に手を差し出していた。
 あのときは何でこんな事が出来たのか、不思議だった。
 でも、すぐに解った。
 手を出せたのは、きっと。
「え?あ、ありがとうございます!」
 素直に謝り、素直に喜んでいた君だったからなんだろう。
「で、決めたって、何を?」
 なぜか僕も素直にそう聞いていた。
 君は微笑って――
「はい、この子たちの名前です。どうしようか迷ったんですけど」
 君が抱きかかえた段ボールの中。
 小さな、とても小さな三つの命。
「にゃぁ・・・」
 声はとても、弱々しかったけど。
 でも、強く。とても強く。
『ここにいるよ』
 と主張していた。
「猫、か・・・」
「はい」
 僕は3匹の中の三毛を撫でながら、呟いた。
「あげませんよ」
「は?」
 思わずきょとんとしてしまう。
「この子達はあたしが連れて帰るんですから」
「・・・・・・欲しそうに見えたか?」
「はい。とっても」
「そうか・・・」
 思わず、苦笑。
「この黒っぽい子が『伽羅』、この銀虎の子が『銀夜』で、この三毛の子が『三緒』です」
「いや、聞いてないって」
 それが、君との出会い。
 そのまま僕はなぜか子猫を運んで君の家に行くことになり――
 君の家族に暖かく迎えられた。
 妙に照れくさくて、でも嬉しかったのを憶えている。
 その日は君の父さんに酔い潰されてしまったけど。
 
 それから、1年。
 いろんな所に行った。
 夏。
 眩しい日差し。空の蒼と海の碧が目に浸みた。
 秋。
 燃えるような紅葉。落ち葉を拾ってアルバムに挟んだ。
 冬。
 どこまでも白い世界。クリスマスケーキを二人で選んだ。
 春。
 桜並木の続く坂道。君と肩を寄せて歩いた。
 君の誕生日。
 ティーカップを喜んでくれた君の笑顔。
 僕の誕生日。
 君のとお揃いのティーカップをくれた君の照れた顔。
 2つ年上のくせに、ちっともそうは見えない君に。
 辛くても、哀しくても笑顔を僕にくれた君に。
 僕はいつの間にか恋をしていた。
 でも、それを表面に出すことに僕は抵抗を感じていた。
 思ったこと、感じたことを言葉にするのは格好悪いと思っていたから。
 何か言って欲しそうな君に対して、僕は何も言わなかった。
 プライドが邪魔をしていた。
 意地になっていた。
 そして、ある雨の日。
 君と出会ってから2度目の夏のある日。
 僕たちは映画を見に行く約束をしていた。
 ついこの間封切りになった、話題のラブストーリー。
 君の見たがっていた映画。
 なのに君はその日、少し遅れてやってきた。
「ごめん、遅れちゃったね」
「いいって」
 僕は苦笑しながら、君を迎えた。
 しかし、どことなく君の様子はおかしかった。
 少し、ふらついていた。
「?ひょっとして、調子悪い?」
「ん、ちょっと疲れてるだけ。さ、早く行こ」
 君は嬉しそうに僕の手を引いて。
 僕は少し照れながら。
 映画を見に行った。
 それが君と遊んだ最後の記憶。
 君が倒れた前の日のことだった。
 そして――


「倒れた?どういう事ですか!?」
 急に知らされた、君の入院。
 面会拒絶。
 何が起こっているのか、解らなかった。
 昨日逢ったばかりなのに。
 昨日遊んだばかりなのに。
「覚悟はしていました・・・」
 辛さを隠せない声で、君の父さん。
「今日まで元気だったこと自体、奇跡なんです・・・」
 涙に濡れた目で、僕を見た。
 信じられなかった。
 信じたくなかった。
「嘘、ですよね?」
 目を逸らす君の両親。
「嘘だって、言って下さいよ・・・!」
 血を吐くように。
「俺たち、これからなんですよ?」
 僕は、そう言いながら。
「一緒にいる、って約束したんですよ・・・!」
 泣いていた。
 そんな僕に君の父さんは――君のことを話し出した。
「彩は15歳まで生きられないだろう、と言われていました」
 訥々と。
「でも、今まで――頑張ってきました。この1年はひょっとしたら、と思えるくらいに元気でした」
 知っている。
 僕の知っている彩はいつも元気そうに微笑っていたから。
「それは――あなたと逢えたからです」
 目を細めて。
「幸せそうでした。いつも嬉しそうでした」
 誇るように。
「ありがとうございます。彩を幸せにしてくれて」
 嘘だ。
 僕は幸せになんてしていない。
 出来てなんかいない。
 好きだとも言わず、ただ一緒にいただけだ。
 僕は何も言えなかった。
 そんな僕に、君の父さんは。
「ありがとうございます」
 もう一度お礼を言ってくれた。
 柔らかく微笑って。
 だから気付いた。
 君がいつも微笑えていた理由を。
 この人の子供だったからなんだ、と。
「・・・強いですね・・・」
 僕は思わず呟いていた。
「強くなんて無いですよ。ただ、彩には微笑っていて欲しい。だから、微笑っている。それだけです」
「・・・やっぱり、強いですよ」
 そう言った僕に。
「ならば君も強くなって下さい。彩を微笑って送れるように」
 と。
 優しく、微笑った。

 悔しかった。
 何も出来ない自分が。
 腹立たしかった。
 君に気持ちを告げなかった自分が。
 そして。
 僕は受け入れられないまま、その日を迎えた。
 面会拒絶の札はまだ掛かっている。
 僕は君の病室の前、何も出来ないまま立ちつくしていた。
 不意にドアが開いて――
 君の父さんが出てきた。
「彩に、会って下さい・・・」
 真っ赤な目で。でも、微笑いながら。
 僕を呼んでくれた。
「いいん・・・ですか・・・?」
「彩が・・・会いたがっています」
「・・・はい。会わせて下さい・・・!」
 僕は促され、君の病室に入った。

 病室の中には君の家族。
 そして、沈痛な表情の医師。
 そう、つまりは――
 君は――
 今日、居なくなる。
 永久に。
 僕は言葉を失っていた。
 そんな僕に、病室のベッドの上から。
「あ、来てくれたんだぁ・・・」
 変わらない笑顔で、君。
「ああ・・・」
 僕はそれだけしか答えられなかった。
「嬉しいなぁ・・・逢いたかったんだぁ・・・」
 嬉しそうに――本当に嬉しそうに。
 君は起きあがろうとしたから。
 僕は彼女を押し止めた。
「寝てなって。良くならないぞ?」
「・・・先生がね、教えてくれたの」
 彼女は、解っていた。
 今日で最後だと言うことを。
「で、言ってくれたの」
 少し、嬉しそうに。
「『逢いたい人に逢いなさい』って」
 そして君は真面目な顔になって。
「ねぇ。聞かせて」
 どうしても聞きたかったの、と呟きながら。
 僕が先送りにしてきた質問を投げかけた。
「・・・ねぇ。あたしのこと、好き・・・?」
 僕は──君の手を握りながら。
 やっと、言えた。
 言うことが出来た。
「好きだよ・・・」
 同情なんかじゃなく。
 憐れみなんかじゃなく。
 本当の、気持ちを。
「好き、だよ・・・・・・!」
 はじめて、言うことが出来た。
 そんな僕に彼女は。
「嬉しいなぁ・・・。あたしもねぇ・・・」
 そう言って、にこ、と微笑った。
「だぁい好き、だよ。えへへへへ・・・」
 涙が止まらなかった。
 君の笑顔が辛くて。
 僕は多分泣き出しそうになっていたんだろう。
 そんな僕に、君は――
「ねぇ」
 と声をかけた。
「ねぇ。微笑ってて。あたし・・・あなたの・・・笑顔・・・好き、なんだぁ・・・」
 あくまでも明るく。あくまでも優しく。
 僕は――君の家族の方を見て――
 君の大切な人たちが、お願いします、って頭を下げるのを見て――
 何とか、微笑えた。
 僕に出来ること。
 僕が君のために出来る、数少ないことだったから。
 君は僕の方を見て、また、優しく、微笑った。
「あたし・・・今・・・幸せ・・・だよ。でも・・・」
 本当に、嬉しそうに。
 本当に、幸せそうに。
 君は、微笑っていた。
「でも、ね・・・もうちょっと・・・一緒に・・・いたかった・・・な・・・」
 苦しそうに、君。
 握った手が震えている。
『本当は死にたくないよ・・・』
 君の声が聞こえる。
 本当の声が。
 でも、君はあくまでも笑顔で。
 僕たちが悲しむと思っているからなのだろう。
 だから。
 君に応えるために。
 僕は、微笑った。
「ねぇ・・・」
 君が呟く。
「あたしのこと・・・忘れてなんて言えない。言いたくない」
 少し、苦しそうに。
「あたしのこと・・・・・・忘れないで」
 優しい、本当に優しい声で。
「あたしは・・・居なくなっちゃうけど、微笑って・・・いてね」
 僕に、我が儘を言った。
「あたし、あなたの・・・微笑った顔が・・・好き・・・だから。本当に、好きだから・・・」
 優しくて、でも、甘えた瞳で。
「これが・・・あたしの・・・最後の・・・お願い。ううん、我が儘・・・かな?」
 それは――これまで我が儘なんて言ったことのない彼女の。
 最初で、最後の我が儘だった。
 だから、僕は微笑った。
 君のために。
 僕が君のために出来る、数少ないことだったから。
 でも、それは確かに――
 確かにそれは、僕にしか出来ないことだった。
 そんな僕を見て、君は優しく微笑った。
 そして、君の大切な人たちに向かって。
「今まで・・・ありがと、ね」
 泣き笑いなんかじゃなくて。
「あたし・・・本当に・・・幸せだった・・・よ」
 無理に作った笑顔なんかじゃなくて。
「とても、とても幸せだったよ」
 いつもの、君のままで。
「いっぱい愛してくれてありがとう。あたしもみんなのこと、大好きだったよ・・・」
 君らしい笑顔を見せた。
 そして――僕を見つめて。こう、言った。
 最後に。
「眠くなっちゃった・・・あたしが・・・寝るまで、手・・・握ってて・・・くれる?」
「・・・ああ」
 彼女はにっこりと微笑い――眼を、閉じて――
 そして──2度と目を開けることはなかった。


 君が静かに逝った、あのとき。
「何だよ、それ・・・!」
 って。
「約束したじゃないか!もっと一緒に遊ぶ、って!元気になったらいろんな所に遊びに行こう、って!」
 って。
「約束・・・破るのかよ・・・!」
 そう言って暴れるのは簡単だったろう。
 でも、出来なかった。
 静かに微笑う君の前で泣き叫ぶことは出来なかった。
 プライドなんかじゃない。
 君への思いが薄かったからでもない。
 それは君が僕に微笑うことを望んだから。
 それは君が僕に微笑って、と言ったから。
 だから僕はあのとき、微笑えた。
 だから僕は心を無くさないで済んだ。
 君が僕の笑顔が好きだ、って言ってくれた。
 だから僕は心の入った笑顔を失わずに済んだ。
 だから、早く立ち直れた。

 君の墓前に花を供える。
 君の大好きだったかすみ草の花束を。
「彩・・・結構時間掛かったけど、やっと君のことを笑いながら話せるようになったよ・・・」
 雨に濡れる墓石を見つめながら、問いかける。
「酷いと、思うかい?」
 そして、君の答えを想像してみる。
『何言ってるのかなぁ。微笑えるって、良いことじゃない』
 そう、君ならそう答えるだろう。
 そして、重ねて問いかける。
「彩・・・幸せだった、よな?」
 多分君はこう答えるんだろう。
 胸を張って、きっぱり
『当たり前じゃない!』
 と。
 満面の笑顔で。


 あの世なんてものは信じてないけど、もしあるならば、今頃はもっと幸せでいて欲しい。
 生まれ変わりなんて信じてないけど、もしあるならば、次はもっと幸せになって欲しい。
 僕には君を幸せにすることは出来なかった。
 君の求める言葉を言えたのは、最後になってからだった。
 君を失うと解ってから、大切だったことに気がついた。
 僕の周りの人には、僕と同じような思いはしてほしくない。
 だから。
 たとえ罵られても。たとえ否定されても。
 僕は言い続ける。
「想いは、言葉にしないと伝わらない」と。
 もしも大切な人がいるなら。
 とても大切な人がいるなら。
 言葉にして、伝えてほしい。
 それが僕の、今の願い。
 最後まで微笑みをくれた君に応えるための、僕の願い。
 君が僕のすぐ側にいた事を忘れないための、僕の誓い。





 いつしか雨は上がっていた。
 遠くを見れば、虹。
『虹・・・綺麗、だね』
 君のそんな声が聞こえたような気がして、苦笑。
 見上げれば青い空。
 風には夏の匂い。
 そう、夏の――匂い。
 君が逝った季節が──来る。





 忘れられない人がいる。
 忘れられない思い出がある。
 それは幸せなのかも知れない。
 でも、その人がこの世にいないのなら・・・
 それは、哀しいことにもなる。
 忘れないでなんて言えない。
 言いたくない。
 でも、少しでいい。
 こっちを、向いて欲しい。
 次回四季彩記・暮古月『夕時雨』
 それでも、あたしは――