Locus ∞ "spatium ex devinire ventus"





 "Quo vadis――?"





 大樹の下。
 その刹那、風が舞った。
「・・・あ」
 名雪が呟く。
「ねぇ」
「はい」
 何かを確信した様に、栞。
「分かった?」
 目を閉じ、風だけを感じながら香里。
「ええ。帰ってきましたね」
 と佐祐理が幸せそうに微笑い。
「まったくあの人は・・・」
 と呆れた様に、しかし喜びのため滲んだ指先で、涙を拭いながら美汐。
「・・・いつものこと」
 美汐の背中を優しく叩きながら、同じように潤んだ目をして舞が言う。
「どうする?」
 と我慢出来ないといった風に真琴が問えば。
「決まってるじゃない!」
 と千早が答え、その目は街を見下ろしている。
「迎えに、行くんです!」
 静希は振り返りもせず、歩き出す。
「そう、だね」
 そして幸耶の眼が見据えているのは、街の中のとある場所。
 更紗が眼を細めてその場所に思いを馳せ、
「・・・行かなきゃ」
 と呟けば。
 風が、彼女達の背を押して。
 駆け出す。
 早く。
 早く。
 早く。
 更に早く。
 大切な、その人に逢う。
 そのためだけに、彼女達は駆け出していた。


 そんな彼女達を、大樹から見守る者がいた。
 その、ひとり。
 妖の女王が一瞬の躊躇の後、問う。
『・・・私のしたことは余計なことでしたか?』
「いえ。感謝してますよ。
 なにせ退屈しそうもない」
 問われた者はそう答え、うけけと楽しそうな笑い。
『そ、そうですか・・・
 それは何よりです』
 こめかみに一筋だけ汗。
 早まったかも、と思っているのがよく解る。
「でも・・・良かったのか、ってのはこっちの台詞ですよ。
 その分貴女の構成要素も薄れてしまったんでしょう?」
 不安そうに、訊く。
 しかしその答は柔らかな笑顔。
『あら。それは小さいことですよ。
 それに私を見くびってませんか?
 これでも妖の世界の全てを統べる者ですよ、私は』
 その言葉に、問い質す。
「となると・・・
 干渉しようと思えば干渉出来たはずですよね?
 あのまま――祐一が消えた時点で祐一を再構成し、世界を固定させようと思えば出来たはず。
 それをしなかったのは――俺も救うためだった、とか?」
 それは質問と言うよりもむしろ確認という方が良かったろう。
 あの世界のdeus ex machinaであった自分よりも遙かに大きな力を持つ存在。
 それが久遠だと、気付いていたから。
『そうですね。
 そういうことになります。
 だってほら。哀しみは――少ない方が良いですから』
 案の定返答は肯定。
 打算も、何もない笑顔で久遠は街を見下ろした。
「やれやれ、さすがですね。
 でも・・・おかげで僕もみんなの行く末を見守れます」
『・・・ええ』
 久遠の視界。
 駆け抜けていく12の影の、目指す場所はただ一つ。
『・・・なんてか元気だねぇ。
 とと、久遠様は行かれないんですか?』
 動かない長を不審に思い、鬼族の次期宗主は妖の女王に問い掛けた。
『私は・・・ほら。
 もう、逢っていますもの』
 微笑みながら開いたその手の内に浮かび上がる、風景。
 その舞台は――駅前の、ベンチ。





 風が吹いていた。
 蒼と白の空から、春を運ぶ風が柔らかく吹いていた。
 暖かさと、微かな寒さの入り交じった空気に、懐かしい木のベンチ。
「・・・・・・」
 俺はいつの間にか座っていたベンチに目をやって、もう一度空を見上げた。
 柔らかな日差しに照らされた駅の出入口は、今もまばらに人を吐きだしている。
 軽くため息をつきながら、駅前の広場に設置された外灯の時計を見ると、時刻は3時。
 雲の向こうの太陽が眩しい。
「・・・春、か」
 柱にもたれかかるように空を見上げて、一言だけ言葉を吐き出す。
 視界が一瞬霞んで、そしてすぐにそれは東風に流されていく。
 体を通り抜けるような春の風。
 そして、降り注ぐ春を告げる光。
 心なしか、雲の隙間から見える空の蒼の密度が濃くなったような気がする。
 もう一度ため息混じりに見上げた空。
 その視界を奪い、何かが蘇る。
「・・・・・・」
 全てを覆うように、いつかの記憶が蘇っていた。
「あ――」
 ぽつり、と呟くように息を吐き出す。
「俺・・・戻ってきたんだな・・・」
 涙が出た。
「帰って・・・来れたんだ・・・」
 滲む視界の向こう、誰かの姿。



「ねぇ。寒いね」
 そう声をかけてきたのは、背が小さい少女。
 空の蒼色をした瞳で俺を見ている。
 俺はすこし笑いながら答える。
「ああ、寒いな」
 その後を受けたのは、さらさらとした髪が印象的な、物静かな少女。
 真紅の瞳で、微笑みながら彼女は俺の頬に手を当てて呟く。
「少し、冷たくなってます」
 俺はぽつり、と呟くように息を吐き出した。
「そりゃ、ずっと、ずっと空を見てたからな・・・」
 この世界に帰ってきたばかりの俺の体温を、風は奪っていた。
「・・・あれ?」
 俺の言葉に、どこか眠そうな声の少女が不思議そうに小首を傾げる。
「今、何時?」
「3時」
「・・・びっくり」
 台詞と裏腹に全然驚いた様子もないのは、凛々しいといった表現が適切な、黒髪の少女。・・・手にしたその細長い包みがかなり気になる。
「・・・まだ2時頃だと思ってたわ」
 溜息混じりに髪の長い、ウェーブのある髪を持つ大人っぽい少女が笑う。
 しかし、2時頃には<俺>はここには居なかっただろう。
「あう・・・ひとつだけ、訊いていい?」
 髪をツインテールにした少女が、少し心配そうに尋ねる。
「・・・ああ」
「寒くない?」
「いや・・・全然」
 そう。出迎えてくれたこの街の風はなお、飽きることはない。
「これをどうぞ」
 そう言って、缶茶をひとつ差し出したのは、髪を肩口で切りそろえたおばさ・・・もとい物腰が上品な少女。
「遅れたお詫びです」
「それと・・・再会のお祝いだよ!」
 にっこりと、缶茶に合わせる様に紙袋を差し出したのは羽根付きリュックを背負った、子供っぽい少女。
「再会のお祝いが、缶茶と鯛焼きか?」
「だからバニラアイスにしましょうって言ったのに・・・」
 やや不満そうにそう言ったのは、ストールを羽織った少女。
「・・・うぐぅ。鯛焼き、美味しいのに」
 苦笑しつつ、差し出された缶と鯛焼きを受け取って。
 そうして、改めて女の子達の顔を見上げる。
 素手で持つには少し熱いお茶の缶。
 そして、滲む様な暖かさの鯛焼き。
 痺れる様な感覚の指先に、それらの温度が染み込んだ。
「7年・・・ううん、何年になるんでしょう・・・そっか、やっと帰ってきてくれたんですねー」
 涙混じりに、それでも笑顔を崩さない明るい笑顔と髪のリボンが印象的な、年上の少女。
「ああ、そうだ」
 缶を手の中で転がしながら・・・。
 もう忘れていたと思っていた、子供の頃に見た風の景色を重ね合わせながら・・・。
 少し、涙ぐむ。
 そんな俺に、
「あたし達の名前、まだ覚えてる?」
 ツインテールの少女によく似た、髪をポニーテールにした少女が問う。
「そう言うお前達だって、俺の名前覚えてるか?」
 茶化す様な俺の問いに答えたのは、紫の双眸を持つ和装の少女。
「はい、もちろんですよ・・・」
 風の中で・・・。
 風が辿り着く街の中で・・・。
 幾年もの歳月、一息で埋めるように・・・。
「――祐一!」
「祐一、さん」
「・・・祐一」
「よぉ、祐一」
「相沢くん・・・じゃ駄目よね。うん・・・祐一」
「あぅ・・・祐一」
「相沢さん・・・いえ、今日からは祐一さんとお呼びしますね」
「祐一くん!」
「あははー。祐一さんに決まってるじゃないですか」
「祐一さん・・・」
「祐一――」
「・・・祐一。逢いたかったよ・・・」
「祐一・・・やっと、還ってきたのですね」
 涙ぐみながらも、笑顔で、俺の名前を呼ぶ。
 一言一言が、雪を溶かす日差しのように、記憶を蘇らせていく。
 女の子達の肩越しに見える空の蒼は、さらに澄んでいく様に思えた。
「そろそろ行こうか」
 大切な街で、
 大切な人達に囲まれて、
「千早」
「・・・うん」
「静希」
「はい・・・」
「名雪・・・」
「うん・・・」
「舞」
「・・・ん」
「香里」
「・・・ええ」
「真琴」
「あ・・・うん」
「あま
「名前で呼んで下さい」
            ・・・美汐」
「あゆ」
「うん!」
「栞」
「はい」
「佐祐理さ
「さんは余分ですよ」
           ――佐祐理」
「幸耶」
「・・・うん!」
「更紗」
「・・・・・・はい」
 俺は、その人たちの名を呼ぶ。








 風の辿り着くこの街で、俺たちはどこへ行くのだろうか?



 確かに言えることは――



 俺たちは、笑顔でいられると言うこと。



 どこへ行っても、どこへ行こうとも。



 ずっと、ずっと笑顔でいられるということ。



 それは、確かなこと。



 だから、再会を喜ぼう。



 だから、これからに想いを馳せよう。



 そして。



 笑顔を護ろう。



 ずっと、ずっと護っていこう。



 そう、誓う。





 ――風が吹いていた。



 思い出の中を、穏やかな風が吹き抜けていた。



 数年ぶりに訪れた冬の残る街で、



 今も吹き続ける風の中で。



 俺は大切な人達と再会した。





「――ただいま」
「おかえりなさい!」










 "――Quoquo versus!"