今夜、月の見える部屋で





「どうぞ……」

 口当たりの良い、それでいて少し強めのカクテルに満たされたグラスを、テッサは静かに差し出した。

「……すまない」

 彼女がアルコールを差し出したことに少なからず戸惑ったようだが、彼は礼だけを言って、それを受け取る。

 別に初めてというわけでもない。ただいつもは、彼女の友人であるメリッサ・マオ曹長が持ち込んだバドワイザーを、二人で一缶、空にするくらいなのだが。

 ソファの上で黙ってグラスに口をつける彼─宗介の隣に、テッサは静かに腰を下ろした。

 南国のメリダ島─<ミスリル>の西太平洋基地・将校用居住区画にある、彼女の私室。照明の灯らぬ部屋の中、月と星の光だけが、彼女のアッシュ・ブロンドを照らしていた。

 漆黒の夜闇が濃紺にまで薄められ、まるで深い海の底のようだと、テッサは思った。偏執的なまでの防音処置によって作り出された静寂が、その印象をよりいっそう深める。

 だが、そこは優しく、甘やかな海域だ。暗く冷たい海の底から噴出す温泉の周りで生きる魚たちがいるように、この暖かさがあるからこそ、自分は生きていける。

「なんだか久しぶりですね。相良さんとお話しするのも……」

「三日前にも話しをしたが」

「作戦後の口頭報告じゃないですか。それとこれとは違います」

 少し拗ねたように唇を尖らせながら、しかし彼女は笑っていた。

 こうして彼が自分の部屋を訪ねて来ることが自然なことになるまで、どのくらいの時間がかかっただろう。身を寄せ合うわけでもなく、ただ並んで座って話しをする。ただそれだけのことが、数々の重責を負う自分にとって、どれだけ救いになっていることか。

 硬く強張った心が優しく解きほぐされていく。この感覚を、彼も今、味わっているのだろうか。─味わってくれているのだろうか。

 無口な宗介が自分から話題を持ち出すようなことは滅多に無かったが、それでも二人の会話が途切れることは無かった。

 マオのこと、クルツのこと、カリーニンのこと、食堂のメニューのこと、自動販売機の新製品のこと、<ミスリル>のこと、<トゥアハー・デ・ダナン>のこと、ASのこと……。

「─それで、M9の整備性を高めるためのプランを幾つか検討中なんですけど、予算の都合もあって、どれも上手くいかなくて……。   M9は部品の互換性がほとんど無いですから、いずれ在庫状態が大きな火種に─……ごめんなさい。また、仕事の愚痴になっちゃいましたね」

 溜め息をつきながら、テッサは力無い笑みを浮かべた。

「いや、問題無い」

 相変わらずの調子で、宗介が答える。

 その答えに、穏やかに目を細めたテッサは、しかし、不意に、

「ぷっ。くすくす……」

「? なにを笑う」

「いえ。ふつーの女の子なら……そんなぶっきらぼうな声で言われたりしたら、怒ったり傷ついたりするのかもしれないな、と思って……」

「……君もか?」

「いいえ。そんな風にしゃべってもらえるようになるまで、随分と苦労しましたから……」

 そう。

 以前の彼だったら、上官である自分に対して、こんな風には言ってくれなかっただろう。『お役に立てずに申し訳ありませんっ』とか『心中お察しいたしますっ』とか、そんなところか。二人っきりのときに『大佐殿』と呼ばれなくなったのも、考えてみれば、つい最近のことだ。

 彼を『部下』ではなく『男性』として見る自分と、自分を『女性』ではなく『上官』として見る彼と。そのギャップが生み出した数々の悲喜劇は、今でも友人のメリッサ・マオ曹長にからかわれるネタになっている。

「仕方の無いことだった。君は俺の上官で、俺は君の部下だ。部下が上官に対して敬意を払わなければ、隊としての行動に支障が出る」

「分かってます。それは、今も変わっていません」

 わずかに目を伏せて言うテッサ。その指が、グラスのふちを爪弾く。「でも……」

「それ以外の関係は、少し変わったと思っていいですよね……」

 ほんの少しの緊張とともにそう言うテッサの、はにかんだ笑顔。

 それは、『歩く木石』『猫に小判、豚に真珠、相良に美少女』と言われるような宗介でさえ、思わず見とれてしまうほどで─

 どく……どく……どく……

 ふと見れば、宗介のグラスが空になっていた。

「もう一杯、飲みますか?」

 そう言いながら、テッサが彼の手の中のグラスを抜き取る。

 立ち上がろうとして─その腕を、急に、宗介が強く掴み取った。

「!?」

 戸惑いの表情で見下ろすテッサの眼差しと、彼女を見上げる宗介の眼差しとが、交差する。

「相良……さん……?」

「あ……!」

 突然、我に返ったかのように、宗介は慌ててテッサの腕を掴む手を放した。

「す、すまない。アルコールは─もういい」

 気まずげに視線を逸らし、呟くように言う宗介。彼自身、今の行動に対する驚きを隠せないでいる。

「そ、それじゃ、ミネラルウォーターでも─」

「……あ、あぁ、頼む」

 テッサの言葉に、宗介はかすかに首肯して応えた。

「…………少し……酔ったのかもしれない……」

 独りごちるように呟きながら、彼は自問する。

 酔った? この自分が?

 かつてはアルコールを口にすること自体、無かった。この仕事を続けていくつもりなら、体調を崩す要因になるようなものは摂取しないに越したことは無い。同僚の飲酒を咎めることはあっても、一緒になって飲み明かすなどということは決して無かった。テッサとプライベートな時間を共有するようになって、ごくたまに、少量のビールやワインを口にするようになったが、それとて、運動能力や判断力に支障が出るほど飲んだことなど一度たりとも無い。今夜とて例外ではなかった。

 酔ったのではない。では何故?

 あの一瞬─自分は、確かに全ての判断力を失っていた。たとえどんな絶望的な状況であっても、常に冷静な判断を下し、対処してきたこの自分が、だ。

 テッサが自分の傍から離れようとした─ただそれだけのことで。

 心臓が、異常なほどに高鳴っている。猛烈な不安が胸の奥に渦巻き始める。

 いったい自分は、何を恐れているのだろう─?

 あの時、テッサが見せたはにかむような微笑が、自分の中に何かを産み落としていった。その得体の知れない何かは、ひどく暖かく、甘やかに自分の中を満たしながら─同時に、自分をどうしようもなく不安にさせる。

 それは、弾丸の切れた銃を手に戦場を彷徨う時に感じる不安とは、明らかに異質だ。この様な不安を感じたことは、後にも先にも一度きり。 

 ASに襲撃され廃墟となった村の中を、仲間の姿を探して走ったあの時だけだ。

 それに思い至ったとき、宗介は初めて、自分を不安にさせているものの正体に気づいた。

「俺は……」


「─熱い……」

 冷蔵庫の前にたたずみながら、テッサはかすかな声で独りごちた。

 宗介に掴まれた腕に残る、かすかな感触。鼓動は胸を蹴りやぶらんばかりに激しさを増し、身体は燃えるように熱い。膝が震えているのが、自分でもわかる。

 本当に強く掴まれた。薄っすらと跡さえ残っている。

 腕よりも心臓を掴まれたような感覚だった。あの一瞬、自分の心臓は本当に止まっていたのかもれないとさえ思う。

 突然のことに驚き戸惑いながら彼の顔を見たとき、彼女の胸には、たとえようもない喜びと不安が、等しく膨れ上がっていた。

 そしてその不安は─宗介の眼の中に垣間見えたのと、おそらく同質のもの。

 自分たちが属する<ミスリル>は、『軍事組織』である。その行動がどのような理念に基づいていようとも、やることは一つ─“殺し合い”だ。それだけは、奇麗事で誤魔化すことの許されぬ、正面から受け止めなければならない事実である。

 戦闘を行えば、人が死ぬ。そしてその死者とは─必ずしも敵だけとは限らない。

 <ミスリル>作戦部、西太平洋戦隊<トゥアハー・デ・ダナン>艦長、テレサ・テスタロッサ大佐。

 同艦所属、相良宗介軍曹。

 今日、互いに寄り添えたからといって、明日また会えるとは限らない。そういう世界で、自分も、彼も、生きているのだ。

「………………」

 冷蔵庫を開け、テッサはミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。その冷たさがやけに心地いい。これから自分がすべきことに対して、勇気を奮い立たせてくれるような気がする。


「男なんてぇのはさぁ、イザッて時になると、てんで意気地が無いんだから。ここぞとゆー時には、自分からビシィッとやんなきゃダメよ。わかったぁ?」


メリッサ・マオの言葉が、脳裏を過ぎる。

 今こそが、彼女の言っていた“ここぞとゆー時”なのかもしれない。そんな予感があったから─少し、酔っていたかったのかもしれなかった。

 胸の高鳴りが、更に勢いを増す。

 震える足に活を入れ、ゆっくりと、慎重に彼の許へと歩き出す。いくらなんでも、こんな時に『ずるべたーーん!!』と転ぶのだけは避けたい。

「はい、どうぞ」

 テッサが差し出したペットボトルを受け取ると、宗介は礼も言わずにふたをひねり、冷えたミネラルウォーターを喉の奥に流し込み始めた。それを見守るかのように、テッサは彼の横顔に眼差しを向け続ける。

 彼は、ひどく緊張しているかのようだった。危険な作戦を前にして、必死に平静を保とうとしている新米兵士の雰囲気に良く似ている。彼も、自分が─自分たちが感じている不安の正体に気づいてしまったのだろう。

 そして、その不安から逃れるために、自分が何を欲しているのかも。

 だから、彼は苦しんでいる。隊の規律、自らの感情、衝動、不安、そして多分─わたしの想いとわたしへの想い。様々な要素が入り乱れ、彼の精神を果てしない懊悩の渦へと引きずり込んでいる。

 テッサは、自分の胸の裡が、温かく満たされていくのを感じた。

 男性が、時として女性の尊厳よりも自分の衝動を優先することがあるということを、彼女は知っている。宗介が悩んでいる。その事実だけで、彼の自分への思いを知ることが出来たように思うのだ。

 そして、いま宗介が抱えている懊悩を取り除くことこそが、彼女の望みだった。

「………………」

 テッサが、ソファの上に腰を下ろした。先ほどよりも、宗介に近い位置に。床を睨みつけるようにして凝視している宗介は、その違いに気づかない。

 静かに、深呼吸をする。初めのうちは胸の高鳴りを制御しようと努力したが、すぐに無駄なことだと悟り、今では逆に、その鼓動の一つ一つを記憶しておこうと精神を研ぎ澄ます。

 意を決し、手を伸ばした。

 たおやかなテッサの手が、しなやかな筋肉のうねりと無数の傷に覆われた宗介の腕に触れる。その瞬間、宗介は感電したように身を震わせ、驚愕の表情でテッサを見た。

 テッサは、宗介の視線を、真正面から受け止める。これまでには無かったほどの至近距離で。

「あ……う……」

 硬直する宗介。そんな彼に向けて紡ぎ出すべき言葉を、しかしテッサは寸前で躊躇った。

 中止したくなったわけではない。少し心配になったのだ。自分が言ったことを、彼に理解してもらえなかったらどうしようか、と。彼が『言葉どおりの意味』にしか受け取ってくれなかった場合は……もっと『直接的』な言い方をしなければならないのだろうか? それはさすがに……。

「相良さん……」

 そんなことで悩んでいてもしょうがない。彼女は言葉を紡ぐ。

 声が震えたのは、予想範囲内だ。声を出せただけでも良しとしよう。

 宗介の表情が変わった。何かを察してくれたのだろうか。

 身裡に宿る勇気を根こそぎ搾り出して、テッサは最後の言葉を唇に載せる。父、母、兄、そしてメリッサの顔が思い浮かんだ。

「今夜は……ずっと、一緒にいてください……」

─今夜、月の見える部屋で。






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こんなのフルメタじゃねぇぇぇ! とお思いの方。ゴメンなさい。返す言葉もございません。

ホントはギャグ落ちにするつもりだったんですぅ。ところが、冒頭で雰囲気出しすぎてしまって、とてもじゃないが落とせなくなってしまって……。

そー×かな派の方は、怒り心頭でしょうね。テッサファンもかな? 

我ながら少し突っ走りすぎたかなとも思いますが、宗介とテッサが思いを通わせあうようになれば、いずれこういった“壁”に当たることもあるんじゃないかなーと。イメージとしては、2〜3年後。ちょっち大人な二人です。

もし、次の機会があれば、今度はもう少し、『フルメタらしい』雰囲気を出したいな、と思っています。実力が及べば。

ご一読いただいた方々には、心よりお礼申し上げます。「つまんねーぞ!」と思った方、ゴメンなさい。精進します。「コレはコレで面白いじゃん」と思った方、ありがとう。あなたはいいひとです。

では、へんで。



2000年12月 FACE