そのにじゅうろく。





「なあ、言峰。聞き忘れていたんだけどさ。――なんで聖杯は壊れたんだ?」
 虚を突かれた様に綺礼は目を見開き、自嘲の笑みを浮かべた。
「麻婆豆腐だ。泰山の麻婆豆腐が、聖杯を壊した――」
苦悩に満ちた溜息を一つ。綺礼はその日のことを語り出した。
「そもそもの始まりは先代の聖杯戦争が終わってすぐのことだ――」


 私は衛宮切嗣の手により死の淵を彷徨っていた。
 そう、その時に私は聖杯の中身を取り込み、生き延びたのだ。
 聖杯の中身は、悪意そのものだった。
 冬木の聖杯は、既に狂っていたのだ。
 その機能――願望機としての機能は保ったままだったがな。
 ああそうだ、良い機会だから皆知っておくがいい。
 聖杯に願えば、どんな願いでも叶えられる――それは事実だ。
 だが、聖杯は生贄を求める。多大な生贄をな。
 冬木の聖杯だけではない。全ての聖杯は生贄を求める。例外なく、だ。
 そうだな。例えば、己のせいで死んだ者を救うため過去に立ち戻り、やり直したいと願ったとしよう。
 確かに、その者、あるいはその者達は死なずに済むだろう。
 だがそれは、その者達が死んだが故に生きていられた者達を殺すことでもあり、そして今生きている全ての者達を殺すことにもなる。
 即ち、世界を聖杯に生贄として捧げることになるわけだ。
 ………どうしたのだ、セイバー。顔色が悪いぞ?
 まぁ、いいだろう。話を続けるぞ。
 私は聖杯の影響を受け、聖杯は私の影響を受けた。
 私の悪意と、世界の悪意は融合し、影響しあい、やがて一つの願いを持つに至った。
 煉獄。私は、この街を紅い煉獄の炎に染めたかった。
 聖杯に込められた悪意を解放したかった。
 私は聖杯を――性格にはその中身だな――を活性化し、小さなきっかけでも悪意が溢れるように仕込むことにした。
 陣を敷くのに10年を掛け、その甲斐あって、聖杯の中身は完全な形で活性化しかけていた。それが今代の聖杯戦争が10年という短期間で起こった原因の一つだ。
 そして最期の仕上げ。私が呪文の詠唱を始めたその時だ。
「私が殺す。私が活かす。私が」
「毎度ー。泰山でーす」
                  「待ちわびたぞ」
 私は泰山の出前の声につい応えてしまった。
 だが、一度展開した術式を止めることは不可能。
 私は仕方なく詠唱を続けながら店員の相手をすることにした。
「打ち砕かれよ。破れた者、老いた者を私が」
「麻婆豆腐10人前、お持ちしましたー」
                          「注文した通りだな。並べておいてくれ」
「装うなかれ。赦しには報復を、信頼」
「お支払いはどうしましょ?」
                      「なら月末に一括払いにしよう」
「じゃ、そうさせてもらいますねー」
「休息は私の手に。貴方の」
「あ、皿ですけど……」
                「扉の前に出しておこう。適当に取りに来てくれればいい」
「あ、はいー。でも10人前なんてすごいですねー」
「――許しはここに。受肉した」
「お客さんですか?」
                 「私が全部食べるのだが文句あるかね?」
 もはや詠唱もグダグダだったが、引き返せるはずがない。
 泰山の出前も帰ったことだし。
 私が全身全霊を込めて最期の詠唱を解き放とうとしたその時だ。
「――”この魂」
私は気付いた。私を見上げる黒い毛並み、金色の目の子猫に。
私は迷わず駆け寄り、抱き上げ、語りかけた。
        「可愛いでちゅねー、どこから入ったんでちゅかー?」
 そして、それを呪文として術式は発動し――聖杯を、その概念を決定的に変質させた。


「以上だ」
「何で出前が来るのよ?そもそもどこで儀式してたわけ?」
 頭痛を堪えつつ訊けば、綺礼は心底不思議そうに答えた。
「注文したからだが。あと、礼拝堂でだがそれがどうかしたのか?
 そもそも場所は問題ではない。聖杯という概念に繋がれば、何処であろうと構うまい?」
「どんな思考回路してるのよこのスカタン!」
 いつしか私は綺礼の首を絞めていた。
見る見る血の気は失せていき、呻く綺礼。
「な、何をする?首が絞まるではないか!」
「首を絞めれば絞まるに決まってるじゃない?」
レッドゾーンに入り込んだ綺礼に助けの手を差し伸べたのは、意外にも衛宮くんだった。
「遠坂、その辺で赦してやれ、な?」
 苦笑しつつ、私の手をほどく。
 妙に幸せそうに気絶している綺礼を衛宮くんの頭の上から見下ろし、セイバーは呟いた。
「でも、もしもそのミスと言いますか、何と言いますか――
 それが無かったら、私達はこうやって笑い合うことも無かったんですね」
「そうね。こんな暖かい世界を知らないまま、死んでたかも知れないのよね……」
 イリヤも同意。
 その刹那、綺礼は復活するやいなや思いきり高笑いを放った。
「ふははははははははは!そうだろうそうだろう、私に感謝するがいい!」
「へーへー感謝してますよー、と」
 全てのマスターとサーヴァントが、そう言って楽しそうに笑い合う。
 間違っている。魔術師としては間違っている光景だ。
 でも、それを見て笑っている自分に気付く。
 ――ああ。私も、幸せなんだ。
「まったく。綺礼も聖杯を取り込んでたからって影響受け過ぎよ」
 苦笑して、不意に思い当たる。
 綺礼は先代の聖杯戦争で自らに聖杯の中身を埋め込んでいたという。
 今代の聖杯戦争が始まる前、綺礼の手で聖杯とその中身は変質し、それに連動して綺礼も変質し、スカタンになったのだ。
 そして――聖杯と霊脈は密接に繋がっている。
 霊脈とその管理者もまた、密接に繋がっている。
 ならば、管理者も聖杯の影響を受けてもおかしくない………?
「なんだか最近、我ながら言動が妙だなー、とは思ってたんだけど……
 綺礼。もしかして、私も壊れた聖杯の影響を受けているとか?」
「今気付いたのか?それはもう楽しいくらいに受けまくっているぞ」
 にやりと笑い、サムアップ。
 やられた。もう、これは完全な反則だ。
 元凶となったこの腹黒を甘味地獄の刑に処したいほどに。
 ――でも、こんなに楽しいのなら、こんなに幸せなら。
 別にこのままで良いかな、って。
 そう思えたのも――また、事実だ。