そのさんじゅう。
机の上の日記が目に入ったこと、それこそが不幸の始まりだった。
それを読み取ることが出来たこと、それこそが最大の不幸だった。
「………また投げっぱなしにして」
軽く地を蹴り、机の上に――というわけにはいかず、机の脚にしがみつき、よいしょよいしょとよじ登る。
登りきったところでふと気付き、呟く。
「……はて、私は一体何をしてゐるのだらう?
其処までして見るべきものなのであらうか?」
でも登っちゃったし、このまま降りるのもなんか癪だ。
よし、見よう。何が書いてあるだろうか?
そして、力任せに日記を開き、その内容を目にした瞬間――
私は、なんとも言えない顔をしていたことだろう。
その日記は、『お揃いね、私たち……』という言葉で始まっていた。
『お揃いね、私たち……
ようやく、あなたも私と同じになった。
なんて、暗い喜び。それは分かっている。
でも、止められない。止められなかった。
始まりは、そう。
アーチャーが私の家計簿を見たときだったろうか。
真っ赤な家計簿。
真っ赤な魔術研究費。
真っ赤な、真っ赤な、真っ赤な………
覗き込んだアーチャーが、たまらず黙り込む。
刹那、右手にはガンドが、左手には魔術刻印が浮かんだ。
衝動を抑えることなく、解き放つ。
瓶詰サイズとはいえ英霊だ。今は痙攣しているけどそのうち元に戻るだろう。
先ほどの行為が理不尽だと言うことは分かっている。
でも、止められないのだから仕方ないわよね?』
頭痛をこらえつつ、ページをめくる。えいやっと。
『今日は記念すべき日だ。
やっと、赤く染まったのだから。
彼が、私とお揃いになったのだから。
衛宮家の居間で、衛宮くんは難しい顔をしていた。
その後ろに回り込み、肩越しに覗き込む。
その瞬間、私は確かに笑んでいた。
お揃いね、私たち。
そう言いかけて堪え、別の言葉を口にする。
「悲惨な家計簿ね」
それは笑みを隠した私の溜息。
「お前の方が悲惨だよ」
それは苦悩を孕んだ衛宮くんの呻き。
そう。
衛宮くんの健全だった家計簿も、聖杯戦争に巻き込まれた今は鮮やかな真紅。
お揃いね、私たち。
これで、お揃いね……ああ、幸せ……』
「………凛。なんて恐ろしい子!」
つい、呻く。
そうか、なんだか夜中にいきなり
「あかいあくまでもいいわ。いつか魔法に辿り着けるなら!」
とか、
「輝いてる!今、私輝いてる!」
と叫んでたのはこういうことだったのか、やれやれ。
しかし――それも、全ては壊れたことを私は知っている。
私と、凛の目の前で。
その日、夕食の買い出しのため、凜は近所のスーパーまで出かけていた。
「んんんん〜んんんん〜んん〜♪」
と鼻歌を歌いつつ、トマトジュースに手を伸ばした瞬間。
偶然とはいえ――
ああ、偶然とはいえ、彼女は見てしまった。
しゃぶしゃぶ用和牛肉に手を伸ばす衛宮士郎と、イリヤスフィールの姿を……
1秒を待たず、彼女の口から放たれたのは激高。
「何故……?何故なの……?何故なのよぉぉぉぉ!
あんなに食い扶持増えてるのに!
ちょっとどういうことよっ!」
む、これはまたテンパってるな。
やれやれ、と肩をすくめ、私は推測――そう、記録ではなく推測だ――を口にした。
「……食費が正常に入り出したこと。それだけではあるまい。
ギルガメッシュが何らかの影響を与えていると考えるのが妥当だな。
サイズがサイズだから劇的な効果は期待できないだろうが――」
「それかっ!」
即座に凛は衛宮士郎の元へと疾走開始。
私も当然ついて行く。こんな面白そうな見せ物、見逃したとあっちゃぁ親父に顔向けできないからな。
「衛宮くんっ」
「ん?どうしたんだ遠坂」
「リン、今日は豪華にしゃぶしゃぶよ!
貴女の分もちゃんとあるんだからね!遅れるんじゃないわよっ!」
にこやかに応えられ、さしもの凜も勢いを失う。
ぽかん、と口を開け、流されるように返事――
「うん、ありがと、準備は私も手伝うから……
じゃなくてっ!」
しかけて、本題をいきなり口に出す。
「衛宮くん!研究にどーしても必要だから金ピカ貸して!」
………おい!ストレートすぎるぞ!
案の定、奴は機嫌を損ねた。
「……遠坂。ギルガメッシュは物じゃないんだ。そんな言い方は止めてくれ」
ほーら、怒られた。
本気で怒っているのが分かるから、凜も謝罪。
言い方を変えた。
「……う、ごめん。
ちょーとだけでいいからさ、ギルガメッシュに力を貸して欲しいの。
衛宮くん、いいかな?」
おずおずと言えば、奴は微笑って言ったものだ。
「んー。それなら、俺に断る必要はないよ。大体、俺とあいつは友達だしな。
まぁ、あいつが良いって言ったらいいんじゃないか?」
そして、凛はギルガメッシュと交渉を開始したのだが――
「ふん、何故我が雑種如きの頼みを聞かねばならぬ!」←ツン
凛が反論するより早く、ギルガメッシュは次なる言葉を放った。
「だが夕食のおかずを一品増やしてくれるなら力を貸してやろう」←デレ
その返答は予想外。だからつい、凛は目を見開いた。
「え!いいの、そんなんで!」
「くどい。我が良いと言ったら良いのだ!」
こうやって、凛はギルガメッシュの協力を取り付けた。
英雄王よ、何というか、その………まあ、良いだろう。
「………なんというか、こんな簡単でいいのかしら?」
あまりのあっけなさに、思わず呟いていた。
英雄王も美味いものを食べたい。つまりはそういうことなのだろう。なんだかなぁ。
そして。
金ピカに触れた家計簿の赤はやがて黒に近づき示す。
凛がこの聖杯から離れられないと言う事実を。
凍てついた星の如くあるべき魔術師の心。
それを凛は喪っていた。
今心にあるのは、燃え上がるが如き幸福感だろう。
彼女は、「やっと理解できたわ」と呟いた。
そして微笑を浮かべ、凛は宣言する。
「ねえ、アーチャー」
「なんだ?」
「私は――いや、私たちは満たされているのね。
聖杯を手にしたわけでもないのに――
この場所は楽園にも似て。
みんな、みんな嬉しくて、幸せで、だから夢のようで。
だから私は――この冬木の聖杯を、護りたい。
霊脈の管理者ではなく、『遠坂 凛』として」
この街にある魔術師――否、全ての者の、なんと優しいことか。
明らかに異形である私たちを排斥せず、ただ、見守る。
それもまた、狂った聖杯の力かもな。
なんて、愉快な。
笑みを浮かべかけて、気付いた。
――そうか。
この聖杯に囚われているのは、魔術師だけではない。
私たちサーヴァントも、ということか。
私は久しぶりに――本当に、久しぶりに、心から笑った。
衛宮士郎よ。
私は変容したとはいえ英霊。
この、瓶詰サイズなる我が身なれど――
貴様に戦闘技術を叩き込む程度は出来る。
貴様があの聖杯を護る力となるための糧にはなれる。
衛宮士郎よ。
私の前身よ。
私の持つ全てを伝えよう。
全ての剣を、全ての技を伝えよう。
――ついて、来れるか?
あー。あと、出来ればだが、師匠と呼んでくれ。
………親分でもかまわんぞ?