はらはらと、白。





 彼女は庭の梅の木を見上げていた。
 幼い頃はただ遠くから見ることしか出来なかった木を、すぐ近くから見上げていた。
 黙って、その手を伸ばす。
 伸ばされた手が白い花弁に触れるや、はら、と散って――
 自分が今感じているのは現実である事を知る。
 それでもまだ不安は消えない。
 確かな何かがない。
 だから。
 その指を刃で傷つけて――
 白い花弁を染めてみる。
 鈍い痛み。
 鮮烈な紅。
 それらが今目にするものが現実であることを報せ――
 不安は僅かに癒された。
 しかし、まだ足りない。
 何かが足りない。
 何が足りないのか?
 分からないけど、確かに何かが足りない。
 ――もっと赤く染めたら、足りないものは埋められるのだろうか?
 そんな考えに囚われて――
 手首に、刃を走らせる。
 空虚な笑みを、面に浮かべ。
 紅は散り。
 白を浸食していく。
 紅く染まりゆく白の向こうに、自分の名前を呼ぶ人の姿。
 そして、感じる。
 自分が梅に与えた温もりが、雫となって落ちてくる。
 温もりを失いつつある自分に。
 そして、気付いた。
 ――ああ。
 ――欲しかったのは。
 ――足りなかったのは。
 ――温もりなのだ。
 そして。
 彼女が求める温もりを、与えてくれるだろう人は――
 泣きそうな顔で彼女の名前を呼んでいる。
 そして彼は彼女を抱き起こし――
 眼鏡を外して。
 彼女から体温を奪っている傷を。
 彼女を殺しつつある死を――
 コロシタ。


 そして気が付いたとき。
 彼女を見下ろしていた彼の顔は――
 泣きそうで。
 でも、ほっとしていて。
 彼女は安堵を覚えた。
 なんでこんなことを?
 と。
 彼の目が問う。
 確かめたかったんです、と。
 彼女は答えた。
 怖かったんです、と。
 まだ夢を見ているんじゃないか、と。
 穏やかな――しかし、空っぽな笑みを向ける。
 だから、彼は彼女を抱きしめて。
 もういいんだ、と呟いた。
 もういい。
 無理に笑顔を作る必要はない。
 あなたは泣いてもいいんだ。
 あなたは怒ってもいいんだ。
 俺は、側にいるから。
 あなたの側にいるから。
 その言葉。
 彼の心からのその言葉が――
 彼女の不安。
 彼女の恐怖。
 彼女の焦燥。
 それらをコロシテ。
 彼女は――
 彼の腕の中、静かに嗚咽を漏らし。
 そして。
 泣き叫んだ。
 そしてそれが――
 彼女の、二度目の産声となった。


 そして、ある日曜日。
 一緒に街に出る約束をしていた志貴と琥珀だったが。
 秋葉の屋敷を掃除しましょう、の一言が波乱を生んだ。
 約束だったじゃないですか、と琥珀の声。
 志貴は言い訳するが、本気で怒っている琥珀には通用しない。
 秋葉の名前を出すも、琥珀はあくまでも退かない。
 それどころか涙を滲ませて見上げる始末。
 負けました。
 と苦笑混じりで志貴がその手を伸ばし。
 じゃ、行きましょうか。 
 と琥珀がその指が絡める。
 その時の琥珀の表情は、生まれ変わった笑顔。
 心からの笑顔だった。
 その笑顔を撫でて。
 さや、と風が吹き、梅の白を散らす。
 はらはらと散るその白はもはや紅く染まることはない。