第十夜 いつまで
その声が聞こえてきたのは、ある家の前を通りかかったときだった。
安芸津重蔵。
裏でも表でも知らぬ者はないほどの男。
表では所謂名士、裏では――ここら一体の薬を牛耳る男として。
その男の家の前を通りがかったとき。
くけ。
そんな、鴉の声。
それに混じって聞こえてきた。
<い・・・ま・・・>
人の声だと思った。
だが、その声は私に嫌悪感を抱かせた。
<・・・つ・・・で・・・>
人の声ではない。
断じて人の声ではない。
例えば鳥や獣が無理に人の言葉を発した様な、不自然な響き。
しかし、そこにこもる感情は人のものだ。
恨み。
妬み。
怒り。
憎しみ。
悲しみ。
そんな感情が渦巻いている。
嫌な気分を感じながら、私は足早にその家の前から立ち去った。
その家――安芸津から使いが来たのは次の日だった。
「え・・・私、ですか?」
私は驚いた様な声を上げていたと思う。
「済みませんが、遠慮させて下さい。私には荷が重すぎますから」
しかし、私は即座に断った。
近付くべきではない。
怪異があったからではなく、純粋にそう思ったからだ。
純粋に。
知り合うべきではない。
そう、感じたからだ。
「どうしても、駄目でしょうか・・・?」
安芸津の家の使いの者は食い下がってきたが、私はあくまでも断った。
「そうですか・・・」
そう言い残し、残念そうに帰っていった。
私はそれを見送った後、眩桃館に顔を出した。
別段用があったわけではないが、何となく不安だったからだ。
そして眩桃館に入るや否や、美津里が聞いてきた。
「京太郎。あんた、安芸津の治療断ったんだって?」
そして煙草に火を付けながら、酒を出してくる。
私は耳が早いな、と苦笑しながら答えた。
「ああ。ちょっと、嫌な感じがしたものでな」
虎蔵は驚いた様な顔をした。
せっかく儲かるのに、と言う様な顔だ。
「馬鹿だねぇ、と言いたいところだけど。まぁ、仕方ないやね。あれは・・・拙いよ」
苦い表情だ。
あんなもんに関わるもんじゃねぇ、と呟きながら虎蔵は酒を一口飲んだ。
「そんなに拙いのか?」
思わず問い質した私に、虎蔵はずいと近寄って答えた。
「ああ・・・あの家は、拙い。今は近付くのさえ危ない」
私は後ずさりながら、
「それって・・・あの鳥と関係あるのか?」
と聞いたのだが、
「京太郎。何か聞いたのかい?」
と美津里がずずいと寄ってきた。
「ああ。聞いた」
「どんな風に聞こえた?」
「いつまで、といった風に聞こえたんだが・・・どうかしたのか?」
私のその答に、美津里が答えた。
「以津真天だね」
「いつまで・・・?なんだそれ?」
ああ、と美津里は頷き、以津真天について話した。
「例えばさ。人が死んだとする。どうするね?」
「それは弔うだろう、普通は」
美津里は酒を一口。
「しかし、それを怠ると化けるのさ。何時まで放っておくのか。何時まで弔ってくれないのか・・・」
「なるほど。だからいつまで、か」
「んで、だ。悪人でも人を殺しちまったら埋めるわな。見たくないし」
ああ、と私が答えると、虎蔵は顔をしかめて話を続けた。
「しかし、あの男――安芸津重蔵はそれをしなかった。犬に喰わせ、鴉に喰わせたのさ。自分が殺した人間をな」
その後に続いて、美津里。こちらも少しばかり嫌そうな顔だ。
「確かに鳥葬とかいう、鳥に喰わせる葬儀もあるらしいけどねぇ。しかし、重蔵はその様を酒の肴にしていたんだとさ」
「まぁ、本人だけに聞こえるうちはまだ供養すれば何とかなるんだけどな」
虎蔵はやれやれと呟きながら酒を呷った。
「声が関係ない奴に聞こえるまでになっている、か。もう先はないな」
「以津真天、か・・・」
「おう、いつまでだ」
私の呟きに機嫌良さそうな虎蔵が答えた。
「・・・虎蔵。お前飲み過ぎ」
私は思わず溜息をついた。
「京太郎、お前飲むときはとことん飲まなきゃ」
「俺が1杯飲む間に5、6杯は飲むくせに何言いやがるかな」
はぁ、と溜息をつく。
と、同時に気付いた。
声。
声が聞こえる。
怨嗟の声。
呪いの声。
<いつまで・・・>
いつまで打ち捨てておくのか。
いつまで供養せずに放っておくのか。
いつまでお前は生きているのか。
そんな声だ。
「虎蔵!」
「解ってる」
虎蔵の酔いは一瞬にして醒めていた。
<いつまで・・・>
そんな声を上げながら、鴉が飛んでいく。
「鴉・・・?」
そう。
その鴉が、変貌していく。
弾ける様に、体が大きくなり。
爪が伸びていく。
そしてその顔は人にも似て。
その声はあくまでも鳥のもので。
しかしその声に宿る感情は人のものでしかなく。
響いた。
<いつまで・・・>
それが飛んでいった先には――安芸津の屋敷があった。
「どうするよ、京太郎」
虎蔵が何とはなしに訊いてくる。
「どうもしないさ。それなりの事したから呪われたんだろ?なら自業自得というものだろ」
ふん、と鼻を鳴らす。
「それにな。俺はこんな厄介事に関わりたくないんだ」
静里が哀しむからな、と言う言葉を飲み込み、私は立ち去った。
「まぁ・・・そうだわな」
虎蔵は苦笑。
「でも、酔いが醒めちまった」
私も思わず苦笑を漏らした。
「仕方ないなぁ・・・酒でも買って帰るか?」
「おお、京太郎!話が解る!」
嬉々としている虎蔵に、私は厳かに告げた。
「割り勘だからな」
数日後、私はまたその家の前を通った。
日常に戻った、といえるのだろう。
しかし。
重蔵はあの時死んでしまったらしいが、それでも怪異は絶えないと言う。
噂によると重蔵と同じように、重蔵の息子も、孫も他人の命を弄んでいるらしい。
「・・・・・・血に潜む業、か。全く・・・」
頭を軽く振り、立ち去った私の背中に――
ほら、届いた。
あの鳥の声が。
<いつまで・・・・・・>