第八夜 おいてけ





 最近私はある宿屋に往診している。
 その宿屋――宿屋といってもかなりの規模を誇り、全国各地に支店を持っているが――、名を稲生屋と言い、300年続く老舗だという。
 その稲生屋の跡取りである連三郎が最近体を壊しており、しかも表沙汰にしたくない、とのことだったから私の出番となったのだが――正直手に余っていた。
 連三郎の病は体と言うよりもむしろ心の方に問題があり、夜な夜な、私が悪かった、返す、あれは返すと叫んでいたらしい。
 そのため体面を気にした者に土蔵に閉じこめられているのだが――日ごと夜ごとにかりかりと土蔵の壁を引っ掻いているらしいのだ。
 しかも不思議なことに土蔵の内と外のほぼ同じ位置に引っ掻き傷があり――土蔵の外は朝になったら濡れているという。
 誰かの質の悪い悪戯だろう、というのが大方の店の者の考えだったのだが、正直言って私は気乗りがしなかった。
 何か、嫌な匂いが立ちこめていたからだ。
『行ってはいけない』
 そんな声が聞こえた様な気がしたのだが――先立つものが無ければ飢え死にしてしまう。
 だから私は稲生屋に往診を続けていたのだが、ある日、私は街の者から稲生屋に関わるある話を聞いた。
 その話は怪談話だった。
 稲生屋の裏には池があるのだが、何でもその池の祠の前で三礼四拍したあと背中を向け、これこれこういう訳でこの品を貸していただきたい、と言葉にし、目を閉じたまま振り向いて三礼四拍し、眼を開けたら祠の前にその望む品がどこからともなく出て来るというのだ。
 その後、借りた品は当然返さねばならないのだが、その際にも祠の前に件の品を置き、三礼四拍した後目を閉じたまま背を向け、酒一升と酒の肴を三人前背中越しに池に投げ入れるのだそうだ。これを怠ったらその者には二度と何も貸し与えないのだという。
 しかし、返さなかったらどうなるのか?それを試したのが六代目の伊助である。
 伊助は理由を付けて煙管を借り、そのまま返さなかった。
 しかしいかなる事か、返せとの声は届かない。
 それどころか煙管を手にした途端に福が舞い込み始めた。
「これは私の宝だ。池の神の贈り物だ」
 そう伊助は嘯いていたのだという。
 その伊助が変わったのは、子供が出来てからだった。
 夜な夜な徘徊する。
 訳の解らないことを言い出す。
 そしてついにある日のこと。
 伊助は池の畔で死体となっていた。
 世にも怖ろしい顔で、その死に顔を見た者は堅く口を閉ざしていたらしい。
 
 私は慄然とした。
 似すぎているのだ。
 今の連三郎の状況に。
 稲生屋が巨万の富を得る様になったのは、連三郎が跡を継ぎ、しばらく経ってからだという。
 そしてそのようになったのは、連三郎がどこからか懐中時計――今も肌身離さずにいる、銀製の懐中時計を手に入れてからなのだと。
 そして、連三郎の様子がおかしくなったのは、待望の男子が産まれてからだと。
 この話を聞いた瞬間、
「またか」
 と思った。
 よくよく私は怪異と縁があるらしい。
 半ば諦めの境地で私は稲生屋に向かった。
 なにしろ前金は戴いてしまっているのだから。
 しかし、事はその夜起こった。
 解っていたら私は行かなかった。
 否。私が来たから、なのか?
 そう勘ぐってしまうほどに――私は怪異に会っている。
 そのことを図らずも実感したのだ。

 私が診察を終えて土蔵を出たそのときだった。
 家の者が土蔵の戸を閉め、鍵をかけようとしたとき――戸がばね仕掛けの玩具の様に開いた。
 その開いた土蔵から、つい先ほどまで私が診ていた連三郎が出てきた。
 ゆっくり。
 ゆっくり。
 その動きは取り憑かれている様でもあり、私たちは思わず逃げ出した。
 図らずも池の方に向かって。
 そんな私達を追ってきたのか。
 あるいは呼ばれているのか。
 連三郎も駆けだした。
 私達と同じ方向に向けて。
 そして。
 池。
 池の畔に辿り着いたとき。
 連三郎はにや、と笑って――言った。
「私の代わりになってくれ」
 代わり・・・つまり。
「あんたの代わりに主に命を差し出せ、ってことか?」
「察しがいいな」
 私は思わず隣にいるはずの一緒に逃げてきた男を見て――驚愕した。
 既に居るのだ。
 連三郎は気付いていない様だが、『それ』は――既に居るのだ。
 そう、連三郎の直ぐ前に。
 私の横で男はゆっくりと変貌していった。
 そして。
 連三郎を見据えて。
 言葉を発した。
『置いてけ・・・』
「ひっ!」
 連三郎は逃げだそうとしている様だ。
 しかし――どういう事か。
 走っているのに、前に進んでいない。
 それどころかじわじわと。
 じわじわと、池の方に近づいているではないか。
『置いてけ・・・』 
 恐怖に囚われた連三郎は身に付けていたものを『それ』に放り投げた。
 これだけはといつも携えていた、あの懐中時計も。
「こ、これで良いだろう?借りたものも返したのだ!」
『置いてけ・・・』
 しかし声はより一層強く響いた。
「お、置いていくものなどもう無い!」
 事実、連三郎は全裸であった。
 もはや置いていけるものは――否。まだ、有った。
 声が響いた。
 夜の闇よりもなお暗さを感じさせる声が。
『お前の命を』
 愉しそうに、嗤いながら。
『置いてけ・・・!』
 そしてその声が響いた瞬間。
 男――だった『それ』が伸ばした手が連三郎の胸に潜り込んだ。
 腕は直ぐに引き抜かれたが、どうなっているのだろうか。連三郎には傷一つ無い。
 しかし、腕が潜り込んだ場所を押さえてのたうち回っているのも事実だ。
 連三郎は最早声を出していない。
 否、出せないのか?
 吐息の様なひゅうひゅうという音だけが口から漏れている。
 何をされたのか。
 私の脳裏にこの池の伝承に関わる昔語りの終盤が浮かんだ。
『腑分けして初めて分かったことだが、伊助の心臓と件の煙管が鋳熔かした様に突き出ていた』
 そして、
『体の外にはかすり傷一つ無かった』
 ならば。
 目の前で連三郎が苦しんでいるのは、まさか・・・心臓にあの懐中時計が埋め込まれて仕舞ったからなのではないか?
 連三郎は一度跳ね上がる様に痙攣し――そして、止まった。
 私は思わず後ずさった。
 一歩。
 二歩。
 三歩・・・そこで、私の足は止まった。
 止めたかったのではない。
 止められたのだ。
『それ』の腕――ぬらぬらと濡れた腕が私の足首を掴み――
『お前の命も・・・置いてけ・・・!』
 私が声をあげかけた刹那。
「こいつを連れてって貰ったら困るんでね」
 そんな声と友に『それ』の腕は断ち切られた。
「・・・虎蔵?」
「よぉ」
 虎蔵は呑気な声で片手を上げた。そして『それ』に向き直る。
「退きな。でないと・・・容赦しないぜ?」
 その声はむしろ優しかったと言って良いだろう。
 しかしその声の裏側にある何かを感じたのか――『それ』は悔しそうな声を一声上げると、断ち切られた腕と既に事切れた連三郎を引きずって池へと戻っていった。
 それを見送ってから、虎蔵は心底不思議そうな声で私に言った。
「お前、よくよく変なのと縁があるね」
「・・・お前らと会うまでは縁はなかったと思うが」
 多少憮然とした声だったと思う。しかし虎蔵は全く気にしていない様子だ。
「違いないやな。でもま、諦めな」
「元凶が言う台詞か・・・?」
 私はぼやきながらも立ち上がった。
「でもまぁ、感謝はしている・・・おい。その手は何だ?」
「感謝してるならなんかくれ」
 やれやれ。
 私は諦めて虎蔵を飲みに連れて行った。
 そのため今回貰った治療代は全て飛んで行ってしまったのだが・・・
 命を救われたのだと思うと――釈然としないこともないのだが、まぁ仕方ないかと思わないでもない。