第伍夜 笹が根の





 風に乗り、蜘蛛の子が飛んでいく。
 遊ぶように、たゆたうように。
 私を見るとはなしにそれを見ながら、女について歩いていた。
 私は知人のつてで来た、と言う女性に連れられて回診に出かけている。
 なんでも子供の調子が悪いのだという。
 その知人――犬飼正臣は信用できる男だから、まぁ間違いはないだろう。
 私はそう判断し、鞄を持って女に付いていった。
 しかし・・・
「何ですか、先生?」
 振り向き、女――梶葉緋織と名乗った――は怪訝な顔をした。
「いえ、とても子供がいらっしゃるようには見えなかったもので」
 思ったことを口にすると、女――緋織はふふ、と笑った。
 しかし、その笑いがどことなく気に入らない。
 綺麗な笑顔だとは思う。
 しかし、どことなく禍々しいものを感じて――
 私はほいほいついて出たことを後悔していた。
 逃げ出したい。
 いや、逃げるべきだ。
 そう判断し、走り去ろうとしたときは既に遅かった。
 しかし、足は操られたかのように緋織についていく。
 まるで私の足ではないかのように。
 見れば、きらきらと細い糸が私の手足を引いている。
 そしてその糸は――緋織の指先に繋がっていた。
 その指先が動くごとに、私の足が動き、手が動く。
 私は心が重くなるのを感じた。
 ――まさか、またなのか?
 私のそんな思いを知ってか知らずか、緋織はふわりと振り向き、
「さ、先生。こちらです」
 と、楽しそうに笑った。
 手足を操られている私には選択権はなかった。
 言われるがままに屋敷へと入る。
 一歩。
 また一歩。
 奥へ、奥へと。
 そして――一番奥の座敷に着いたとき。緋織は。
「先生・・・」
 笑いながら服を脱ぎだした。
 脱ぎ出すと同時に。
 上半身は女のまま、下半身が蜘蛛に変わっていく。
 鋭い顎をその下腹部に宿して。
 きちきちと、牙を鳴らして。
「あなたの血肉を頂戴。私と・・・あの人――正臣様の子供のために」
 犬飼の子供だと?
 どういうことだ?
「どういうことだ?」
「言葉通りです」
 緋織はにこ、と笑って――
「私はあの人と契ったんですよ・・・」
 嬉しそうに言った。
 疑問が生じた。
 犬飼はどこだ?
 言葉が本当ならば、犬飼は何処に居る?
「犬飼を・・・どうした?」
「戴きました」
 あっさりと。
 こともなげに緋織は言った。
「私たちの子供が元気に生まれるために」
 そしてまた笑いながら。
「あの子達、正臣さんの子供だけあって、とても元気で・・・だから」
 優しげに。とても優しげに。
「あなたの血肉を頂戴」
 にこ、と笑った。
 そして、細く白い手を私の首に掛けようとした。
 私は、私の命を奪おうとするその手を。
 白く、細く、しかし尋常ではない力を秘めた手を。
 私は、咬み千切った。
 鉄錆びた味が口の中に広がる。
「・・・私の毒が効いていないのですね・・・」
 感心したような口振りで、自分の手を見ている。
 そして、なにやら思いついて、私に微笑いかけた。
 妙に優しく。
「あなたの血、ちょっと味見させてもらいます」
 緋織は私の頬を爪で切り裂き――浮き出た血の玉を舐めた。
 そして、恍惚とした表情になった。
「なんて甘美な・・・まさに甘露・・・あなた・・・純粋な人間ではありませんね・・・?」
 血に濡れた唇を舐め上げながら。
「まぁいいでしょう。あなたの血ならば子供達も気に入るでしょう・・・」
 多少の未練を残しながら。優しく。
「さぁ。お食べなさい」
 その声とともに、何処からともなく蜘蛛が舞った。
 犬ほどの大きさの、蜘蛛が。
 しかいよく見ればそれらも――目の前にいる、異形と同じ姿ではないか。
 きちきちと。
 きちきちと、その顎を鳴らしながら。
「おなかがすいた」
「おなかがすいたね」
「早くご飯にしよう」
「早くご飯にしようよ」
「今日のご飯はこれ?」
「今日のご飯はこれなの?」
「おいしそう」
「とてもおいしそう」
「母様、食べても良いのですか?」
「母様」
「母様」
「母様も一緒に」
「母様も一緒に食べましょう」
 きぃきぃと、か細く。
 人の声――いや、子蜘蛛の声。
「いいのですか?」
 緋織が舌なめずりをしながら子蜘蛛に聞いた。
「母様も一緒に」
「母様も一緒に」
「母様も一緒に食べましょう」
「そう。ならば私も頂くとしましょうか」
 嬉しそうに。
 本当に嬉しそうに。
 顎を軋ませながら、緋織が言った。
 その答えを受けて。
「じゃぁ食べよう」
「食べよう」
「食べよう」
「食べよう」
 きぃきいと鳴きながら、嬉しそうに子蜘蛛が。
 かさかさと。
 かさかさと、私に近づいていく。
 そして、最初の一匹が私に喰らい付こうとしたとき。
 黒尽くめの足が、その子蜘蛛を蹴り飛ばした。
「おまえ本当、こんなのに好かれるね」
 子蜘蛛の一匹を踏みつけながら、虎蔵。
 子蜘蛛はきぃ、と鳴いて威嚇している。
「五月蠅いよ」
 虎蔵はそれを意にも留めずに、足に力を入れ――
 いやな音とともに、潰した。
 それに腹を立てたのだろう、子蜘蛛が群れをなし、虎蔵に襲いかかった。
「殺した」
「殺した」
「殺した」
「殺した」
 がちがち、と顎を鳴らしながら。
「おやめなさい!お前達の敵う相手じゃありません!」
 緋織の制止を振り切って。
 子蜘蛛は虎蔵に襲いかかった。
「おーおー、よっくもまぁぞろぞろと」
 虎蔵は感慨も無げに呟き、目を細め――
「鬱陶しいんだよな・・・お前ら」
 太刀を、一閃。
 太刀は風を起こし、風は子蜘蛛を切り裂いていった。
「次はあんただな・・・」
 子蜘蛛の死体を踏み躙りながら、虎蔵は一歩、また一歩と歩を進めていく。
 それを留めようと、辛うじて生きている――と言うより死を待つだけの――子蜘蛛が糸を吐き、虎蔵を絡め取ろうとするが――
 虎蔵は無言で雷撃を放ち、そこにいた全ての子蜘蛛を屠った。
 肉の焦げた、嫌な臭いが周囲に立ちこめた。
 微かに煙が上がる中、虎蔵は太刀を肩にかけ、緋織に歩み寄っていく。
 緋織は逃げるだろうと思ったが、予想に反してそのままぴくりとも動かない。
 恐怖故か?いや。
 違う。
 あの眼は。
 私はあの眼を見たことがある。
 そう、子を――屠られ、その敵を討とうとする眼を。
 私は確かに見たことがある。
「もはや勝てるとは思うておりませんが、それでも我が子の敵は討たねばなりません・・・」
 緋織は啼いていた。
 血の涙を流していた。
 「覚悟!」
 私は虎蔵を嗾ける気にはなれず――かといって止める気にもなれず――ただ、虎蔵の行動を見ていた。
 虎蔵が太刀を振るう度に緋織の脚が飛んだ。
 腕が飛んだ。
 腹が。
 顎が。
 斬り飛ばされていく。
 緋織の体が、微塵になっていく。
「口惜しや・・・」
 女の上半身だけになった緋織が、さも悔しそうに呟いた。
「蜘蛛は蜘蛛らしく虫だけ喰ってりゃいいんだよ」
 吐き捨てるように、言い放ち。
 虎蔵は無造作にその頭に足を置き――踏み潰して――
 止めを刺した。

 翌日。
 美津理が遊びに来た。
 私は流水で冷やした酒を持って、美津理と酌み交わした。
 虎蔵は――桜花楼だ。
「助けてやったんだから金寄越せ」
「その前に所場代寄越せ」
 と私とやり合っていたのだが、いかんせん、命を助けてもらったもの事実だから、幾ばくかを渡してやったらあっという間に行ってしまった。
 昨日の今日で元気な奴だ。
「なぁ、美津理」
「なんだい京太郎」
 私は僅かに躊躇った後、美津理に問いかけた。
 問いかけた、というのは少し違う。ただ、話しかけた。
「母親ってのは・・・凄いもんだな」
 美津理は少し驚いたような目で私を見、素っ気なく言った。
「何を今更」
 一呼吸。
「お前さん、あの時のことで解ってたろうに」





−ネタばらし。今回タイトルです。
「”笹が根の”ですね」
−和歌等において、蜘蛛の枕詞なんですね、これが。
「なるほど」
−『我が背子が 来べき宵なり笹が根の 蜘蛛の行ひ今宵著しも』ってのが代表的かな。「・・・」
−何かな?
「わざわざ説明しなきゃいけないこのSSって・・・」
−言うな。
「あと、『あの時』のこともいっとかなきゃ、ですよ」
−えー。あの時、ってのはですね、原作です。『でいがん』『やせおんな』『ますかみ』の回ですね。
「すっかり月一ですね」
−こうなると思ってたよ・・・