第二夜・垂雪(しずりゆき)





 兎に角綺麗な女性だったことだけは憶えている。
「忘れなさい」
 という、その言葉の冷たさ。
 それが子供心に辛くて、私は泣き出してしまった。
 そんな私をその女性は困ったような目で見て、私の頭を撫でてくれた。
 最初はその手の冷たさに驚いたものの、私は何故か安らいだ。
 安らぎの中眠りに付き、気が付いたときは私の部屋だった。
 ただ、冷たい手の感触だけが残っていた。
 しかし──
 その女性が何故私に忘れなさい、と言ったのか。
 その女性はどんな声で、そう言ったのか。
 それが思い出せない。
 それどころか──どんな顔だったかさえ、思い出せないのだ。


「京太郎〜酒がねーぞ〜」
 虎蔵が空いた徳利を振り回している。どうやらいい調子に酔っぱらっているらしいが。
 私は憮然として
「お前ね、自分が居候しているって言う自覚ある?」
 と言ったのだが、当の虎蔵はもう酔っているのか、
「おう、あるぞ。あるから酒頼む」
 と会話がかみ合わない。
 どうやらこれははっきりと言わねばなるまい。
「ええい喧しい、とっとと所場代払わないか!」
「所場代?手持ちはないぞ」
 ・・・何と言うことだろうか。虎蔵め、こうなったら・・・
「ほほう。ならこれでも売ってくるか・・・」
 と私は預かっていた虎蔵の段平をもって古美術屋に向かうことにした。
 これならば少しぐらいの足しにはなるだろう。
「京太郎、ちょっと待ってくれ」
「待って欲しいなら所場代を払え」
 虎蔵の奴め、必死の形相になっている。
 しかし私も生き延びなければならない。
 悪く思うなよ、と呟いて土間に向かった私の耳元を。
 轟。
 と音を立てて黒い雷光が走った。
 虎蔵、相変わらず人間離れしているなぁ・・・
「解った、払う!払うからその刀だけは勘弁してくれ!」
 やれやれ。最初からそう言えばいいのに。
 しかし、虎蔵のことだ。ろくな物を寄越すまい。
 私は半眼で虎蔵を見つめた。
 虎蔵は脂汗を流している。
 私は溜息をつき、履き物を履いた。
「待ってくれ〜」
 虎蔵が私の足にすがりついた。
 しかし、このままだと私も餓死しかねない。
「・・・これで最後だ。さぁ所場代を出せ」
 最後通告を行ったところ、虎蔵は渋々となにやら取り出した。
 小さな巾着に入っている。どうやら何かの珠らしい。
 微かに蒼く、冴え冴えとした光を放っている。
「これは?」
「詳しくは言えないが、値打ちもんだ。氷の精霊が封じてある」
 虎蔵は至って真面目だ。しかし私に必要なのは今を生き抜くためのお金である。
 しかし──それもあながち嘘ではないのではないか?
 今までも十分妙なことはあったし、この冷たさは──何処か異常だ。
「・・・で、それを何処に売れと?」
「美津里のとこ」
 ・・・あっさりと言いやがった。憎らしいことこの上ない。しかし背に腹は代えられまい。
「解った。ただし、値が付かなかったらその段平、本当に売るぞ?」
 と脅して。
 私は美津里の店に行くことにした。
 私はどこか冷たい光を放つその珠(氷の精霊を封じている、と虎蔵は言ったが)を弄びつつ、町中を歩いていたのだが、運が悪いことに石に躓いて──件の珠を、落として仕舞った。
 その一瞬、冷たい風が舞ったような気がしたのだが、私はそれを気のせいと決め、眩燈館に向かうことにした。
「美津里〜居るか〜」
「京太郎・・・珍しいねぇ。何の用だい?」
 ・・・いつもながら年齢のわからん女だ。私は件の珠を出し、美津里に幾らで引き取ってくれるかを聞いたのだが・・・
「京太郎、これは駄目だよ。な〜んも居ない」
 よく見ると珠は光を失っている。どういうことだ?
「京太郎、これ、何処で手に入れた?」
 美津里はしかし興味深そうに聞いてくる。まぁ、隠すこともあるまい。
「虎蔵から所場代替わりに貰った。氷の精霊が封じられている、と言っていたが・・・逃げたのか」
 私の言葉に美津里はやや驚き、心配そうな口調で尋ねてきた。
「京太郎、この珠に何かしたかい?」
「いや、別に・・・ああ、一寸ばかり落とした」
「そうか・・・何かの拍子で封が破れたのかね・・・」
 美津里は妙に納得しているが、私にはよく解らない。
「まぁ、生きてるし何もないとは思うけど・・・気をお付けよ、京太郎」
 私はよく解らないまま、そんな美津里の言葉に送り出され、塒に戻ることにした。
 ・・・・・・仕舞った。珠だけでも売ればよかった。

 家の戸を開けると虎蔵が火鉢を抱えていた。
 ・・・猫のような奴だな。そう思いながら、
「・・・売れなかったぞ。何も居ないって言われた」
 とだけ言った。
「何も、居ない?」
 虎蔵は怪訝な顔をしている。
 途端に虎蔵は真面目な顔になった。
 珍しいこともある物だ。
「お前、何かしたか?」
「いや。ああ、ちょっと落としたが」
「・・・お前、その後何もなかったか?」
 虎蔵は妙に真剣だ。
 美津里と言い、虎蔵と言い、何故そこまで心配するのだ?
 そう思いながらも、私は正直に答えた。
「いや、別に何も・・・ただ、何か冷たい風が舞った様な気がしたくらいだ」
「それだけだな?」
「ああ」
 そんなやり取りをすると、虎蔵はほっとした顔を見せた。
「京太郎・・・お前、運が良かったよ。下手するとその場で死んでたぞ」
 意味が分からない。
 私はそんな顔をしていたのだろう。
 とごちた後、虎蔵は件の珠について説明した。
「あの珠にはな、雪女が封じられていたのさ。かれこれ20年近く封じられてたわけだし、封が解けた瞬間そこにいた奴らに恨みをぶつけるかなと思ったのだが」
 あっけらかんと言いやがる。なんてことだ。
「お前はそんな危ないものを寄越したのか!」
「所場代を寄越せといっただろうが!」
 ああだこうだと言い合い、ふと外を見てみたら。
 そこに、居た。
 あの幼い日に出会ったあの女性によく似た女が。
 私の方を見つめていた。
 そして。
 微かな冷たさと。
 微かな切なさと。
 微かな優しさを秘めて。
 私に、微笑った。


 その女と再会したのは、あれから1週間も過ぎた頃だろうか。
 虎蔵は倫敦に出かけ、美津里も買い付けに行っていたときだった。
 全ての音を吸い込み、雪が降っていた。
 その白い風景の中、女は立っていた。
 ──何かを待ち続けて。
 そして。
 私がその女の前に来たとき。
 女は、倒れた。
「やっと、逢えた・・・」
 微かに聞こえる声で呟きながら。
 私はそのまま放って置くわけにも行かず、家に運んでいった。
 女が目覚めてから、私は色々と聞いた。
 名前。
 住まい。
 何故雪の中立っていたのか。
 しかし女は自分の名前以外何も憶えていないようだった。
 静里。
 それが女の名前だった。
 この寒い季節、外にほっぽりだす訳にもいかず、私は静里を部屋に住まわせることにした。
 静里は甲斐甲斐しく働いてくれた。
 食事。
 掃除。
 洗濯。
 静里は家事を難なくこなし、私の生活環境は見る間に改善されていった。
 そんなある日、『その時』は訪れた。
 いつもの様に診察に出かけ、帰ってきたときのことだ。
 静里は窓から外を眺めていた。
 そして、不意に涙を流した。
 愛しさが、満ちた。
 気付いたら私は──静里を抱きしめていた。
 体温が、低い。
 まるで雪の中何時間も立ちつくしていたかの様に。
 しかし、不快ではなかった。
「京太郎、さん・・・?」
「静里・・・」
 背中に静里の手が回った。
 その夜私は──
 静里を、抱いた。


 あれから幾度肌を重ねただろうか。
 体温が一寸低いな、とは思ったが、それだけだった。
 そう、それはそれだけのことだった。
 すぐ側に静里が居てくれる。
 それだけで、良かったのだから。
 冬の月が冴え冴えと私達を照らしていた。
 こんな時は思い出す。
 あの時の、あの女性のことを。
 静里によく似た、あの冷たくも哀しい女性のことを。 
「そう言えば、な・・・」
 あの日の出来事を寝物語に聞かせようか、とも思ったのだが、やめた。
 あの時の彼女の目を思い出すと、それが出来なかった。
「何ですか、京太郎さん・・・」
「いや。何でもない」
 私は静里の髪を玩びながら、呟いた。
 そう。言ってはいけない。
 絶対に言ってはいけない。
 そんな気がして。
(雪女の物語でもあるまいに・・・)
 苦笑しながらも、語ることは出来ない。
 それは──あの女性を独占したかったからだろう。
 たとえ話す相手が女だからとて。
 独占したかったからなのだろう。

 私と静里の蜜月はずっと続くかのように思えた。
 しかし、終焉は不意に訪れるものだ。
 やはりいつものように回診に出かけ、部屋に戻ってきたとき。
 私は、目を疑った。
 虎蔵が居た。
 段平を構えていた。
 静里が居た。
 鮮血を流していた。
 赤い、血。
 その赤い血に濡れた刃。
 自らの血に染まった静里の白い衣。
 赤い返り血に染まった虎蔵の黒い衣。
 赤と、白。
 赤と、黒。
 風景が回った。
 ぐるぐる、ぐるぐる。
 回った。
 虎蔵は私に気付かず、静里に斬りつけていこうとして居た。
 静里は私に気付き、驚愕と悲しみの色を瞳に滲ませた。
 止めなければ。
 虎蔵を、止めなければ!
 気付けば私は静里を庇い、虎蔵の振るう刃の前に身を躍らせていた。
「虎蔵、何やってる!」
「馬鹿野郎!そらこっちのセリフだ!こいつは・・・雪女だ!あの珠に封じられていた、な!」
 そんな馬鹿な。
 静里が?雪女?
 そんなことがあるはずがない。
 しかし──
 虎蔵が雷撃を放ち。
 静里が氷の壁でそれを防ぐ。
 そして虎蔵は虚空より太刀を取り出し。
 静里の氷雪の剣と打ち合う。
 その光景は現実の物だ。
 認めざるを得まい。
 静里は雪女である、と。
 目を反らせばいい。
 目を反らしていれば、戻れる。
 日常に、戻ることが出来る。
 しかし、それでいいのだろうか。
 目を反らすと言うことは静里の死を容認すると言うことだ。
 虎蔵が静里を殺すことを容認すると言うことだ。
 静里が、死ぬ?
 静里が、殺される?
 ぞわりとした恐怖が走った。
 その恐怖とともに、甦った。
 あの日のことが。
 あの頃のことが。
 静里は追われていた。
 退魔士に。
 そして。
 傷つきながらも静里は退魔士を倒したのだ。
 私の目の前で。
 彼は凍り付き、砕けた。
 後には何も残らなかった。
 さっきまでそこにいたはずの男は凍り、砕け、風に散った。
 そして静里は言ったのだ。
「忘れなさい」
 と。
 今なら解る。
 あれは彼女なりの優しさだったのだ。
 憶えていては、私は恐怖に夜も眠れず、狂っていたやも知れない。
 だから静里は。
 更なる恐怖で、先ほどの光景を忘れさせようとしたのではないだろうか。
 しかし静里は泣き出した私を放って置くには優しすぎたのだ。
 あの、手の優しさ。
 私は憶えている。
 そして私は――静里と会うようになったのだ。
 親に隠れ、食べ物を差し入れたりもした。
 色々な話を聞いたりもした。
 そう、あの頃私は確かに幸せだったのだ。
 しかし、その幸せも続かなかった。
 いつの間にか静里は消えていた。
 その前の日、約束したにも関わらず。
 彼女は、消えた。
 あの頃の私には解らなかったが、今なら解る。
 静里はあの夜、封じられたのだ。
 私との約束を守るために静里はあの社に居た。
 その約束が静里に逃げ出すことを躊躇わせたのだ。
 あるいは、私を無関係で居させるために敢えて封じられたのだ。
 そう。
 私は何も解っていなかったのだ。
 だから。
 あの時。
 私は静里を失い。
 静里との記憶を失った。
 そして今。
 私はまた、静里を失おうとしている。
 失いたくない。
 そう思った。 
 私は自覚した。
 確かに静里は雪女だ。
 人外の存在だ。
 しかし・・・・・・
 たとえそうだとしても。
 私は・・・・・・
 私は・・・・・・!
「それでも・・・俺は・・・」
 私は言葉を紡いだ。
「それでも俺は、静里が・・・好きだ・・・」
 虎蔵の斬撃が止まった。
 静里の放つ氷刃が落ちた。
 そして私は静里を抱きしめた。
「たとえ、人外のものであっても──関係ない」
 虎蔵は呆れたような顔を見せた。
「関係ないって、そんな訳に行くかよ!京太郎、お前死ぬぞ!」
「放っといてやりな」
 今まで何処に行っていたのだろうか。
 そして、何故気付いたのだろうか。
 美津里が、虎蔵を押しとどめた。
「美津里!?」
 怪訝な眼で虎蔵は美津里を見た。
 美津里は少し哀しそうな眼で、私達を見た。
 何に気付いている?
 何故、そんな哀しそうな眼なのだ?
 私は恐怖に捕らわれ、静里を見た。
 静里は、微笑っていた。
「京太郎さん、ありがとうございます・・・でも、もうお別れです」
 お別れ?
 何故だ。
 何故そうなる。
 何かが、足りないのか?
 私は美津里を見た。
 美津里なら静里を救ってくれる。
 そう信じて。
 しかし美津里は首を横に振った。
 静里は私の頬に手をやり、告げた。
 真実を。
「私の命は、本当なら当に尽きていたのです。あの珠が割れたときには、もう・・・」
「どう・・いう・・・事だ?」
「私の力は、封じられている間に尽きてしまったのです。力つきた精霊が解放されたら、消えるだけ・・・」
 静里は目を伏せた。
 信じない。
 信じたくない。
 しかし、静里の声が。
 美津里の態度が。
 それが真実である、と告げていた。
「でも、ここに留まっていられたのは貴方への想い故。それが叶えられた今となっては、私はもう、思い残すことはありません・・・」
 そんな。
 私が言葉にしたからなのか?
 静里は私の心を読んだかの様に、微笑いながら告げた。
「そうではありませんよ。遅かれ早かれ、私は消えていました。あなたのせいじゃないです」
「そうだよ京太郎。あんたは彼女を─静里の想いを受け止めた。だから静里は微笑って逝けるんだよ」
 美津里は、普段にない優しい声音で。
「京太郎、その・・・何だ。しっかり、見送ってやれ。それはお前の──義務だ」
 虎蔵は責任を感じているのだろうか。
 妙に真面目に。
 私に、声をかけてくれた。
 そして。
 静里は。
 また、微笑いながら。
「好きだって言ってくれて、嬉しかったですよ・・・・・・」
 本当に嬉しそうに、言った。
 その言葉と供に。
 消える。
 消えていく。
 雪が日差しに溶けていくように、儚く。
 彼女が──静里が、消えていく。
「静里・・・!」
「さよなら、です。京太郎さん・・・・・・大好き、でしたよ。はじめて逢った、あの時から・・・ずっと・・・」
 その言葉を残し、彼女は消えた。
 その夜、私は──
 あの、優しい雪女を想いながら──
 あの、誰よりも愛しい女を想いながら──
 少しだけ、泣いた。

 あれからどのくらい経っただろうか。
 虎蔵は気を使ってくれているのだろうか、私を一人にしておいてくれた。
 だから早く立ち直れた、と言う気がしないでもない。
 私はようやく静里を思いだしても泣かなくて済む様になっていた。
 想い出として扱うことが出来るようになった。
 心の整理が付いた、と言うことなのだろうか。
 人の想いは移ろうものだ。
 不変であるべき筈はない。
 ただ、変わっても想いは残る。
 私は静里を忘れることは無いだろう。
 たとえ幾年過ぎ去っても、私は忘れない。
 静里という雪女が居たこと。
 愛し合っていたこと。
 そして、儚く消えたことを。
 私は窓から外を見た。
 静里が良くそうやっていた様に。
 雪が積もっていた。
 全てを白く染めていた。
 刹那の、静寂。
 静寂を破り、音が響いた。
 自分の重みに耐えきれず、雪が枝から落ちた音。
「垂雪、か・・・」
 私は診察鞄を手に取り、仕事に出かけた。
「・・・行って来る」
 もはや帰りを待つ人も居ないのに、つい言葉に出す。
 どうやら習慣になってしまっているらしい。
 苦笑を漏らした私に。
「行ってらっしゃい、京太郎さん」
 静里の声が聞こえたような気がした。
 私は眼を閉じ、暫く立ち止まった後──歩き出した。