第一夜・追儺
全てはあの面を壊して仕舞つてからだ。
昔使われていたと云ふ鬼の面。
それを私はふとしたことで壊して仕舞つた。
それからだ。
私が違うものになつていつたのは。
一夜ごとに、私は人ではなくなつて行くのだ。
最初は右足の指からであつた。
夜中になにかの気配で目覚めた私は、私の足のそばに居る『そいつ』に気が付いた。
そいつはにぃ、と笑ふと私の右足の指に食らい付いた。
こり・こり・こりと音がした。
そいつはまたにぃ、と笑つた。
旨いぞ。
そう言つているやうな気がした。
次の夜も奴は現れた。
その次の夜も。
少しずつ、少しずつ奴は大きくなつていく。
私の身が欠けていくのと同じくらいの速さで。
そう、奴は夜毎に私の一部分を喰らつて大きくなつているのだ。
しかしなんたることか。痛くないのだ。
喰らわれていると云ふのに。
生きながら、喰らわれているのに。
痛いどころか、心地よいのだ。
私の骨を囓るこり・こりと云ふ音さへも耳に心地よい。
そいつのにぃ、と云ふ笑いさえ愛おしい。
ああ、私はそいつが来ることを心待ちにしているのだ。
私を喰らうそいつが来るのを!
やがて私は脳みそさへも喰らわれるのだらう。
ああ。しかし私はまだ私であり続けるのだ。
私を形作つて居た部品が全て喰らい尽くされるまで、私でままであるのだ。
そう、右目だけになってもなお考え、音を聞くのだ。
そこまで考えついたとき、私は何とも言い難い恍惚感を憶へた。
ああ、何と甘美なことか!
私は生きながら喰らわれ、人の身を持つたまま人ならざるものに成つていくのだ。
これが魔の仕業であると云ふのならば、私は喜んで冥府魔道に堕ちてみせやう。
そして今日も私は眠りにつくのだ。
やがて違う私となるその日のために。
「どう思うね?」
美津里はにやりと笑って聞いてきた。
そして煙草盆にぽん、と灰を落とし、慣れた手つきで新しい煙草を煙管に詰めていく。
「人を怖がらせるには出来が悪いなあ、としか言いようがないぞ。書き直させたらどうだ?」
思ったままのことを告げると、美津里はにや、と笑って言葉を紡いだ。
「それ、とある病人の手記なんだがね」
・・・何だか嫌ぁな予感がする。大体こういうときは・・・
「この患者を診てみたいものだ、とは思わないかね?」
やはりだ。しかし今度こそは流されまい。
以前の私ならば流されるがままに会っていたかもしれないが・・・
断ろう。
そんな私の胸中を知ってか知らずか、美津里は
「どうだね?」
と言いつつ、紫煙を吐いた。
私もつられるように新しい煙草に火を付ける。そして、
「あまり会いたいとは思わんね。なんだか厄介事になりそうな気がする」
なんとか口にした。そして煙草の煙を這い一杯に吸い込み。
そして吐く。
しかし。美津里は哀しそうに首を振ると、言ってのけた。
「でも、その人に紹介しちまってるんだわ」
「誰を?」
「あんたを」
・・・・・・今更ながら自分の迂闊さに腹が立つ。
半ば予想できたことだろうに。
とはいえ、奇妙な世界に引きずり込まれると解っていても何故か−そう、何故か、だ−来てしまうのは。
やはり好奇心故だろうか。それとも−私が人であるが故にか?
光に惹かれながらも宵闇に惑い、灯りを求めて彷徨い歩く。その人の性故にだろうか。
いずれにせよ、逃げ場はない。私は腹をくくった。
私は溜息をついた後、美津里に問いかけた。
「で、誰だい?その病人ってのは?」
「一刻堂の若旦那。井崎庄一郎」
「うげ」
一刻堂と言えば嫌な噂の絶えない骨董屋ではないか。
曰く、呪いの品物を買いあさっている。
曰く、怪しげな学問にはまり、その手の本を多数所持している。
・・・何だ。眩桃館と大差ないではないか。
後ほど、一刻堂に行くことにしたのは間違いであったと私は後悔することになる。
何故断らなかったのか、と。
しかし、だ。あのような目に遭いながら、私は何故ここに来てしまうのだろうか?
解らない。解らないが、しかし。
また私はここに来るのだろう。宵闇の灯りに惹かれる虫の如くに。
私は一刻堂の若旦那−井崎庄一郎−の脈を取りながら聞いてみた。
「それで、お加減はいかがですか?」
「問題はない。極めて良好だよ」
会ったところでどうなるわけでもあるまいに。
そんな思いがあったのは否めない。
それは小さな事だと言えるだろう。
問題なのは−患者が自分を患者であると認識していないことだ。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
直ぐに会話が途切れる。
私も無口な患者を診たことはある。
しかし、彼はなにかが違う。
決定的ななにかが違うのだ。
沈黙の質が違う、と言えば良いのだろうか?
言葉には出来ないが、なにかが違う。
そう、彼の放つ沈黙に浸食されている様な感覚。
このまま黙っていると私も彼と同じになるのではないか?
そんな漠然とした恐怖に耐えかね、私は聞いてしまった。
そう、聞いてしまったのだ。
「何だか、妙な夢を見ておられるとお聞きしたのですが・・・」
そう切り出した途端、彼は嬉しげな表情に変わった。
何故か−ぞっとした。
何故、喜べるのだ?
その夢はあなたにとっていい夢なのか?
喜々とした表情で夢の話をする庄一郎を診察しながら、私は言いようのない不安にとらわれていた。
「どうだったね?」
「あ?ああ、一刻堂の若旦那か。何のことはない。疲れから来る妄想だろ」
美津里は私を真っ直ぐに見つめ、言葉を紡いだ。
「・・・若旦那の影を見たかい?」
しかし私は真意が解らず、ただ黙っている事しかできない。
「・・・・・・?」
黙っている私に美津里はさらに問いかけた。
「鏡に映ったその姿は?」
「・・・見てないが」
美津里は私の答を聞くと、呆れたように溜息をつきながら煙草に火を付けた。
「なら明日でももう一回行ってみな」
そして、にや、と笑う。
「で、影なり鏡なり・・・見てくるといい」
拒否権は私にはなかった。
もはや私はこの厄介事に首まで浸かっていたのだから。
明くる日。
私は一刻堂を訪れた。
そして庄一郎を診察し・・・何とはなしに彼の影を見た。
妙に、身体が大きい。
頭と比べて、大きすぎる。
我が目を疑い、彼を見る。
普通の、人間だ。
ほっとして、見間違いだろうともう一度影を見る。
・・・・・・やはり身体には不釣り合いな小さな頭−いや、むしろ頭に不釣り合いな大きな体だというべきだろうか−という影が揺れている。
落ち着け。
私は呼吸を整え、側にしつらえてあった鏡を見ようとした。
庄一郎が映って居るであろう、鏡を。
そして私は呼吸を失った。
そこには鬼が居た。
青黒い皮膚。
滲んだ血。
長い爪。
しかし、頭だけはまだ庄一郎なのだ。
他の部分は既に鬼なのに、頭はまだ・・・!
「庄一郎さん・・・」
「何ですか、先生?」
物憂げに庄一郎が問い返す。
私は意を決して聞いた。
「あなたはどれだけ残っているのですか?」
「は?」
「鬼に喰らわれていないところはどれだけあるのですか?」
庄一郎はにっこりと−そう、にっこりと、だ−微笑み、答えた。
「頭だけです」
厭わしい。
ここから逃げ出したい。
しかし−それは赦されないだろう。
それに、手遅れなのだ。
私にはもはや止める術はない。
為す術もないまま、日々は過ぎた。
今日。
今日の夜を以て庄一郎は鬼と化すだろう。
いや、鬼と化すのではない。鬼に取って代わられるのだ。
昨日の時点でもとの部分は両目だけになっていた。
今日は−片目だけだろう。まだ人間のままなのは。
私は鞄を提げ、一刻堂に歩を進めた。
「で?なんでお前らまで来るの?」
私は傍らを歩く美津里と虎蔵を半眼で見ながら問った。
「私は鑑定を頼まれて」
「俺は刀を受け取りに」
あまりにも出来過ぎている。
しかし、心強いのも事実だ。
とりあえず−私だけではない、ということに強い安堵を覚えていた。
一刻堂に付いてみれば、そこは−既に阿鼻叫喚の地獄と化していた。
鬼が居る。
青黒い鬼が、そこに。
右目だけが人間のままの鬼が。
「ふむ、どうやら待ちきれずに自分で目を抉ったようだねぇ」
煙草を吹かしながら、面白そうに美津里が言った。
待ちきれなかった?鬼に取って代わられるのがか?
「で、自分で喰っちまった、と?」
呑気に虎蔵が返す。和んでいる場合ではあるまいに!
鬼はゆっくりとこちらを見るとにぃ、と笑った。
「まぁ、降りかかる火の粉は払わにゃ・・・」
虎蔵が両手を打ち付け、その手を広げた。すると
「なるまいよ!」
紹。
澄んだ音とともに数珠のようなものが現れた。
いつも思うのだが、こいつはどこにこんなものを仕舞っているのだろうか?
数珠は虎蔵の周囲を回り出している。
そして。
虎三は嬉しそうに闘いはじめた。
「我、雷牙雷母の威声を以て五行六甲の兵を成す!」
虎蔵の指先が複雑な動きを紡ぐ。数珠は低い唸りを上げ、更に速く回りだした。
「千邪斬断万精駆逐電威雷動便驚人!・・・起風−発雷!」
どん、と突き出しだ腕から紫電が疾り、鬼を貫く。
GRRRRHHHRRYYYAAAAAAA・・・!
妙に金属的な響き。
哀しげな、それでいて嬉しそうな響き。
「まぁ、こっちに出てこれて嬉しいのは解るが・・・」
さらに虎蔵は刀を何処からか取り出し、鬼に斬りつけていった。
「いつまでもいてもらっても困るんでね!」
まったく、どこに仕舞っているのか?
教えてもらえたらこの診療鞄を一々持って回る手間も無くなるなぁ、などと思いつつ。
私は安堵を覚えていた。
−どうやらこれでこの厄介事も終わりらしい、ということに。
しかし−解せない。
何故、私が巻き込まれなければならなかったのか?
虎蔵が片を付ける事は解っていたはずだ。
なら、私は必要ないのではないか?
いや、ただ単に面白がっているだけか。
美津里ならやりかねんし。
虎蔵が鬼をなます斬りにしているのをほけーっとしている私に。
美津里は。
不意に。
木刀を放った。
「こっから先はお前さんの仕事だよ、京太郎」
木刀?
怪訝な目の私に、美津里は普段と全く変わらない口調で告げた。
「鬼を倒すにゃ桃の木さね。さっさと止め刺しな」
何故私なのだ?
こういった荒事は私の本分ではない。
虎蔵がそのまま止めを刺せば良いではないか!
何故、私でなければならないのか?
「何故私なんだ?こういうのはお前らが専門だろうが!」
虎蔵と美津里を困惑しながら見やる私に、彼らはふ、と笑った後−告げた。
「古来より、鬼を倒すのは人の仕事なの」
「鬼が人から出でたものなら、それを討つのも人であるべきではないかね?」
・・・彼らの言葉の意味。
そして、私が巻き込まれた理由。
深く考えると深みに引きずられそうで、怖ろしくて−耐え難い魅力を感じながらも−耐えて。
私は木刀を振り上げ・・・・・・振り下ろした。
鬼は塵となって消え、残ったものは−
おそらく井崎庄一郎のものであろう、右目だけであった。
「・・・2度とああいうのは御免だぞ」
炬燵に潜って憮然としている私に美津里は
「仕方ないなぁ、ならこれを上げるから」
と言って何かを差し出した。
・・・鬼の面だった。
「使用法教えるの忘れててね。先日回収したのだが」
庄一郎の手記。
鬼の面。
回収。
「・・・最初からお前が絡んでたんかい」
もはや何を言えるでもなく、私は突っ伏した。
「まぁ、済んだことは仕方ないし」
「そーそー。悩むだけ無駄だって」
「虎蔵・・・お前ねぇ」
私は半眼で彼らを見やった。
「でも、何でそんなもの売ったんだ?危ないだろうに」
ふと私は問うた。
純粋な好奇心から。
美津里はにや、と笑い−答えた。
「見てみたかったのさ」
見たかった?何を?
私の目は既に問うていたのだろう。
美津里は答えた。
明日は晴れるだろうか?とかいった、そんな口調で。
軽く、微笑いながら。
あの日、図らずも鬼の血肉を浴び−僅かなりとは言え、口にしてしまった私に。
妙に優しく、告げた。
「人は人を喰らって鬼となる。鬼は人を喰らって鬼であり続ける。鬼を喰らった鬼もしかり」
そして。
「ならば−鬼を喰らった人は・・・何になるんだろうねぇ?」