迷ひの夜 うまずめ
かれこれ3年ほども前のことだろうか。
「京太郎」
そう、声をかけられて振り向いたその場にいたのは、男女の二人連れだった。
「矢張り京太郎だ。間違えて無くて良かったよ」
そう言って笑ったのは向坂省吾――私の古い友人だった。
こいつは無類の山好きで、良く山に登っては怪我していたっけ。
「ああ。――そちらは?」
「妻だ」
その女は向坂に促され、軽く会釈をした。
それは、石のような女だった。
確かに美しいが、表情は乏しく、生命の欠けたような――
そんな、女だった。
向坂と女の間には子供が出来なかった。
向坂の家は旧家であったため、やれ跡取りをどうするだこのままじゃ家が途絶えるだ、と女は影で色々言われていたようだが――
私には関係のないことだった。
それが、つい一週間ほど前に出会ったとき。
見違えた。
女の表情は柔らかくなっており――以前に比べれば、であるが――それと対照的に、向坂の表情は乏しくなっていた。
まるで、同じモノに近づき合っているかの如く。
そして昨日。
私が向坂に呼ばれやって来たのは、とある山中の滝壺だった。
私を見つけるや否や。
「やあ。良く来てくれたな、京太郎」
「ああ、来ていただけたのですね」
違う口から違う声で違う軋みの違う謝辞の言葉が流れ、向坂は女を抱き寄せ、恍惚の表情で話し出した。
――微かに軋んだ声で。
「こいつはな、ここで見つけた――いや。
こいつとは、ここで出会ったんだよ」
にっこりと、笑う。
「お前も知ってる通り、俺は山歩きが趣味でね、ちょくちょく登っていたんだよ。
そんなある日、逢ったんだ。
美しかった。
泰然と、婉然と、毅然と、そこにあった。
俺はその石を連れて帰ったんだ」
何人雇ったかは忘れたがね、と笑い、言葉を続ける。
「俺には解った。
こいつは、このカタチでいることに飽きた、と。
人のカタチになりたがっている、と」
常軌を逸している。その瞳に狂気を宿らせ。
「だから彫ったよ。
全身全霊を賭けて彫った。
全てを忘れて彫った。
恋人を愛おしむように彫った」
しかし、正気としか思えない声音で。
「そしたらな、京太郎。声が聞こえてきたんだ。
そして彫り進むに連れて、大きく、はっきりしてくるんだ。
俺の声に、応えてくれるようになったんだ」
男は、女を抱き寄せた。
「嬉しかったなぁ。
それまでは話をすることは出来なかったから」
手を、伸ばす。
石だった女の顔に。
女はその手を自らの手で包み、笑う。
まるで、人のように。
人のような石は、男を抱きしめ――
人のような、しかし明らかに人ならぬ表情で笑んだ。
「本当に、嬉しかったんだよ」
声に混じる、微かに軋んだ音。
それは石と石を擦り合わせている様な音だ。
そしてその音の出所は――
「向坂、お前……」
石の女の腕の中、自らも石と成りゆく男に私は息を呑んだ。
言葉を失った私に、男は笑う。
苦笑ではない。
嘲笑でもない。
そう、これは――
「関係ないんだよ、結局ね」
「そう。関係ないので御座いますよ」
自らの仕合わせを実感している者の笑みだ。
「人間であろうがなかろうが、それは小さな事なんだよ、京太郎」
私を見据え、投げかけられたその言葉は――
「違うか?」
私の心を穿った。
「……」
答えることは出来ない。
答えられようはずがない、問い。
「ほら、な?
お前も、そうだったんだろ?」
見透かすような、問い。
「惹かれた相手が、人じゃなかった。
ただそれだけのことなんだよ」
そして揶揄する様に、私を見る。
「解ってるんだろ、お前も?
人ならぬものに惹かれ、人ならぬものと共に在ることを願うなら――
人であることなんか捨てなきゃいけない。
でも、人であることを捨てることが出来れば共にいられるって」
分かるだろう。
そう、言外に問い掛ける。
私は肯定しなかった。だが、否定することも出来なかった。
「俺はね、彼女と一緒にいたいんだよ。ただそれだけさ。だから――」
何処か、悟った様な笑顔で――男は、最後の言葉を告げた。
「俺は、俺自身を人間でないものに、彼女と同じものにしてしまうんだ」
「私はこの人を人で無くすと共に、私を石で無くすのですよ」
そして、同じ口から同じ音で同じ軋みの同じ歓喜がこぼれた。
「ああ、なんて幸せ!」
そこにあったのは――
覚悟か。
狂気か。
愛情か。
男は確かに笑っていた。
女を抱きしめ、女に抱かれ、笑っていた。
女も確かに笑っていた。
男に抱かれ、男を抱きしめ、笑っていた。
二人は、とても、幸せそうだった。
仕合わせそうな顔のまま、男は石となり、女は石に戻った。
そして石は水面に落ちて、波紋だけを残して滝の底へと沈んでいった。
それに対して私が感じたのは――
嫌悪か。
共感か。
困惑か。
それとも、羨望だったろうか――?