第四夜 薄紅に映える
「桜の木の下には死体が埋まっている」
そう言いだしたのは誰だろうか。
桜の木々の中、一際美しく鮮やかに咲く桜の根本には死体が埋まっているのだという。
そして一度美しく咲いた桜はまた美しく咲くことを望むが故に死体を求めるのだと。
だから、あまりにも美しく咲いている桜の根本には幾つもの死体が埋まっているのだという。
ならば桜も──鬼と言えるのではないだろうか。
私は夜空を見上げながら昼間見た桜のことを思い出していた。
あまりにも綺麗だった。
そう、異様なほどに。
魂を掴むほどに、美しかった。
「本当に死体でも埋まっているかもしれんなぁ・・・」
あそこまで見事だと、ついそんな考えが浮かぶ。
夜桜見物と洒落込んでみるか。
私はそう心に決め、虎蔵に声を掛けた。
「虎蔵、夜桜でも見にいかないか?」
「夜桜、ねぇ・・・止めとくわ」
やれやれ。誘い甲斐がない。
「なら、俺は行くけど・・・」
「おう、行ってこい」
たまには一人も良いだろう。
私はそう思いながら、酒とつまみを下げて件の桜の元に向かった。
綺麗だった。
昼間よりも、遙かに。
冴え冴えとした月の光に薄紅に映えて。
余りにも妖しく、桜は咲いていた。
「見事なものだな・・・」
私は思わず呟いていた。
しかし・・・これほど見事なのに人が一人も居ないのは何故だろうか。
「綺麗だな・・・」
そう呟いた私に。
『有難う』
女の声が届いた。
私は辺りを見回した。
すると。
そこに、居た。
桜色の肌。
闇よりもなお暗い漆黒の髪。
血のように紅い瞳と、唇。
この世のものならぬ美しさだった。
女は、くすくすと笑いながら。
桜の木と半ば一体化した姿で。
私を、見ていた。
『ねぇ、私・・・殺されたの』
女の唇が開いた。
『殺されて、この木の根本に埋められたの』
昔を、ずっと昔を懐かしむように、言葉を続ける。
『でもね、死にたくない、もっと生きたいって思ってたら・・・こんなになっちゃった』
女はくすり、と笑った。
『こうなったの、別に嫌じゃないんだよ・・・綺麗になれたし。でもね、私はもっと綺麗に咲きたいの。すっと、すっと』
楽しそうに。
『だから、今まで人を食べてきたの。そうすると綺麗に咲けるから』
そこで女は――おや、という表情をした。
いぶかしむ様な目で、私を見ている。
『貴男、面白い血を持ってるね。人でなくて、でも人で。貴男、一体何?』
私は答えることが出来ないまま、女を見つめていた。
『でもねぇ、そんなことはどうだっていいの。貴男の血肉を喰らえば私は・・・』
ぞわり。
背中に悪寒が走った。
しかし、動くことが出来ない。
『私はもっと綺麗になれる』
見れば、私の全身に根が──桜の根が絡み付いていた。
『だから・・・ねぇ、貴男を頂戴』
私は思考を奪われた。
ずるり。
ずるり。
と、私は引きずられていった。
ああ。
私もこの桜の糧となるのだな。
混濁した意識の中、私はそんなことを考えていた。
逃げたい、とか。
そんな考えが浮かんでこない。
あるのは、諦観。
しかし、恐怖は残っているのだ。
確かに残っているのだ・・・
声は出ない。
叫ぶことが出来たなら、少しはこの恐怖も和らいだろうに!
叫ぶことが・・・出来ないのだ・・・
しかし、あくまでも正気を保ち続けているのだ。
恐怖は激しく、しかし狂気に逃げることも出来ない。
そして。
餓、と。
そんな音とともに桜の顎が──開いた。
『これで来年も綺麗に咲ける・・・有難う』
桜の精──いや、木霊か──は微笑いながら。
あまりにも優しく微笑いながら──
私を喰らおうとしていた。
と。
「動くなよ、京太郎」
虎蔵の声が響いた。
そして、右腕を一閃。
すると──呆気ない音。
あまりにも呆気ない音を立てて。
私を捕らえていた木が砕けた。
と同時に私は虎蔵に抱えられ、桜から──木霊から離れたところにいた。
「お前ね、木霊なんかに捕まってんじゃないよ」
呆れたように、虎蔵。
「悪かったよ・・・」
私はそう言いつつ、意識を手放そうとした。
が、気絶することが出来ない。
「気絶、出来ないだろ?」
美津里の声だ。
「どういう・・・事だ?」
私の問いに美津里は優しげに答えた。
「そりゃぁ苦しめながら喰うためさね」
「喰らう相手が藻掻けば藻掻くほど、苦しめば苦しむほど綺麗に咲くことが出来る。だからさ」
私は愕然としながら木霊を見た。
虎蔵から銀の光が迸る度、木霊は力を失っていく様だった。
「さすがにしぶとい・・・ねぇ!」
虎蔵は何処か楽しげに刃を振るっている。
「さて・・・何か言いたいことはあるかい?」
美津里がぽつり、と呟いた。
『私はただ綺麗に咲きたかっただけなのに・・・。それの何処がいけないの?』
木霊は悲痛な声で人外の二人に訴えた。
望みを託して。
「悪かないさ」
優しげな、しかし酷薄な声で、美津里。
「ちっとも悪かないんだよ。でもね・・・」
笑っているようだが──どんな表情をしているのだろうか。
「一応あたしの知り合いなんでね。手を出されるのは気に入らないのさ」
口元は笑っているが──眼は・・・見えない。
ただ冷たい嗤いを浮かべる口元が映えていた。
「これでもあたしは──京太郎のことを気に入ってるんでね」
木霊は──虎蔵に相対したときよりも明らかな恐怖の色を浮かべている。
『解った。この男にはもう手を出さない・・・これでいいでしょ?』
必死の声だ。
この場を何とかしないと殺される、といった風情だ。
「どうするよ、美津里」
虎蔵は木霊を見据えたまま、美津里に尋ねた。
「斬った方がいいなら──斬っちまうけど」
「まぁ、見逃してあげてもいいんじゃない?」
その言葉を聞き、木霊が安堵の表情を浮かべた瞬間。
美津里はにぃ、と──
嗤った。
「ウソだよ」
そして・・・呟く。
「ignis」
轟。
と、炎の柱が上がった。
白く、仄かに紅い炎の柱が。
天を焦がすほどに、高く。
しかし──木霊は燃え尽きることを赦されなかった。
苦悶の表情で、苦しそうな声をあげ続けている。
私はそれを見るともなく見続けていた。
夢とも現実ともつかないままに。
舞い散る火の粉を見つめていた。
木霊の咲かせた炎の桜を、ただ、見つめていた。
あれから暫く後、別の桜の木の下で。
私と虎蔵、美津里は酒を飲みながら散りゆく桜を見ていた。
「虎蔵・・・何で俺が危ないって解ったんだ?」
ふとした疑問を私は口にした。
虎蔵はびっくりした様な顔になった。
気付いていないのか、と言う様な。
美津里は美津里でやれやれ、と言った顔だ。
「あんた、見えていないんだねぇ・・・」
呆れた様な声だ。
「何が見えていないって?」
よく解らない。
そんな私に美津里は呟いた。
「vide ante」
すると。
見えた。
私の、前で。
微笑んでいる。
その、姿が。
静里の、姿が──
涙がこぼれた。
そんな私を静里は優しく抱きしめて──
だから私は・・・
余計に、泣けた。
「静里・・・」
私の声に。
静里は応えて。
あの頃のように。
優しく、微笑った。