(シジューカラがまた私をさがしている)

 

佃  学

シジューカラがまた私をさがしている
私は救急箱の艾
(もぐさ)をさがしている
とくに見えない巣のなかの見えない血溜り(!)
波紋がつきるところで
(えら)呼吸をはじめる太陽の心臓がある
太陽も私をさがしているはずだ
私は歪
(いび)つな習性のなかにいる
壊れやすい季節の被造物の一員として
サザンカ梅雨の袋小路の奥にいる
人生が少しずつ狂っていって
水道管がまた破裂するのが見える
不機嫌なハレモノにさわる
偏執
(へんしつ)的な事件簿に近い地図がある
そこまで寒暖計のように冬の血圧がさまよっている
その尖端
(せんたん)でおいでおいでをするススキが数本
やっぱり亡父のように暮れ残っている
暮れ残ったまま私をさがしている
透きとおる果物皿
燃えはじめるサフラン
古い写真のなかにも
不敵な歳月の笑いがただよっている
だから私もいまはシジューカラのように
乾燥したヒマワリの種が好きだ
血清反応に頬を染めて

  
 
 
     
 
 
 

(シジューカラがまだ私をさがしている)

 

佃  学

シジュウカラがまだ私をさがしている
わたしはまだ救急箱をひっくりかえしている
見つからないものは結局見つからない
偸安
(とうあん)の血溜りにも
(えら)呼吸する太陽の影があり
貧しい眼線にまつわりついてくる
ヒヨドリもムクドリも
キジバトもスズメの巡礼親娘も
みんな名も知れぬ私の縁者
終末的風景を共にしようというわけだ
花ぐもりの闇が破れて
不意に春のパントマイムの大雪になった
突然の風物詩である
レンズを通して私は確認する
樹木も有刺鉄線も
放置された自転車も
無垢な天使の姿勢を回復する
ひとしきり息を止めて
何かをしきりに思いだそうとしているふうだ
もう何も思いだすことはないのだが
二十世紀の表層心理の
黙示録的な記述である
そのための時代の通路
ウオノメもナフタリンも
見つからない艾
(もぐさ)だって
火照
(ほて)る季節の熱気のなか
結局は菜種梅雨
(なたねづゆ)の仲間入りだ

  (草餅よ
  雲井の雲よ)

雪解けのけものみちさながら
袋小路のぬかるみが
まだクレヨンのように匂っている

  
 
 
佃学(1938〜1994)詩集 『艾』(もぐさ)より
 発行日:1992年6月25日 発行所:邯鄲舎工房 定価:2000円

詩集『』は、『詩研究』元同人、渡辺(旧 中西)光子さんから、2003年6月にいただきました


*サイト管理人より
 ルビは詩集にはありませんが、私の独断で(るび)しました。
 (シジューカラがまた私をさがしている)は詩集の最初に、(シジューカラがまだ私をさがしている)は最後に掲載されています。
 「シジューカラ」と「シジュウカラ」、「私」と「わたし」の使い分けは、詩集のとおりにしました。(個人的には、特に意味はないと思います)
 発行所の『邯鄲舎工房』は、佃学さんが主催していた詩の同人誌『邯鄲』からきています。
 邯鄲(かんたん)は、「短い夢」というような意味です。 中国の故事に、「邯鄲の夢」というのがありますよ。