さや まりほ
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君をこのまま おいていかなきゃいけない 君はただ一度、本をぱらぱらっと めくっただけだったね 君は12の時に お父さんが死んだんだったね そうだ そりゃあそうだ |
じっこくさんが、これをお読みになったら、「あの戦争はそんな甘いもんじゃなかった」 とおっしゃるかもしれません。
じっこくさんの生前、ヤボ用で電話したら、そのままえんえんと戦争の話を聞かされたことが二回あります。残念ながら肝心の戦争のことは、ほとんど覚えていません。直接関係ない話は少し覚えています。たとえば 『ビルマの竪琴』 のことでグチ (もしかしたらメッセージ) をおっしゃっていたこと。
「あれは困るなあ」 と、「困る、困る」 を繰り返していらっしゃいました。ビルマのお坊さんは戒律で歌舞音曲は禁じられている。竪琴なんか絶対やらないんだ。映画のヒットのおかげで、日本に間違ったビルマ像が伝わった、と。
「困る」 のニュアンスは …… たぶん、事実とは違うけれども芸術作品としては認めていらっしゃったのだと思います。
* 実は、戦場に詩集を持って行く、という話を聞いたことがあります。どの国のどの戦争のことかは知りませんが。
これを書いた後で気がつきました。「殺されに行く」のなら分かりますが、「殺しに行く」のなら、詩集はおかしい気がします。
じっこくさんは戦争を美化しゃいけない、とおっしゃっていたそうです。私はうかがった記憶がないのですが。(忘れたのかも)
戦争を安直に作品化することは、パンドラの箱の「希望」の部分だけをクローズアップすることかもしれません。
* さて、私はささやかにホームページを開設しました。中に「じっこく おさむコーナー」も作りました。
時代がやっと「じっこく おさむ」に追いついたような気がします。もしかしたら、知らない間に追い越されているかもしれません。これはネット初心者の実感です。
もっとも、皆が同じコースを行くわけでもないので、追いつくも追い越すもないとは思いますが。
佐々木 誠
「現代詩」という短詩系文学の衰退が叫ばれつづけて二、三十年にもなる。いや、それ以上になるのかもしれないが。けれどもインターネットでは未曾有の「詩」の「発信」ブームではないだろうか。メールマガジンやホームページでは隆盛をとどまるところをしらない。投稿サイトなど読むにも、ひと苦労である。
著名な「詩人」のサイトも増えてきたし、商業詩誌で一度は拝見のしたことのある名前の詩人が掲示板などで意見交換さえしていて身近に感じられる。「詩のポータルサイト (入り口・玄関)」 を製作するという動きもある。とてもいいことだ。
けれども一つ注意しておかなければならないことがある。ネット「詩壇」 なるものが台頭しないか、ということだ。「ネット詩壇」 という言葉を使っている人をボクは二人知っている。
商業詩誌 『詩と思想』 『現代詩手帖』 『詩学』 では 「詩壇」 という語は使っていない。はたして 「ネット詩壇」 を形作っているのはネットで発表している人たちなのか。どうにも安易なネーミングで、しかも、権威を欲しているようで幻滅さえする。良い詩の仲間がいることはたいへん素晴らしいことではあるが、集まりすぎるとよからぬことをしでかす輩もいることだろう。
しかしネットでは、個人でやりたいようにやっていることのほうが多いが。こういうことを言うのは僻地に住むボクのヒガミなのだ。けれども、決して 「東京」 に向かって書いているのではない。が、「地方」 で書いていることでもないのだということを肝に銘じていかなくてはならないのだ。
ある詩人に「「詩壇」を喰いものにしようとする連中に気をつけなければならない」と言われたことがあるが、いまいちど、詩人にとっての 「詩壇」、「詩壇」 から離れた 「詩壇」 について深く考えなければならないものと思う。
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ネットで発表されつづけている 「詩」 についてはどうだろうか。『詩と思想』 2000年7月号では特集が組まれている。そのなかで沢田英輔氏の言葉を引いてみよう。
(略) もっとも、現代詩に対してどのように接するかは、最終的にはネットの一人一人が決める問題だ。こと現代詩に限らず、詩に対してどのようなスタンスをとるかも、ネットでは完全に個々に任されている。上達を目指して勉強する人、投稿などを通じて詩誌の世界に足を踏み入れる人も当然いるが、その一方で日記のように詩を書く人、詩をコミュニケーションの道具にする人、ちょっと書いてみただけの人、様々な人が、各自の興味と時間的余裕に従って、詩との付き合い方を選択している。
そしてこの「詩との付き合い方の多様性」こそがネットの最大の特長だと僕は思う。ここでは、気張る必要も、足音高く歩く必要もない。自分のペースで、自分の好きなだけ詩を書き、読めばいい。(略)
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沢田氏の言説にはただ、感動するばかりである。今ある 「ネットの詩」 について簡潔に述べているので、ボクが述べるまでも無い。どのように関わっていくかは個人の問題ではあるが、それに伴う 「信頼」 と 「責任」 を形作っていかなければならない。サイト運営とはそういうものだと思っている。これは 「詩誌」 にも言えることだろう。『列島』 『荒地』 についての論調の再燃にもあるように、「現代詩」 を駄目にしたのは誰か(ほんとうに駄目なのか?)、どのグループなのかという犯人探しなど必要ない。良いものを書けばよいのではないか。自分の詩の 「オリジナリティー」 を探していけば 「読まれていく」 ことにはなりはしないだろうか。
詩書きは 「表現者」 としての努力を日々積み重ねていく。詩業績・詩言語の到達に甘んじることなく生き(書き)抜いていきたいものである。しかし、詩を離れて生きる人こそほんとうの 「詩人」 なのかもしれない。本質を書くことなしに、だらだらと書き散らかして 「売れたい」 「読まれたい」 等と言っている場合ではない。
言葉と「対峙」するということは、「言葉を見つめて言葉に敏感になる」 そういうことではないだろうか。それが 「横書き」 であれ 「縦書き」 であれ、いかに伝えるか、伝わるか、なのではないだろうか。
*
ネットによって未知の詩人に出会える可能性はたくさんある。たとえば本誌 『しけんきゅう』 における、じっこく おさむ さんだ。ある詩人の詩誌や詩集の紹介しているサイトで、誰でも書き込めて読める 「掲示板」 で、「 『しけんきゅう』 読みたいなぁ」 とボクが書き込んだら、さや まりほ さんが 「送りましょう」 と書き込んでいただいたのが始まり。ネットでなければボクは死んでも触れられなかった詩世界である。残念ながらボクが知りえたのは亡くなったあとである。
ミャンマーでのこと、復員してきてからの、じっこく さんがやろうとしたこと、または現実問題として取り上げたかったことなど、深いものがあると思う。台湾での日本語教育や韓国や中国も。数え上げればキリがないが、それら、ひとつひとつがボクに添えられた命題として受け止め考えていきたいことだと思う。
こういう、ネットでのちょっとした 「いいこと」 がとても嬉しいのだ。「横書きの詩なんて……」 という大詩人もいるが、ネットではほとんど横書きである。どうしてかというと、ご存知のとおりインターネットはアメリカで開発されたものだからだ。じっこくさんがご存命であれば80歳でワープロを始めたというのだからきっと、インターネットも始めたことだろうと思うと、とても愉快な気持ちになるのはボクだけであろうか。
ネットでの 「詩」 の可能性は、ボクの中でどんどん膨らんでいっているようだ。「現代詩」 がどのように変わっていくのかわからないが、詩誌もネットも続けていきたいと思っている。
(Re:インターネットと詩に関わって)
さや まりほ
コンピュータが神に近づいたら気持悪いが、佐々木さんのサイトは紙に近い。縦書きで詩を掲載している。
出会ってすぐ、「なぜ、わざわざサイトで縦書きにするのでしょうか。技術があるのでしょうか。ポリシーがあるのでしょうか」 とメールした。「おっしゃることの意味がようわからんのですが」 と、むっとした語調で、自分にとって詩は縦書きが自然である、というようなことを書いてきた。
即、和解できたものの、『縦書きHTML』 という700円也の縦横変換ソフトを使っていることを教えてくれたのは、三か月も後のこと。それも、私がネット上でお世話になっている大学生 (さえささん 後述) が、佐々木さんのサイトを見て、私に問い合わせてくれたからだ。
* さて、ネット用語で「キリ番を踏む」というのがある。例の 「あなたは×××番目(のべ)のお客様です」 の、×××がキリのいい番号だった場合、こう言う。
佐々木さんが 「キリ番を踏んだ人は、未発表の詩を提出すること。ボクが気に入ったら、サイトのトップページに掲載」 という鬼のような企画を始めた。何と私が二番目の栄誉、というより被害者になってしまった。首を時計回りに90度&時計と反対回りに270度回して縦用の詩を作り、ペンネームをでっちあげてメールで送った。
すぐに返事が来た。「縦書きになりますが、よろしいですか?」
* 佐々木さんは以前、詩のメールマガジンを発行していたそうだが、私も、そういう方からメールをいただいた。
「突然ですが、拙のショートショートのメールマガジンに、あなたの散文詩を使わせてください。できれば作品はこちらで選ばせてください」。
散文詩は、じっこくさんが 「今度のあなたの詩は面白かったなあ」 と誉めてくださっていたものだ。でも、これに参加するとネットでハクが付くと思ってOKした。
* では、メールの主、さえささんのネットならではの視覚的な詩を紹介したい。絵や写真とセットになっている、という意味ではない。もっとも、タイトルの 「よくあるパターン」 と副題の 「ソナタ形式」 は、絵の中に収まっている。
画面を上下に動かすと、「ざわざわ」 という文字が、観客のざわめきのように波打って見える。何度も画面を縦にスクロールさせているうち、ざわめきの中に悪魔のささやきが聞こえてきた。
* 悪魔のささやきに負けて、メールをした。これをアレンジして私のサイトの 〈創作ノート〉 のコーナーに掲載したい。草が風にゆれる感じを作ってみたい。作者のところを、モトネタ : さえさ / ちょっと拝借 : SAYA という感じにして。
快諾してくれた。そして、「せっかくアレンジされるのなら、誰も気づかない(笑) 趣旨を理解されるのも悪くないと思います」 と、作品の説明をしてくれた。
* モチーフは聴衆のざわめきを音楽とした先鋭的な音楽家。ピアノの前に座ってあれこれするが、最後まで鍵盤を鳴らさない。
「ソナタ形式」 は、古典派の常套手段。最初と最後は非常に速く、中ゆっくりの三部形式であり、指揮棒の動きがその最初と最後に対応し、中ゆっくりが聴衆の反応に対応している。
そういう要素をいかに視覚化するかが、この詩の目指すところ。先鋭的な音楽と古典的なソナタ形式のふたつをミックスさせたところが 「よくあるパターン」 という少し皮肉めいた題名の由来。
* 「こんなに説明すると、詩自体がつまらなくなりますね。」
自分の作品をむやみに説明しない、というヤセガマン的美学は、紙の創作人と同じ。例の悪魔は、出端をくじかれてしまったようだ。日本史を学ぶさえささんは、横スクロールの絵巻物の世界も大好きだそうだ。私のカルチャーショックは、紙ではうまく伝わらないだろう。でも、時代物の絵巻物を手に取ってスクロールして見ることは、さらにさらに難しいだろう。
指揮棒をあげる 上左右上下 ざわざわ ざわざわざわ ざわざわざわ ざわざわざわざわざわ ざわざわああざわざわ ざわざわざわざわざわ ざわざわざわざわざわ 指揮棒をさげる 礼 |
(サイト『創作広場』より)
(『しけんきゅう』135号 2000年12月1日発行)
URL:http://www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/3837/
ちょっといい話 12月11日、じっこくさん(十国さん)と親交の深かった某詩人からお葉書で、「花束の代わりに」 のコメントをいただきました。実は、私の最も尊敬している詩人です。
自慢話になるので迷いましたが、温か味のあるいい文章ですので、いただいたお葉書を紹介します。近年、目が弱っていらっしゃるので活字を読むのは大変です。そんな中、初めていただいた作品評です。なお、代筆です。
「しけんきゅう」135を有難く拝受しました
例の難視なのでルーペで あなたの詩をソロソロと読みました 落ち着いた話かけるような文体で書かれているので 親愛感と現実味を増したよい詩です
「ビルマの竪琴」で十国さんの「困る」のは 事実と違うのに芸術作品としては認めているからだという あなたの考えのとおりだと思います これはちょっと面白かったです
追記:2004年9月
上記のお便りを下さったのは、衣更着信(きさらぎ しん)さんです。 2004年9月18日ご逝去。 また、衣更着さんは、佐々木誠さんの「インターネットと詩に関わって」に出てくる 『荒地』 の同人としても有名でした。 『荒地』は、現代詩を難しくした犯人(?)と言われています。