ロレンスの「蛇」

思想と詩
  

倉持三郎

 
 
 「蛇」は、イギリスの詩人D.H.ロレンス(1885−1930)の代表作である。舞台はシチリア島で、詩人の体験に基づいている。
 
 蛇は、ふつうの人にとって気味が悪い生物である。旧約聖書によれば、アダムとイヴが楽園にいた時代に、イヴを誘惑して善悪を知る木の実を食わせたと言う。イヴにすすめられてアダムも実をたべた。そして目が見えるようになったが、神の命令にそむいたことで楽園を追われた。蛇は人間を誘惑した罪によって、そのときから、地上を這うことしかできない罰をうけた。
 
 状況によっては人間を襲うことはあろうが、生物のもつ個体維持、種族保存という本能によってであって、本来的に悪だからということではない。蛇が悪だとするのは人間中心の見方による。人間は蛇を捕らえる。それは人間が、かならずしも生命の危険を防ぐためにそうするわけではない。ある種の蛇を薬用にする。蛇が悪というのならば、蛇から見れば、人間が悪になる。つまり、われわれは、人間が地球上の中心だと考えているから蛇を悪ときめつける。人間は他の生物をどんなに利用してもよいがその反対は認めない。こういう人間中心の頑迷な固定観念から離れて事物を見ることができるのが詩人であり、ロレンスもそういう詩人のひとりであった。
 
 「蛇」では、「私」がある朝、水を汲みに水汲み場に行く。するとそこには先客がいた。一匹の蛇だった。金色の蛇である。シチリアでは黒い蛇は無害だが金色の蛇は毒蛇とされている。蛇は水汲み場にきて、蛇口からこぼれてたまった水を飲んでいた。ゆっくりと悠然として水を飲んでいる。人間が現れてもあわてて逃げることはない。王者のような落ち着いた態度である。その様子をロレンスは次のように描写する。

 
 彼は水から頭を持ちあげた。牛がするように。
 私をぼんやりと見た。 水を飲む牛がそうするように。
 唇からふたまたの舌をちらつかせ、一瞬、瞑想した。
 そして、また頭を下げてさらに水を飲んだ。

 
 蛇が水を飲む様子を水を飲む牛にたとえている。 「牛」と「蛇」とふつうなら結びつかないものを結びつけることで成功している。「ふたまたの舌をちらつかせ」は蛇独特の姿で、そして「一瞬、瞑想した」と描く。いかにも水を飲む蛇の姿が如実にあらわれている。「私」のほうが順番が来るまで待つことになった。
 
 毒蛇といわれる金色の蛇を見たときの「私」の反応は殺さなければならないということであった。

 
 私の教育の声は言った。
 殺さなければならない。
 というのはシチリアでは、真っ黒な蛇は無害だが、金色は毒蛇だからだ。

 
 他方では、「私」は蛇に感動する。ひとつの生き物として、それなりの威厳をもっているからである。
 
 私は嬉しかった。
 彼が客のように静かに来て、私の水桶で飲んで平和に、満ち足りて、感謝せずもどっていくのを。
 大地の燃える腹のなかに。

 
 「教育の声」は社会的自我ともいえるもので、現実社会によってつくられた自分である。社会が要請する観念、道徳にしばられている自分である。しかし蛇を見た瞬間、「私」はそういう束縛から自 由になった。毒蛇が自分の仲間に見えた。こういう風に見るのは 「詩人的自我」とよべるものであろう。詩人は、社会の観念にとらわれずに見ることを期待されている。ここでは「私」はそれができたのである。こういう自由な想像力がこの作品をユニークなものにしている。
 
 しかし、蛇を賛仰するだけではない。「私」のなかで、ふたつの自我が戦っている。蛇は水を飲み終えて、悠然と水汲み場を離れて行く。そして、近くの穴に入りかけた。 そのときになって、「私」は蛇を殺さなければならないとあらためて思った。近くにあった棒を拾い上げて、穴に入りかけた蛇に向かって投げつけた。
 
 棒を投げつけられた蛇は急いであわてて穴に逃げ込む。ここで読者は現実に返る。これまでは蛇は王者であり、悠然としていて人間など無視していた。人間の方が矮小に見えた。この流れからすると棒を投げつけられてもあわてないで蛇は悠然と穴に入って行ったと書きたいところだが、そうは書いてない。

 
 しかし突然、残った部分は威厳を失い、あわてふためいて痙攣し、
 稲妻のように身もだえして、消えた。

 
 これは王者らしくない振るまいである。前半で述べられていた蛇の姿とは異なる。しかしこういうあわてて穴に逃げ込む蛇はリアルである。前半の「蛇」と矛盾しているが、これは矛盾というのではなくて、 生き物のもつ変化の様といった方がよいだろう。
 
 そのあと、「私」は棒を投げたという行為を恥じた。それは、社会の道徳しか頭にない人間の行為であった。

 
 すぐに私は後悔した。
 なんとけちで、下賎で、卑劣な行為だと思った。
 軽蔑した。私自身を、そしていまいましい人間の教育の声を。
 私はアホウドリを思った。
 私の蛇が戻ってきてくれるのを願った。

 
 コールリッジの詩「老水夫行」では水夫が、帆柱にとまった罪もないアホウドリを矢を射て殺したため、呪いをうけた。「私」は 「蛇」に棒切れを投げつけたため、呪いを受けるかもしれぬ。
 
 蛇に棒を投げつける行為とは何であろうか。蛇が自分に向かってきた場合は戦うのは当然であるが、この場合は違う。ただ水を飲んだだけである。自分に害をなそうとしたわけではない。しかも穴のなかに入ろうとしたときに棒を投げつけた。卑怯だ。投げつけたのは「社会的自我」とでも呼ぶべき矮小な自我である。社会が悪としているものをそのまま信じ、それにしたがって行動するのは矮小な自我である。あくまでも人間中心で、利用するときだけ他の生物を利用し、その存在自体は認めようとしないのである。
 
 最後に読者の心に残るのは、人間中心主義を批判する詩人の声である。しかし、この作品が思想のみを述べているかと言えば違うだろう。ここには「詩人的自我」と「社会的自我」の葛藤がある。それによって作品が、劇的に構成されている。 思想も重要だが、これをすぐれた詩にしているのは、対立するふたつの自我の表現である。
 

(『しけんきゅう』139号 2002年12月1日発行)


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