シェイクスピアの劇中歌

倉持三郎

 
 
 シェイクスピアは『ハムレット』などの劇を書いた劇作家であるが、その劇は詩劇とよばれるもので、詩の形で書いた劇である。 その劇の中に出てくる歌がよい。詩人としての才能が豊かに発揮されている。 今回は、この劇中歌の歌詞3編を取り上げたい。
 
 五尋の水底に父はよこたわる
 骨は珊瑚に変わり
 目は真珠になった
 消えうせたものは何もなく
 すべて海の変化を受けて
 豊かで見慣れぬものにかわった
     (以下4行省略)
 
 これは劇『嵐』のなかの歌である。 エアリアルという名の空気の精がうたう。 船が難破沈没したので、「父」が水底に死んで横たわっているという状況である。 ここで注目したいのは「海の変化」である。 「海の変化」というのは、海中ではすべてのものが、海水の影響を受けて変化するということである。 「骨は珊瑚に変わり」、「目は真珠になる」のである。
 もちろん実際にはそんなことはなくて、詩的な幻想であるが、美しい。 これが、この歌の中心になる。 この2行がなければこの詩は平凡になるであろう。 現実には水死体であり、美しい連想はないのであるが、ここではそれが美的なイメージに変わっている。 これがこの歌を美しくしているものである。
 
 これだけでもこの歌は美しいのであるが、さらに考えるとこの「海の変化」には象徴的な意味もある。 海の変化を受けて「豊かで見慣れぬものにかわる」ということは詩作についても言える。
 その場合は「海の変化」とは詩人の詩的想像ということであり、平凡なもの、あるいはたとえ醜いものであっても、詩人の想像を通して変化して美しいものに変わるということである。
 詩人とは、「海」が変化させるように、事物を変化させる存在なのだと思う。 別に根拠があるわけではないのだが、これはシェイクスピアの詩人観でもあったのではないか。
 
 シェイクスピアは作品のなかで、ときおり自分の本心を示す。 たとえば『ハムレット』のなかで、ハムレットが旅 回りの役者たちに向かって「演劇とは自然に向かって鏡をかかげる」ようなものだという。 つまり演劇とは自然を写すものだということであるが、これはシェイクスピアの演劇観であるとされている。 それから類推すると、この行などもシェイクスピアが、詩作とはこういうものだと歌に託して伝えているととれる。
 次の歌もエアリアルがうたう。
 

 ミツバチが蜜を吸うところで私も吸う。
 キバナノクリンザクラの鐘のなかに私はよこたわる。
 そこで私は寝る、フクロウがなくとき。
 コウモリの背中に乗って私は夏を追っていく、楽しく。
 楽しく、楽しく、私は今を生きる
 枝にさがる花の下で。
 

 実はこの歌をうたっているのは、空気の精だから草花の花のなかによこたわることができ、また、コウモリの背中に乗ることができるのである。 そう説明すれば、何でもないことなのだが、うたっているのは人間ととれないだろうか。 空気の精ではなくて人間なのだとシェイクスピアは言っているのではないだろうか。 しかし、人間だとするとおかしなことになる。 人間はフクロウの背中には乗ることもできないし、去っていく夏を追うこともできないからである。
 
 しかし前の歌と同じように、うたっている「私」は詩人ではないのかと考えたい。 それがシェイクスピアが考えていたことではないかと思う。 シェイクスピアは詩人というのは、草花の上にもよこたわることができ、またコウモリの背中にも乗って飛ぶことができるのだと言っているのだと思う。
 
 ではどうやったら乗ることができるのだろうか。 人間には重さがあるから乗ることは当然できない。 だからここでシェイクスピアが言っているのは、人間であっても重さのない人間である。 また大きさのない人間である。 現実にはそれは不可能であるが詩人はできるということだ。 シェイクスピアは人間が詩人になるためには重さと大きさを捨てよといっている。
 
 重さと大きさとは何か。 「重きをなす」という場合の「重」である。 「大」は、自分を「大きくみせる」という場合の「大」である。 社会的に重きをなしたり、大きく見せたいというのは、人間としては当然であるが、こういう「重」や「大」にとらわれていると、コウモリの背中には乗れないということであろう。 もちろん「重」で「大」な人は、コウモリの背中に乗らなくても、車や飛行機に乗れればよいのであるが、詩人であって、コウモリの背中に乗り、夏を追いかけようとするのなら「重」、「大」では駄目だといっていると思う。
 
 次は『ハムレット』の中でオフェリアがうたう歌である。 ハムレットに捨てられ、その上ハムレットに父を殺されたオフェリアは狂ってしまう。 狂気をどう表現するか。その表現としてシェイクスピアは歌を使っている。 舞台に現れた狂ったオフェリアは次のようにうたう。
 
 
 あしたはヴァレンタインの日
 朝早く起きて
 乙女の私もあなたの窓辺に行って
 愛を告白しようとおもった
 
 すると彼は衣服を着て
 部屋のドアを開けた
 乙女をなかにいれた
 出てきたときは乙女ではなかった
     (第3連省略)
 
 娘は言った「私を転がす前に
 結婚すると約束したんじゃないの」
 彼は言った「そうしようと思ったのだ。
 あんたがベッドに来なかったなら」
 

 2月14日のヴァンタインは元来、鳥が番う日とされていることから、若い男女が求婚するという習慣ができた。 これはそれをもとにしたバラッド(一種の民謡)で、シェイクスピアがすこし手を入れているようだ。 こういう歌は酔っ払って男たちがおもしろがって歌っているかぎり何でもないのだが、しかし清純だと思われていたオフェリアがみなの前でうたうことで、彼女の異常さが印象づけられる。 こんな歌をオフェリアに歌わせたところにシェイクスピアの工夫がある。
 
 
※注 シェイクスピアの劇中歌を扱っている本に次のものがある。
     柴田稔彦編 『対訳 シェイクスピア詩集』 (岩波文庫) 
 

(『しけんきゅう』144号 2005年6月1日発行)


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