ある少年のことば
じっこく おさむ
昭和17年の元旦にタイ国の辺境の町を出発して重機関銃中隊の一兵卒として,ビルマに進攻したぼくは,戡定作戦をおえて,その10月,ラングーンの日本語学校に一教師として,軍服のまま勤務することになった。
数ヶ月たったある日,ジュエダゴンの塔のお祭りをみてから,ひとりで坂道をもどってくる途中,<─ センセイ > と日本語で名をよばれた。
ふりかえるとモン・テットン少年が大きい目でぼくをみている。ワークマン組で一ばんよくできるまじめな子だ。
<センセイ,universal language ヲニッポン語デナントイイマスカ?>
<共通語だよ>少年は一寸だまってから,思いきったように,<センセイ,ボクハ日本語ハアジアノ共通語ニハナラナイト思イマス。カンジガトテモムツカシイデスカラ> と訴えるような,抗議するような口調でいう。
<ウム……ソンナニムツカシイカネ?>
<ハイ,キョウオボエマス,アスワスレマス。アスオボエマス。アサッテワスレマス。>
と ── どう答えたか忘れてしまったが,少年が青っぽいロンジイ(サロン)を大またにさばいて,イギリス流に黒いコウモリで烈日をふせぎながら坂をおりていった姿をあざやかにおぼえている。はじめクラスで目立たぬ子だったが,テストの答案はつねに完全で群をぬいていた。ビルマ人では最もえらい建築家の子で,16才なのにラングーン大学の一年生だったということだ。ハイスクールを二年とびこして入学した(本人はそのことを後悔していたが)秀才だとのこと。
大きな目がよく光ったが,顔はかわいい少年,立ちあがるとびっくりするほど背が高かった。作文をかかせると,日本の中学二年生くらいの,漢字まじり文を書いた。
日本語をアジアの共通語にしたいなどとぼくは考えたこともなかった。しかし,ビルマ人の日本語学習熱は高く,軍の方でも各地で日本語学校をひらき,教科書を印刷してひどく熱心だった。
(その成果は <せくぱん> という 800 ページの本になっている)だから,生徒の方ではそう受けとって勉強していたのだろうとはすぐ察しがつく。
その少年の真剣なコトバが,いままでぼくの中でくすぶっていたギモンに火をつけてしまった。それから幾晩も,ぼくは眠ることができなかった。病気になりそうだったが,考えはきまらなかった。そして,カンジを輸入したことは日本人にとって千年の不幸だった! と嘆息するばかりだった。
10名ばかりの先生がいたが,専門家らしい人は一人もいないので,結局ぼくが,英語を仲介にして教える方法から,ビルマ語を仲介にする方法へ,さらにビルマ語をしらぬインド人,シナ人の子弟が増加してきて(1500人あまり生徒はいた),日本語だけによる直接教授法への転換をおしすすめ,テキストを自分で作成しなければならぬ羽目になっていた。心中ではビルマの日本語教育の方法をさぐる全責任が一兵卒のおれにかかっているのだと,ひそかに思いこんでいたのだった。
いちど,漢字やカナづかいを易しくするかどうかが,公式に問題になったことがあった。そのときビルマ人の高等試験委員長という白髪の人が,全部日本の現状のまま教えてくれ,われわれは日本語の本をよんで勉強をしなければならぬのだという正論をはいた。一言もなかった。責任は重かった。
ビルマ語と日本語はふしぎなほど語順が似ていた(語イは全く別,それに単綴語だったから血族関係はない。)ので,会話はたちまち上達した。それがビルマ人の日本語熱の一因でもあったろう。
だが,カン字を教えはじめるとたちまちカベにつきあたった。<私> という字を教えると <アナタ> はどう漢字でかくか,という。<日本> を教えると,<ビルマ> はどうかくか,という。あんまり真剣なので,つい <緬甸> とおしえると,不器用な手でその漢字をノート半分くらいも使ってかき,<ビルマ> と書こうとはしない。
<カンジは忘れやすい> というのは,いかにも明敏なモン・テットンらしく正確だった。おぼえにくいのではない,おぼえやすく忘れやすいのだ。子供たちはどうにか好奇心でついてきたが,成人の生徒はそっぽをむいてしまう。
アジアの共通語にならぬのは仕方ないとしても,こんな表記法では,日本人自身が目にみえぬ大損をしているのではないか,というのがぼくの不安のたねだった。
ぼくはもともと軍隊がきらいで補充兵で召集されても,幹候志願も拒否したのに,意地わるく足掛十年近くも軍隊生活を,それも劣等生の兵隊としてすごすはめになってしまった。
昭和13年,ぼくはソ満国境守備隊にいた。とある寒村で大隊長に命じられて,新京そだちのおなじ一等兵といっしょに,日本語学校をひらいたことがあった。
幼い生徒たちが,ぼくの作った片カナがきの日本語のテキストに,カンジでよみがなをつけているのをみて,はじめてシナのカンジは表音モジでもあるという事実にはっきりと目ざめるという迂闊な先生だったが──。
<先生> xiansheng とかれらがよむモジを,日本語ではセンセイという。どこか似ている。……つまり日本はシナからモジのみかコトバも借りているという事実を,若いシナ人たちの前で自覚させられるのもつらい経験だった。誇り高き日本の兵士── 一兵卒であっても,同時に文化の尖兵だと思っていたのだから。
そして満州をひきあげて,宇品の港に上陸してから広島までの道の両側の看板が,すべて中国銀行(チュンクォイハン)とか饅頭(マントウ)とか,ひとりでにシナ音でよめてしまって,日本はシナの文化的植民地みたいなものだったという屈辱感から,ほくとカンジのあいだにすきま風がふきはじめたのだった。
子供のときから漢籍にしたしんで育ち,学生時代にはまがりなりにも,詩,書,易経を,諸橋,内野といった先生のもとでよませてもらい ── もっとも,若いぼくには,ボオドレエルなどをよむためにフランス語をならう方に力が入ってしまっていたが ── わずかの期間だったが,旧制中学で <漢文の先生> として週18時間四角なモジを子供にうまくのみこませようと苦闘したこともある。
そのぼくがカンジは異国のモジだとはっきりとさとったのだった。
やがて再び重機関銃をかついで,ヴェトナムではヴェトナム語をタイではタイ語を,それぞれの国の少年たちに教わりながら歩いてきて,ビルマにはいる山中の飢餓行軍の最中に,みたこともない馬蹄型のモジを印刷した新聞の切れはしをひろってポケットに入れ(それは山をこえてみると果してビルマモジだった!),ビルマに進攻してきたぼくは,はじめてビルマをその少年たちから学んだ。
そしてその日本語との語順の類似性に狂喜したものだった。いままでいくつかの外国語にふれながら日本語だけが特殊なのかと思っていたのに,同じ語族であるはずがないのに,同じ論理をもつ外国語をみつけだして,日本語の論理の普遍性をはじめて堂々と信じることができたのである(言語学者はぼくの無邪気さを笑うかもしれぬが,それがぼくの実感だ)。
日本語に対する愛と信頼をますます深める一方で,カンジへのべたづきを止め,ビルマのような第三のモジ(表音モジ;音節モジと単音モジの双方をかねる。古代インド,パリー語経典のモジ)に接し,タイ字やウルドウ字やさまざまのモジを眺めるうちに,コトバは民族にとってかけがえがないが,モジにはかけがえがあるのだとこれもほんとに分ってきたのだった。
そこへ,あのモン・テットンの真剣で正確なコトバが,ヤイバのようにぼくにつきつけられたわけである。かれはいつか,私は先生のような人になりたいのです,と率直に尊敬をぶちまけて,ぼくをあわてさせたことがある。かれの信頼に答えるためにも,ぼくにいい加減の返事ができるわけがない。ぼくが眠れぬ夜を送ったというのは誇張でないことが分かってもらえるだろうか。
戦争の翌年復員してくると,戦友たちの死のあいだをくぐりぬけてきたぼくは,いま国のために何をしたらいいのか,分らぬままに,せめてモジ改革くらいでも,と思ってローマ字運動に参加した。
そして明治以来の数々の先覚者の書をよんで,その国語を愛する無私の情にうたれ,おのれの迂闊さを恥じ,鬼頭先生の人格にうたれ ── そして,病気になってしまったのである(ぼくの青春は10年の戦場生活と,十数年の半病人のくらしであらかたをつぶしてしまった)。
自分のモジ体系を自分で批判することは,自分の虫歯を自分で抜くほどむずかしい。ただ,国の外へ出てながめると,自分が病気であるという自覚だけはできるのである。
(戦後,中央公論の巻頭論文に応募して<漢字の問題>をかいたら,臼井吉見さんから,ビルマの話はおもしろいが後半はモジ改革論者の狂信のようだと評され,鶴見俊輔さんからは,日本語の文型による教育方法をもっと追求してみませんか,とすすめられた記憶がある。モジを論じることはまるでタブーのようだな,という気がしたものだ。)
── 1972,6 ──
(詩集『みえかくれする ひと』内「おさむの散文集」より)