イブは世間知らず

             創世記における進化論

さや まりほ


1.お花畑のこと

 きょうは、ぼくがノアの役目を終えて、天国に帰った時の話をしよう。

 まだ、西も東も(あるのかな?)分からないで、ふわふわした感じでお花畑の中を歩いていると、ふうっと、イブって女の人が目の前に現れた。

 うん、そりゃあきれいな人だったよ。どのくらいキレイかって言うと、とてもこの世のものとは思えないくらいだね。当たり前かな。何せ、神様が自分に似せて作ったっていうんだから。

 イチジクの葉だって? まさか、天国だからね。ギリシャ神話風の白いドレスを着ていたよ。

 ただ、見た目とはかなりミスマッチのしゃべり方をする人なんだ。




2.方舟のこと

 「あなた、自分が選ばれた人間だと思ったら大間違いよ」

 天国というのは不思議なところで、いろんなことが一瞬のうちに分かってしまう。だから、お互いが誰かってことは、すぐ分かったけど、彼女の言わんとするところは、すぐには分からなかった。

 「方舟を造ったのは、あなただけじゃなかったの。たくさんいたのよ」

 彼女の話はこうだった。“おまえは神から選ばれた者だ”と言われた人が何人かいて、数は分からないけれど、それぞれのグループが船に乗って新しい土地に行った。要は、かたまって住んでいた人と生き物を地球上にバラバラに散らしたんだ。

 目的は増殖と進化の実験。そう、イブは腹立たちそうに“実験”と言った。ガラパゴス諸島状態にしたんだね。特に人間の場合は、言葉と思想の進化(変化)も大切な研究テーマだった。

 ぼくは、助かった人が多くて良かったです、と言おうと思ったけれど、自分が死んだ今、命のあることが特別なことでもなくなったので、言うのをやめた。

 ぼくには、自分が生きていた時のことは、なにか遠い昔のことのように思えていた。


3.エデンの園のこと

 「もしかしてエデンの園も、他にあったんですか」

 イブは唇をかみしめた。

 「ええ、そうよ。ばかにしているわ」

 いったいこの人は、どのくらい長い間、こだわり続けているのだろう……

 「やっぱり皆さん、木の実を食べたんですか」

 それがね、とイブはヒニクっぽく笑った。

 「よそでは、けっこうヘビが食べちゃったの。人間より先にね」

 それはいい、とぼくも笑ってしまった。

 「で、そのヘビはコブラになったんですね」

 イブは手をたたいて喜んだ。

 「あはは……、その通りよ。さすがはノアね」

 ただ、ヘビが食べたのは、木の実じゃなくて、地面近くで取れる果物。たとえばイチゴのような……ね、やっぱりコブラだろう?

 イブはイチゴ、とは言わなかったけれど、ぼくたちのテレパシーは通じていた。だから二人で大笑いしたんだ。

 「でも、イブさんは木の実を取ったんでしょう? 高い所にあるものを取るなんて、あなたは進化を象徴していますよ」

 「ああ、さすがはノア。やっぱりあなたは神に選ばれた人だわ。さすがは私の子孫だわ」

 少し変だな。ま、いっか。

 「それにしても、ずるい手口よね」

 まったくだ。パンドラの箱もそうだけど、開けるように仕向けておいて“これから起こる困難は、テメェが招いたことだよ”ってことになる。平和な世界では、進化(変化)のキッカケを演出しなきゃいけないのかな。


4.ビッグバンのこと

 「神様と会うことがあったら、いろんなこと教えてもらうといいわ。私にはあんまり教えてくれなかったけど」

 「たとえば?」

 「たとえば、ビッグバンのこと」

 「あなたの知っていることを教えてください」

 イブは顔を伏せ、「だから、私にはちゃんと教えてくれないの。アダムもこの何百年か私のことうるさがって……」そう言いながらぼくを見上げ、それから視線をはずした。

 これほどの美人でも、あんまり長い間見続けていると、あきるのかなあ。アダムはきっと、普通の人を見たことがないんだ。

 「とっても小さな卵があって、タイミングをみはからって神様が卵をつついたの。それがビッグバンよ」

 「卵は何個あったんですか?」

 今さら何を聞いても驚かない。

 「たぶん、みっつ」

 「三個ですか? 三個は同じなんですか? 違うんですか?」

 「全然違うの、ひとつは私たちの知ってる宇宙」とイブは静かに話しだした。

 ひとつめは、物質が存在するプラスの世界。ふたつめは、その同じ質量のマイナスの世界。みっつめは、プラスでもマイナスでも、ゼロでもない世界。このみっつでバランスをとっている、という。

 「よく分かりませんが」

 「私だって分からないのよ。だから、ノア、あなた分かったら教えてちょうだい。また会いましょう」



5.浮世のこと

 イブはすうっとどこかへ行ってしまった。見渡す限りのお花畑。誰もいない………と、思ったら、

 「ノアさん。さきほどは妻が失礼いたしました」

 振り向くと、動くギリシャ彫刻だ! いや、アダムだ!

 「私もほとほと困っているのです。イブのおしゃべりには」

 ダンナの方もルックスと中身にかなりのギャップがありそうだ。

 「そんな、とても楽しかったですよ」

 「そう言ってもらえると、ありがたいです」

 ぼくには、アダム氏がとてもお人好しに見えた。

 「私の方こそ感謝していますよ。とにかく、あなた方のおかげで後の人間が進化できたのですから」

 言ってしまって、はっとした、が遅かった。アダムは、ムッとした顔をしていた。

 そうだ、これではアダムとイブは劣った人間、という意味になってしまう。アダムはさっきまでの気の弱そうな感じとは全く別人のように迫力のある顔で、怒りを抑えている。

 アダムは、たとえて言えば牢名主。これからの長〜い天国生活、ぼくはうまくやっていけるのだろうか。


(『しけんきゅう』128号 1996年12月発行)