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創作ノート 9. |
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本来なら、自殺した人のことは、ヒソヒソ話をするものです。詩以外のジャンルでは、こういう追悼はできないでしょうね。
お付き合いしてくださった方々には、感謝します。(未来のROMさんも含めて)
Akiさんの感想は、「作品」として突き放してみたものです。
私の方で、「もし万一、佐々木さんの最後の詩が駄作だったら、ものすごく悲しい」という思いがありました。
客観的に作品を読む自信がないまま、詩の紹介をしてしまいました。
それに対するAkiさんのレスでした。
篠塚さんが、このコーナーに何か書いてくださることになった時、「佐々木さんと親しい人が、佐々木さんのリンク先を回っているかもしれない」ということを伝えました。
篠塚さんのメールは、そういうことも考慮してくださっていると思います。
と、いうことで、多少ズレがでています。ご了承ください。(7月29日 記)
篠塚さんからの、メールのつづきです。まとめになるか。。。?
* *
「キラキラと、闇を切り裂くダイヤモンド......」の一節は、ご指摘の通り、「心の深淵」に下りると言う意味もあります。
意味も、と言うのは、僕がよく使った、ダブル・ミ−ニングの所為です。これには、文字通りの攻撃衝動の意味もあるからです。
「ばねが...」では、無差別の愛、無制限の自由という悪夢の王国を描きました。
「アルミ缶」を出したのが、モラルからだと前に言いましたが、そういう事です。
無差別の愛も、無制限の自由も、創作・芸術という「仮想の王国」でのみ可能なのだ、と明言しておきたかったのです。
それだけ、自分に余裕ができたのかも知れません。
だから、「ばねが...」は、自殺願望ではなく、どちらかというなら、殺人衝動の本という事になります。
「ばねが...」を書く事で生きのびる事ができた、と前に言いましたが、正確には、犯罪に陥る事なく、心の均衡を保つ事がかなった、と言った方が良いと思います。
だから、「ばねが...」は黒/闇の本で、「アルミ缶」は白/光の本です。
実は、始めから、黒と白と2冊出したいとは考えていたのですが、こんなふうに性格付けされたのはたんなる偶然です。
視点も、いずれも救済が大きなテ−マになっていますが、「ばねが...」は個人の、「アルミ缶」は皆のそれを願っています。
少し、大げさな話になってしまいました。
でも、さやさんの「創作ノ−ト」を読んで、あの頃の想いがいくつも蘇ってきたので、長々と書かせていただきました。
また、「ノ−ト」の続きを楽しみにしています。【注 記】 by さや* *
長いメールのほとんどを、四回に分けて掲載させていただきました。
でも、だからといって、私は篠塚さんのお考えが、全て正しいと言っているわけではありません。
(だいいち、私は、篠塚さんのメールを、正しく理解できているとは思えません。佐々木さんの詩も、まだ)
ただ、佐々木さんの、「心の深淵に下りていく」の意味をきちんと受け止めた人の、真摯なメッセージをお伝えしたかったのです。普通、なんのことか分かりませんよね。
もうひとつ言えば、篠塚さんの詩の解釈も、私には難しいところがあります。
その詩や精神が、佐々木さんと共通するところがあるようなので、自分の詩を語っていただくのは、篠塚さんの詩の参考になり、佐々木さんの追悼にもなると思いました。(7月28日 記)
篠塚さんからの、メールのつづきです。
* *
ところで、「心の深淵に下りていく」よう企むのは、とてつもなく、しんどい事です。
そこには、闇ばかり見えてしまったりします。
光が一筋でも垣間見えないと、大変な事になってしまいます。
「ばねが...」を書いている時、僕もそんな事を考えていたのですが、結局、「心の深淵」に降りていくという事は、わたしたち、普通の者にもできる事なのか?
ただ、ただ、そんなつもりになって、心の闇を見据えているに過ぎないのではないのか?
よしんば、そこに降りて行けたとしても、そこは、ジャン・ジュネが憧れたような、原生動物の世界でしかないのではないのか?
佐々木さんが、「心の深淵」に下りて行けたがどうかは分かりません。
でも、僕は、「心の深淵」ではなく、頭上から差し込んでくる、強烈な真っ白な光を望むようになっています(そういうものがあるのかは知りませんが)。【注 記】 by さや* *
ここのところは、17日の「仮想の王国」のレスです。私は、「心の深淵に下りていく」の意味が分かってなかったんだと再認識しました。今でも分からないし、分かろうとすること自体が怖いことのような。。。では、明日につづきます。(7月27日 記)
篠塚さんからのメールのつづきです。
* *
あと、前から常々思っていたのですが、自殺願望という事は成立し得るんでしょうか?
夭折を望んで死を選ぶという事もない訳ではないでしょうけれども、生き続けていくのが辛くて、死にたくはなくても生きていく事ができなくて、どうしょうもなくて、仕方なくて、死んでしまった方がこれならましかも知れない、と、そういう事ではないかと僕は思います。
逃避ですね。逃避ですけれど、本人にはどうしょうもないんです。
死にぞこなった人間としては、これで死んぢまうって事はおまえの考えてるような生やさしいもんじゃないんだと、目の前に突きつけられ、尻込みしてしまった者としては、自死を選ぶ人の弱さも、又、強さも些かながら理解できるような気がします。
自殺を美化する事になるから、自死した人の作品を誉めないというのも、一人の表現者としては、いかがなものでしょうか。
編集者の良心としてそういった態度を取るというのは、充分理解できますけれど...。
ただ、書き切れたら生きる方に向かうはずだ、というのはどうでしょう。そうとも限らないように思います。
昔から、生きて行く糧としての芸術か? 芸術として、それだけで自律的な価値となりうるのか? という事は論議の対象になっていましたが、書き切れたからこそ、死をもって自分の芸術にピリオドを打つというやり方もあるようです。
それが良い事なのかどうかは、又、別問題ですが...。【注 記】 by さや* *
ご自分のことを、“死にぞこなった”なんて書いていらっしゃいます。この言葉の説明の代わりに、詩集『ばねがとびでた俺の心臓』に関するメールを10日にいただいているので、一部を紹介します。(勝手に?)
「ばねが...」は闇です。闇の中であがいています。
どれだけ這い上れたか、いま自分はどこまでのぼってこれたかを、それと、闇でもがき続ける他の人たちに、一筋の光の道を示せないか、と、そういう事です。
明日につづきます。(7月26日 記)
昨日いただいた篠塚さんからのメールを三回ぐらいに分けて紹介させていただきます。今月、ここに書いている佐々木さんの詩と死に関するレスです。それと、17日の「仮想の王国」で触れた内容について。ここへの転記は、ご本人の了解済です。m(_ _)m
* *
後で、まとめて話したい事を送ると、前にお約束したので、約束を果たします。
ここのところ、「詩は死を昇華できるか」なんて、冗談とも生真面目なのともつかないような(失礼)話を「創作ノ−ト」でしていますね。
佐々木さんの詩、「くさにもなまえ」、読み返してみました。
しいんとした、穏やかな静謐さ。でも、静か過ぎるのが気になりました。
さやさんや、Akiさんがおっしゃるのとは違い、最後の2行、ものすごい意味があるような気がします。
ほとんど、この2行を残す為に、この詩は書かれたのじゃないかと思うくらいに...。
普段は気が付かないような、道行く人には目もくれられないような「あおくさ」にも、ちゃんとなまえがある。
目を閉じれば、何か声が聞こえる。そんな小さな存在でも、
たすけあい、むきあいながら、はえぬきになるんだと訴えている。
書く方からすれば、蛇足に思える表現、ない方が良いような表現をことさら残すのは、残しておかなければならない何かが詩人の中にあるからではないでしょうか。
「半身」だけを漢字で書いたのも、何かメッセ−ジがあるのだと思います。
自ら命を絶たれる直前の作品と言う事ですから、そういうものとして意味を与えなければいけないでしょう。
Akiさんは彼岸と表現しましたが、「半身」はこちらの世界、「半身」はあちらの世界とでも言う事でしょうか。
それとも、「半身」でしか周りの人と係われないという嘆きでしょうか。
僕は佐々木さんという方のことはよく存じないので、分かりませんが、このメッセ−ジを解読してあげるのは、生き残った者の義務ではないでしょうか。
さやさんも指摘なさっていた、「おくれてやってきたともだち」が誰の事かが、やはり気になります。誰それの事だと規定する必要はないでしょうけれども...。
それから、この詩が十代のものの書き直しだとするなら、どうしていまさら持ち出してきたのかにも、何か意味がありそうです。
* *
【注 記】 by さや
篠塚さんの、“最後の2行が大切”という意見にびっくりしました。
サイト『 In the Moon 』で、管理人のyamatoさんがBBSに同じようなこと(たぶん)を書いていたので。。。yamatoさんは、佐々木さんのネット詩仲間です。
何が正解か? なんてことは分からないでしょう。でも、こうして故人の詩を大切に読んでいることに、大きな意味があると思います。つづく。(7月25日 記)
当分って、どのくらいの日数かなあ。。。私、7月1日に、「佐々木さんの詩を当分誉めない」と書いたけど。。。あれから三週間。
Akiさんからいただいたメールで、佐々木さんの「くさにもなまえ」の感想のところ紹介しておきます。
「くさにもなまえ」読みました。
突き抜けた感じで、明るい。そして軽みを感じる詩です。
そして、芯のある青々しい草が持つしなやかさと自由・・・
なんだか半分、彼岸の世界に行ってしまったような、明るさ。
最後の2行が意味不明なんですが、ない方がいいと思うな。
ひらがな書きは、じっこくさんの影響なのでしょうか? (7月6日付)
私だったら、全てひらがなにしていたと思います。 (7月10日付)
ほんと、私もイッチャッテル感じがしました。この詩、じっこく おさむ さんの「ニチヨウビ」を思い出すんです。(これは誉めすぎ?)
とにかく、イッチャテル雰囲気に、かなもじがすごく合っています。
で、「半身」一文字だけ漢字というのが、やっぱり不自然だと思います。でも、「はんしん」だと、分かりにくいでしょ? これ、かなの欠点なんですよね。かなにしても分かる言葉を選ばなきゃいけないんです。あと、表現を工夫したり。
じっこくさんは、ローマ字をまねて、「横書きで分かち書き」をしていました。
せっかくのいい詩なのに、一箇所だけ漢字にして&最後によけいな2行を付けて。。。なんででしょ。。。(7月21日 記)
うっ、Akiさんとのナイショ話だったりして。。。 (^_^;) おとついいただいたメールの一部です。
レベルの問題は、難しいです。
あまりに新しい詩は、きっとレベルが低いと思われて、はじかれてしまうでしょう。
レベルが高いというのは、通常は、既成の価値観から計ったレベルの高さ。
と、いうことは。。。ネットは、既成の価値観にあんまり影響されないから、新しい才能がでてきやすいかなあ。。。(7月18日 記)
篠塚さんの詩集、紹介する作品を選ぶの、苦労しました。ルビが多いのと、伏字(!)にしなきゃいけないような言葉も多いのと。ギャッと、飛び上がりそうになるほど激しかったり。
でも、自分との共通点みたいなもの発見しました。帯の「仮想の王国」という表現です。心と創作のかかわりみたいなところ。
私の詩作品に 「やっぱりぼくは あれがほしかった と いってみたかった」 (←お暇なら読んでください)というのがあります。私のは軽いですけどね。
佐々木さんのことに話をもどします。
去年の11月30日付けの 「秘するが花」 (←読んでください m(_ _)m )中の I さんは、佐々木さんのことです。HNの「いっぽ」「ippo」を使わせていただきました。
12月1日にいただいた佐々木さんからのメールの一部です。
サイト見ました。
そうです。
怖いです。けれどもやらなければならないことです。
でも、体力がない。精神がこわれるかもしれない。
次に12月4日にいただいたメールです。
一度はからだが壊れるくらい
詩を書いたほうが、いいのかもしれない。
けれども、眠くてねぇ。
私は、心の深淵に下りていくことの意味が分かっていなかったし、今でも分かりません。普通、心から湧き上がってくるものを書きますね。
篠塚さんの詩集の帯の「キラキラと、闇を切り裂くダイヤモンド・・・・・・俺たちは、探しださなけりゃあならない・・・・・・肉塊を、血潮を、臓腑をひきずりだして、からっぽのおまえの奥底から・・・・・・」というのが、心の深淵に下りていく、ということと同じことなのかもしれません。違うかもしれません。反対のことかもしれません。
今回、詩集のお礼メールは、「佐々木さんも、篠塚さんみたいに、感情を紙にぶつけるような詩を書いていれば、自殺なんかしなかったんじゃないかと、改めて思いました。(内容が、現実でも虚構でも)」と失礼な内容で出しました。
篠塚さんからのレスによると、詩と心身の健康との関係について、不思議な体験をなさったようです。詩を書くことで、救われたんですね。
さて、なぜ佐々木さんは心の深淵に下りていこうとしたのでしょうか?
「現状の 詩書き を打破する」ためだそうです。佐々木さんは、ご自分のことを詩人とはいわず、「詩書き」といっていました。「詩書き」→「詩人」になりたかったというのでしょうか。分かりません。
それから、実際に佐々木さんが、心の深淵まで下りていったり、体が壊れるくらい詩を書いたかどうかも私は知りません。知っている人がいるかもしれませんが。(7月17日 記)
7月7日拝受。発行:近代文藝社 発行日:1994年12月1日 画:星川友紀子さん
篠塚一彦さんは、詩集『アルミ缶グラフィティ』の篠塚達徳さんと同一人物です。掲載作品も、全て後で発行した『アルミ缶グラフィティ』の中に掲載されています。
でも、先日「残部があれば欲しいのですが」とお願いしました。
2000年9月発行の『アルミ缶グラフィティ』の後記に、『ばねがとびでた俺の心臓』のことを、「画家の高作(旧姓・星川)さんにお願いして、ふんだんにイラストを挿入した。黒刷りの項に白抜きの文字というコンセプトも星川さんが考え出してくれたもの。その意味で共同制作」ということが書かれています。
ビジュアル的にかなりすごい本です。篠塚さんからのメールの、「一部のマニアックな人たちには、かなり気に入ってもらえた」というのはうなづけます。
ネットでは、壁紙が黒で白い字、というのはよくあります。本では、私は初めて見ました。
この本、表紙も含め、紙の地の色が全て黒。表紙は、銀色の一色だけで、中のイラストも、白か、赤の一色だけで描かれています。
帯が赤い紙に黒い字。(血を連想してしまう!)帯の言葉を紹介しますね。
新しい終わりがいま始まる。
謳うがいい! 無差別の愛と、無制限の自由を、翼にかえて・・・・・・
この俺の仮想の王国で・・・・・・。
キラキラと、闇を切り裂くダイヤモンド・・・・・・俺たちは、探しださなけりゃあならない・・・・・・肉塊を、血潮を、臓腑をひきずりだして、からっぽのおまえの奥底から・・・・・・
この言葉、この詩集には載っていませんが、後で『アルミ缶グラフィティ』に詩作品「若き、渇いたる凶暴なものらへ」として、形を変えて掲載されています。
『アルミ缶グラフィティ』にも掲載されていますが、オトナシイ部類の詩(!?)を一つ紹介します。
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本全体が強烈です。ここでは、本のビジュアル的なことは伝えられなくて残念です。
篠塚さんは、言葉だけでアピールした詩集を出しなおしたんですね。(7月15日 記)
今日、高松市立図書館に本を返しに行きました。同じ建物の4階に「種田山頭火展」があるので、行ってみました。(入場料も安いし)
受付でチケットを買うと、「これで3階の常設展にも入れます」というんで、そっちも ε=ε=ε=┏( ̄▽ ̄)┛ 常設展って、菊池寛記念館のことでした〜
山頭火の後に菊池寛。。。ずいぶんユニークな組み合せのような気がします〜 (7月14日 記)
【追 記】
菊池寛記念館の企画で、「山頭火展」をやったようですね。(7月15日)
6月4日拝受していました。発行:ひまわり書房 発行日:2001年6月1日 定価1,500円。
サイトアップして以降、いただいた詩集は、このコーナーで紹介させていただいているんですけど。福中さんの詩集については、とまどいました。詩が中学の教科書に掲載されたこともある方なんです。私は、著者と直接のお付き合いがないのと、著作権に詳しくないので、ちょっと遠慮しといた方がいいかな、と。
教科書に載った詩も、いただいた詩集の中にあります。「大田川」。授業で習った〜なんて人、いませんか?
それもあって、よけいなこと言えません〜 (^_^;)
なんで、そんな人から詩集もらえるんだ〜?とお思いでしょうね。残念ながら、私個人にくださったんじゃないんです。同人誌の事務局を預かっているからです。この詩集に関しては、創刊者の、じっこくさんのご人徳が高かったからですね。はい。(7月9日 記)
追 記: 9月4日、【創作ノート 11】で、紹介させていただきました。
重い話が続いて申し訳ないです。
第一連の おくれてやってきたともだち は、もしかして5年前に亡くなった弟の守さんのことではないかと思うのですが、客観的に見れば、ただのこじつけでしょう。
私の知っているわずかな知識の中の佐々木さんです。でも、弟さんの「生と死」は、佐々木さんの「生と詩」に大きな意味を持っていました。
去年の12月、佐々木さんのネット詩仲間の学生さんが自殺しました。その時、佐々木さんがひどいショックを受けているだろうと心配して、メールをしました。
佐々木さんのレスは、自殺に対してとても批判的でした。そして、「会ったこともないボクがこんなことを思うのは やはり弟のことがあるからだと思います」とありました。
拍子抜けするほど安心しました。亡くなった方には申し訳ないと思いつつ出した、私のメールの一部です。
「佐々木さんの自殺適齢期の作品を100編も読まされたのが半年前。ネットで出会ってすぐ詩集(89年発行の『空中ピエロ』)いただいて、一度もあったことがないので、混乱してしまいました」
佐々木さんは、弟さんの死によって自殺願望をクリヤーしたんだと思って、不用意に書いたメールでした。ところが、佐々木さんの死後、友人からもらったメールによると、
「死ぬも生きるもどちらも自由という、自由さがなければ、生きるのは苦しい事になってしまうような気がする。生きなければならない、と肩肘張ってるから苦しいのであって、声高にいっているうちは、あぶないんです」
こういう考え方があったんですね。(7月5日 記)
きのうの続きです。
佐々木さんが、所属している同人誌『柵』に提出した最後の作品を紹介します。
発行者の志賀英夫氏の追悼文によると、4月20日締切日(175号の)に届いたものです。亡くなったのが5月1日ですから、最後まで律儀だったんですね。
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以下、私の独断と偏見の感想です。
ぱっと読んで、この詩は、以前書いたものを手直しして出したものだと思いました。もしかしたら、10代の時に書いたものを。それとも昔を思い出して・・・・・・?
(佐々木さんは1965年5月14日生まれ 享年35歳)
いつ書いたとしても、最後に出した作品ですから、何らかのメッセージがあるかもしれません。
秋田の詩人、佐々木さんとは、去年の5月、ネット上で出会いました。
冬にいただいたメールには、よく雪情報がありました。きょうは何センチ積もったとか、雪だまりに車がおっこちたとか、 かまくらがどうとか。
「高松は雨なんですか。すごすぎ。」「相変わらず、厳しい雪がなぐりつけてきやがります。ふぅ。」「雪はもういらないやー。」
(私の住む四国の高松は、もともと雪の少ない地域ですが、去年から今年にかけて全く降りませんでした)
北国に春がおとずれ、雪が溶け、黒い土が出てきて、緑が芽吹く・・・・・・。「命の賛歌」なんていうと佐々木さんがテレるからやめておきましょう。
「死ぬ」は、自然界では「土にかえる」ともいいます。土は生命をはぐくむものです。
本当は、命を大切に思っている詩人なのです。
かなばかりの詩のなかで、半身だけが漢字です。
半身おりまげ、ともだちとおしゃべりをしています。知性は人として、友人と向き合いますが、生命体としては、大地にだきとられることを望んだのです。
「それなら、最後の二行と矛盾するのでは?」とお思いでしょうね。
たぶん、二行は “技術的に” 付け足したのだと思います。ただし、嘘ではありません。そう思っていた時期があったのは確かでしょう。
自殺願望まるだしの詩なら、ギョッとするような秀作が書けたかもしれません。それをしなかった(できなかった)ところに深い意味があるような気がします。
佐々木さんは、自殺するにあたり、誰かに迷惑をかけたり、誰かを傷つけたり、ということを最小限にくいとめようとしたのではないでしょうか。
買いかぶりかもしれませんけどね。(7月2日 記)
サイト『魂響(たまゆら)』の佐々木誠さんが急逝されて二か月がたちました。亡くなったのが5月1日、知ったのが5月8日。
ぼろぼろぼろぼろ涙が出ました。泣きながら、頭のすみの、「泣いたら楽になれる」という声を聞きました。あ、他人なんだと思いました。
それから、「追悼詩を書いたら、気持ちの整理がつく」という知恵も持っています。
すでに、追悼詩は二つアップしています。【創作ノート 7】と【詩 B】のコーナーに。
詩の仲間だから、追悼詩は儀式の意味もあります。
私は、当分、佐々木さんの詩を誉めないことにしています。自殺を美化することになってはいけないので。それに、佐々木さんは自殺に批判的でした。
自殺願望のある詩人に、佐々木さんのことを少し、悪く言ってしまいました。
「本当に書ききれたら、生きる方向にいくと思う」と。その人の詩を高く評価しているので、佐々木さんは書ききれていない、という意味になってしまいます。ごめんなさい。
* *
それで、泣いて楽になったか、というと、それはそのへんの薬と同じ、ケースバイケースで効き方がちがいます。今回の場合は、即効性があったと思います。
追悼詩を書いて気持ちの整理ができたか、というと。。。むずかしいですね。詩は自己満足の要素が強いですから。
「書ききれたら、気持ちの整理ができるんじゃないか」なんて声も聞こえてきそうですけど。これ、むずかしい問題ですね。
当然、私の詩は書ききれていないです。ただ、書かずにはいられないサガのようなものがあります。(7月1日 記)