居 場 所
さや まりほ
2005年 ある冬の日曜日「山本さんのところへ行くんだたら、ぼくも連れていって」と言ったら、にいさんは、「もう中学生なんだから、何でもかんでもくっついて来るなよな」と、こわい顔をして、自転車に乗って行ってしまった。
玄関マットの上には、にいさんの忘れたマフラー。先週の日曜日に、かあさんが買ってくれた、ぼくと色違いのおそろい。
一週間前の夜は、にいさんの部屋で、新しいマフラーをふたりでくるくる首に巻いてふざけていた。
「山本さんが、イジメスパイラルに巻き込まれるな、って言ってた」
にいさんが、ふと、声を落として言った。
「いじめられたら、自分にされたのと同じことを、誰かにしたくなるんだって。トラウマの解消……か。とうさんは精神科医なのに、こういうことは教えてくれないな。それから、国家レベルでも、別のイジメスパイラルがあるんだって」
「山本さんて、盲導犬ロボット造ってるんでしょ」
「今は、なんか究極の通信方法を開発してるって、言ってたよ」
「えっ、じゃあ、もしかして、軍事関係?」
にいさんは肩をびくっとさせて、急に黙りこんだ。気まずい。そう、ぼくは自分がイジメのターゲットになりやすいってことは、なんとなく知っている。でも、にいさんがいてくれたから、今まで、それほどいやな思いはしなくてすんだ。
ぼくはにいさんのマフラーを手に取り、にいさんの部屋に持っていこうとした。でも、当分、勝手ににいさんの部屋に入っちゃいけないような気がする。マフラーを、またマットの上にもどした。
ぼくは突然不安になる。にいさんには、ぼくとは血のつながりのない父親と弟と妹がいることが。にいさんは、顔も名前も、住んでいるところも知らないと言っていたけど。
* *
にいさんは、夕食までに帰ってこなかった。
「俊和は、山本さんのアパートで焼肉ですってよ。このごろ日曜日ごとにおじゃまして、今日は夕食まで。ご迷惑じゃないかしらね。いくらひとり暮らしだからって。いっそ山本さんに家庭教師料を払って、きちんとお願いしましょうか」
とうさんは、味噌汁をひと口すすって、顔を上げる。
「それはやめた方がいい。この前、会社に寄った時に、山本君と少し話したけど、『牧田君とは友達づきあいしてます』ってさ」
牧田君? 俊和くんじゃないの?
「でも、勉強見ていただいてるんでしょ」
「それが、彼は仕事がメチャクチャ忙しくてねえ。休みの日も家で仕事をしているそうなんだ。俊和は勝手に勉強しているらしい」
「でも……」
「まあ、そうは言っても、ある程度は教えてもらってるんだろうな。俊和は、数学の成績、上がってたな」
「ええ、学校の方はね。でも、塾なんか、日曜日にテストがある時は、受けてないんですから。それに山本さんは、卒業して何年もなるでしょう。知識がかたよってるんじゃないですか。もうすぐ三年生だっていうのに」
「うん、でも俊和は自分でちゃんとやってるんだから」
「それなら、家で勉強すればいいのに」
「山本君がさ、うちは暖房がコタツとホットカーペットだけだから、頭寒足熱で集中できるんでしょう、ってさ」
「じゃあ、うちも子供たちにホットカーペット買ってやりましょうか」
「そういう問題でもないだろう」
そうか。夏休みに、ぼくたちが一人部屋になったのは、ぼくがにいさんの勉強のジャマをしないように、ってことだったんだな。
「おとうさんから、俊和に言ってくださいよ。そもそも、山本さんがおとうさんを訪ねてきたのが始まりなんですから」
「山本君はちゃんと考えてくれているさ。それに俊和も難しい年ごろだし」
「……いくつになれば、難しくない年になるんですか」
隣でとうさんが、やめろ、とたしなめている気配がする。
「俊和は、医学部を受ける気があるのかしらね」
「別に医者の息子は医者にならなきゃいけないって法もないんだから」
ぼくは、そっと立ち上がる。
「ごちそうさま」
「祐介! まちなさい」
あ、やっぱり。
「こんなに残して。ほら、お刺身と酢の物、ちゃんと食べなさい。ごはんも半分しか食べてないじゃない」
「もう〜、やだよ。生魚ばっかりぃ」
「体にいいんだから」
「冬なんだからさあ、鍋とか」
「暖房してるんだからいいでしょ」
「そういう問題でもないと思うよ」
かあさんの顔が、少しひきつる。え、まずかったの?
「よし、祐介、じゃあ納豆でご飯食べるか。おかあさん、祐介に納豆」
納豆は頭にいいんだったな。でも、これから4年間、毎日納豆を食べても、だれもぼくに医学部に行けなんて言わないだろうな。
土屋供生写真集『憧れと青空』より。
2006年 ある春の日曜日「俊和も行くか?」
とうさんが、にいさんの部屋の前で言う。
「行かない」
にいさんの声が拒絶する。
山本さんが会社帰りに交通事故で死んだ。ほとんど即死だったらしい。ひき逃げで、犯人はまだ分からない。
とうさんは、喪服を着て、ひとりで車を運転して出て行った。
かあさんがどこかに電話をかけている。
「ええ、そうなんですよ。急に見舞いに来いと言われましてもねえ。……それがあいにく、主人は葬式に……」
きょうは家にいるつもりなんだ。本当のことを混ぜて、うまく嘘をついているようだけど、かあさん、だいじょうぶかな。
小学校6年生の時だった。伊藤君の家に遊びに行ったら、伊藤君のおかあさんに、「あら、お熱は下がったの」って聞かれて困ったよ。かあさんは、ぼくとにいさんの名前を言い間違えたのかなあ。どっちも熱なんか出してなかったけどさ。
悪いけど、にいさんは放っておいて欲しいんだ。ぼくは今からその伊藤君の家に行くんだからね。
* *
夕方になっても、にいさんは部屋にこもったままだ。
かあさんは夕食の準備をしている。きょうはクリームシチューだ。とうさんはテーブルで煙草を吸いながら、かあさんの後姿に話しかけている。ぼくはとうさんの隣で、話を聞いている。
「山本君も、ついてなかったなあ。婚約したばっかりなのに」
「まあ、そんな人がいたのに、あの子は」
かあさんがふりかえる。とうさんは、煙草の灰を灰皿に静かに落とす。
「彼女の方は、一年前に、おねえさんに二人目の子供が生まれてねえ。日曜日は、たいていおねえさんのところに手伝いに行ってるらしい」
「いい方みたいですね」
「うん。それに美人だしね。山本君とは、前の部署でいっしょだったんだ」
とうさんの目が、こがすなよ、と言っているので、かあさんは不満そうに背中を向けて鍋をかきまぜる。
「僕もきょう知ったんだけど……彼のお父さん、友達の借金の肩代わりをしなきゃいけなくなっててね。とりあえず、山本君が会社にお金を借りて処理したらしい。彼女は、それを承知の上でさ。今時の若い娘にしてはよくできてるよ。俊和も会ったことあるんじゃないかなあ。今日の葬式にも来てたけど、痛々しかったなあ」
バチンッと、かあさんは火を止めて振り返る。目でとうさんに訴えている。とうさんは煙を吐き出しながら、灰皿に煙草の先を押しつける。そして、二階のにいさんの部屋に向かう。ゆっくりと階段をふみしめる音がする。
ガシャン! という音と「あっ」というかあさんの小さな叫びがほとんど同時だった。いつもサラダを入れているガラスの器だ。とうさんの足音がとまる。
「あ〜あ、またやった」
ぼくはとうさんに聞こえるように言いながら立ち上がる。とうさんの足音がまたすすむ。
2006年春、にいさんは高校3年生、ぼくは中学2年生になっていた。にいさんはぼくをおいて、おとなになっていく。