忘れてはいけない  8

     7月3日(土)。
     朝から天気がよかった。 朝食のお弁当を食べた後、にゃおたちはひとまず家に帰ることにした。
     もちろん避難勧告は解除になっていなかったので、責任は自分たちで持つということになっていた。
     他の人たちも帰り支度をしている。 この中の大半の人はまだ帰ることが許されない人たちだ。
     にゃおたちが家に帰るのをどんな想いで眺めているのだろう。 自分たちの「居場所」の
     ご近所に丁寧に挨拶をしてから、主人は主人の車で。 にゃおは子供とにゃおの車で
     避難所をあとにした。

     避難してくるのとは違うルートで帰る。 途中でにゃおたちの家を襲った土石流の起こった川を渡る。 
     その光景は言葉では到底伝わらないものだったろう。
     凄まじい数の流木が折り重なり、複雑に入り込むようにして川をせき止めている。
     それはどこまで続いているのかわからないほどだ。 これだけの木が一斉になぎ倒され、
     濁流とともに押し流されたのか? なんという力なのだろう。 自然の力はここまで人の想像を
     越えるものなのだろうか? 今度新たな土石流が起きて、このおびただしい数の倒木ともども
     押し寄せてきたら、いくら一番下流のにゃお家とて相当のダメージを受けそうだ。
     橋を渡ってすぐの道を左折して川沿いに下ってゆく。 途中のマンションは一階部分が
     半分以上汚泥に埋まったらしく泥のあとが壁についていた。 それを取り除いたのか駐車場の
     かたわらにショベルカーが置いてあり、泥の山がいくつも出来上がっていた。

     家は幸い今回の避難中にはなんら被害を受けなかったらしかった。
     子供はにゃおたちが何も言わないのに、自分からベットへ入ると、あっという間に眠った。
     それこそ死んでいるかのように何時間も眠りつづけた。 子供なりにどれだけの
     緊張を強いられていたのかと思うと切なかった。 主人もにゃおも、ほとんど徹夜状態だったので
     やはり、眠り込んでしまった。 これほど自分の家で手足を伸ばして眠れることの
     ありがたさを感じたことはなかった。


     にゃお家周辺の避難勧告はほどなく解除になり、ほとんどの人が家に戻った。
     それでも多くの人たちが避難所で暮らしていた。 真夏を越え、初秋の声を聞く頃になっても
     避難所生活を強いられる人がたくさんいた。
     あれから1年が経つ。 今でこそ避難所生活をする人はいない。
     けれど多くの人が家を失い、そこへもう戻ることも許されず、また恐ろしさに戻れない人がいる。
     肉親を失った人がいる。 遠く離れた地へ新天地を求めて去っていった人もいる。 未だに
     家はそこにあるのに、災害防止の工事が進んでいないために戻れず借家住まいの人もいる。
     小さな物まで含めれば、何百ヶ所にものぼる災害場所の復旧工事はまだまだ
     終わる気配すらない。
     にゃお家にも、土石流の爪あとは生々しく残っていて、納屋の中にはまだ汚泥が
     何センチもの層を作っている。 天気がよく風の吹く日には土石流に含まれたまさ土が
     パウダー状の砂を巻き上げる。 この地域からあの災害の爪あとが消えるまでには
     何年もかかるだろう。 けれど人の心に深く刻まれた爪あとは決して消えない。

     にゃおは今でも少し激しい雨が降ると、心臓がドキドキして止まらなくなる。
     少しでも川が増水すると、どこかへ避難した方がいいのではないかと思ってしまう。
     どんなに降っても梅雨時期のような大雨はないのだとわかっていても怖くてたまらなくなる。
     この豪雨災害においては、にゃお家の被害なんてビビたるものだ。
     それなのにこんなにダメージを受けている。 だとしたらあの「阪神大震災」の人々は
     どうだったろう? 北海道の地震での災害を受けた人たちは? 有珠山の噴火で
     避難している人たちの思いはどれほどだろう?
     忘れてはいけない。 それは、今回の災害で得たことを忘れてはいけないという意味もある。
     だけど、本当に忘れてはいけないのは、こうして、自分の家で、自分の布団で
     なんの心配もなく眠っている間にも、被災して心に重い傷を負った人が
     いるということ。 そして、それは日本だけでなく全世界で起こっているということ。
     自分たちはたまたまタイミングがよかっただけなのだ。 こうして「普通に暮らす」ことが
     どれほど大きな意味を持つのか忘れてはいけない。

     どうか、一日でも早く、心に深い傷を負った人たちが少しでも安らげますように。
     悲しい魂が安らげますように。
     だから、忘れません・・・

                    目次へ      HOME