台風19号

     1991年(平成3年)9月27日 
     近年まれにみる超大型台風19号が日本列島に接近していた。
     16時過ぎ、長崎県佐世保市の南に、中心気圧940hPa、中心付近の最大風速50m/s
     風速25m/s以上の暴風域の半径300kmという大型で非常に強い勢力を保ったまま上陸。
     その後、佐賀県中央部、福岡市付近、北九州市付近を通過し、にゃお県へと近づきつつあった。

     その日、にゃおはいつものように自宅の2階で中学生に英語を教えていた。
     少人数制方式だったので、2回目の授業(18時から20時の2時間)には中学2年生の
     男の子2人が来ていた。 台風が接近中だということはわかっていたけれど、その時の
     回りの様子は風が強いだけで、あまり不安になるようなものでもなく、授業はいつも通りに
     始まった。

     授業が始まって1時間近くが経過した頃、突然、停電になった。 予想できていたことだったので、
     あらかじめ準備していた懐中電灯やロウソクなどを灯して様子を見ながら授業を進めていた。 
     停電が長引くようなら授業を打ち切らないといけないな・・・と思ったその時、ガチャン!!
     とガラスの割れる大きな音とともに、猛烈な風が教室の中に吹き込んできた。 風にあおられた
     カーテンの向こうに直径10センチ以上あると思われる丸太が突き刺さっているのが見えた
     急いで生徒を部屋の外の廊下に出し、廊下の外に脱いでいたスリッパ(教室は畳の部屋)
     を履くと、とっさに、マットレスを割れた窓に押し当てた。 当時、にゃおが使っていたものだ。
     厚さが10センチで3枚に分割されたものを専用のシーツで包むのだけど、このシーツが洗濯で
     縮み、3枚を入れ込むのに一苦労していた。 それだけに一度入ったマットレスはちょっとやそっと
     力を加えたくらいでは折れ曲がったりしないのだ。 それが幸いして、割れた窓に押し当てると
     吹き込んでくる雨風をなんとか防ぐことが出来た。 にゃおは生徒たちに階下にいる母に
     スリッパを履いて上がってくるよう言ってくれと頼んだ。 母が上がってくる。 状況を見て
     仰天する。 母に一時的にマットレスを押さえるのを代わってもらうと、急いで他のスリッパを
     持って来て生徒たちに履かせた。 厚地のカーテンを引いていたおかげで、部屋中に
     ガラスが飛び散るまでには至らなかったけど、どこに破片が落ちているかわからない。
     怪我をさせてはいけないと思ったのだった。 スリッパを履いた生徒たちは頼もしいことに
     自分たちも手伝うと言って、マットレスを押さえるのを手伝ってくれた。 中学2年生の彼らは
     それぞれバレーボール部と野球部に属している主戦力の子たちで、身長も170センチを
     はるかに越えていたし、体格もしっかりしていたのでとても助かった。 母と生徒たち3人で
     マットレスを押さえている間ににゃおは階下に下り、119番に助けを求めたのだった。
     この時、にゃお家には2台の電話機があった。 ひとつはプッシュホン式のもの。 もうひとつは
     ダイヤル式の黒電話だ。 プッシュホン式の方は停電のせいで使うことが出来なかったが
     ダイヤル式の方は生きていたので連絡をつけることができたのだ。

     状況を話すと、すぐに向かわせますと言ってくれたが、あちらこちらでいろいろな被害が
     出ていて、消防署の人間も多忙を極めているようだった。 
     2階に上がって、母と押さえるのを交替する。 強風に負けないように押さえていないと
     いけないから腕がだる。 こっちは心臓がバクバクしているのに生徒たちはこの状況を
     面白がっている。 母とにゃおの女だけ2人暮らしだから、精神的にも彼らの存在は
     頼もしかった。 

     やがて消防署の人が2人やってきて、割れた場所に板を打ち付けてくれた。 そして
     念のためにと、となりの部屋の窓にも同じように内側から板を打ち付けてくれた。
     そこでようやくにゃおたちはマットレスを押さえることから開放された。 

     にゃおは再び電話で生徒たちの家に連絡し、迎えに来てくれるよう頼んだ。

     大型で強い台風だということは知っていたのに甘かった。 こんな状態で授業をするのが
     間違っていた。 生徒たちのご両親になんと言ってお詫びをしたらいいのだろう。
     生徒たちに怪我がなくてよかった。 万が一のことがあったら、お詫びなんてものじゃすまない。
     だけど、この2人がいなかったら、今、こうしてこの状況を母と2人で乗り切れていただろうか?
     生徒たちには不運だったけど、にゃおと母にとっては幸運だったのも事実だ。
     迎えが来るまでの間、座って待つようにと言ったのに、生徒たちは動き回るにゃおのあとに
     くっついてウロウロした。 不安で・・・というよりも明らに、今体験している異常事態が
     楽しくて興奮しているといった様子だった。

     やがて、迎えに来た生徒の親の車が見えた時、にゃおは心底、ほっとした。
     平身低頭であやまり、それでもおかげで本当に助かったと心から感謝をした。 どちらの
     親御さんも、とても心の広い方で、こんな状況で授業をしたにゃおを責めることもなかった。
     「こんなの(生徒たちのこと)でお役に立つならいつでもどうぞ」なんて、気遣いの言葉を
     かけてもらった。 生徒たちは、それぞれ興奮冷めやらぬ様子で「面白かったぁ♪」と
     言いながら帰って行った。


     眠れぬ夜が明け、明るくなった時、にゃおと母は改めて驚愕することとなった。
     2階の外はスレート屋根になっているのだけど、そこには無数の丸太が散乱していた。
     あとでわかったことだが、近所の家の駐車場(自分で建てたような簡単な屋根付きのもの)が
     強風で壊れ、風に巻き上げられた丸太が飛んできたのだった。 その中の1本が
     窓ガラスを突き破ったのだ。 恐ろしい。 もしも他の丸太も家にぶち当たっていたら?
     その被害は計り知れないものになっていただろう。 1本だけでよかった。 厚地のカーテンを
     引いていてよかった。 割れた窓を塞ぐマットレスがあってよかった。 多い時は4人くらい
     いる生徒。 そんな時は教室に前と後の2列に机を置く。 今回は2人だけだから机は
     真中のあたりに置いてあった。 もしも人数が多かったら間違いなく窓に近い後列の
     生徒は怪我を負っていただろう。 さらに生徒2人が体力的に頼もしい男子だったこと。
     本当に運がよかった。

     台風19号は27日の18時30分頃、山口県の西部を通過したあと日本海に出たのだという。
     にゃお家が停電した頃、にゃお県に最接近状態だったのかもしれない。 台風は進路方向に
     向かって右側が大きな被害を受ける。 反時計回りに巻き込む台風の強い風を受けるからだ。

     あちらこちらで大きな被害が出ていた。 近所の伯母の家も、南に面した縁側のガラス戸が
     強風で破れ、家の中に吹き込んだ風は逃げ場を失って天井を押し上げた。 まさかこんなに
     猛烈なものだと予想していなくて、縁側に雨戸を立てていなかったのだ。
     にゃお家も2階の教室に使っていた部屋の押し入れのふすまと、隣の部屋とを仕切るふすま
     6枚が雨風で吹き飛ばされて壊れたり、破れたりした。 スレートの屋根は丸太が飛んだ
     衝撃であちこちに穴が開いたり、陥没が出来ていた。 1階の元、店をしていた部分の
     床から天井までの大きな1枚ガラスが壊れなかったのは奇跡だった。 停電もその日の
     うちに復旧したし、断水にもならなかった。 あとから考えてみれば、被害は本当に最小限で
     済んだと言えるだろう。 丸太さえ飛んでこなければ、被害はまるっきり出なかったかもしれない。

     台風のせいでガラス屋もふすま屋も大繁盛で、品薄状態。 なかなか修理の順番が回って
     来なくて1ヶ月近く窓には板が打ち付けられたままだった。 日中も薄暗く陰気だったし
     まだ暑く感じる日もある時期だから、これはかなり困ったものだった。 

     この時の教訓を肝に銘じたにゃおは、その後、台風が接近している時は、必ず授業を
     休みにするようにした。 にゃおにとってはこの台風が人生で一番恐ろしいものだった。
     もう、こんな思いを二度としたくないものだ。

                目次へ     HOME