つくし(土筆)

     にゃおが中学生くらいの頃までは、春が近づくと、そこかしこに『つくし』が生えた。
     田舎だったせいもあるけど、そりゃあ、もう群生状態。 ごく小さな子供の頃は摘んで遊ぶだけ。

     母の実家である祖母の家に遊びに行った時の事、どういうわけでだか、祖母がつくしを
     煮てあげると言い出した。 つくしを煮る? 煮てどうする?? にゃおにとってはつくしは
     雑草と同じ程度の意味しか持ってなかった。 それを食べる。 つくしって食べられたの?

     祖母の家はドがつく田舎(苦笑)  まわりは田んぼと畑と山ばかり。 祖母の住んでいた
     場所にだって家は数軒しかなかったくらいの場所。 つくしなんて見渡す限りどこまでも
     果てしなく生えていたのだった。
     祖母と二人だったか、母もいたか記憶があいまいだけど、とにかく大きな青いザルを持って
     つくしを摘んだ事だけは覚えている。 つくしの節についている袴があるけど、上から
     2つ目くらいの袴のところで摘むといいと教えられた。 それより下は固い(にゃお地域の
     方言でキスイと言う)からなんだって。

     摘んだつくしは家に帰ると丁寧に袴を取る。 この部分は食べられない。 その時つくしの
     ぼうしのところにたくさん花粉が出ているものも、できたら取り除く。 食べていけない事は
     ないけど、できたら食べない方がいいのだと祖母が言った。 この袴を取る作業が一番
     大変で退屈。 取るうちに指先が真っ黒になって、あとで洗ったって取れやしないのだ。
     そうして苦労して袴を取ったつくしを水洗いして、祖母は鍋で炒め煮にしてくれた。
     出来上がったものは、いわゆる『つくしの佃煮』。 甘辛い味付けで、食感がシャキシャキしてて
     とっても美味しかった。 このつくしだけで何杯でもご飯がおかわりできるくらいだった。

     その後、どういうわけか、家でつくしを煮て食べた事はなかった。 つくしは煮ると量が減る。
     だから、一皿分作ろうとするだけでも、相当量を摘まなくてはならなかったし、そうなると
     袴取りも大変だ。 さらに母がつくしを自分で煮た事がないという理由もあって、つくし料理に
     ありつく事がなかったのだと思う。 
     やがて妹が保育所に通うくらいの頃になって、なぜだか、にゃおは突然、母に宣言した。

     「つくしを取ってくるから煮て」

     母は当時、食品雑貨の店を一人で切り盛りしていたし、つくしを取ったり袴を取ったりする
     事も難しかったが、にゃおが袴も取るからという約束で煮てくれる事になった。
     どうして、つくしが食べたいなんて急に思ったのかわからない。 だけど、にゃおは妹の
     手を引いて大きなザルを抱え、つくし取りにでかけたのだった。 近所にあった中学校の
     土手や田んぼの畦(あぜ)に、つくしは無造作に生えていた。 妹はぎこちない手つきで
     摘んだ。 二人でずいぶん遠くまで摘に行き、ザルから溢れるくらいのつくしを家に持ち帰った。
     今度は袴を取る。 妹も手伝ってくれるものの、綺麗に取り切れないから結局、にゃおが
     二度手間で取るはめになったけど、どうにか真っ黒い指先と引き換えに、つくしの下準備が
     整った。 母はたくさんとって来たんだねと目を細めながら、祖母の作ったつくしの味を
     思い出すように煮てくれた。 あんなにザルからこぼれそうだったつくしは、両手に乗る程度の
     量に減ってしまっていたが、いつもは食の細い妹までが、美味しいねと、ご飯のおかわりをした。

     その後、環境の変化と共に生えるつくしが減ってきたこともあって、一度もつくしを煮た料理を
     したことがない。 ここ数年、にゃおの子供が田んぼの畦(あぜ)から取ってきたと言って
     差し出した数本のつくしをお味噌汁に入れてやったくらいだ。

     どこか遠くへ行けば、十分つくしを取る事もできるんだろうな。
     もう一度、つくしの煮物を食べたいな。 今度はにゃおが作ってさ。
     祖母も母もまだ健在な今のうちに・・・

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