笑顔の行方

     アメリカにホームステイしていた時、言葉の壁が厚く、コミュニケーションが取りにくいから、
     せめていつも笑顔でいようと心に決めた。 無理やりにでも笑顔を作っていた。
     夜、自分の部屋に戻ってふと鏡を見ると、そこには笑った自分が映っていた。 
     「もう、笑ってなくていいんだってば」
     両手で顔の筋肉をほぐすようにモミモミすると、そこには笑い疲れた自分が映っていた。
     それでも、ホストファミリーと別れる時に、いつも笑顔で気持ちがよかった・・・みたいなことを
     言われて、自分がしてきた努力は無駄ではなかったのだなと感じたものだ。


     大人になるにつれて、社会の一員として動かなくてはいけない立場になってくる。
     人とのコミュニケーションは欠かせない。 結婚前、自分は自宅で中学生相手に英語を教えて
     いたけれど、どうしても生徒の親と接しなくてはならなかった。 当時、自宅は母が店を
     営んでいたので、自分も店番に立つことがあり、客と接する機会も多かった。
     結婚すれば、新しい土地の近所の人とのお付き合いがあるし、子供が集団生活を始めれば
     そこでの新しい出会いと、付き合いが待っている。

     自分はコミュニケーションの基本たるものは、「挨拶」だと思っている。
     特別何かを話すわけでなくても、日常の挨拶を交わすことで、お互いにスムーズな関係を
     保ちやすいのではないかと考えている。 それが自分の経験から達した結論だ。 だから
     できるだけ、自分から挨拶をする。 笑顔を添えて。

     例えば朝。 誰か顔見知りの人と出会った時、貴方はどんな態度を取るだろう。
     仲のいい友達や、気の置けない知り合いなら、「おはよう」から始まって、にこやかに会話も
     弾むかもしれない。 そうではなくて、本当に顔を知ってるくらいの人だったら?

     「おはようございます」と言葉を出す? それとも黙って会釈だけ?
     その時は笑顔で? 無表情で?
     もしかしたら、気がつかないふりでもして、無視して通り過ぎるとか?

     自分と同じ組(班)の人との出来事。
     回覧版を回そうと次の家に向かっていた時、とあるお宅のご主人が出勤しようとしているところに、
     出くわした。 「おはようございます」と声をかけたのだけど、相手は、自分の顔を一瞥しただけで
     無言で通り過ぎた。 他には誰もいない。 自分とその人の2人だけ。 挨拶されたのが
     自分以外の人だと勘違いするわけもない。 すれ違ったのだから。 
     何様のつもりなんだ! 猛烈に腹が立った。 いい大人(相手は60歳を過ぎている)が
     挨拶のひとつもできないのか?! なんで、面と向かってながら無視されなくては
     ならないのかと、思い当たるふしがなかっただけに悔し涙が滲んだ。

     同じく、同じ組の奥様。 出会えば、挨拶はするけれど、いつも無表情。 声も小さくて
     やっと聞き取れる程度。 あんまり気持ちのいい感じはしないけど、無視されるよりはいいか。

     毎朝、家の前を通って通勤する背広姿のオジサン。 田んぼで用事をしていた自分の
     そばを通った。 水音でオジサンの通るのに気がつかなかったのだけど、オジサン、無言で
     通り過ぎた。 こちらから挨拶した時は挨拶を返すけど、オジサンからはしたことはない
     年の頃は40代。 会社ではそれなりの役職についた人だろう。 あんな人が会社で
     えらそうに部下にあれこれ言ってても、ちょっとも重みがないな。 後姿にため息。

     毎日のように同じ場所で出会う、見知らぬおばさん。 なにげなく挨拶をしていたのだけど
     偶然、話を交わした時に、別の場所で主人と子供が散歩をしているところを何度も見かけて
     たんだとか。 そのおばさんは主人のことをよく知っている人で、「あんたが○○さんとこの
     奥さんだったんじゃねぇ」と言われた時には、普段からちゃんと挨拶しておいてよかったと
     心底思った。

     保育所に通うようになった子供。 送り迎えの時に、たくさんのお母さん、お父さんに会う。
     そのたびに、「おはようございます」「こんにちは」を繰り返す。 もちろん笑顔で。
     だけど相手の反応は様々だ。 にこやかに挨拶を返してくれる人。 とりあえず挨拶だけ
     返してくれる人、黙って会釈する人。 さすがに無視する人は少ない。 でも、自分が挨拶しないで
     黙っていたら、何も言わずに通り過ぎる人は多い。 
     なんで? 人から挨拶されないとダメなわけ?
     それとも、挨拶が面倒臭い?
     もしかしたら、自分が嫌われてる?
     昔から小心者で人からどう思われているかが気になってしまうタイプの自分。
     くだらないことだけど、なんだか気分が暗くなってしまう。

     それでも挨拶は続ける。 最初は、無表情気味にボソ・・・と挨拶を返すだけだった人が
     そのうち笑顔になってくれたりする。 こんな時はとても嬉しいものだ。

     結婚した年にいきなり組長になり、町内婦人部の役員をしたけれど、そのうち保育所や
     小学校という場所で役員になることもあるだろう。
     人の前に立って何かをしなければならない時、普段、挨拶もしない、つんけんとした態度の
     人間に誰が快く協力してくれるだろう。 その時だけ愛想よく振舞っても、みんなしらけるだけだ。
     社会の一員として生活している限り、どこかで誰かの助けを受けなくてはならないのだから
     不必要な敵を作ることはない。

     姑息な手段だ。 計算した上での挨拶なんて意味がない。
     貴方はそう思うだろうか。 自分はそうは思わない。 自分だって相手がどんな思惑で
     挨拶してきたとしても、笑顔で挨拶されたら、やっぱり気持ちがいいし、嬉しい。
     「笑顔の行方」は必ず自分に返ってくると信じている。

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