薄れゆく夏の風景

     誰にでも想い出の風景がある。 
     それは楽しかった風景かもしれないし、悲しかった風景かもしれない。 
     いづれにしても心から離れない、決して消え去ることのない大切な風景に違いない・・・

     人生を長い一本道だと例えるならば、認めたくはないけれど、そろそろ中間地点なるものが
     見えてきそうな年まで生きてきてしまった。 でも人類の歴史からしたらほんの
     わずかな長さでしかない。 それなのに思い返してみると自分の中から消えてしまった
     風景が多いことに気が付いた。

     自分が中学生の頃まではカブト虫だとクワガタ虫だのなんていうものは
     身近な存在だった。 夜に外灯をつけて眠れば翌朝にはその明かりを目指して
     やってきたクワガタが壁に張り付いていたり、地面を這いまわっていたものだ。
     学校へ持ち寄ったクワガタで相撲を取らせたり、カブト虫がどれくらいの重さのものを
     引っ張ることができるかを実験したり・・・ 誰も苦労することなくそれらの昆虫と
     遭遇できた時代だった。 今やニュースなどで何センチのものが何百万円もの高値で
     取引されるなんて騒がれてるけれど、あのころはそれこそ5センチを超える大きさの
     ものなんてザラにいたものだ。 あの時の昆虫たちが、これほどの希少価値になるなんて
     思ってもみなかった。

     ホタルも同様だ。 夜になれば鈴虫などの音色に混ざって光の乱舞が普通のように
     見られたのに、彼らも自分の中からすっかり姿を消してしまった。 住処である川が
     汚染されたり、護岸工事でコンクリートで固められてはひとたまりもなかっただろう。
     ホタルが群れ飛ぶ風景を復活させんと頑張っている人たちもいる。 でも、日本全国
     どこででも・・・というわけにはもういかないだろう。 そこの場所でしか見られない
     貴重なものになってしまった。 自分の子供がホタルを見ることができるかどうかさえ
     怪しくなってしまっている。

     これらは自然界の変化に敏感なものだから、人間の傲慢な生活態度とともに姿を
     消してゆくのはしかたのないことのように思っていた。 けれど、まさかこれまでも?と
     思う事柄があった。
     小学生・中学生のころは終業式には先生から一枚のカードが配られた。
     「ラジオ体操出席カード」である。 小学生は必ず、中学生は任意で参加することになっていた。
     毎朝、決まった場所に集まってラジオ体操をする。 それが終わるとリーダーと呼ばれる人に
     出席のハンコを押してもらうのだ。 日曜日とお盆の3日間、あとは雨が激しい日だけがお休み。
     誰もがそれを疑うことはなかった。 だから朝、親に起こされ、どんなにたいぎくて、ぶつぶつ文句を
     いいながらでもラジオ体操を休んだことはなかった。
     けれど、どうやら今はこのラジオ体操が「あぶない」らしい。
     自分の近所でも、朝の定時に近づくと子供たちが三々五々集まりだし、賑やかな子供の声が響く。 
     しばらくすると自分も子供のころから慣れ親しんだ音楽が流れてくる。

        ♪  新しい朝が来た  希望の朝だ・・・  ♪

     それがある頃から、違和感を感じ始めた。 確かに子供の声がする。 いつもの音楽も流れてくる。 
     だけど・・・なんか違う・・・ 
     土曜日の朝には体操の気配がないのだ。 お盆期間中も一週間くらいない。
     そして8月下旬にさしかかると、体操の音楽はパッタリと止み、再開されることなく
     新学期の9月を迎えるのだ。 ヘンだな? どうしたのかな?
     なんでも最近は土日の休みは当たり前。 8月も最後の一週間は体操がないところが
     多いらしい(他地域はどうかわからないけど)。 そうか・・・時代はやっぱり変わるんだな。 
     まさかここまではっきりと変わるとは思わなかったけど・・・
     一抹の寂しさを抱えながら新しい夏を迎える。 
     なんとその年、ラジオ体操の声は聞こえてこなかった。 どこかに場所を移したのかな?
     でもどんな場所に移ったとしても自分の家の前を通らなければならない子供たちが何人かいる。
     その子たちの姿や気配がない。 まさか、ラジオ体操そのものがなくなったのかな?
     朝早くに起きてラジオ体操をすることがいいことだとは言わない。 一同に集って同じことをするのは
     軍国主義の名残だと言う人もいる。 だけど、ちょっと違う。 自分が参加する立場の頃には
     思ってもみなかったけれど、毎朝顔を合わせることでなんとなくお互いの存在を確認することが出来た。
     いつもいる顔が見えないとどうしたのかなって思ったりしたものだ(その子が嫌いな子であっても)
     コミュニケーションが希薄だとされる今、それすらも失って、自分たちはどうなって行くのだろう・・・  

     時々、母の若い頃や自分が赤ちゃんだった頃の写真を見ることがある。
     そこには自分が今知ってる風景が何十年もの時をさかのぼった姿で残っている。
     道路はでこぼこの砂利道。 田んぼしかなくて家がポツンポツンと建ってるだけ。
     それもみんな昔のわらぶき屋根の・・・ 写ってる子供はどの子も、田舎くさい。
     もちろん、そういう風景は時の流れとともに変化してゆくのはわかっていた。 
     時代は変わる。 いつか映画で観たような近未来の風景になる日も近いのかもしれない。
     だけど、だからこそ失ってはいけない風景もあるような気がする。 

     「懐かしい」と感じている自分に気がつく時、いつも出るのはため息だ・・・

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