携帯電話 U

     昔、祖父母の家には、壁掛けの電話があった。 箱の横にラッパ状の黒い受話器がついていて、
     それを取って耳にあて、もうひとつ箱の正面からつき出たラッパ状の通話口に向かって話す。
     自分が、意識したころの電話は既に、黒いアナログ式のダイヤル電話だった。

     小学生の中学年の頃、父が大きな黒いショルダーバッグを持って帰った。 母と自分を手招き
     すると、そのバッグのふたをひょいとめくって見せた。 中には四角い機械。 その上に螺旋コードで
     つながれた四角張った細長い機械。 父は、これは電話なのだと自分たちに告げた。

     そもそも、電話というものは、公衆電話を始めとして、壁からコードが出ていて機械につながっている
     ものだ。 そして、その機械からさらに螺旋コードで受話器がつながっている。 こんな風に、
     ショルダーバッグに入るような代物ではなかったのだ。 
     『携帯電話』
     この言葉を初めて聞いた。 
     世の中とはなんとすごいものなのだろう。 あの電話が持ち運べてしまうのだ。
     どこにいても、電話がかけられるなんて、夢にも思ってはいなかったことだった。
     父は自分たちの目の前で、得意そうに受話器を上げ、四角い機械についている番号ボタンを
     押した。 ボタン式のものを見るのも、これが初めてだった。 やがて、トゥルルルル・・・と
     聞きなれた音がして、誰かの声がした。 父がひとしきり話して受話器を置くまで、息をつめて
     見ていたものだ。 持たせてもらった、それは、ずっしりと重く、子供の自分にはとても運べる
     ようなものではなかった。


     時が流れる。
     どの家にもアナログ式の黒いダイヤル電話しかなかったのに、プッシュフォンなるものが登場する。
     ピッポッパ・・・の音が珍しかった。 高価な品物で、まだほとんどの人が持ってはいなかった。
     街からは、公衆電話と言えば、赤電話やピンク電話だったのが、いつの間にか姿を消した。
     代わって登場したグリーン色の公衆電話も、始めはダイヤル式だったが、今ではプッシュ式に
     代わっている。 さらに家庭用にはコードレスフォンだの、ファックスフォンだのが現れた。

     父の持っていた、大きなショルダー型の携帯電話以降、自動車電話くらいは知っていたが、
     大人になってずいぶん経つまで、携帯の「け」の字にも関係ない生活を送ってきた。
     携帯電話が一般に普及してきたのは、ここ10年くらいのものかもしれない。 それまでは
     「携帯電話=高価」という図式があって、おえらい社長さんだの、お金持ちだのが持っている
     くらいに過ぎなかった。

     今はどうだろう? 恐ろしいスピードで携帯電話は一般生活に浸透し、いまや一人が一台持つ
     ような勢いになっている。 高価だったはずの品物も、どんどん安く手に入りやすくなり、気軽に
     新機種に買い換えたり、廃棄してしまう。 サイズも技術の進歩に伴って、どんどん小型・軽量化して
     いる。 そのくせ、その小さな中身は電話機能だけでなく、ゲームやメールやインターネット、
     そして銀行等への振込みなど、多種多彩でまるで魔法の小箱のようだ。 自分が持っている
     携帯電話ですら、全機能の何分の一も使いこなせてはいないだろう。

     もう携帯電話のない生活は考えられないに違いない。 こんなに便利で楽しい魔法の小箱を
     手放す勇気など持てやしない。

     こうして、どんどん知らないうちに機械に支配されていくのかもしれない。

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