オリジナル

     どんな世界でも、『リメイク』ってのは、よくあることらしい。
     音楽の世界だったら、昔、自分が出した曲を新たに録音しなおして世に出すとか、人様の曲を
     歌わせてもらったりとか。
     映画の世界でも、昔の映画を現代風にアレンジして撮り直すってことは多い。

     ところが、自分はこの『リメイク』が、とっても苦手だったりする。

     大好きなアーティスト、オフコース(もう解散してるけど)。 そこからソロ活動をしている小田さん。
     彼ら(彼)の楽曲はどれも好きだ。 どのアルバムも揃えてるし、EP時代のシングルレコードも
     可能な限り手に入れた。 手に入らないものは、ファンクラブのような場所を通して、カセット
     テープでダビングしてもらったりもした。 どちらかと言えば、面倒くさがり屋の自分。 その自分が
     そこまでするくらい思い入れが強かったってこと。
     だけど、どうしても受け付けられないのが、『リメイク』ものなのだ。

     小田さんがソロになってから出したCDの中に、オフコース時代の曲を収録したものがある。
     わー また、あの曲が聞けるんだ♪ と喜んで耳を傾けるのだけど何か違う。 自分の記憶している
     曲とは違う。 歌い方が違うのだ。 アレンジされてしまってるから。

     本人が何かで語っていた。
     「同じ物を録音してもつまらない。 どうせなら、あの時よりも良いものにしたい」
     彼にしたら、昔の曲を今、聴くと、あそこも直したい、ここもこんな風にした方が良かった・・・と
     いう部分があって、どうせなら、納得したものを再び世に出したいと思う気持ちがあるのだろう。 
     アーティストとしては当然の気持ちなんだろうな。

     ああ、だけど・・・
     あの時、あの場所で、あの気持ちで聴いた曲。
     それは、そのままで、そこにあって欲しいっていうのが自分の想い。
     アレンジされると、なんだか自分の想いまでもが変えられてしまうような、そんな錯覚をする。

     話が、ちょっと反れるけど、自分の結婚式の時のこと。
     式の司会者担当の人と打ち合わせをしていて、「何か、セレモニーで使って欲しい曲はありますか」と
     訊かれた。 にゃおは即座に言った。

     「特に希望はないので、そちらで選んでもらって結構ですが、長淵剛の『乾杯』だけは
      使わないでください」

     司会者の人はずっこけた。 普通、この曲は絶対使ってくださいっていうリクエストはあっても
     使わないでくださいっていうリクエストをする人なんていないんだそうだ。 司会者の人は
     戸惑ったように笑いながら、「わかりました」とメモしてたっけ。
     司会者の人に説明はしなかったけど、それには、ちゃんとした理由があった。
     長淵剛は好きなアーティストだった。 デビュー当時の『順子』という曲の頃から好きで
     レコードも買った。 『乾杯』が発表された時も、いい曲だなぁと感動したくらいだ。
     それじゃ、どうしてかって?
     理由のひとつは彼自身のスキャンダル。
     それが例え、遠い過去の出来事であろうとも、新しい門出にふさわしくないと思ったのだ。
     そして最大の理由は・・・
     一時期、音楽活動から離れてた彼が再びステージに戻ってきた時、『乾杯』を聴いた。 
     自分の中に愕然とするものがあった。

     その歌い方はなに?

     ある部分では音を溜めて歌い、ある所では早口のように流し、ある所では異常にビブラートを
     効かせて声を張り上げる。 「れ」の発音を英語風に「R」を強調して歌った。
     彼としては、その時の感情を込めて歌ったに違いない。 演歌の歌手が自分流にアレンジして、
     譜面にない歌い方をするように(他のアーティストだってやってるけど)。
     それが自分の中では、とても異質に感じられて、素直に唄に入っていけなかった。
     あの最初の頃の、素朴で、素直な歌い方はどこへ行った? あの唄に感動したのに・・・
     どうやら彼は歌い方そのものが変わってしまったようで、どの昔の唄も自分には耳障りに
     聞こえるだけになってしまった。 そう感じるのは自分だけで、段々と歌い方が変わって
     行くのは当たり前のことなのだろうけど。

     どうやら自分は「オリジナル」というものに強い執着心があるようだ。
     この場合の「オリジナル」というのは、自分が一番初めに体験したもの・・・という感じかもしれない。
     まるで、卵から孵ったヒナが一番最初に見たものを母親として認識してしまい、それが生涯、
     変わらないのと同じように。 自分に取っては、初めて経験したものがベストのように感じて
     しまう傾向があるのかもしれない。

     例えば料理。 
     料理というものは、一応のレシピがあるけど、自分の創意工夫次第では限りなく無限に
     広がっていく世界だと思う。
     だけど、自分は、ひとつの型から出たものが、どうも好きになれない。
     典型的なものがカレーライス。 自分が母親に作ってもらったカレーは、肉とタマネギと
     ジャガイモ、ニンジンが入ったものだった。 肉はその時の財布の中身しだいで鶏肉だったり
     豚肉だったり牛肉だったりしたのだけど。 それがあるから、未だにカレーの具に、それ以外の
     ものを入れることに抵抗がある。 世の中には野菜カレーだとか、いろんなものが入った
     いろんなタイプのカレーがあるにもかかわらず、それらがどうしても自分の中で許せなくて
     いつもワンパターンのものを作ってしまう。 これを入れてみたら、もっと美味しくなるかもとか
     この調味料を入れてみると、どうかな?なんてチャレンジ精神がまったくない。 そして始末が
     悪いことに、そのワンパターンなものが自分の中では一番美味しいと感じてしまっている。
     こんな自分の料理を毎日食べさせられる家族は可哀想だな・・・と思ったりもするけど
     それでも、やっぱりワンパターンなものを作りつづける自分・・・(苦笑)

     映画やテレビドラマでも、昔のリメイクものがたくさんある。
     『水戸黄門』は国民的人気のドラマで、何十年も続く長寿番組だ。 リメイクとは違うけど
     だんだんと役を演じる人物が交代して、今じゃ、初期のメンバーなんて、ひとりいるかどうか。
     自分は黄門さま役の俳優が交代した時点から見なくなった。 自分にとっては東野英二郎の
     水戸黄門が『黄門さま』なのであって、どんなに素敵な俳優が黄門さまを演じたって、それは
     東野英二郎の二番煎じでしかないのだ。

     あれ? ちょっと待った。
     今(2004年3月現在)、自分がハマってるドラマの『白い巨塔』。 これって、ずいぶん前に
     今は亡き、田宮二郎の主演で放送されたやつのリメイクなんじゃないの? なんでリメイクものが
     嫌いなんて言いながら、毎週、熱くなって見てるわけ???

     この場合、田宮二郎主演でのドラマが放送されていた当時、自分はまだ子供で、見た記憶は
     あるものの、どんな内容だったのか、ちっとも覚えていない。 ただ、『田宮二郎=白い巨塔』と
     いう図式があるだけ。 だから、自分にとっては、今、放送されているドラマがオリジナルなわけだ。
     もしも、はっきりと『田宮二郎の白い巨塔』を覚えていたら、今のドラマは見てなかったかもしれない。

     型にはまったものしか受け入れる事ができないなんて、つまんない人生だな。
     オリジナルから進化したものを許容する事ができないなんて、心が狭い証拠なんだろうな。

     いつか、自分の中から、殻を破って別の世界を受け入れることができるのかな?
     もう一度、孵化するように・・・

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