その日、雪が降っていた。

 俺がこの街に戻ってきた、あの日のように。

 ただ、今俺のそばに名雪はいない。

 粉雪が冬の空に明かりを灯すこの日、名雪が行方不明になった。



 学校、知人の家、商店街。

 その他名雪の行きそうな場所へ、俺は走った。

 頭に積もった雪が冷たい。

 傘なんか邪魔になるだけだから差していない。

 今はとにかく、一秒でも早く名雪の顔が見たくて、俺は走り続けた。

「名雪……!!」

 返事は聞こえない。

「名雪……名雪…!!」

 それでも俺は愛する人の名前を叫び続けた。

 道路に積もる雪に、大股の足跡が形を残す。

 俺の足跡の他に、別のそれは見あたらなかった。

 ちょうど冬の天空から新雪が降る時間帯だった。



 角を曲がった所で足を止めた。

 切れた息が冷え切った空気を白く染める。

 俺が走り出してからかれこれ1時間。

 まだ、名雪は見つからない。

「畜生………畜生っ!!」

 寒さと走りすぎによる疲労でガクガク震える足を拳で殴りつけ、俺は叫び続けた。

「畜生っ!畜生っ!畜生ぉぉぉぉぉ!!!!」

 しとしとと降ってくる雪が鬱陶しくも感じた。

 名雪が辛い思いをしてるのに、俺はその名雪のそばにもいてやれない。

 名雪のそばで、名雪の隣で、言葉の一つかけてやることもできない。

 そんな自分がこれほどなく腹立たしかった。



 その日の雪は白かった。

 真っ白だった。

 世界中の白を、ここに集めたような。



「………祐一さん?」

 不意に後ろから名前を呼ばれて、俺は振り返った。

 目の前の光景に、おもわず目を見開く。

 そこには、名雪がいた。

 いや、一瞬そう見えただけだった。

 その人は名雪ではなかった。

「………秋子さん」

 見間違えるのも無理はない。

 名雪と、今俺の前にいる秋子さんは実の親子だ。

 それから俺が何も言えないでいると、秋子さんはいつもそうするように、にっこりと俺に微笑みかけてきた。

「どうしたんですか?びしょぬれじゃないですか」

 街中が白いヴェールを覆っている中、綺麗に映える赤い傘を差して微笑む秋子さんの姿は、とても絵になっていた。

 でも、今の俺に秋子さんに合わせる顔はなかった。

「……………」

「雪の日は、傘を忘れちゃダメですよ」

 その屈託のない笑顔に罪悪感までも感じる。

 俯いたまま、顔をあげることができない。



 前髪に付いた雪が解けて、水滴となって足下に落ちた。



「もしかして、名雪を捜してるんですか?」

 突然の秋子さんの言葉。

 俺の身体が反射的にピクッと動く。

 なぜこの人は、こんなにも丁寧に人の心が察せるのだろう。

 その丁寧さが、今の俺には、辛く、痛かった。

「……どこを捜しても……見つからないんです……」

 そう答えた自分が情けなかった。

 自分が思いつく場所を探してみても、名雪はいなかった。

 ということは、名雪は俺の知らない場所にいる。

 愛する人のいる場所を、俺は知らない。

 そう思うと、自分の知っている名雪が、どこか遠くに行ってしまう気がして、胸の奥からやるせない感情が溢れ出す。



「名雪なら、きっとあそこね」



 その言葉に、俺は瞬間的に顔を上げた。

「秋子さんっ、知ってるんですか!?」

 俺の問いかけに、秋子さんは再びにっこりと微笑む。

「ついてらっしゃい、祐一さん」

 秋子さんはそう言って、雪で濡れた俺に傘を差し出した。

 



「名雪ね」

 雪道を歩く2人の足音を、1本の傘の中自分の濡れた服が当たらないように気をつけながら何気なく聞き入っていると、そこに秋子さんの言葉が入ってきた。

「あの子、小さい頃から、何か寂しいことや悲しいことがあった時は、よく1人で家を飛び出して行ってたんですよ」

 楽しそうに過去を語る秋子さん。

 その声を聞いていると、なぜだか心がほっとする。

「へぇ、名雪らしいですね」

 そのお陰か、さっきよりだいぶ落ち着きを取り戻した俺は、興味のある内容におもわず笑みを漏らした。

 そんな俺の表情を見て、さも「そうですね」と言うように微笑してから、秋子さんは続けた。

「それでね、そんな時はいつも名雪、決まって同じ場所にいるんですよ」

「ははっ、単純なヤツですね……それで、どこなんですか?」

 俺がそう問いかけると、秋子さんは一度空を見上げるような素振りをしてから、ゆっくりと口を開いて、ささやかに、しかしはっきりと、俺にこう告げた。



「名雪と一緒に真っ白な初雪を見た、思い出の場所ですよ…」



 とても優しい言葉だった。

 慈愛に満ちた言葉だった。

 母の子に対する愛情がたくさんつまった、そんな言葉だった。

 色に例えるなら、今もしんしんと天から降る、真っ白な雪色。





 2人は公園の前に来ていた。

 街の一番外れにある、小さな公園。

「ここですよ」

 秋子さんはそう教えてくれた。

 ここは学校や商店街とは全く反対の方角で、俺がほとんど踏み入れたことのない場所だった。

 実際、こんな所に公園があったことも、今日初めて知る。

「たぶん、ここにいますよ」

 なぜか、自分もそんな気がした。



 公園の入り口に足を踏み入れる。

 小さな敷地内を軽く見回した所で、俺は目を見開いた。

 隅の砂場、雪で白くなった所に、一人の人影がたたずんでいる。

「名雪っ!!」

 なんの迷いもなくその名前を叫んだ。

 すぐに走り出したい衝動にかられたが、秋子さんが傘の中に入っている以上、手持ちの傘を投げ出すわけにはいかない。

 そんなことで俺が躊躇していると、やはりそんな俺の気持ちを察してくれた秋子さんが手を差し伸べた。

 赤い傘を手渡し、すぐにも駆け出そうとした所で、

「祐一さん」

 俺は名前を呼ばれて、振り返った。

「名雪を、よろしくお願いしますね」

 少し戸惑いはしたものの、俺は短く「はい」と答えてから、再び名雪の元へ駆け寄った。



「名雪っ!」

 返事はなかった。

「名雪っ!名雪っっ!!」

 自らの膝に顔を埋めて座っている少女を、俺は何度も呼んだ。

 やがて、名雪の身体が震えていることに気づく。

「名雪………泣いてるのか…?」

 微かな声でそう問いかけた瞬間、名雪が勢いよく顔を上げた。



 目から大粒の涙が、頬を伝っていた。



「ゆういちっっっ!!」

 そう俺の名前を叫んで、名雪は勢いよく俺の胸に飛び込んできた。

 辺り一帯に響くような大声で、ひたすら泣き叫びながら。

 まるで子供のように、悲しい感情をむき出しにして。

「バカ……泣いてんじゃねぇよ…」

 そんな名雪を俺は優しく抱きしめる。

「だって……だってっ!!」

 名雪の涙が、雪で濡れた俺の服をさらに濡らした。

「ひっく……だって…おかあ……ひっく…さんがっ!」

「なに言ってんだよ……秋子さんならそこに…」



 振り向いた所で、俺の動きが止まった。

 公園の入り口に、秋子さんの姿はなかった。







 赤い傘が開かれたまま、その場に置かれていた。







「えっく……ひっく…おかあさん……おかあさぁん………!!」











 名雪の鳴き声が、少し前の出来事を、俺の脳裏に思い出させた。











 秋子さんが事故に遭った。



 それを聞いた俺と名雪は、すぐに病院へ駆けつけた。



 状況は重体らしい。



 名雪が泣きながら秋子さんの手を握って叫んでいる。



 「おかあさん!おかあさん!」と。



 医者の様子を見て、俺は全てを察した。







 もう二度と目を覚ますことはないだろう……と。







 そんな時、奇跡は起きた。



 名雪の握っていた手が、微かな動きを見せたのだ。



 「おかあさんっっ!!」



 「秋子さんっっ!!」



 名雪と俺、同時に声を上げる。





 秋子さんは弱々しい動きで顔を俺たちに向け、











「名雪……泣いてはダメよ…………祐一さん、名雪をよろしくお願いしますね…………」











 最期にそう言って、全身の力を抜き、瞼を閉じた。

















 名雪が行方不明になったのは、そういうことだったんだ…………



 そして、俺はその悲しみを胸の奥にしまい込んでしまったから…………












 動かなくなった秋子さんは、そんな俺の前に現れた。



 娘の居場所を知らせるために。



 死してなお、我が子への愛情を忘れなかった秋子さん。



 俺にとっても、本当の母親同然の存在だった秋子さん。



 偉大な人だと思った。



 言葉じゃ表せないくらい、偉大な人だと思った。



 いくら俺が名雪を想っても、絶対に越えられないと思った。







 「名雪を、よろしくお願いしますね」



 秋子さんの最期の言葉が反響する。











 自分の頬に、涙が伝っていた。



 腕の中で泣きじゃくる名雪を懸命に抱き寄せて。



 俺は…………



 俺は…………















 流れ出す涙を、止めることができなかった…………















 奇跡は、二度…………







 秋子さんの手で、二度、起こされたんだ…………



















 その日の雪は白かった。



 真っ白だった。



 世界中の白を、ここに集めたような。
























 天からしんしんと降る白に、秋子さんの赤い傘は、まぶしく、鮮やかに映えていた。




















                                   ーFIN