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3/29(金) 「飛行機に乗りたい」
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最近むしょうに飛行機に乗りたくてならない。そのことを周囲の友人に話したら、ほとんどの人がすかさず「どこに行くの?」と尋ねてきた(例外的に約2名ほど「政治目的じゃないよね?」と心配する者がいた。なるほど、甘枝はそう心配させるに充分な素質を持っている。よくぞ言ってくれた。あとで体育館の裏に呼び出すからね) 飛行機、と聞いて行き先を連想した彼らは、全員が国内海外を問わず幾らか足跡を残してきた経験のある、つまりは旅慣れた旅好きの人であった。目的地が先にあって、飛行機はそこに至る手段として捉えている人々である。 一方甘枝は、どちらかというと旅先は二の次で、飛行機に乗ること自体が目的と化している人である。滅多に旅行をしないせいか、平成14年26才現在の今にしてなお、飛行機を遊園地のアトラクションの一番上等なやつのように考えている。まだまだ珍しいし、特別な乗り物だ。エポックメイキング的なフレーズでいえば「大化の改新」「明治維新」「文明開化」の次あたりに「飛行機」が来る。 ちなみにその次は「機会音痴の母がいつのまにか持っていた携帯電話」だ。母が携帯電話を人並みに使いこなしていることも驚きだったが、甘枝がそのことを知った時、すでに購入から数カ月が経過していたのがさらに衝撃だった。しかもそれは、本人から聞いて知ったわけではない。ある時父が電話でうっかり漏らした一言によって突如発覚したのである。その後ほどなくして、母はいかにも渋々といった感じで電話番号を教えてくれた。この調子でいけば、10年後くらいにはめでたく母のメル友になれるのではないかと思う。十年愛を歌った大江千里さん、娘がなんとか持ちこたえられるよう祈っててください。 と、それはともかく、旅慣れた人々の口をつく「どこに行くの?」は、甘枝を少なからず動揺させた。彼らの発想が、あまりに簡潔で正当なものだったからである。だから彼らは身軽に飛び出せるのだ。明確な意思あればこそ。 その点、旅に対する意思も目的も不明確で、その不明確さだけが異様に明確な甘枝は、ただ曖昧に笑ってお茶を濁すほかなかった。しいて「ここ」と挙げるとするなれば、広島空港くらいしか思いつかない。それはそうだ。甘枝は「行きたい」のではなく「乗りたい」のだから。彼らの出発点が甘枝には到達点なのだから。 しかし、その論理でいくと、甘枝は飛行機に乗れるのなら行き先が那覇だろうがヒースローだろうがドミニカ共和国だろうがどこでもいいということになる。いくら甘枝がはっちゃけ根性の持ち主だからといって、さすがに身寄りのないドミニカ共和国でひとりカリブ海に向かって「絶景かな、絶景かな」と手を振る気にはなれない。 いずれどこかに着くのなら、旅行ビギナーとしてはやっぱり誰か知り合いの一人でもいてくれた方が心強い。 というわけで、まずは行き先を考えねばならないことに気づいた。むかしから薄々感じてはいたが、甘枝にとって旅とは外様大名の参勤交代のようにおおごとなのだと思う。とにかく手続きが、多すぎる。 よくよく考えた結果、旅先は関東・信越地方に決めた。このあたりにはネットで知り合った友人が何匹か生息、いや何名か在住しているからだ。この夏、彼らに会いに行こうと思う。 旅先が決まれば、あとは目先の楽しみにして本題の飛行機搭乗が待ち遠しいばかりである。むろん、旅の目的は友人に会うことだが、それは旅の目的で、会ってからのお楽しみだ。まずはひこうきひこうき。甘枝には非日常の体験ゆえ、寄せる期待も大きい。 その日甘枝は、飛行機に乗る前の飛行場からすでに浮き足立っているだろう。空港全体に流れるあの高揚感。旅に出る人、旅から戻る人、そしてそれらを送り迎えする人々のそれぞれのストーリー。その仲間に自分が入るのだ、という得意げな気持ちと、それをさも何でもないことのように振る舞うための僅かな緊張感。 それらのバランスを上手に保つことで、甘枝は事態を一層特別なものに格上げしてしまうだろう。 搭乗ゲートから機体へ伸びるブリッジを渡るのも楽しみだ。それはSF映画を思わせて、自分が宇宙船に乗り込むような気分にさせてくれる。甘枝は毎回『ガタカ』のラストシーンを思い出す。 機内に入れば入ったで、今度はスチュワーデスの検証が待っている。噂ではスチュワーデスは知力と体力と美貌を兼ね備えているらしいが、本当なのだろうか?という検証である。 こう言うと底意地の悪い姑のようだが、そうではなくて、本当じゃなくていいからせめて見かけだけでもそう見えるように振る舞ってほしいという願望が込められている。 だって、命を預けるんだから。 誰だって、やたら背中を掻きむしったり、歯に青海苔をつけていたり、アメリカ人に韓国語で話しかけたりするようなスチュワーデスには命を預けたくないものである。 いないけどね、そんな人。 さて、検証も済んでしまうと、いよいよ離陸を待つのみとなる。機体が徐々に加速を増してやがてマッハの勢いで前輪を浮かせるあの瞬間。身体が強力な磁石で一気にシートへ引き付けられたようになるあの一瞬。 甘枝はあれが非常に好きなのです。いえもちろん、あの内臓がおかしくなりそうな圧力それ自体は気持ち悪いんですが、その時の心情がね。胸の中で一瞬のうちに覚悟やら諦めやら、妙な解放感やらが交錯するのが実に面白い。これぞまさしく地に足がつかない状態、なのだと思う。 そうして実際地に足がつかなくなると、しばらくは頭が真っ白になるのだが、窓からのぞく眼下の街並がすぐに新たな刺激を呼び覚ましてくれることになる。 遥か上空から雲海を見下ろすのも楽しいが、面白さから言えばどちらかというと甘枝は低空時の窓から見える景色の方が好きだ。それも一番興奮するのは、離陸直後。家々がすぐ下に感じられ、走る車やアリのような人が2、3人見て取れる高度が良い。人を見つけると異様に嬉しくなるのは何故だろうか。 それから、見知った建物を発見した時も非常に嬉しい。思わず隣の人に「ちょっと! あの学校、私が通ってたとこなんですよ。ほらほら、あの横長の棟が工学部!」などと隣の人にしてみれば「あそう」としかコメントのしようがないことを早口でまくしたてそうになってしまう。まず間違いなく人迷惑な衝動である。 それさえも済んでしまうと、あとはもうゆったりとした気持ちで雲を眺めたり、おしぼりやコーヒーを配りに来たスチュワーデスを、かなり後ろの順番からすでに待ち構えていたとはけして悟られぬように待ち構えたり、どこかに産気づいた妊婦がいないか気を配ったりと、非常にリラックスしたひとときを過ごす。これで機体がエアポケットに陥ろうものなら、くつろぎのひとときはさらにかけがえのないものとして昇華される(注:甘枝のリラックスやくつろぎは皆が思う意味とは違うかもしれない) ・・・・ああ、なんて楽しいんだろう、空の旅は。 強がりではなく本当に楽しみだ。 書くうちになんだかもう乗ったような気になってきた。これなら実際旅に出なくてもいいような気もする。物書きってなんて安上がりな商売なんだろう。 とはいえ、行きますけどね。ちゃんと。行くつもり。夏になったらね。 影踏みは夏の刻印 帰れないのはふたりだけ 流れゆく雲 |
3/21(木) 「描く書くしかじか」
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昨日、カジからさくら茶をもらった。京都みやげなのだそうだ。茶園の名に覚えがあったので有名なのかと尋ねたら、「よく知らないけどデザインが可愛らしかったから買った」とのこと。彼女が物を購入する時はいつもこんな具合で、機能性や使いやすさの前にまずビジュアルが優先される。色合い、姿、パーツパーツのレイアウト。厳然とした美の基準をカジは持っている。ただそれは、雑貨や洋服の好きな女の子たちが口を揃えて「これカワイイ〜!」というような、普遍性を持った「可愛い・可愛くない」の基準とは異なって、ある特殊性を兼ね備えている。可愛さを認知するのではなく、引き出す能力に長けているというのだろうか、そこらへんのファンシィにうるさい女子が見過ごしてしまうようなものを拾ってきては、それが如何に奥深い愛らしさを秘めているか力説してくれる。そしてそれらは実際、可愛いのである。70%くらいまでなら甘枝にもそれが理解できる(あとの30%は理解を超えている。それほど彼女に対するハードルは高い) カジが他のファンシィガール(!)の追随を許さないのは、彼女のいう「可愛さ」にいち要素としてのおどろおどろしさや気持ち悪さが含まれている点に尽きる。普通ならまっさきに減点の対象となるべきところが、彼女には欠かせないファクターとなっているのだ。 可愛い、けどどこか怖い。 可愛い、けどどこか構図が狂っている。そんなものが彼女の心を動かすようである。(たとえば映画の『ロストチルドレン』が好きというのもうなずける) つまり単純でない、統一されていない、不完全なものに惹かれるのだろう。そういう指向を持ったカジを甘枝は天才だと思うし、尊敬している。人間としてというよりは、クリエイタ−として高く評価している(注:カジは絵描き作家だ)。 完全だったら、絵を描いたりモノを創ったりする必要がない。創るまでもなく、そういう人はすでに満たされている(良い意味で)。カジの場合、本人が意識しているとしていないとに関わらず、そうした指向が創作の原点にあり、かつ、彼女の作品においてもそれが共通するポリシィとしてうかがえるのが素晴らしい。たとえば、このHPのトップページのネコもカジが描いてくれたものだが、それを見ても単に可愛いだけのネコに留まっていないことがわかるだろう。ネコなのに甘枝似。甘枝は人間なのにこのネコに非常に似ている(笑) え〜くれぐれも気持ち悪いとか言わないように。 なんというか、カジが絵を描くことは彼女の理に適っているなあと思えるのだ。適材適所というのかな。それが作品から傍目にもわかるのがまた良い。伝達の仕方自体はいたってシンプル。不完全さとわかりやすさが不思議に連立した絵を描く、類い稀なる才能を持った人である。 なんだか小説の巻末解説みたいになってしまったが、最近ずいぶん久しぶりに絵を描く機会があって、以上のようなことを強く実感した甘枝である。今の甘枝はもう全然、思うように絵が描けない。 これでも中学までは市の絵画コンクールに入選するほどの腕前だったのだが、現在では入賞するにもせいぜい猿の絵画コンクールで佳作をとるのが精一杯だろう。芸術点でいったらノーチが風呂場に残す足跡の乱れ紋様の方がよほどポイントが高い。(ただ彼の作品は、芸術が爆発するより先に甘枝が爆発するという危険性を常に孕んでいる) 甘枝のように、子供の頃は絵が上手に描けたのに大人になっててんでダメになったという人はけっこう多いのではないだろうか。これは甘枝にはごく自然の成り行きだと思える。もちろん、ブランクが長過ぎて手が忘れた、目が忘れたという理由は大きいだろう。しかしそれ以上に、ここには語彙力の向上が関係しているのではないかと思うのだ。 幼いうちは、自分の見ている世界を思う通りに表現できるほど言葉のストックがない。大人なら「悲しい」という形容詞ひとつでまとめられることが、「悲しい」という言葉を知らない子供には集約できない。逆にいえば、子供は表現においてまだ無限の可能性を持っているわけで、そこで絵を描いたりすれば、おそらく大人よりも正確で、情報に不足のない「見たままの世界」を写し取ることができるといえる。無論、そこでは絵が必須の伝達手段になっている。 しかし、成長するに従って語彙が増えると、人は言葉での伝達を主流に置くようになる。時間をかけて絵を描くよりは、瞬時のうちに口で言う方が効率が良いからである。また、そもそも言葉は人間にとって身体以上に身近な存在であるため、大きくなるにつれて需要が増し、やがて使わない方が難しいというまでに主力化してしまうというのもある。 そうなると、世界を言葉で認識しだすのは当然の成り行きで、結果すべてを言葉に頼ることとなる。 だからこそ、目の前にあって実際自分の目で目撃しているはずの世界を、口では説明できても絵に表わすことができないという、なんとも皮肉な現象が起こるのである。そう甘枝は考えている。 見ているのに見えていない。まったく情けないことである。 それゆえ、絵が描ける人はそれだけで尊敬してしまう。別段写実的でなくても、自分に見えるものを絵に描けるという点で尊敬に差はない。甘枝は下手でも良いから思う通りに写し取れたらと、そればかり願っている。自分の絵に納得がいかないばかりか、下手でもあるから最悪だ。絵を練習するより念写の体得に努める方がまだ近道のような気がする。 そんな甘枝にとって、カジという優れた絵描きと3年生活をともにし、その才能に間近で触れられたことはこのうえなく幸運なことだったと思う。これは特に甘枝が言葉の道を模索している者だから余計にそう思えたのかもしれない。カジの画才に屈することで、かえって甘枝の物書きとしてのモチベーションが上がったのはたしかだからだ。 言葉に魅入られてしまった者は、言葉に見入るしかない。「わたし文筆で、あなた絵描きで」 こう気持ちの良い住み分けができたのもカジのおかげである。ここに深く感謝したい(いつもバカネタに使ってごめんよ でも今後も使うよ) さくら茶の話からここまでカジを賛美できる者は甘枝以外にいないだろう。なんか必要以上に賛美してしまった感もあるが、賛美したい時に賛美しないでいつしよう。だいたい賛美というものは出番が少なすぎるのだ。結婚式や送迎会、祝賀会くらいでしか見たことがない。中には葬式で、など遅すぎるにもほどがある賛美すらある始末だ。 そうそう、それで思い出したけれど、同情もまた極めて出番の少ない、恵まれない存在だといえる。必要な場面ですら「同情はいらない」などと言われて取り合ってもらえないのだ。「オレって何!?」 同情はきっとそう思っているに違いない。実に同情を誘う話である。余談ですが。 美しいものにあうたび一個ずつ死ぬる言葉のために泣こうか |
3/16(土) 「身体のシンタクス」
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先日起こった小倉の監禁事件で、捕らわれていた少女が容疑者から自分の生爪を剥がすよう強要されていたというのを聞いてゾッとした。真偽のほどはいまだ定かではないが、とにかく報道を耳にした途端「それは痛いッ!」と顔をしかめてしまった。人間の想像力はそのおおかたが経験に依存するもので、未知のことでも過去の履歴から近似したケースを引き合いに出すことでだいたい予測がつく。甘枝は爪を自ら剥がさせられるといったリンチこそ経験していないものの(『積木くずし』か『不良少女と呼ばれて』で観たような気はする)、幼少の頃遊んでいて爪を負傷し、結果的に剥がれたことがあるので、すくなくとも少女の肉体的苦痛は疑似体感できた。あれは痛い。爪自体は神経が通うほど伸びていないので無痛だが、むき出しになった皮膚が痛い。包帯を巻いてても、うっかり何かに触れるとジンジンビリビリ疼く。しかも爪が元通りに伸びるのには長い時間を要するから、精神的にも参ってしまう。なんといっても最悪なのは・・・・ と、むやみに皆さんの想像を増長しても仕方ないので、本題へ。何が言いたいかというと、爪ひとつとってもそれなりに人間に欠かせないようできているのだな、ということである。というより、爪に限らず今の人間の身体を構成するパーツはどれも欠かせようがない。普段「何のためにあるのか」と思っているようなものでも、いざ甘枝のように怪我をしたりなどして使えなくなると、途端にその必要性に気づかされる。 先に挙げた爪の例でいえば、甘枝の場合怪我でなくてもマニキュアを塗った時にそれを強く感じる。表面が渇ききるまではけして爪が使えない。「なあに、たかが爪じゃないか、生活に支障はない」そう思って呑気に構えていられるのも束の間、これが意外に早々と支障をきたしはじめるのだ。爪は物を引っ掛けたり、こすったり、背中を掻いたりするために必要不可欠なのだな、としみじみ納得する瞬間である。なにしろマニキュアが生渇きの手では、缶ジュースのプルトップをあけることも、ズボンのボタンを留めることも、ミスタードーナツのスクラッチを硬貨でやるのが面倒だからといって直にこすることも、或いはすり寄ってきた猫の喉元をカイカイしてやることさえ、容易にはできないのである。もしもこんな時「いっさいマニキュアを汚すことなく、小皿に入った色とりどりのビーズ500個から赤いのを3粒だけ、10数える間に取り分けないと撃つ」と脅されたら、甘枝は100%撃たれる自信がある(どうしたらそういう状況に陥るのかはわからないが) それほど、このひとときの間の手は使い物にならない(ただ、マニキュアを塗っていなくても100%撃たれる気がするから不思議だ) だからマニキュアを塗った時は、たいていゴム手袋をしたオペ前の医師のように十指をピンと拡げて「パー」の形を保ち、指がつりそうになるのを堪えてひたすら渇くのを待ち続ける。そうしてやっと渇いたと思ったら、今度は鍋を洗うのがまだだったことをおもむろに思い出したりして、哀しい瞳で金網タワシをじっと見つめるはめになったりする。こんなのって甘枝だけ? 誰かマニキュアの上手な使用法と使用に最適な時間帯、使用後のマル秘テクニックを知っていたらぜひ教えてもらいたい。(という話を以前も書いた記憶があるから、学習も成長もしていないのだな。つまりマニキュアに向いてないのかも) また、不自由になってその重要性に気づくというので思い出したのが、知人2人の話だ。ひとりは、右足の中指を骨折した際「足の中指なんて何の役にも立ってないから平気だよ、ハッハ−!」と事もなげに笑っていたが、次に会った時は一転して真剣な面持ちで「おい知ってたか?ヒトの重心を支えるのに如何に足の中指が役立っているか!」と、まるでみのもんたの話を聞いてすっかりココアに開眼してしまった人のような改心ぶりを見せてくれた。しまいには「ま、体験したやつじゃないとわかんないだろけどな」と遠い目をして言い、なんかこう威圧的な優越感すら漂わせる始末だった。その時の力関係をカースト式に上から並べると、 中指→中指の有り難みがわかった人→わかっていない人 の順番になり、甘枝はたぶん、いや明らかに最下層に属していた。それも情けないが、甘枝に勝った気でいる友人自身、おのれが中指に負けているとは露とも思っていない点がさらに泣かせた。そのことだけでも、足の中指は充分にその価値を主張するに値していたといえよう。 そして、もうひとりの知人は大学のサークル仲間で、この人は皆に「人体における眉毛の存在意義」を教えてくれた。ゲームの罰か、酔いの勢いだったか詳しくは知らないが、ある日気づいたら眉毛が少年劇画の主人公のような(或いは志垣太郎のような)極太鋭角仕様になっていた。よく見ないまでも、それがマジックで描かれているのは歴然だった。元の毛は見事なまでに丸まる剃り落とされている。周囲の爆笑や賞賛をかったのは初めの2、3日だけで、あとは次第に失笑や同情をかう方向に形勢が傾いていった。なにより、本人が辛そうだった。額から落ちる汗が目に入って入って仕方がない、と窮状を訴えるようになった。眉毛に汗止めの役割があることが実証された一件である。懐かしい話だ。 彼は今どうしているのだろうか。眉毛はその後いかがお過ごしだろうか。健やかに暮らしていることを祈るのみだ。ほんとに。 甘枝の知る限り、ここ何百年かは人体に特別な変化は起こっていないようである。微々たる変異はあるかもしれないが、少なくともばあちゃんの世代から今まで「指が退化して3本になった」とか「鼻の穴が統合されてひとつになった」「弁慶の泣きどころが義経の泣きどころになった」などという話は聞いたことがない。つまりそれは、現時点での人体が過不足なくベストな構成で成り立っているということを意味している。もちろん、先天性の病気や後天的な病気、事故によって身体の不自由を余儀なくされている人もいるが、そういう人は不自由さから得る自由さを知っているし、また周囲の人間にしろ人工的な技術にしろ何らかのサポートによって生活への順応を試みているはずなので、ここではことさら感傷的に扱わない。それに人工的な技術のサポートという点からいえば、現代に生きる大半の人が障害者だといえる。眼鏡に補聴器に銀歯、ペースメーカーと、まったく恩恵を受けない天然体でいる方が難しいくらいだ。甘枝もコンタクトレンズがなければ視力はゼロに近い。逆にいえば、こうした補強の技術があるからこそ人の身体は退化せずこのかたちを保っているともとれる。さらにいうと、しばらくは目新しい進化もないように思われる。補強につとめる一方で、それを維持する技術もまたあるからだ。たとえば、パソコンのキーボードは10本指で使うように最適化されている。これが12本仕様で普及したら、或いは指の進化も見られるかもしれない。 そうやって考えると、人の身体で無駄な部分というのは甘枝が知る範囲では虫垂くらいだろうか。こいつは一般に必要ないものとして認識されている珍しい存在だ。だったら退化してもよさそうなのに。 しかし、甘枝は中学の時こいつのおかげで生徒会役員にならずにすんだ(クラスの推薦で立会演説会に出ねばならず、会の前日ちょっとだけ腹痛がしたのを理由に無理矢理入院して難を逃れた。医師は薬でちらせると言ったが、進んで手術を申し出た。ほんとに盲腸だったのか今でも疑わしい) たぶん、虫垂は甘枝のようにイージィな人のために残されているのだろう。手術は麻酔が効かず、20分もの間七転八倒の苦しみを味わった。甘枝ほどのレヴェルになるとイージィも命懸けである(そういう人が5分足らずの演説に何故耐えられなかったのか不思議でならない) ちなみに、その翌年もまた推薦され、今度は言い逃れができずに結局役員に当選してしまった。手術を担当した医師に「虫垂を返してくれ」と頼んだが、無駄だった。あの時ほど、甘枝が虫垂の必要性を感じたことはない。 「身を焦がす人生ゲームしてみない?」お札出す君 比喩じゃないのか |
3/11(月) 「Everybody has their own claim」
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短歌を作っていて、ひとつ頭を悩ます歌があった。いちおうベースとなる仮歌は挙がっているのだが、それがなかなか思うような仕上がりにならない。場面設定はできているのに、そこに置かれている主人公の状況を明確に言い表せていない気がした。「うーむ、あとしばらく。いやまだまだ・・・」 小首を傾げながら3日が過ぎた(3日間首を捻挫していたわけではない) しかしラッキィなことに、それが今日、唐突に閃いた。「そうか! こういう見方をとれば良いのか」 その時甘枝は浴槽を掃除している途中で、左手に洗浄ブラシを握りしめていた。思わず、何の意味もなくしげしげとブラシを見つめる。そして深く「なるほど・・・」と呟いた。 洗浄ブラシからしてみれば、いったい何が「なるほど・・・」なのか、それが自分とどのように関係するのか、皆目わからない話である。もしかしたら今頃、謎と不安で眠れぬ夜を過ごしているかもしれない。できれば眠れぬついでに浴室をピカピカにしておいてくれると助かるな。あと余裕があればジャバも(注文の多い甘枝家) と、それはともかく、甘枝がした発見というのはとても簡単なことで、歌の中の「私」を「私たち」に替えれば済むのだった。当の歌を引用していないので皆さんにはさっぱりわけがわからないと思うが、ここでいう「私たち」は通常使われるような個別複数の人間集合体を指すのではなく、ひとりの人間に備わる幾つかの人格をまとめてそう呼んでいる。つまり主観的に見れば「私」も「私たち」も一人の人物。私の中の私たち、ということだ。 いざ「私たち」にしてみると、歌の情景がそれまでとは全然違ってクリアになった。言うまでもなく、客観的な視点が活きてくるからである。 しかしそれより何より、その時の甘枝に「私たち」という表現は、実に自然なかたちで浸透したのだ。それはたとえば、すーっと喉をつかえることなく下り落ちる、学校帰りいの一番の麦茶のように。 ただ、その歌というのは今もってして推敲中である。これを書いている間も頭の隅で考えているところだ。せっかくの発見なので、よくよく考えてそれが一番活きる形が浮かんだ時点で発表する予定。これは瞬発力で歌を詠んでいた昔には見られなかった傾向である。良い傾向では全然なく、余分な筋力がついてそれが使いこなせないままに劣化している感じ。いかに無駄を削ぎ落とすか、その知恵のつけどころが今後の甘枝りりに問われる点である。大きく期待したい。(甘枝りり向上委員会、2002年発表声明より) と、それもともかく、今回の発見は短歌上の問題に留まらず、甘枝自身に関してもちょっと内省的に捉えてみたくなるほど面白い刺激を残した。考えたら自分の中にもいろんな人格がいる。人格といっても、形ではなく、甘枝の中のそれは時間だ。或いは瞬間。あるひととき、独特の思考形態をもって行動を支配するものがある。そのひとときを、後で振り返って人格化しているに過ぎない。だからダニエル・キイスの小説のように固有名詞をもってAさんBさんと区別するほどではないが、しかし確実に幾つか連立しているな、と感じているのは事実だ。 たとえば、もっともわかりやすい例を挙げれば、この「甘枝りり」もそのひとつだ。短歌業をやる時にだけ現れる。よって、当然ながらそれ以外の時の自分とは様相が異なる。最近は特に独立化が進み、この日記を書く時なども他に言いたいことを抱えている自分を押し退けて、書く内容を意図的に選んでいる。読み物としての文章を目指しているのだから結構なことではあるのだが、たまに深刻な心理状況でもバカ話を書いていることがあり、その時はさすがに自分の内部分裂に苦悩する。ダイジョブデスカ? と片言の日本語で自問したりする(すると、また片言の関西なまりで ボチボチデンナ と返事がかえってきたりする。 どこから!?) このことを裏返せば、つまりそれだけ公に言わないことが増えたわけで、そうした「言う言わない」を判断する自分が一方で確立されたということでもある。分別がついた、というのだろうか。この人格はたぶん、昨年一時HPを休業した時のきっかけとなった、大切な人をなくした一件でつくられた。たぶんあの時、自分を守るためのシールドを張ったのだと思う。「言わない」という選択肢が初めてつくられた。言ってしまって壊れないように。悲しくならないように。(まるで森作品の西之園萌絵だな) その人は単なるきっかけに過ぎないが、あれ以来、心で思っても口にしない言葉が格段に増えた。その「言わない私」は、現在も甘枝の中で大きな力を持っており、人付き合いにも多少は影響を及ぼしている。デメリットが大きいかと思いきや、意外にそうでもないようだ。かえって自分にとって大事な人々の見極めがしやすくなった。そういう人々には全力を尽くして大事に思ってるよ、とあえて「言いたい私」が一方でまた顕在化したからである。実際言うかどうかはともかくとして。 まあしかし、自衛のためにある人格が出現するのはよくあることだ。というより、そもそもの目的はそこにあるといっても過言ではない。甘枝には他にも、持病が悪くなって苦しくてならない時の残酷で狂気じみた人格がいるが(これは実質、人格と呼ぶにふさわしい。こわい)、一方でそれを抑える人格も、長年の学習によってつくりあげている。また、非常に短絡的で論理性のない自分がいる反面、それをカバーすべくつくられた明晰な(と願いたい)自分を備えている(犀川先生ほどではありませんが) 結局のところ、甘枝に限らず誰もがそうやって自分に必要な人格を形成し、時に応じてそれら「私たち」の中からチューンアップしていくことで、かろうじて生に連続性を持たせているのではないかと思う。 というようなことは、学生時代、哲学や現代思想史の授業で普通に語られていたことだった。人が考えて行きつく論理には大差がない。どんな論理も自明といえば自明のことばかりである。 ・・・・というようなことを、甘枝の中の「言わない私」が主張する(ややこしい文章!) だから、書くまでもない、と。 これぞ物書きの甘枝が頭を悩ます相手である。それでは何も書けなくなってしまう。ますます自分が分離してしまう。 というわけで、今日は甘枝側のオフェンスが勝って普段口にしないようなことまで書いてみた。バランス或いは反動。ある意味本当の近況報告、日記である。 「この人・・・あやうい」と思われるかもしれないが、正直に書くということはそういうことだ。思考はいつもまとまりがなく、矛盾に満ちている。たぶん、誰の頭の中でも。このことからも、「私」が私一人に収まりきらないことは明白だといえる。これで「私」とか「一人」の単位を問い始めたらまたきりがなくなるので、ここまで。甘枝は自分の中では「私たち」で通してもいいなと思った、というだけの話だ(あくまで自分の中で、ですが) ただまあ、さっきの「あやうい」ではないが、多少危機感は持っている。前回の日記(下参照)と今回の日記を見比べれば、とても同じ人が書いたものと思えないように(笑)「私たち」の表れ方に不安を抱いている。シフトチェンジが滑らかでなく、突発的に入れ替わってしまうのが甘枝の最大の欠点だ。危機感がなければ本当にあやういところ。 なんかこう、臨床日記みたいになってきましたね。まだまだ甘枝は健在ですので心配なく(笑) さて、ここまで書いてもまだ例の歌がまとまらないので、それはまた別の機会にということで、全然関係ない歌を。冬の歌ももう終わりです。 耐え難く歯を鳴らしても「タクシーよ来るな来るな」と念じるふたり |
3/6(水)、3/7(木) 「甘枝組ニ代目若頭襲名」
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眠らない街、広島。その片隅にまた、眠らない家があった。ヒトの生体リズムにとことんあらがい、翌日の予定などまったく気にかけない無謀さで夜を駆ける女・甘枝りりその人の家である。 不夜城に諍いはつきものだ。今日もまた、いたるところで喧嘩や金銭トラブル、おばちゃんの万引きが夜の街を騒がす(『警察24時』によるとそういう話だ) そしてそれらは、いかなる善をもって対処してもまたすぐに別のところで横行するのが常である。いつの世にも、悪は絶えない(『鬼平』もそう言っていた) 甘枝家もまた然り。ここでは甘枝りりをボスとする甘枝組(配下多数。というか家のものほとんどが彼女の使い手である)と、ネコ界随一の暴れん坊・ノーチがトップを務めるノーチ組(配下はネズミ7匹。白・グレー・まだら各種。ウサギの毛使用)が、シマを巡って夜な夜な熾烈な抗争を繰り広げている。とるかとられるか。やるかやられるか。遊ぶのか遊ばないのか。命懸けの二者択一が常に両者につきまとう。 甘枝組は、もともとこの家一帯を取りしきる巨大勢力であった。それが3年前、街のハーレムでさまよっていた一人の若造を引き取ったことから運命が大きく変わるはめになる。若造は、その頃甘枝組のナンバーツー兼凄腕ヒットマンで鳴らしていたカジが拾ってきたもので、まだ世俗の垢にまみれていない、純真無垢な瞳をしていた。ミルクを好み、女のような声でミャーミャ−と鳴いた。「実際、女だと思っていた」と、後に甘枝は語っている。 しかし、ノーチと名付けられたそいつは日を追うごとに男らしさを増し、やがて腹も垂れて甘枝が「こいつぁ、まごうかたなきオッサンだッ!」と気づく頃には、すでにいっぱしのヤクザ者に成長していた。しかも、宿飯の恩を仇で返すような動きすら端々にうかがえた。長らく子供のように可愛がり「いずれはこいつに跡目を・・」とまで考えていた組長も、今はまだ現役まっさかりなのでさすがにこの仕打ちには動揺を隠せなかった。このままでは組を乗っ取られることさえありなん・・・・・ 親子の契りを交わした盃は一転して叩き割られ、かくして、泣き虫組長の7年戦争(ホーム・ウォーズ)はその幕を開けたのである。 ノーチ組は攻撃において奇襲作戦を得意としていた。本来甘枝組のシマであるところを狙うのだから当然といえば当然だが、実際のところはその理由よりも少数気鋭の組体制に問題があるようだ。奇襲の際、きまってノーチ自らが姿を現すことから見ても、戦力となって動けるのが主に組長しかいないのは明白である。仕方がない、なにしろ部下はおもちゃのネズミなのだから・・・ かといって、そう思って油断していると、玄関で履こうとした靴の中からおもむろにネズミが転がり出たり、うたた寝をして目覚めたら耳元にネズミがそっと添えられていたりして、肝を冷やすことになる。「ネズミと書いて仕込みと呼ぶ」それが彼らノーチ組のセオリーらしい。 ただ、そんなネズミの仕込みを別とすれば、あとの奇襲はいたってシンプルそのもの。せいぜい2パターンほどしかない。甘枝組長の出がけを狙うか、組長の大事な歌集製本のひとときを狙って殴り込むか、そのどちらかだ。 しかしこれが何より手ごわい。甘枝組長そのものが標的にされているからである。 ノーチはけして頭が良いとは言えないが、その分、自身もろとも吹っ飛んで構わない鉄砲玉根性と、敵の急所を本能的に感知する野生のセンサーを持ち合わせている。甘枝が出かける支度をしながらうっかり素足を晒したりすれば、命が半分はなくなったも同然だ。たとえロングスカートと靴下で脚のほとんどをカバーしようとも、相手はその裾と靴下の隙間わずか5センチを確実に狙って横からスライディングしてくるのである。「横なぐりの雨」というのはよく聞くが、これほど見事な「横なぐりの猫」はそうそう見られないだろう。くるぶしを噛まれてものすごく痛いうえに、引き剥がしても引き剥がしても絡みついて静電気よりイライラするため、甘枝組長はこの時点でほぼ虫の息である。以前はやつの手下(ネズミ)を人質にとって遠くへ投げてやればすぐに飛んでいったが、最近は部下を見捨ててもいいから噛みたい、とにかく噛みたいと、情もなにもない非業ぶりだ。だったらネズミも甘枝組へ寝返って良さそうなものだが、やつらはやつらで物理的に床に寝返ったまま微動だにせず、何を考えているのかさっぱりわからない。 これが歌集の製本時になると、攻撃はさらに激しくなる。どこでリサーチしたのか知らないが、製本が甘枝組長にとって真剣勝負の場であることをノーチは明らかに把握しており、まさに目の敵といった面持ちで鋭く突いてくる。まあ、たしかに、正座して長時間じっとしているのだからここを狙わずしていつ狙う、といった思いはわからないでもない。しかも、甘枝にとって大事な作業ゆえ、それを滅茶苦茶にしてやれば精神的なダメージを与えることもできる。心身ともに壊滅させるに充分だろう。 甘枝組長もそのことはよくよくわかっている。だが、かといって止めるわけにはいかないのだ。むかしなら、こういう時ナンバーツーのカジが身を呈して組長を守ってくれた。しかし、残念なことにカジは去年「足を洗って親孝行します」と言い残し、実家に帰ってしまった。もはや、甘枝を守る者はいない。このまま心ならずも無防備な姿をさらして机に向かい、「どうぞ脚も腕も背中も御自由に噛んでください」という看板を掲げたまま、食べ放題噛み放題60分バイキングコースを無料で提供するほかないのか? こんな調子では殺られてしまう・・・・ 甘枝組あやうし・・・ |
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と、そんなある時(100回くらい殺られた後)甘枝組長の脳裏にふと懐かしい面影が浮かんだ。かつて甘枝組の若頭としてノーチ組を脅かしたアイツ、その名も「モルモルモーラ−」通称・転びのモルである。こいつはかなりのやり手だった。ペットショップで1200円程度という安さだった割に、実によく働いてくれた。電池を仕込んだソフトボール大のボールに、一見イタチによく似ているが変な縞模様のため国籍も学名も不明な謎の動物をくっつけて、スイッチを入れれば即座に回転を始めて動きまわる。さすがのノーチもこれには腰が引けておっかなびっくり見守るしかなかった。手を出す勇気もなく、しかし気にはなるので隙をうかがうのに夢中になっていた。それもそのはず、転びのモルは組長すら「ワーカホリックではないか」と心配になるくらいよく働き、「電池がなくなるまではどこまでも回るぞ!」というたいした根性の持ち主だった。変な動物がくっついている分、ボールの回転方向も四方八方どこへ向かうかてんでわからない有り様で、時には自分の親分である甘枝のもとへおもむろに転がってきて組長を「きゃッ!」と飛び上がらせるなど、なかなかお茶目な部分も持ったやつだった。あいつが動いている間は、甘枝も安心して作業に取り組めたものだ。 ああ、モルがいてくれたら・・・・今頃あいつ、どうしてるだろう・・・ そう、実をいうとモルは前出のカジ同様すでに引退の身にあり、今はいないのである。心配されていたワーカホリックが案の定祟って、ある時電池のフタがもげてしまったのだ。以降、彼の身体はセロテープなしには思うように動かなくなってしまった。テーピングしてまで働かせるのはあまりに可哀想なので、甘枝組長はその名誉の負傷を機にモルを手放した。風の噂では、その後南の島で優雅な余生を送り、たまに観光客が訪れるとイタチ似の動物部分を操っていっこく堂の真似をしているとかしていないとか。また最近では、その動物部分がちょうど若手人気マジシャンのマギー審司が使う「ラッキーちゃん」に似た風貌をしているため、第二のラッキーとして売り出すべく再起を狙っているとか狙っていないとか。(どうでもいいことだが) せめてあいつの代わりがいてくれたら・・・ 代わり? そうか、代わりだ! 甘枝組長の目にかすかな閃光が走る(この時点ですでに全身傷だらけで、気力だけが彼女を生かしていた) すぐに新たな若頭を求める旅が始まった。身近に控えている影の使者(主に友人)をつかって、手当りしだいにいそうな場所(主にペットショップ)を探した。なかなか見つからない。むかし初代を手に入れた店などは「もう取扱っていません」と、関わるのも嫌そうな素振りを見せた。しょせん、カタギはカタギ。裏街道に力を貸すにはリスクが大きすぎるってことか。 諦めかけたその時、組長のもとに意外な耳寄り情報が飛び込んできた。「ある大型おもちゃ店の店先で威勢のいいのが転がっている」 情報源はカジだった。さすがはナンバーツー、離れていても心はひとつだ。できればメールで知らせるのじゃなく、ハトでも飛ばしてくれたら見た目的によりグッドだった。今度頼んでみよう。 ともかく、甘枝はカジを連れて現場に急行した。「おおっっ!たしかに!!」 そこには、たらいの中で申し訳程度に丸まったモルの姿がたしかにあった。試しに揺さぶってみるとウンともスンとも言わない。電池切れだろうか。まあ、いい。取り急ぎ適当なのをひっつかんで購入する。 よく見ると、それは初代とは少し様子が違っていた。第一に、名前が「モルモルモーラ−」から「じゃれっこモーラ−」に変わっている。第二に、値段が980円で、初代の時よりさらにお手頃価格になっている。そして第三に、以前はボールの上についていたメインスイッチが見あたらない。どうやらスイッチまでもが内蔵になっているようだ。 なんとなく、特に値段事情からイヤな予感がしないでもなかったが、そこはポジティブシンキングをモットーにしている組長である。「技術が発達して、より低コストで良質のものを作れるようになったのだろう」と思うことにした。とにかくこれでノーチ組に反撃をくらわすことができる。そう思うと嬉しくて嬉しくて、思わず「店の階段を宝塚ふうにかけ降りてみようかしら」などと出来もしないことを提案してみせる組長であった。 「ニ代目若頭の名前は”転がしのモル2”とする」 帰り道、甘枝組長はそう決めた。どうでもいいような名前だが、初代が「転びの〜」ということで自らを回転させる名前だったのに対し、今回は「自分もだがノーチを転がせ追い越せ」という願いを込めて「転がしの〜」にした。(本当にどうでもいい話である) 家に着くやいなやモル2を取り出す。さあ、どこがどうグレードアップしたのか、ノーチに見せつけてやれ! 勇んで電池を挿しこむ甘枝組長。背後からのっそりとノーチが姿を現した。さすがに鼻が利くやつである。しかしヘッド自ら顔を出すとは。進んで首を差し出すようなものではないか。ノーチよ、お前はすでに死んでいる。このあと思う存分、蝶のように舞い踊らされるがいい ふはははは〜 と、笑いかけたその時、甘枝組長は気づいた。予想通りメインスイッチは内蔵で電池入れの横に付いていたが、ということは、半分ずつに分かれたボール部分を閉じてしまったら、外からはオン/オフが利かないということである。ということは、スイッチを入れて動かすまではいいとしても、オフにする時はボールを分解しないと動きを止められないということである。ということは、外から操作が可能だった初代に比べ、これは性能が劣っているということである。 ・・・・・愕然とした。バージョンアップ版を買ったつもりが、実際はアップどころか逆にダウンしていたのだ。それも肝心かなめの心臓部分が! サ−ッと血の気が引くのを感じつつ、それでもとりあえずスイッチを入れてみる。半円のボール内部でモーターが勢い良く回り始めた。うむ、これは問題ない。素晴らしい動きだ。これならノーチを仕留めることができるだろう。しかし、切る時は? おそるおそる手を伸ばす。すでに見た目で結果はわかっていたが、案の定、モーターが激しく回ってオフにするどころではなかった。スイッチ部分にすら触れづらい回転力である。しかも電池が新しいため、手で止めようにも頑として止まらない。思わずマンションの屋上に駆け上がって10階から投げ捨てようかと思った。焦れば焦るほど指先が狂う。 そんな甘枝組長の手元を、モルには目もくれず腰を低く落として静かに狙うノーチの姿が、組長の視界をかすめた、気が、した。 結局、モル2の性能自体は初代に劣らず優れたものであることがわかったが、なにぶん操作に手間がかかるため(ノーチから見えない隣の部屋でセットする、いったん動かしたら電池が切れるまで様子を見る、など)、初駆動は甘枝組長が2、3日休養して充分に心を落ち着かせてから行われることになった。 願わくばモル2が想像以上の威力を発揮してノーチの息の根を止めることを祈るのみである。それもできれば組長が健在のうちに。 そういうわけで、まだまだ、甘枝家の夜明けは遠いのであった。 いっせいに振り向かないでもらえます? ネコ三匹が斬る日曜日 |