甘枝の近況および日々の歌を臆面もなく公開。
UP DATE 8/17 2:30
8/1(火)
昨日海へ行った。最近よく集う5名で五日市の「田舎ぢゃや」というお店に行く計画があって、夕方の集合前にすこし時間のあった一人と抜け駆けの海岸ドライブ。甘枝はへたしたら始終海に行くことばかり考えているヒトなので、なかば強引に連れて行ってもらった。しかもこちとら免許なしの助手席専属といういい御身分である。ドライバーのパンちゃん、付き合わせてすみませんでした。ドライブといってもそう時間に余裕がなかったので、遠出は諦めて30分ほどで行ける呉を目指すことに。大きな橋を渡って車は進む。やがて見えてくる(今は亡き)呉ポートピアランド。そして見たくもないのに勝手に見えてくる田舎のばあちゃん。びっくりした。時速60Hで通り過ぎるばあちゃんは一瞬じいちゃんに見える。でもスカートを大胆にまくりあげていたからあれはばあちゃんなのだろう。ばあちゃん、それはミニ過ぎる。君は広島のツイッギーかっつーの。 ・・・などとつっこむ頃にはもう車はすっかり海辺を走っていた。甘枝は窓からのぞく海を見るだけですでに満足度70%に達していたが、心優しい運転手さんが気を利かせてくれて「かるが海浜公園」というところで停まってくれた。いわゆる人工ビーチである。まさか砂浜に降りられるとは想像もしていなかったから、嬉しさのあまり激しく咳き込む甘枝(じいちゃんか、おのれは)。涙目で浜辺を歩く。うーん、いいねえ。このきゅうっと砂を踏み込む感じ。寄せ返す波。気分は一気に「波とたわむれる薄幸の美少女」である。よれよれのスカートもこころなしか純白のワンピースに見える。「わたし、死ぬまでに一度この目で海を見てみたかったの」なんて言いかけてドバーと喀血したくなる勢いだ。 と、甘枝自体は瞳に星を散りばめ背中に薔薇をしょって髪もすっかり金髪モードだったのだが、ふと現実に立ち返ると空は嵐の前触れのような大曇天なのであった。まるでそれは「十戒」のようなおどろおどろしさである。今にも海がぱっくり割れ雷鳴が轟きそうな”泣き”の空なのだ。おいおいこんな暗雲立ち込める浜辺を二人の人間が無言でとぼとぼ歩くなんて、誰がどう見たって心中ではないか。もしくは火サス。「私がやりました」と両手を差し出す女。タイミングよく聞えてくるサイレン。そしてやしきたかじんかなんかが歌うバラードに乗って上がるエンドロール。「来週のこの時間は『赤い霊柩車シリーズPart7・棺桶から消えた女』をお送りします」。なあんだ、また片平なぎさかよぉ・・・・って、ここまで行くぞ。出てこい、来宮良子。 な〜んだか急激にトーンダウンしてしまった甘枝なのであった。まあ、視点を切り替えて「ピアノ・レッスン」的世界と思えばそれなりに感傷にひたれたかもしれないが、なんせここは瀬戸内海。見たこともないような海草が平気で打ち上げられている世界である。しょせん海苔の養殖のメッカなのだ。そう思うと非常にわびしくさもしい気持ちになって、パンちゃんとすこし離れてしゃがみながら「うちの猫はよう、一日三食もするんだあ」「ええ、うちのなんかあげればあげただけ食べるよぉ」「ふうん」「ふうん」とぼそぼそ猫の大食い自慢をしあった。やがて会話もなくなり、トドメを刺すように閉園のアナウンスも流れたところで二人は暗く駐車場へと向かったのであった。”ああ、今度は晴れた日に、自分の大切な人と来よう” お互いそう思っていたのは間違いない。
そんな二人の重いムードにのせられたのか、車に戻った途端に大粒の雨が降り出した。前方が見えないくらいの豪雨だ。これで決定的にこの日の海ドライブはかなしい思い出となった。しかしパンちゃん、それでも甘枝は満足だ。「海を見た」という事実だけ胸に一から出直すよ。どうもありがとう。
というわけで実は散々のドライブだったのだが、夜になって本来の目的である「5人でグルメツアー」に突入すると逆転的に楽しいひとときが用意されていた。これは救いだった。美味しいものを食べ、ビールに唸り、そしてその後甘枝にとっては半年ぶりくらいとなるカラオケに行き、「今日は喉の調子が・・・」と言いつつもがんがん歌い上げた。取りかえしたぜ。ふっ。 すっかりいい気分になって家に帰り、ふと雑誌をぱらぱらやると占いコーナーがあった。「獅子座のあなた、7/31は余計なことをしないでね。よかれと思ってやったことが最悪の結果に!」 ・・・・よ、よ、余計なのはお前の占いそのものじゃあ〜〜〜〜!なんだその最後の「!」はあ〜〜〜〜! と、甘枝が近くにいた猫に八つ当たりドロップキックをくらわせ反動で激しく咳き込んだのは言うまでもない。
さくら貝 あなたの分の片割れを残したままで振り向かず行く
8/2(水)
ここ何日か咳が止まらない。一度出ると軽く10回は続き、やっとおさまったかと思えばすぐにぶり返す。それが延々エンドレスのネヴァ−エンディングストーリー。おかしい。まるで喘息だ。呼吸が途切れる最後の方は本当にぜえぜえ言う。困ったものである。はじめ「風邪かな?」と思い額に手を当ててみたが、平熱35.7度を保っているようである。身体もいたって元気。ただ咳だけがしつこく出てくる。こういうの、なあんかヤだなあ。原因不明なところが気にくわない。いちおう思い当たる全ての要因を検討してみたら、これがまたなんでもかんでも根拠となることばかりでさらに気にくわない。猫アレルギー? ありえる。しかし甘枝は猫歴10年はくだらないキャリアの持ち主で、今さら急に発病するとは考えられない。 じゃあほこり? ううん、あるかもしれない。しかし人並みに掃除をしているつもりだし、それに同居のカジは平気なんだからこれも違う気がする。 冷房?冷房か? わからん。その可能性は、否定できないな。 いや、できるか。実はこの咳きは去年の冬にもやったのだ。その時は近所のクリニックに行って診てもらった。けれども結局医者にも原因はわからなかった。 じゃあいったいなんなんだ!?普段楽観というかあっけらかんというかフレンチカンカンというか、とにかく物事をいい方にいい方に考える甘枝も、さすがに二度目の発病となると不安の影におびえてしまう。もし結核だったら・・・・ いや、結核なら治るからまだいい。もしも肺ガンだったら、もしもウイルス性の未知の病だったら、もしももしもバナナフィッシュだったら、もしももしももしもキャッツキルフィーバーだったら(これはさすがにわからんか、吉田秋生の「夜叉」より)・・・・と、まるでドリフの「もしもシリーズ」のように大病の数々が頭をよぎる。それもチョ−さんの時候の挨拶抜きで、だ。どうにかしてよ雷様。 たしかに甘枝は常日頃からいつ死んでもいいように悔いの残らぬ日々を送ってはいる。だが、じわじわと衰えながら時間をかけて死ぬのはごめんだ。あっさりぽっくり逝きたい。遺言をすぱぱっとしたためるために今さら見栄をはって日ペンの美子ちゃんを始めたり、短歌の著作権問題で弁護士を雇ったりするのは面倒くさい。まあ、葬儀はなしで遺骨は日南海岸にでも撒いてもらえれば本望かな? って、死ぬな〜死なせるな〜!! もうそんなことばっかりイメージしちゃってジョン・レノンにも申し訳なくなる。「イマジン」ちゃうやろ。 とりあえず、馴染みの薬剤師に相談中の今日この頃である。今週くらいからプールに通おうと思っていたのにこりゃどうなることか。やっぱり結核なんだろうか。だってほら、甘枝って文学者だし。文学者たるもの一度は原稿用紙や障子にぷはっと血を吐くのがそれ相当というものだろう。困ったことになった。甘枝は原稿用紙も使わなければ部屋に障子もない。なにより今ちらっとプロフィールの自分の写真を見たら全然文学者に見えないし。ネコがいるよネコが。 仕方がないのでこれから来るべき結核に備えて画像を芥川竜之介あたりに差しかえるとするか。げほげほ、ほーら来た来た。 ふんとにねえ、なんでもいいから止まってほしいよ。虚弱体質全開の今日である。これを読んでもしあなたにも咳が移ったら、それはたぶん「リング」の読み過ぎだ。鈴木光司に言ってくれ。 しかしまあ、奇病には御注意を。
「元気か?」の声が一番効くみたい 龍角散より浅田飴より
8/3(木)
あんまりにも咳がひどいので、今朝ついに「咳止めアネトン」を投入した。効きはじめの時間を計算して出社30分前に服用したのだが、アネトンはそんなの屁でもなかったようだ。ツバメの子が餌づくかのように始終喘いでいたのが、飲んで5分も経たないうちにスッと引いていく。おそるべしファイザ−製薬。でも効いてくれるのは助かるけどこんなに早いとかえって不安になるよ。今甘枝の肺では何が起こっているのだろうか。まさか関ヶ原の戦いよろしく善玉菌と悪玉菌が死闘を繰り広げているのではあるまいな。もしくは肺を人質に立てこもる犯人に青島刑事が必死に説得を続けているところだろうか。そして♪ララララサンバディトゥナイ〜 と感動のエンディングを送っているところだろうか。そうだったらすごい。薬が片仮名の”クスリ”に変わるぞ。やばいぞ。 ま、でも甘枝は昔から正露丸を口に入れた瞬間に腹痛を忘れる有り様だったから、この効き目もいわゆるプラシーボ効果(だったっけ?)なのだろう。
とにかくアネトンのおかげで今日は夕方まで持ちこたえた。7時間ももつとは最近の薬も進化したものである。仕事もはかどった。新入社員として一週間経った現在、働くことの面白さをひしひしと感じている。そのうち慣れきって飽きるかもしれないが、とにかく今はまだバリバリである。真綿が水を吸い込む勢いでぐいぐい新しいことを覚えていく。う〜ん、たまらんなあ。皆はじめはこうなのだろうか。いったいいつ頃から時計を睨んで一日を過ごすようになるのだろう。幸せなのは今だけでしょうか、みなさまよ。 そんなファイト一発人間・甘枝の楽しみは、仕事帰りのお茶だ。アフター5というの? おとっつあんならここでグビッとビール、大将今日のおすすめ何?というところを、いっぺん人から「まあ花のOLね」と言われてみたいがために街のキャッフェーにする。人に見た目で判断されたいおおいにされたい甘枝である。 しかしそうはいってもお洒落な女子で賑わうメジャーどころはさすがに疲れが倍増するので、結局いつもの隠れ家に行ってしまう。今日は並木通りの珈琲屋「一点」へ。ここは甘枝の隠れ家中の隠れ家、キング・オブ・隠れ家である。なんせ客がひとりもいない。3日前もそうだった。だ、大丈夫だろうか。消えて無くなるんじゃないか?週末はそれなりに繁盛しているようだが、平日がこれでは心配にもなる。昔、同じ並木通りに「クレープリ−花」というお店があった。オランダのラジオが流れている不思議な店で、甘枝はここの窓際に座ってバラエティーに富んだ美味しいパフェを食べながら階下の街行く人々を眺めるのが好きだった。ひとりで喫茶店に入る楽しみを知ったのもここが最初だったように思う。隠れ家としての位置は不動のように思われた。ずっとずっと通おうと決めていた。が、しかし、ある日気がつくとなくなっていたのである。 この時のひどくがっかりした気持ちが今ふつふつと蘇る。口にするとジンクスのようになってしまいそうで憚られるのだが、どうも甘枝が隠れ家にしようとするところは約40%の確率で閉店に追いやられるようである。死に神か、甘枝は。 そういえば甘枝の唯一の酒飲み処 ”とあるバー”も年内をもって12年の歴史に幕を閉じるという。好きなお店がひとつ、またひとつと消えていくのはなんとも淋しい。甘枝がどうこうというより店それぞれに事情があってのことだとわかっていても、せつない。これを一期一会というならば、そんな言葉なんか嫌いだ。 だから甘枝は行きたくなったらためらわず行くことにしている。人生の時間が止まらないなら、体感時間を止めればいい。だから「一点」なくなるなよ。給料日後に消えてたらしばき倒す。(それまで行かないのかっちゅー話)。
なんだかこのままでは甘枝が不幸を呼ぶ客みたいで癪なので、ちょいといいジンクスも付け足そう。えー甘枝はですね、客としては死に神に近いのですが一方店で働く立場となると、それはもう座敷わらしのように招き猫のように人を呼ぶのです。甘枝がいる店は満員御礼間違いなし。生きたえびすさんと呼んでもらいたい。 (ただ、甘枝の魅力がそうさせるのではなく、単にそこが忙しい店だからという説もある。けしからんな。)なので飲食関係の方々はくれぐれも甘枝を「入店拒否」などされぬよう。保険証もいつも常備なのだから。(何が『なのだから』なのだろう)
体内の無駄な思考を言葉にし 足りない分をコーヒーで得る
8/4(金)
昨日で3000カウントを超えたので(みなさまありがとう)、イベントコーナーに記念企画をアップしました。第3弾は前回に引き続きフリーペーパー[Neutral]掲載のショート・ショートを。今回のお話は最新号から引いたもので、運の良い人は街のどこかで他の作品と合わせてお楽しみいただけることでしょう。ただ数に限りがあるし、またこのHPには遠方よりお越しの方(つまり[Neutral]を入手できない方)もおられるのでこの際ドカンと公開しちゃえ〜〜〜と、こうあいなりました。ま、これを機にフリーペーパーにも興味を持っていただければなと思います。欲しい方は甘枝までメールを。広島が誇るクリエーター集団の底力を思い知れ。 今回は結局短編を紹介することになったけど、本当は短歌の企画もあったことにはあった。というのも、最近よく耳にするのが「私は甘枝さんの日記のファンです」とか「オレはよー日記読みたさに毎日アクセスしちゃうよぉ」とかとにかく日記の話題ばかりで、支持率が高いのは非常に嬉しいんだけどでも甘枝にしてみれば「もともとは短歌のHPだろう?」という疑問も禁じ得ないわけで、ちょっぴり「これでいいのだろうか?」と思っちゃったりするわけで・・・・母さん富良野に夏が来ます。 だからここで今一度、天下の、いや、短歌の甘枝りりを世に知らしめねば、そう思ったわけ。それでヒソカに策を練っていた今日この頃なんですが、さすがに本領発揮の分野だけにやりだすとこれが止まらないのね。一発企画物にしてしまうには余りあるというか。むしろ短歌のことは短歌のコンテンツを別に用意する方がよくて、イベントなんてのは一回限りの御愛嬌としてジャンルにとらわれずその場の勢いでやらかすべきかな〜?と。2日ほどうんうん考えた末(暇だなあ)、それ採用。それで行こう。短歌のコンテンツは今月中にもアップする予定です。いやあ、甘枝って実は歌人だったのだな。知ってた?少なくとも吉田兼好じゃあないんだよぉ。
で、今回のお話ですが、これはねえ今まで書いた中で最も時間のかからなかった作品といえます。10分くらいで出来た記憶がある。もともと[Neutral]用に書く短編はいつも不思議なくらいすっと書けるところがあって、どれもたいして手間ひまはかかっていません。字数が少ないからそうなのかと言われると、これがまた微妙で半分当たって半分はずれですかね。甘枝が[Neutral]に書く話は良く言えばエッセンスがぎゅっと濃縮されたものであり、悪く言えば骨格のみ、しかるべき肉付けが不足しているもので、いわば構想をそのままぽーんと出している感があります。その点では枠が限られているのはある意味楽といえる。しかし一方では、字数制限があるために無理にでも話をまとめなければならないのも事実。よく「小説家の力量は短編ではかられる」と言うけれど、まさにその通りで話を膨らませるのは簡単でも煮詰めていくのはけっこう難しい。これが制限あるゆえの辛いところ。甘枝がキーボードに向かう時はこれら相反する性質のおかげでいつも頭を悩ませます。2秒くらい。されど、いざ最初の文字を打ってみると後はするする川の流れのように。思うに、甘枝の書く文章は(それが小説であれ短歌であれ)あらかじめ頭の中にひとつのシチュエーションがあって、それを拡げる形で成り立っているようですね。今回の話で言うと、これは「眠っているのか死んでいるのかわからないおばあちゃんを見ている子供」という情景が最初にあって、その映像を活字で再現したらこうなった、という感じです。甘枝の場合、「これを伝えたいんだ」というメッセージ的なものははじめの段階ではないように思います。まあ、そうはいっても普段漠然と考えていることが無意識のうちに反映されているんでしょうけどね。 そんな話のメッセージ性よりも甘枝が気を注いでいるのは「どう見せるか」という見せ方にあります。このシチュエーションを最も効果的に見せられるのはどんな状況、どんな心理なんだろう?そう考えてストーリーのおおよその流れは決まっていくのです。ミステリィのトリックを考えるようなものですね。
あ、ミステリィで思い出したけど、時々甘枝の短歌についてこう聞かれることがあります。「これは本当の話?」or「どこまでが嘘?」 これらは読者の興味が作品を超えて作者にまで及んだ末に出てくる疑問で、まあ嬉しいですね。でも愚問でもある。虚実を決めるのは読者自身なのだから。作品とは、作者から産み落とされた時点で、そして読者の手に渡った時点で、もう作者のものではないのです。「いやーそれはわかってるんだけどね、やっぱ気になるじゃん?」 うん、それもそうかもしれない。こういう時、甘枝は「作品は全て、甘枝にとってはノンフィクション、他者にとってはフィクションなんだと思う」と答えます。もちろん、表現するうえで作り話はたくさんあるし、体験していないこともバンバン書くけど、それを甘枝自身は嘘とは思ってないんですね。必ずどこか実感として甘枝に通ずるものを書いてますから。(表面的には嘘でもね) また逆に読者が甘枝の作品をリアルに感じることもあるでしょう。ただ、リアルはリアルでもそれは読んだ人にとってのリアルで、甘枝の感じるリアルと同じとは限らない。つまり甘枝と共有できないという点から言えば、甘枝の作品は他者にとってはフィクションなんだろうというハナシ。それでいいと思います。自分から切り離された別世界として捉えても、自分だけの真実を見い出しても、全て読む人におまかせ。ノープロブレム 無問題。
うう、長いッ。なんだかいつもながらに脱線してしまったが、元に戻ってイベントコーナー、ひとつよろしう。
「愛ゆえの嘘なんだよ!」とわたくしが泣いてどうするテレビの前で
8/5(土)
「八月のクリスマス」という韓国映画を観る。主演は「シュリ」のハン・ソッキュ。どこからどう見ても下条アトムにしか思えない好青年である。かつてムービーコーナーで「シュリ」を取り上げた時にも書いたが、彼は最初どこにでもいそうなありふれた顔に見えるのに、話が進むに従ってだんだん男前度が上がっていき、しまいには「なんてイイ男なんだ!」といつのまにか特別待遇になっているという不思議な役者だ。スルメ的。ヒーロー向きの演技力があるかどうかはともかく、現実にいそうな等身大の人間をやらせたらうまい。味で勝負型というのだろうか。(しかし韓国では人気No.1俳優らしい) まあ、こんなふうに甘枝が絶賛するのも実は単に眼鏡によるところが大きいのかもしれない。(なんじゃそりゃ)今日改めて自分が如何に「眼鏡フェチ」な人間かようくわかった。いいよねえ、眼鏡。 話のストーリーは不治の病に愛する二人が引き裂かれるという純愛王道路線である。こういう設定はもう過去に何度もあるので一見「なんだ、またこの手か・・・」とひいてしまうのだけれど、意外や意外、「八月のクリスマス」に限っては最後まで静かに見守ることができて、なんとも好感がもてる作品であった。お涙頂戴的くどさは微塵もない。多くを語らず行間に匂わせるという手法が功を奏しているのだと思う。結局最後まで主人公が何の病気だったのかも明かされず、また、相手の女の子が彼の死に気づいたかどうかもわからないのだが、それでも観る者をシンとさせるに充分のつくりがなされている。最近こんなふうに後味のすっきりとした映画にお目にかかっていないので、ちょっと驚いた。恋愛でもいえることだが、人は押されると嫌になるけど引かれると思わずのめり込んでしまうものである。そこを計算に入れたうえで作られた映画だとしたらすごいな。(その計算が見えないところも含めて) 話の中でとても印象的な場面があった。主人公のジョンウォンは写真館の息子なのだが、自分に死期が迫っていることに気づいてふと自分で自分の遺影となる写真を撮ることを思いつく。甘枝は常々「写真家の写真は誰が撮るのだ?」と思っていたので(他に「美容師の髪は誰が切るのだ?」というのもある)、このシーンは興味深く観た。そうか、写真の場合はタイマーがあるからな、自分で撮れるよな。しかし写真は写真でも自分の遺影を撮るとなると、その心境にははかりしれないものがある。甘枝が同じ立場だったらどうするだろうか。少なくともひとりでひっそり遺影を撮ることはできない気がする。いや、そう言いながらもいざ死期が近づくと否応無しに全てを穏やかな目で達観できるようになるのだろうか。 達観といえば、ジョンウォンが全体的にやたらにこやかにしているのも気になった。明日は死ぬかもしれないのに、実に楽しそうな、曇りのない笑顔をするのである。これはせつない。周りの人と話す時、いつもきまって過去の思い出話になるところもせつなかった。待てよ、そんなにひとりでひそやかに人生の整理をするなよー!と、唇をぎりぎり噛みしめた甘枝であったが、映画の後半部分で実はやはりジョンウォンも死の恐怖におびえていたことがわかって、ため息が出た。
しかしなあ、それにしても、だ。(話はガラッと変わる) 男らしさとか女らしさのイメージって、恋愛の場面では意味をなくしますね。雄々しい女と女々しい男、性別が逆転するのか本来そういうものなのか・・・・ややこしい。例えば中年期にさしかかった男の人は、何故ああも自分が傷つくのを恐れるようになるのか。年の功を活かしてるんだかどーだか知らないけど、自らは何も言わずに相手に決定打を言わせようと仕向けて、傷つくことを回避しているように甘枝には見える。ジョンウォンも相手の女の子に好意を寄せているにもかかわらず、結局口にはしないまま姿を消してしまった。まあ、彼の場合は死の問題があるから言えないのもわかるけど、でもそれならそれで手紙を残すなよ。言わないなら一切言わずにいようよ。彼女が手紙で気持ちを知った時にはもういないんだよ。彼女はどうなる?それってやさしくないんじゃないの? ・・・・なんてことを思う甘枝は厳しすぎるでしょうか?ま、これは今日記を書く時点で思ったことで、実際映画を観ている時はそんなこと思いもせずにジョンウォンの気持ちに大きく傾いていましたけどね。それがこの映画のすごいところ。どうみたってジョンウォンは好感もてるもんなあ。 なんだか恋愛部分に関しては甘枝の個人感情に走ってしまった感があるけど(重ね合わせるから・・・)、とにかく良い映画でした。特におすすめはしませんが。(これだけ詳しく書いたらもう観なくてもいいという人には)
だんまりを決め込む腰のまんなかに輪ゴム銃の乱れ撃ちを
8/6(日)
今日はすごい日だった。とにかく衝撃を受けまくりの一日だった。3日分の出来事がぎゅっと一日に濃縮されたようであった。まずはひろしま美術館の「ロバート・キャパ賞展」。かねてより掲示板等で「あれはいいよ、一見の価値ありだよ」と絶賛の嵐だったので、これは是非見に行かねば!と思っていたところに、今日もともとあった予定が延期になったため急きょ午後から出かけることに。ひろしま美術館に行くのは初めてでいまいち建物の構造がつかめなかったが、日曜ということもあってか人がやたら多くお上りさん状態でのこのこ列についていった。展示室ではいきなりはじめにキャパの有名な「崩れ落ちる兵士」がばばーんと飾ってあって心の準備のできていなかった甘枝はのっけからすでにノックアウト状態。言葉をなくしつつ順に添って進むともうこれがあるわあるわ、衝撃の一枚が。1970年代から現在に至るまでの「ロバート・キャパ賞」受賞者の作品がずらりと並ぶ中、それらをひとつひとつじっくり観て回って美術館を出るまでには軽く一時間半の時間を要した。作品を観ながら目まぐるしく思考を働かせ自分なりに分析を試みたのだが、とてもとても一度には消化しきれない。なんとかわかったのは、「これは撮影ではなくて目撃なのだな」ということである。見ているとカメラマンの視線を追っている気にさせられる。そう、まるで自分も現場にいて生ぬるい泥の感触や火薬の匂いを感じているかのような錯覚に襲われるのだ。一枚の平ベったい写真をこんなふうに立体的に3次元的に感じたことはない。しかも写し出されている世界は実際にあった、ノンフィクションそのものの戦場である。これまでにも甘枝は映画の「ジェイコブズ・ラダ−」や漫画の「はだしのゲン」、小説の「野火」などでそれなりに戦争というものを理解した気になっていたが、それはとんでもない間違いだった。理解するにはあまりにも想像力に頼り過ぎていた。そしてその想像力も貧困極まりなかった。実は知らなかったも同然であった。折しも今日は8/6、広島の原爆の日で、たまたまにしろこういう日にこういう写真展を見るというのは、甘枝に大きな衝撃を与えるに十分であった。正直なところ、戦争を知らない子供達のひとりである甘枝には戦争のなんたるかはわからない。自分には無縁の世界と思ってしまう。だが、こうして目の当たりにしてしまうと、そう呑気にいられなくなるのも事実だ。知るとはそういうことなのだ。甘枝は知ってしまったので、受け止めてしまったので、もう他人事ではなくなった。またひとつ、自分なりの見解を持つべき問題をみつけた気がする。(ちょっとは大人になっただろうか?) それともうひとつ、写真を見ていて思ったのは、「プロとはこういうものなのだな」ということだ。並んでいる作品たちは賞を取っただけあってどれも秀逸なのだが、あまりにも完成度が高くて逆に見る方はあっさり流してしまいがちである。一瞬「おお!」と思って終わりみたいな。 しかし、よくよく考えてみれば、命のやりとりをしている現場で、自らも危険にさらされながらこれほどの写真を撮るというのはどんなに困難なことか。いったい何回の偶然のシャッターチャンスを経て、必然の一枚に至ったのだろう。構図や被写体の表情はもちろんのこと、さらにそこに自分の意思を反映させるカメラマンのセンスの鋭さ。孤高のプロ意識にまたもや衝撃!の甘枝であった。
なんだか一騎討ちを終えた戦士のようにぐったりしつつ美術館を出た甘枝であったが、このまま家に帰るわけにもいかない気がしてとうろう流しが行われることになっている平和公園へ向かった。実は今日ここでのイベントに我がゴスペルチームが出ることになっており、甘枝は当初不参加の予定だったが都合が変わったこともあってせめて見に行こうと思い立ったのである。しかしいざ行ってみるとメンバーからいっせいに「なんで出んのん?来たからには出んさい」攻撃を受け、「えっ?えっ?」とうろたえる暇もなく急きょ飛び入りするはめに。今日はなにかと「急きょ・・」の多い日である。リハも何もなしの本番ぶっつけで途中明らかに口パクの部分もあったが、それでもなんとか歌い終わってホッとした。最後の方では(「キャパ賞展」の後だったこともあって)「いやあ、こういうピースフルな活動に参加できて良かったなあ!」とすら思った。単純で微笑ましいの巻。
で、本日極め付けの衝撃がこの後にくる。なんということだろう、たまたま今日広島でコンサートを行った世界的チェリスト ヨ−・ヨ−・マがとうろう流しのことを知って、急きょ(またか!)平和公園でゲリラライブをやることになったというのである。甘枝はテレビでしか彼の演奏を見たことがなかったから、この突然の嬉しいハプニングに胸を高鳴らせた。すこしでも良い位置で演奏を見るために、予定時間のずっと前から場所取りに励む。そしていつどこから現れるかもしれないヨー・ヨー・マを目におさめるべくキョロキョロあたりをうかがい続けた。不思議なもので「ヨー・ヨー・マ、ヨー・ヨー・マ・・・」と思って見ていると眼鏡をかけた人が皆ヨー・ヨー・マに見えてくるのだ。しかもまた中国人っぽい人が多いのね。ハッ!と見ると子連れのお父さんだったりしてしごくまぎらわしかった。 結局本人は予定時間
on time でいつのまにか登場していた。おおお、これがヨー・ヨー・マ!騒然となる会場。 肝心のライブは場所取りをしただけあって、なんと僅か3メートルの至近距離で見ることが出来た。高いチケットを買って公演を見に行った人に申し訳ないくらいの好条件である。演奏は一曲のみであっさり終わったが、生で、しかも野外で聴くチェロの音は雄大にして美しく、目前を流れる川の水に添うようにしてしなやかに空へ吸い込まれていった。感動。演奏も素晴らしかったが、当人がまた蒸し暑い夏の夜を忘れさせてくれるくらい爽やかな人で、格好良かった。甘枝シビレましたね。一緒にいた友人に「いいねえ」と言うと、「そりゃ眼鏡と年のせいじゃろ?」と甘枝の弱点をずばりと突く答えが返ってきた。ああ、そうかもしんない。付け足せばミュージシャンでプロなところも好きよ。
以上のように、今日は本当に衝撃につぐ衝撃で忘れられない日となった。現在キーボードに向かう甘枝はまるで「恍惚の人」状態で、この文を書くのに2時間かかっている。平和への祈りとともに甘枝の魂も天に召されそうで不安だ。アーメン。
千羽鶴 君住む街へ放ちたり 待つことはただ祈りに近く
8/7(月)
原田宗典のサイン会に行く。これは新刊「おまえは世界の王様かっ!」(なんとも彼らしいタイトルだなあ)の発売を記念してのイベントで、広島本通り丸善にて18:00より行われた。「おまえは〜」はかつて雑誌「ダ・ヴィンチ」で連載されていたものを本にしており、内容はというと、原田氏がまだ作家としてデビューしていなかった20代の頃に国内外の文豪の作品を読んでは感想を記していた「読書ノート」なるものに、今40才になった彼が改めてツッコミを入れる、というものである。作家を志して熱く燃えていた原田青年は永井荷風、三島由紀夫といった大文豪の作品を若さゆえの勢いと猛りをもって小気味良いほどにばっさばっさと切り捨てて憚らない。現在の原田氏から見ればそれはまさに「恐れを知らぬ王様」そのもので、それでこういうタイトルになった、というわけである。甘枝はこの作品を「20代の自分と40代の自分の対決物」として面白く読んだ。20代の彼は「こんな小説ぅ、僕ならもっといいもの書いちゃうもんねっ!」と言わんばかりに野望に満ちていて面白いし、一方念願叶って作家として名を成し、それなりの年月を経て小説の構造が見えてきたであろう40代の彼もまた、若き自分の視点の鋭さに舌を巻いたり今昔の見方の相違を冷静に見つめたりと成長が感じられて面白い。甘枝もいちおうは物書きの端くれであるから、書く行為を他人の褌を借りて己に問うという点でお手本にもなってさらに興味深い一冊であった。原田流「文章読本」といったところであろうか。
もともと原田宗典は好きな作家であった。高校の時の恩師である国語の先生が彼の「スメル男」という小説を勧めてくれて初めて読んだのをきっかけに、「十九、二十」「優しくって少しばか」と次々に彼の作品にのめり込んだ。特に「優しくって少しばか」には思い入れがあって、以前日記にも書いたが大学当時大好きだった人に貸したはいいものの、返ってくるまでに恋が終わってしまい結局永遠のプレゼントとなってしまったという苦い思い出がある。甘枝は元来人に本を贈るのがとても好きで、この小説はそういう時にぴったりの本なのだ。あんな過去がなければ今でも誰かに贈りたいくらいである。(男に限るけどね) 今となっては、原田氏も小説よりエッセイで有名になった感がある。しかし、甘枝はエッセイももちろん好きだが、やはり彼は生粋の小説家という気が多分にして、いつも新しい小説は出ないかと気にしている。今日のサイン会には整理券がついていて「裏に作者へのメッセージをお書きください」とあった。それで甘枝はそういうファンとしての熱い思いを書き綴ったのであった。
18:00の開始に合わせて10分前くらいに会場へ着くようにしたのだが、行ってみるとすでに「ムネノリ待ち」の人々が列をなしていてちょっとビックリした。これまでサイン会など行った試しがなかったから、こういう宝塚の出待ち的雰囲気には慣れていない。待っている人の大半は20代の女性で、その中に埋もれるようにして少数の中年男性や「ああ、いかにも文学青年」といった若者が混じっていた。皆本を握りしめてじっと原田氏の到着を待っている。まるで自分がモスクワで食料の配給を待っている人のように思えて、なんとなく「皆と気持ちをひとつにせねば!」と、落ち着かないのを必死にこらえた。18:00を少し過ぎたあたりで原田氏到着。いっせいに拍手が起こる。甘枝はただオロオロ。なんかなあ、こういうの苦手なんだよなあ。集団をあまり信用していないからなあ。(それは協調性がない、というのだ) それはいいとして、長く待ったわりにサイン会はあっさりトントンと進んでいく。ぼやっとしているうちにいつのまにかもう次の番。やにわに鼓動が高鳴りはじめて甘枝の前の青年と原田氏のやりとりを凝視してしまう。この時甘枝が思っていたのは「ムネノリもホントはサイン会なんてやりたくないんじゃないだろうか、それなら自分の番には限りなく速やかに終わらせてしまおう、物足りなくても原田氏にはそれが良いことかもしれない・・・」と極めて殊勝な心掛けであった。いよっ、ファンの鑑!と自分に惚れ惚れしそうになったが、ふと「それならサイン会にも来ない方がムネノリのためではないか」という鋭い囁きが聞えてきたので、間をとって気にしないことに。(とるなよ、間を) 聞くともなしに聞えた話では甘枝の前の青年は写真家を目指しているということだった。しきりに原田氏に訴えている。「じゃあオレを撮ってくれよ」と原田氏が返すと、青年は急にうろたえて「今はカメラ持ってません」と小声で言った。ガクッとなる原田氏。でも青年はめげずに「いつか御会いしましょう」とデカイことを言ってその場を去った。ああもう恥ずかしいッッ!他人事ながらごめん、ムネノリ! ・・・わかるよ、君の熱意は充分伝わるよ。ようくわかるんだけれども、甘枝なら言わないね。言うのは夢が叶った時だよ。やることやって言えよ若者よ。とまあ「うう、気持ちはわかるんだが・・・」と唸る甘枝だったのだが、逆にそんな若者がいてくれたおかげで自分の番の時は何も言わずにいようと固く誓うことになった。まあ、伝えたいことは整理券の裏に書いたしね。結局本人の前では何も言わなかったが、紙に一首したためておいたので、それで良いんじゃないかと思った。サインをしてもらう間、甘枝は文章をひねり出す作家の手というものがどういうものなのか知りたくて、原田氏の手ばかり見ていた。身長180cmの大男だけあって手も大きい。その手で握手をしてもらうと、通常の1・5倍はあるのではないかというくらい分厚かった。作家の命である手。感動しましたね。
サイン会を終えた甘枝の感想は「名を成すとはこういうことなのだなあ」である。目の前にいたのは確かに自分の力で夢を実現した人そのものであった。自分とは違う世界に住む人、そう言うこともできるが、いつか自分も加わるかもしれない世界の人、こうも言える。後者が良いね。そう言いたいね。ということで、甘枝はさしずめ「短歌の王女様」として君臨することにする。(王様だの王女様だの・・・カレーかっ!?)
追いかけて辿り着いたらもういない風なる人をまた追う若さ
8/8(火)
頂き物の桃を食べながら書いてます。よく熟れて甘い! 昔から果物に対してはあまり執着心のない甘枝ですが、それだけにこう思いがけず食べることになると、至福も倍増。いつも「これなら毎日でも食べたいぞっ」と思います。でも結局すぐ忘れてしまう。なんなんでしょうね、これは。単に皮をむいたりする手間が面倒なのか、それとも「たまに食べるからこそ美味しい」と変に思い込んでしまっているのか・・・。たいていの女子なら果物に目がないハズなんですけどねえ。そういえば果物の他に女子の大好物であるアイスクリームなんてのも、甘枝に限っては年に3回食べるか食べないか。あとスナックも二十を過ぎてからは食べなくなりました。どれも子供の頃は好きだったんだけどなあ。年を取って嗜好が変わったのでしょうか。周りの同世代女子を見ると、彼女達は甘枝と違って大人になっても変わらずに甘い物やスナック類を好んで食べていますね。何が違うのだろう。思い当たるといえば、もともと甘枝が濃い味付けのものを苦手としていたということでしょうか。チョコレートも板チョコはきつくて、せいぜいポッキーやエンゼルパイ(これは今も好き。特にイチゴ味が)といったチョコを使った加工品止まりだし、和菓子も京都とかのいわゆる「上品な甘さ」を売りにしたものがあることを知ってようやく食べられるようになったくらい。スナックなどはその濃さでいえば論外で、せっかく今は様々な味が楽しめるようになったというのに、甘枝は昔ながらのプレーンな塩味が一番好きです。 しかしそんな甘枝でもある場合に限って、自ら進んで買い求めることがあります。いつかというと、風邪の時。原因はよくわからないのだけれども、風邪をひいて熱がある時、いつも何故かムショーにアイスとポテトチップスが食べたくなるのです。それもアイスはハ−ゲンダッツのチョコクッキー味、ポテチはうす塩味と銘柄指定で。これらにヨーグルトを加えたものが甘枝の風邪時の三種の神器となります。そんなんかえって身体に悪そうじゃんか!と自分でも思うけど、何故か妊婦が酸っぱい物を求めるのと同じでいてもたってもいられなくなってしまう。おそらくヨーグルトは不安のあらわれですね。これでチャラにしてしまえ、とでも言うつもりなのか? そして逆に甘枝がアイスやポテチを食べたくなったら、それは体調の悪化を示す危険信号でもあるわけです。どんな危険信号や。でも人それぞれこういったケース限定の食べ物ってありませんかね?高校の時の同級生は「なんだかしんねえけど失恋するとオロナミンCが飲みたくなるんだよなあ」と言っていました。彼の恋はビタミンを消耗するのだろうか。甘枝の知る限りでは3年間のうちに6本は飲んでましたね。今頃は一ダース超えてるでしょうか。空壜並べてボーリングとかしてたらこわいなあ。金閣寺作ってたらどうしよう。
食べ物の話はこれくらいにして、今日念願の「バナナフィッシュ」の続き(11巻〜)を入手しました。先に読み終えたゆきりんからの又借り。「てらにし珈琲」でうやうやしく頂戴つかまつった後、しばらく「『バナナフィッシュ』を映像化するならキャストは誰がいいか」という小学生レベルの激論を。「アッシュはいしだ一成!」と強気のゆきりんに「いいや、もっと冷静な人でしょう。彼は血の気が多すぎる!」と譲らない甘枝。(く、くだらねー) しかし「じゃあ誰?」と言われるとこれが思い浮かばないのです。考えてみれば今の日本を代表する若手俳優って、なかなかいませんね。しいていえばジャニーズ系統となるのだろうけど、いやあまだまだジャニーズには任せられないしなあ。結局甘枝とゆきりんが唯一意見を一致させたのは「ショータ−は松山千春で決まり!」これだけでした。何故かすっきり。(ああ、読んでいない人わけわからんちんでスミマセン)
「てらにし」を出た後、家に帰るのも待てなかった甘枝は東千田公園で青空読書。陽の長い夏は野外活動に幅がでてよいものです。夕暮れ時は涼しいしね。僅か一時間の間に甘枝は史上最高の集中力をもって2冊読みました。内容でいえば凄腕の殺し屋「白(ブランカ)」が登場してこれからいよいよアッシュと対決!という見せ場中の見せ場です。「ぬおおお、どうなるのだ!?」とはやる思いで3冊目に突入しようとした頃、ちょうど闇が濃くなりだして仕方なく帰宅することに。 で、「今日は早めに日記書いて気になる続きを読もうはよ読もう。」と急く思いで今キーボードに向かっている次第。右足の親指はもう漫画のある方へ向いています。カタカタ震えています。「読んでから日記を書けばよかった。」そんな内なる囁きが、君にも聞こえるかい? では、いざ。
守るものなんてないと噛みしめた言葉を護符にどこまで行こう
8/9(水)
甘枝はパソコンにスピーカーをつけている。MIDI音源を使ってデスクトップミュージック作りに励んでいた頃に、ヤマダ電器で衝動買いしたDIATONEの小さなスピーカーがそれだ。買った当初は嬉しくて始終ONにしていたのだが、HPを立ち上げてネットへのアクセス率が高まるうちにあのダイヤル音「ピポパピポ・・・・ザ−ッッ」が耳障りでならなくなって、ここ半年は電源を切っていた。いささか物足りない気もしたが、うんともすんとも言わず黙々と指示をこなしていく我がMacも「おお、おお、おとなしくてエエ子やのう」とそれなりに愛情を感じられるところがあって満足していた。 そんな中、友達からネットグリーティングカードが届いて、甘枝も返事を出すことにした。作成画面を見ると、カードにもいろいろあって文字とイラストのみのシンプルなやつから動くアニメーションが楽しめるものまで種類が豊富。「どれにしよっかな〜」と送る相手の顔を思い浮かべてにこにこしていたら、ふと音楽つきのカードを見つけた。ソウルフルでダイナマイトなシンガーがドゥ−ワップコーラス隊を引き連れてメッセージを読む後ろにゴキゲンなJAZZが流れる、という趣向。これはいい!と早速メッセージを書いてプレビューしようとしたのだが、音が出ない。当たり前である。スピーカーを切っているのだから。 それで久々にスイッチを入れてみることにした。スピーカー、半年ぶりのカムバックである。あまりにも音無しの日々が長かったためにすっかり忘れていたのだが、そういえばiMacはやたらと音を出すのが好きなヒトだったのである。しかもその音がいちいち可愛い。アイコンをクリックするたびに「カチッ」とか「ポコッ」とか「ぷにょっ」とかなんともプリティなリアクションが返ってくる。「Postpet」を開いてサダネコにおやつをあげたりすれば「しゃかしゃかしゃか」と齧る音がし、撫でてあげたりすれば「ぴょこぴょこぴょこ」とまた音がする。お、面白いではないかッッ! そうか、甘枝が難しい顔をして向かっていた「サマンサ」(iMacの名前)は実はこんなところでも愛くるしさを発揮していたのだな。忘れてたよ、甘枝は・・・ まるで何十年も連れ添った妻に突然出会った頃の初々しさを見い出した老いらくの亭主、そんな気分になってしまった。青いラブソングにありがちな「近すぎて見えない」というやつだろうか。(関係ないけど甘枝はこういう表現を目にするたびに「それは老眼じゃないか?」と思う。そして鼻で笑った後5分くらいしてふと自分の詩的センスに疑問を抱く。) ともかく、甘枝は今日改めて「サマンサ」にときめきを覚えたので、今後当分は部屋が賑やかしくなると思われる。今一番聴きたいのはファイルをゴミ箱に捨てた時に鳴る「チン」という音だ。それを聴きたいがために思わずこの「一日一歌」を捨ててしまいそうになる。ひえーあぶないあぶない。
話は変わって、ビデオで「アリゾナ・ドリーム」を観た。変な映画であった。レンタルビデオ屋でジャケ裏の「人の心がわかりたかったら、その人の夢を知れ。」というコピーを見て「おお!?これはひょっとするとmovieコーナーで紹介できるかも」と思って借りたのだが、見終わる頃には「これはなんとも語りにくい映画だな」と一転して紹介を諦めた作品である。どんな物事にも必ず意味を見い出そうとする癖のある人には、これが良い作品なのかろくでもない作品なのか判別に苦しむところだろう。それくらいとらえどころがない。でも甘枝はそれがこの作品の持ち味なのだと思う。肩に力を入れずに、眠れぬ夜、灯りを消した部屋でソファに寝そべりながらぼんやり観るといい気がする。たまたま今日買った雑誌「ダ・ヴィンチ」に「夢の中では不穏な情景だけがあって、意味が抜け落ちている。そんな言いようもない不安こそが怖い」という文があったが、まさにそんな夢の特質を映像化した作品だと思う。だからその通り雰囲気を楽しむに徹した甘枝だったのだが、ひとつだけピンとくる台詞があった。「おはよう、コロンブス」。おわかりいただけるだろうか。アメリカ大陸を発見したと言われるコロンブスも、実はそのこと自体彼の一夜の夢だったのかもしれない、というフレーズである。これにはハッとした。「胡蝶の夢」ではないが、自分のなし得た全てが実際は夢に過ぎないのだとしたら・・・ 達成感で胸がいっぱいなのに、気づけば母親が側にいて「おはよう」と自分の顔を覗き込んでいたら・・・ そう考えるとこの台詞は現実というものを突き付けている厳しい言葉のようであり、夢見がちな甘枝を考えさせるに充分なひとことであった。しかしそう思いつつも、他方ではジョニ−・デップの素顔に未だに慣れない自分を発見した作品でもあった。「シザ−・ハンズ」を観て以来、もうあのメイクなしには彼を見られないんだよなあ。すまんね、ジョニ−。(これがホントの”ジョニ−への伝言” さ、さむっ!)
ついでに先述の「ダ・ヴィンチ」にもひとこと。この雑誌は連載陣のラインナップが強力で(森博嗣、町田康、宮台真司←嫌いなのに読んでしまう)ついつい買ってしまう。創刊時から比べると途中で編集長が代わったこともあって、回を重ねるごとに特集記事がヒートアップしているように思われる。(新編集長はSMとかオカマとかSWAPとか、そのあたりが非常に気になるらしい) 今回は最初に怪談の特集があって、甘枝はまだそこまでしか読んでいないのだが、世にも恐ろしい話を知ってしまった。読んだ人にも伝染してしまうという「リング」的恐怖の怪談である。どうしよう、甘枝の元にも”きじまさん”が現れたら! こわい。お風呂のシャンプーがこわい。トイレの天井がこわい。読むんじゃなかった。(ちなみに今家にひとりきり!) 唯一の救いは甘枝宅の隣に小さいながらも神社があることだ。甘枝が勝手に作ったジンクスによれば、神社のあるところ(聖域だと信じて)と星空のもとでは霊に会わないことになっている。今まで幾度か怖い目にも遭ったが、とりあえずジンクスの条件を満たしている時は難を逃れている。神社が家の隣にあることを考慮すれば何の不安もないはず。でもこわい。で、とりあえずお裾分け程度に書いてみました。 イヤ?
瞳孔を開いて空を凝視するネコを無視してマンボを踊る
8/10(木)
普段は滅多なことでは動じないジェントル甘枝であるが、今日久々に思わずちゃぶ台をひっくり返したくなるような衝動にかられた。それはもうちゃぶ台どころか地球丸ごとひっくり返してメタメタにしてしまいたいほどの激昂である。 「それ」は会社からの帰り道で起こった。職場から家までは市電2駅の距離にあるため、帰りはいつもてくてく歩くことにしている。ちょっとした散策気分で、しかも仕事を終えた充実感に満たされていることもあって、甘枝はこのひとときを愛しく思っている。いつもは裏道を抜けるのだが、今日はふと気が変わって電車通りを歩くことにした。郵便局を過ぎ、お決まりのように「Please
Mr.Postman」をリピートしながら市役所前の並木をくぐる。わさわさ揺れる緑の隙間にうすい青空がのぞいて気持ちよい。今日もグレイト。がんばるあなたにリゲイン。ってそれくらいゴキゲン極まりない甘枝であった。そのまますいすい泳ぐような足取りで交差点へ向かう。赤。ここで止まるとなんだか調子が狂うから遠回りでも青の方向へ曲ろうかな・・・そう思った時である。甘枝の右、約10メートル先からアロハに短パンの10代と思われるにいちゃんが携帯片手に自転車でつっこんできた。その速さは真心ブラザーズの「スピード」かっちゅーくらい(つまり車並み)。「うわっ」と思ってとっさに身を引いたのだが、次の瞬間身体の前面にドスンと衝撃が。なんと、甘枝の前に立っていたおばあちゃんが自転車をかわした拍子にバランスを崩してあお向けのまま倒れかかってきたのである。 この瞬間、世界が映画か何かのようにスローモーションで見えた。ゆっくりと弾き飛ばされるおばあちゃん。そして「ひえええ」と叫びながらも、飛び込んでくるおばあちゃんを全身手と化して受け止める甘枝。目の端でチカチカ点滅する信号の青。 このたった1秒ほどの時間が甘枝とばあちゃんの人生を止めた。ハッと我にかえると、甘枝はおばあちゃんを抱きかかえたまま地面に転がっていた。二人分の体重を受けて倒れたせいでお尻をしたたかに打ってしまったようである。声も出ないくらい痛い。痛いのだけれどそれを堪えておばあちゃんを起こしてあげる。「だ、大丈夫ですか」と声をかけると「私はいいけどあなたが・・・」と逆に心配された。そりゃそーだ、下敷きになったんだから。見てみるとおばあちゃんは無傷のようだった。ああ、それならいいよ・・・と思いかけたが、今一度よく見てみるとおばあちゃんは無事でも手に持っているハンドバッグが無事ではない。紐が切れてしまっている。どうやら、自転車をよける際にハンドルにひっかけたらしい。それを見て、甘枝は頭のどこかがブチ切れるのを感じた。 あ、あ、あんのおおお馬鹿自転車ヤローッッ!! 急いで奴が立ち去った方向へ駆け出す。2、3歩行ったところで、遥か遠くを疾走中の姿をとらえた。ダメだ、とても追いつかない。くっそーぅ腰さえ打っていなければ何がなんでもひっつかまえてやったのに。消えゆく背中に「謝れえ〜こらあああ!」と叫んだが、あの距離では耳をかすりもしなかったろう。 般若の形相で立ちすくむ甘枝に、おばあちゃんは何度も「私はいいけん、私はいいけん・・・」と繰り返した。
結局おばあちゃんとはそれで別れたが、甘枝は家に辿り着いてもしばらく怒りがおさまらなかった。ついでに痛みもおさまらない。身体も心もどっちも痛い。とりあえず今、湿布くさい部屋の中でこれを書いている。 少しは冷静になったが、それにしてもどうにもハラが立つ。自分が被害を受けたせいもあるし、非力な年寄りが巻き込まれたせいもある。でもそれよりも何よりも、あの自転車ヤローの一挙一動にハラが立つ。目がついてるんだから前は見えるだろう?人がいるのがわかるだろう?それがわからないのは携帯に夢中になってるからだ。携帯以前に「この世には自分しかいなくて周りはみんな景色」くらいにしか思っていないからだ。 口がついているんだから謝れるだろう?人に害を及ぼしたら「ごめんなさい」だろう?それが言えないのは自分が可愛いからだ。可愛い以前に「この世では自分だけが正しくて周りはみんな邪魔」くらいにしか思っていないからだ。 もしかしたら今頃「ああ、悪いことしちゃったな」と思っているかもしれないが、それは伝わらないのだよ、こちらには。会わない限り永遠に。その時一瞬で全ては決まってしまうのだよ。 なんだか奴の分までかなしくなってきた。もうねー ホントに「善いことをしろ」とは言わないからせめて悪いことはしないでほしい。いいよ、自分が気がつくまで好き勝手にすればいいよ、でもそれならそれでひとりでやれ。人を巻き込むな。 今日はたまたまばあちゃんも甘枝もたいした怪我をせずに済んだが、これがもしどちらか一方でも怪我をしたり、最悪の場合死んだりしたらと思うとゾッとする。甘枝は心底怒っているので、明日からはこの体験を教訓にするが、今日一日はすくなくとも眠りにつくまで恨んでやる。「これもいい経験と思って」? 冗談じゃない。 ばあちゃんに後遺症など出ねばよいが・・・
あと一度「私なんか」とその口がのたまえば即なぎなたで突く
8/12(土)
いやーっ、もう今日はテンションたっかいなー!! ゆうべ思わず日記をすっ飛ばしてしまうほど眠りこけたからであろうか(ドキッ)。 いやはやいやはや。でも今日は書くぞ。書かねばなるまい。書かせてほしい。甘枝が日記を書き始めてはや三ヶ月。「いいかげんネタも尽きたんじゃないの?」と、そんな心配の声もちらほら聞こえる今日この頃ではある。BUT!のーぷろぶれー、むッ!実際は逆にネタがあり過ぎて困るくらいなのだ。毎日毎夜「今日はこれを書こうか、あれにしようか、いやいや、それも、おっとこいつも・・・」と”あれもこれも全部ちょうだいキャッシュでちょうだい”状態に陥って、選ぶのに苦労している。そんな有り様だから、今日のような「これっきゃない」と思える一本が控えている日は心強い。使わずに済んだパワーが、ああもうウズウズしてほら、もうこんなに書いちゃいましたよ。このままでは前フリで終わる可能性大だ。いけないいけない。というわけで本題へ。
今日のテーマは「祝・ごたーいめーん! 〜いやもうほんとラッキー〜 」である(変な副題は気にしないように)。 詳細に入る前に注意をひとつ。甘枝HPのトップページにリンクのコーナーがありますね。あそこの「BAR
(lookin for)Rachel Wallas」というサイトに未だ飛んだことがないという方は、この先を読む前にぜひ行ってみてほしい。じっくり楽しんだ後でもいちどここへ戻ってきてほしい。・・・・・・・どう?行ってみた? よし、行ってみたと見込んでいざ書きましょう。 甘枝は今日、あのジェイさんにお会いしたのである。ジェイさん、わかりますね?言わずとしれた「Rachal
Wallas」の名バーテンダーその人です。サイトを御覧になった方はわかると思うけど、ジェイさんのHPはとてつもなく格好良い。バーという設定のもとに繰り広げられる映画や本、音楽の話は造詣が深く、読む者の興味を充分に満たしてくれる。また、特に秀逸なのは文章で、例えばお客とのやりとりは洒脱にして軽妙で読んでて非常に楽しい。「かっちょいいなー」サイトを訪れる度に甘枝はそう思い、そんなHPを運営しているジェイさんという人に憧れを強くしていたのであった。ま、簡単に言えばファンなのです。 その一方、ジェイさんはジェイさんで甘枝のHPを(何故か)気に入ってくれて掲示板にも時折顔を出してくれるようになり、ここでひとつの縁ができた。関東にお住まいのジェイさんとこんな形で交流できるのもネットのおかげだなあ、すごいなネットって。そう思いながらも、所詮は遠くの人でまさかお会いできるとは夢にも考えていなかった。そんなだから昨日お盆で故郷の倉敷へ帰省されたジェイさんからメールがきた時はたまげにたまげたものである。なんと、帰省のついでに広島まで足を延ばしてくれるとおっしゃるのだ。こんな願ってもない話、誰が断れようか。即座に「会いましょう会いましょう」と返事を出した甘枝であった。
そういうわけで今日の午後、甘枝とジェイさんは平和公園にて待望の御対面を果たしたのである。HPこそ愛読していたもののジェイさん当人に関しては顔すら知らない状況だったので、いったいどんな人が現れるかワクワクドキドキしていた。第一印象は「あ、イメージとちがーう!」。実際にはイメージといっても常に顔の部分に?マークが浮かんでいる姿しか想像していなかったのでこれはおかしいのだが、でもなんとなくそう思った。本物のジェイさんはバーテンダーというよりはデザイン関係の仕事をしていそうな風貌で(どんな風貌や)、顔は古尾谷雅人に似ていた(気がする)。意外と寡黙そうなイメージを持っていたが、甘枝に気を使ってくれたのかとても気さくに話してくれる。いい人だ。 御対面の後は昨日電話で「呉に行ってみたい」という話が出たので、ジェイさんの車でドライブをすることに。広島市内は初めてのジェイさんであったが、甘枝の不確かなナビにも惑わされることなく気がつけばいつのまにか呉の海沿いを走っていた。まるで「ジャパニーズ(ローカル)ロードムービー」といった感じで工業地帯のあの天にそびえ立つ煙突群に感動したり、凪の瀬戸内海に心を穏やかにしたりしながらドライブは楽しく進行した。途中で呉ポートピアランド跡地にできた公園に寄って、ビールを飲みながらしばしおしゃべり。ジェイさんという人は投げかけられた言葉に対するレスポンスがものすごく速く、話していてちっとも飽きない。きっと普段から考えていることを常に記憶の引き出しの前方に置いていつでも取り出せるようにしているのだろう。甘枝の質問攻めにも迷いなく応じてくれた。ううん、ますますいい人だ。
一通りドライブを終えて市内に戻った後は、ジェイさんの「お好み食べたい」というリクエストによって町のお好み焼き屋さんへ。これにはドライブ中にたまたま電話をかけてきた住吉9太氏も急きょ加わった。住吉氏とジェイさんは共に村上春樹ファンで、甘枝が「私は今ジェイさんと一緒なのだ。うらやましいだろぉ」と告げると一もニもなく飛んできたのである。住吉氏はジェイさんに会えたのがたいそう嬉しかったらしく、お好みを食べている間もその後行ったカフェでもずっと春樹の話をしていた。 食後のコーヒーを飲み干していよいよお別れの時がきたのであるが、甘枝も住吉氏も名残惜しくて最後まで「また会いましょう。今度は東京で。」と何度も次の約束をせがんだ。ジェイさんの車を見送った後二人で歩きながら「今日は本当にラッキーだったねえ。」とそればかりであった。最初は「イメージと違う」などと思っていたけれど、一日一緒にいてそんなイメージも吹き飛ぶほどの素敵な人でしたよ、ジェイさんは。ちょっと誉め過ぎかもしれないが、なんせファンだから。 ジェイさん、今日はどうもありがとう。またぜひお会いしましょう。ジェイさんにとっても甘枝はイメージと似ても似つかない人であったでしょうが、懲りるなよ。
この曲を聴けばあなたは思い出す 二人見た海さよならバードランド
8/13(日)
イッセ−尾形がやってくる。9月の半ばにやってくる。2年ぶりの広島公演である。今日はそのチケットの発売日とあって、甘枝は朝もはよからプレイガイドに並んだのであった。一緒に観に行くゆきりんと9:30に待ち合わせをしていたのだが、甘枝は昨夜テレビでやっていたロバート・デ・ニ−ロ主演「フランケンシュタイン」を夜中の3時過ぎまで観ていたのがたたってなんと9:25起床。慌てて5分で身支度を整え(ほとんど寝起きの着の身着のままスタイル)ジェット噴射全開で家を飛び出した。行ってみるとそこはすでに長蛇の列。もらった整理券はNo.77であった。甘枝到着とほぼ同時に現れたゆきりんが78。結局2人とも遅刻である。今日はPAFFYのチケット発売日でもあったようで、プレイガイドの前にはもうひとつ列ができていた。みんな若い。それに比べて我がイッセ−チームは年齢層が幅広く、しかも単独”一匹狼タイプ”が多い。それ故にどこかしらマイナな香りが漂っていて「この人はどういう経緯でイッセ−さんと知り合ったのだろうか?」と観察するのが面白かった。ちなみに甘枝はイッセ−さんが「意地悪ばあさん」でおまわりさんをやった時以来のファンである。大学3年の時に「卒論はイッセ−尾形をテーマに」と思ったくらいの筋金入りだ。(これは未完の大作に終わった) 10:00過ぎ、ようやく発売開始。みんなでぞろぞろ階段をのぼる。しかしなかなか先に進まない。これでは甘枝の番にはもういい席は無くなっているかもしれんなあ・・・とやや心配だったが、なんとか6列目をgetすることができた。Yeah!これでひと安心。後は当日を待つだけだ。そう思うとわくわくしてきて、今思わず本棚のイッセ−本をひっぱりだしてキーボード片手にパラパラめくってみる。イッセ−さんのお芝居は一つ一つタイトルがついていて、これがねえホントに秀逸なんです。タイトル付けの天才だと思う。たとえば「私服で逢いたい」、たとえば「一人酒」、たとえば「身の程なし」。タイトルにすでにドラマがある。「私服で逢いたい」なんて、よくわかんないけどせつないねー でも笑っちゃうねー。あーあ。今年は何を見せてくれるんだろう。関係ないけど前回観に行った時は甘枝の髪はミドリ色だったなあ。アグレッシヴを持て余してそれが外見によく表れていた時代だった。あれから2年。髪も伸びて雰囲気から中身までずいぶん変わった。なんといっても甘枝りりになってしまったもんなあ!人生いろいろ 男もいろいろ、である。今年は甘枝Ver.でサインしてもらうしかないな。
チケットを手に入れた後はゆきりんと朝マック。アイスコーヒーを頼んだらはじめからシロップが入っていてムッとした。余計なお世話である。甘くて飲めないコーヒーを無理矢理飲んだために口が田中邦衛になってしまった甘枝は、その後ゆきりんと別れそごうで開催中の「オードリ−・ヘップバーン展」を観に行った。会場にはオードリ−が映画で着ていた衣装や靴がずらりと並んでいる。「ローマの休日」のあのヴェスパもあった。特大パネルがたくさんあってオードリ−の女優の顔からプライベートの力の抜けた顔まで楽しむことができる。中には間抜けな表情の写真もあって、それが印象的だった。昔から好きな人ではあったが、今回じっくり観てみて改めて「オードリ−は眉だな。」と確信した。あの眉がオードリ−のオリジナル性を保っているのだ。オードリ−がもしコギャルみたいな細眉だったら?そう考えた時に、(たぶんそれはそれで似合うかもしれないが)やはりどうしても違和感がある。あの太くてまるでゴボウのささがきみたいな眉だからこそオードリ−の美しさは引き立つんだなあ。なにしろあんなに太眉の似合う人は他にいませんよ。大きな瞳とのバランスが絶妙。パネルには「オードリ−は常に何が一番自分に似合うかを知っている人でした。」と書いてあったが、本当にそうだったのだろう。一方、そんなオードリ−の前ですっぴんにサングラスのだらしないヤツがいた。ガラスに映った顔を見てびっくり。わたくしではないかッ!ああもうすごく恥ずかしい。穴があったら埋めてくれ。麗しのサブリナ様に寝起きの弛緩しきった顔で相対するとはなんと無礼者。即座に走り去った甘枝である。すまん、オードリ−。
前髪を切った君にそのまんま見とれたことが悔しい土曜
8/15(火)
「一日一歌」が最近は「ほぼ一日一歌」と化している今日この頃。糸井重里のHPみたいだ(彼のは「ほぼ日刊イトイ新聞」という)。OLと歌人の二足のわらじになってからは日々の平均睡眠時間が3、4時間なので、どうしても時々大爆睡の日が出てくるんだよなあ。毎日がアドレナリン過多で充実しているのは結構だけど、そのしわよせがこの日記にくるのはちょっとかなしい。本人が書く気まんまんだけにちょっとかなしい。なんとかこう、眠りながら自動筆記とかできないものだろうか。そうだ、エドガ−・ケーシーさんに聞いてみよう。(もちろん村上さんでもいい) そのうちこの日記も予言めいたものになるかもな。(ならんて)
さて、今日書くのは先日の宇品の花火大会レポに続く花火の話第2弾である。甘枝は昨日広島に来て初めて「宮島水中花火大会」なるものを体験した。なんでも齧る薬剤師・しまりす(リンクコーナー参照)主宰の大花火ツアーである。参加者は10名。宇品港に18時集合で高速艇に乗っていざ宮島へ。噂には聞いていたが、着いてみると本当に人、人、人の群れで驚いた。宮島にこんなにたくさんの人間がいるのを初めて見たな。まるで大晦日の築地市場か宇多田ヒカルのライブかというくらい。「はたしてちゃんと花火を拝むことができるのだろうか?」と不安にもなりかけたが、そこはさすが主宰者しまりす。なんと彼はせっかくの盆休みを一日返上して昼過ぎから単独宮島に乗り込み、場所取りにねばっていたのである。これぞ主宰者の鑑。キング・オブ・主宰者。「車輪の下」を地で行くイイ人である。 なので遅れてきた我ら一行は人込みの中でも呑気に構えていられたのだが、実はすぐにそうとも言っていられない問題が発生した。しまりすさんのいる場所を目指して彼に連絡を取ろうとしたら、あまりの人の多さに携帯がつながらないことが判明したのである。これは迂闊であった。いちおうおおまかに場所は聞いていたのだが、なにせこの人いきれである。目印が全然見あたらない。青くなった一行は「と、とりあえず歩いて探そう」とやみくもにそこらを動き回った。20分ほど経った頃だろうか、依然しまりす発見に至らず途方に暮れかけていたその時、メンバー中最大の視力を誇る(たぶん)”とあるバー”のイカしたバーテン・NAOさんが遠くから「いたいたあ!」と勇んで駆け寄ってきたのである。一同ホッ。しまりすさんは鳥居のあるかなり奥まったところで我らを待っていた。自力のみで遭遇できたのが奇跡のようだ。 やっとのことで感動の再会を果たした10名はその喜びが消えないうちにさっそく宴に突入。ビールもお菓子も充分に用意されている。最高だ。しかも、さらに最高なことにはシャンパンまで控えていたのである。これはメンバーに新婚カップルがいて、彼らを祝うためにしまりすさんが用意したものであった。つくづくよくできた主宰者だ。皆で乾杯。と、その時タイミングよく花火が上がり出した。対岸から空へ向けて放たれるサーチライト。胡弓の調べに似た感じの音楽が大音量で響いて開始のアナウンスが流れる。いよいよメインイベントのお出ましである。
甘枝は知らなかったのだが、この宮島花火大会は第一章、第ニ章・・とひとつのストーリー仕立てになっている。話の筋は厳島を舞台にしたいわゆる平家物語のようであった。「ようであった」というのは、花火と宴に夢中で実はよく聞いていなかったのである。一章ごとにナレーションが入るのだが、我らは花火がひと段落するやいなや座り直して飲んだくれていたのであった。きっと平清盛は草葉の陰で思ったに違いない、「そこがヘンだよ日本人」。 ストーリー付きも面白いが、甘枝はそれより花火に音楽が付いているのが面白かった。夜の海に花火がきらめく中、荘厳にして流麗な曲が流れるのはなんとも雅びである。これがまた大音量で格好良いのね。うっとり。 そんな趣向がめぐらされていたこともあって、当の花火は筆舌に尽くし難い感動を人々に与えてくれた。あの迫力といったらもう! 月まで届くんじゃないかというくらい高く昇りつめた火の塊が、一瞬の間を置いてふわあっと拡がり大輪を描く。ある時は繊細なシャンパンゴールドで、ある時はネオンカラーの赤や緑で。とにかく想像を上回るその大きさに声を失ってしまった。しかも近くで見ているからか飛び散った光がまるで3Dのようにこちらに迫ってくるのだ。ディズニーランドでマイケル・ジャクソンの3D映画を見る時のように思わず手で空をつかんだり、身を引いたりしてしまう。 それだけでも圧倒されるのに、さらに仕掛け花火なんか上がった日には瞠目、唖然、やがて失神である。一見不発弾のようにシュンと消えたかと思うと、突然一気に10個くらいの小玉があちこちで炸裂したり、ひとつの花火が上に向かって連続で枝分かれしつつ伸びていったり、「んもう、どうやったらこんなことできるの!」と地団駄踏みたくなっちゃうすごさなのだ。甘枝はこの花火達に花火師の意気込みをしみじみ感じた。全体的にスタンダードなものと変化球との緩急のバランスが絶妙で、それは花火職人の「どうだ」「どうだ」「参ったか」という思いに満ち満ちていた気がする。こんなに挑戦的な花火は見たことがない。そして、その策略通りに「へへぇー 参りましたッ!」とひれ伏さずにいられない甘枝であった。
今思い出して身震いした。ライブだねえ、花火は。ホント昨日はいいもの見せてもらったな。そしてまたその体験を気のおけない人々と共有できたのが良かったですね、マル。 明日は一日会社を休んでバーベキューに出かけます。まだまだ夏は終わらない。
遠い日の花火を思い出しながら こうして居るね あなたもぼくも
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