八 女 山 地 を 訪 ね て




高塚山 (南関町)               北尾根の駐車場から大津山 (南関町)
障子嶽 (南関町)                        鷹原城址 (南関町)
色木山城址 (南関町)                 駄草城址 (南関町)
坂下(カブラヤ)城址 (南関町)         田原豊後浦城址 (南関町)
坂下(トビノヲ)城址 (南関町)        芋生城址(妙籠の城) (鹿北町)
芋生城址(迫浦の城) (鹿北町)       小坂城址(山鹿市)
寺島城址 (山鹿市)              城山(西付城跡・山鹿市)
東付城跡(山鹿市)
熊入城址(山鹿市)               下吉田城址(山鹿市)
久原城址(山鹿市)               
馬見塚山(山鹿市)
鞠智城址現況 (菊鹿町)            黒蛭から鞠智城址 (菊鹿町) 
菊池渓谷中央駐車場から市成城址
(菊池市)    菊池渓谷から市成城址
 (菊池市)




  ───────────────溜池越しに高塚山を望む
     高 塚 山
  ───────────────

 井弥原溜池の土手に上がると,正面に高塚山(たかつかやま)の整った姿が望めた。大津山一帯は「健康とゆとり高塚山概念図の森」として整備されつつあるが,高塚山にはまだ手が加えられていない。上流側の溜池のほとりに車を止めて出発。溜池左岸の車道を進む。車道終点からははっきりした踏跡が奥にのびている。これをたどると,まもなく踏跡は二分する。右の踏跡の方が手入れはよいが,私の勘は左手の踏跡に入れという。勘に従って左手の踏跡に入ったら,高塚山から南西にのびた尾根筋末端に古い踏跡を見つけた。さっそくこの踏跡にはいる。尾根筋をとにかくまっすぐ登る踏跡で,結構の登りである。全体が竹林の中で,ヤブをこぐ苦労はない。「尾根筋に刻まれた狭い段状の平坦地は何だろう,山畑の跡にしては狭すぎるし,数も多いし」と考えながら登っていたら,20分ほどで山頂に到着した。
 高塚山の山頂部は,人工的に整地されたとも思える細長い平坦地が続く。クスの大木のあるあたりが最高所だろう。樹林帯の中で,展望には恵まれない。


[タイム] 井弥原溜池(20分)→高塚山       [踏 査] 2000年7月22日
[地 図] 関町     [標 高] 約220m     [所在地] 南関町

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  ────────────────────────────大津山概念図
    北尾根の駐車場から大津山
  ────────────────────────────

 大津山氏の本拠のあった大津山(「肥後の山」54頁参照)一帯は,「健康とゆとりの森」として整備が進められている。大津山への登山路となる遊歩道も,その一環として整備された。今日は「肥後の山」の時とは反対側の大津山から北にのびた尾根ぞいの遊歩道を使って,山頂をめざした。
 
井弥原溜池と笛鹿集落を結ぶ車道が,大津山から北にのびた尾根を越える地点に設けられた駐車場に,車を置いて出発。遊歩道は尾根ぞいに設けられている。木の階段を連ねた急登部分もある。やがて最初の堀切を越える。堀切に設けられた木橋は「鑑元橋」の名が付けられている。豊後大友氏の家老で肥後方面の責任者格であった小原鑑元(あきもと)に因む。鑑元は主君である大友義鎮(宗鱗)に対して謀反を企て,大津山の地で死んでいる。このあと本丸に至るまでの尾根筋に設けられた堀切に架けられた木橋には,「新蔵橋」「家稜橋」「資基橋」と,いずれも大津山ゆかりの人物に因んだ名前が付けられている。「新蔵」とは大津山氏の家臣であった夫婦木新蔵(めおとぎしんぞう)。肥後国衆一揆で主君の大津山家稜の死を聞いて殉死した。家稜(いえひと)とは,大津山氏最後の当主(8代)。肥後国衆一揆に関わり,謀略死した。資基とは,日野大納言資名の子で,足利尊氏に仕え大津山氏初代となった人物である。堀切は合計4条に及ぶが,最後の2条の二重堀の規模が大きい。
 最後の堀切を越えた先が本丸跡。二段の平坦面からなり,大津山城址碑と2等三角点がある。三角点のある広場がなかなか展望に優れ,南関の町を見下ろし,正面に三池山と小岱山を見据えることができた。

[タイム] 大津山北尾根の駐車場(15分)→大津山
[踏 査] 2000年ユ月5日    [地 図] 関町
[標 高] 256.1m       [所在地] 南関町

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 ──────────────障子嶽遠望
   障 子 嶽
 ──────────────

 まずは,瓦屋敷の集落から障子嶽中腹の神社(障子嶽熊野権現神社)をめざす。瓦屋敷の集落中央部から障子嶽の山裾めざしてのびる車道が,神社への参道。集落をはずれる地点で,道の両側に石柱が建っているのが,参道の目印となる。10分ほど歩くと熊野権現神社。障子嶽中腹に建つ小さな神社であるが,深い樹林帯に囲障子嶽概念図まれて静かなたたずまいを見せている。
 熊野神社の左手からは,2本の踏跡が上部にのびている。どちらの踏跡をたどるかちょっと思案したが,左手のはっきりした踏跡に入る。この踏跡は,神社裏手のミカン園内の農道に通じていたが,この農道はミカン園内を少し上がった地点で終点となっていた。この農道終点で,神社横から登ってきているもう1本の踏跡が合流している。結局,どちらの踏跡をたどってもよかったわけである。
 ミカン園はさらに上部にまで広がっており,山頂近くまで登ってゆけそう。そのままミカン園内の作業道を登り続けようかと思っていたところで,樹林帯の中へと斜上してゆく踏跡が目に入った。しっかりした踏跡であり,私の勘は,この踏跡が山頂への道であると告げている。結果的には大正解。この踏跡は樹林帯の中を巡りながら,山頂まで続いていた。
 障子嶽の山頂部は,細長い平坦地が続いている。障子嶽城という山城が古い文献にあり,その位置として障子嶽にあったのではないかと考えられているというが,山頂部には城跡を思わせるような遺構は見当たらない。障子嶽には城にまつわる伝承がないということであるから,障子嶽と障子嶽城は無関係なのかもしれない。全面樹林帯の中で,展望にも恵まれない。


[タイム] 瓦屋敷集落(10分)→障子嶽熊野権現神社(20分)→障子嶽
[踏 査] 2000年8月5日    [地 図] 関町
[標 高] 215m        [所在地] 南関町

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     ─────────────────鷹原城址
       鷹 原 城 址
     ─────────────────

 1600年,関ヶ原の恩賞として肥後一国の領主となった加藤清正は,北の守りとして南関の町を重視し,重心の加藤美作を封じた。美作は大津山城に入るが,南関町の市街地背後にある鷹野原に大規模な拠点となる城を築くことにする。清正自身が縄張りをして工事を進めたものの,1615年に出された一国一城令を受けて,完成を見ずに廃城となったという。鷹野原を空堀で仕切って造られた城の遺構を見るにつれ,完成したら本当に巨大な城になったと思われる。今は発掘調査が進んでいて,石垣などが発掘されている。
 登山口は,西南戦争の折官軍側の本営が置かれたという正勝寺から西に少し進んだところ。小尾根手前で右手に入る踏跡をたどると,細い堀割となった登城路となる。敵が攻めてきた時,左右の高みから十字砲火を浴びせるという構想の下に掘削された道だ鷹原城址概念図ろう。高い所では3mほども掘り下げられている。登りついた地点は鷹野原の台地を大きく区切る空堀のある地点。鷹原城の本丸は空堀右の台地に登り,さらに空堀一つを越えた先にあった。
 本丸付近では発掘調査が行われている。本丸を囲む石垣が,掘り出されていた。平坦面が広いうえ周囲が木立に囲まれているので,展望には恵まれない。西南戦争で戦死した官軍兵士を埋葬した墓地(城ノ原官軍墓地)に立ち寄った後,下山する。

タイム] 正勝寺(15分)→鷹原城址本丸跡
[踏 査] 2000年11月3日    [地 図] 関町
[標 高] 104m        [所在地] 南関町


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     ─────────────────色木山城址概念図
        色 木 山 城 址
     ─────────────────

 関町の市街地東方の小山は,大津山資秋の居館(色木山城)があったところである。独立丘陵の趣のある小山である。今はその東麓を九州自動車道によって削り取られてしまっている。山頂に残る広い平坦地や,カキやクリの植えられた段々畑あたりは,その遺構であろうか。
 城址への登山路は2本ある。1本は国道(新しく完成したバイパスでなく従前の国道)ぞいのドライブイン脇からの細い登路。登路入口にある小さな標柱が目印。カキやクリ畑の中を登ってゆく。登路ぞいのカキやクリ畑は,人工的に斜面を削って平坦地を造成しているもので,山城の遺構ともみえる造りであるが,実際のところは不明である。第2の標柱の先は,登路は堀切状となった溝の中の登りとなっている。山頂の中心区画のすぐ下にあたるあたりでもあり,これは間違い色木山城址なく山城の遺構であろう。
 10分ほどで山頂。全面クリ林となっている広い平坦面が広がっている。ここ全体が居館跡であるなら,大規模な造りである。私は郷土史に詳しくないので,大津山資秋なる人物についての知識がない。これだけの規模の居館であるからには,大津山氏の当主クラスであったに違いない。
 帰路はもう一本の登路を利用する。こちらは車も通る農道である。高速道路に架かる関東橋のたもとに下りついた。


[タイム] 城址入口(10分)→色木山城址
[踏 査] 2000年11月3日    [地 図] 関町
[標 高] 102m         [所在地] 南関町

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駄草城址遠望     ─────────────────
    駄 草 城 址
     ─────────────────

 肥猪集落南側のピークに,駄草城とよばれた中世の山城跡があると聞いて,踏査に出かけた。城にまつわる資料は,ま゛目にしていない。北辺田の集落から東進し九州自動車道のガードをくぐると,山下川ぞいに広がる田圃の向こうに小丘陵が立ちはだかる。周囲を深い迫に囲まれて半ば独立丘陵の趣のある台地上に,駄草城址と肥猪の集落が広がる。城址のすぐ東側を道路が走っているので,今日は楽勝であろう。とにかく,山下橋そばの空き地に車を置いて出発する。
 肥猪集落に向かう道路を10分ほど歩いたあたりで,左側斜面にコンクリートの階段が見えてきた。地図から判断すると,この階段を登るのが城址への最短ルートとなるはずである。階段を登りきった先の道は荒れていた。倒木や枯れ枝をさけて進むと,小さな空堀の底に通じ,そこから斜面をひと登りした所が,駄草城の主郭であった。
 駄草城の主郭は,丘陵上の広い平坦地となっている。東西にやや広い不整形の郭で,周囲に一段下がった郭を付属させている。5方向へ支尾根を派生させているが,その部分には数段にわたる郭を付属させている。肥猪集落との間には深い空堀で仕切り,主郭部分は北に続く丘陵部から切り離され,孤立したピークとしていたようである。今は全面クリ林で,畑地とした時にかなり手が加えられていて,主駄草城址概念図郭部分には何の遺構も確認できない。
 帰路は,北に続く尾根筋の農道をたどる。この道はクリ園とその北側の墓地へ登る道としてひらかれたようである。下り始めるとすぐに先ほどまで歩いてきた肥猪集落に続く道路に出る。肥猪集落,指呼の距離であった。


[タイム] 山下橋(15分)→駄草城址(10分)→肥猪集落
[踏 査] 2001年2月24日    [地 図] 関町
[標 高] 約80m         [所在地] 南関町

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     ─────────────────────────坂下城址
        坂下城址(カブラヤ城址)
     ─────────────────────────

 宮島集落,坂下阿蘇神社裏手の小山は,坂下城(城平城,カブラヤ城ともよばれる)とよばれた戦国時代の山城の跡である。臼間野太郎宗郷か,その子の臼間野能登守邦郷の居城で,天正年間に,大伴氏に攻められて落城したといわれる。
 県道わきの大きな石の鳥居をくぐり,まずは阿蘇神社へ。広い境内の西端に城址を示す標柱があり,そのわきから広い遊歩坂下城址概念図道が上部へと続いている。これは楽勝だと気分良く登ってゆくが,いっこうに山城を思わす要害の跡が見えてこない。やや急斜面となっていると入っても,自然地形そのものである。首をひねりながら登るうち,とうとう頂上に着いてしまった。そこは尾根筋末端の高台。小さな規模の城だと思って歩き回っていたら,東端部に堀切がみられ,その向こう側は幾段かの段状地形が連なっている。どうやら阿蘇神社背後の高台は,出丸的存在だったようである。
 堀切底部から上部へ細い踏跡がのびている。4段目の平坦地が城の中心郭だった。南側斜面に何段もの付属郭を備え,標高の割には堅固な造りの山城という印象を受けた。杉林の中で,展望には恵まれない。
 帰路は堀切底部から南斜面を一揆に下る踏跡をたどって墓地に至り,県道へと下る。

[タイム] 城址入口(15分)→坂下城址
[踏 査] 2000年12月2日    [地 図] 関町
[標 高] 約70m         [所在地] 南関町

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     ─────────────────田原豊後浦城址概念図
       田原豊後浦城址
     ─────────────────

 田原集落裏手の台地末端が,田原豊後浦城のあったところである。城主,築城年代ともわかっていないようであるが,山城の遺構だけははっきりと残っていた。ところでこの山城に登るにあたって,ルート情報は何もなかった。地図を見る限りでは,北側の台地から道路が通じているようだが,県道から直接登れる登路もあるに違いないと探し回っていたら,集落西端の民家の少し西側から山手にと登ってゆく踏跡に気づいた。これはいけるとふんで出発。
 踏跡はいくつかの段状地形の間を縫うようにして台地上へ。このあたりの段状地形は,山城の遺構なのか,それとも後世の段々畑の跡なのか,私にはわからない。登りついた台地上は,ちょうど堀切のある地点だった。田原豊後浦城の中心郭は,堀切の東側にある。菱形に近い平坦地(畑地として利用されている)を、もうひとつの平坦地がぐるっと取り巻いている造り。北側は急斜面である。南側もかなりの急斜面だが,ここには幾段かの段状地形が見てとれた。周囲は樹林帯で,展望には恵まれない。
 帰路は堀切まで登ってきている道路をたどって,田原集落へと下る。

[タイム] 城址入口(10分)→田原豊後浦城址
[踏 査] 2000年12月2日    [地 図] 関町
[標 高] 約70m         [所在地] 南関町

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坂下城址概念図       ────────────────────────
     坂下城址(トビノヲ城址)
       ────────────────────────

 米田集落南側の小丘は,坂下城(トビノヲ城)とよばれた中世の山城があったところである。臼間野太郎宗郷が築いたものと伝えられる。内田川にかかる米田橋を渡り三叉路を南に折れ,数軒が固まって建っている民家のはずれが,登山口となる。城址から東にのびた小尾根にそって登路はのびている。登路は全体に堀割状となった窪地の中に続き,10分ほどで主郭へ。
 主郭は広い芝生広場となり,小さな神社が建っている。数基の五輪塔が残されているが,臼間野氏関係のものと伝えられる。主郭を取り巻くようにして大小の郭があり,空堀もみられる。主郭と背後の高台の間は,山口と米田の集落を結ぶ道路が走る堀割によって隔てられているが,往時もそうだったのかどうかは不明である。主郭を取り巻く大小の郭は,南側と東側にのびた尾根筋には,特に数多く設けられていたようだ。
 帰路は,山口の集落へ続く道路を下る。10分ほどで下りついた。


[タイム] 米田橋(15分)→坂下城址(10分)→山口集落
[踏 査] 2001年3月24日    [地 図] 関町
[標 高] 約80m         [所在地] 南関町

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芋生城址(妙籠の城)       ────────────────────
         芋生城址(妙籠の城)
       ────────────────────

 辺春親行の居城という。北東側の高台にある迫浦の城と対になった城である。規模から考えると,こちらが主城であったかと思われる。迫集落から松ヶ浦集落に向かう道路に入り,200mほど進んだ地点から尾根末端に取り付く。墓地(霊光苑)から右手に回り込んだら踏跡が消えた。そこで尾根に這い上がったら,そこはちょっとした高台。妙籠の城の一部をなした高台の可能性もあるが,私の知識と経験からでは判断がつかなかった。
 尾根筋には踏跡が残っていた。園踏跡は次第芋生城址概念図に急になり,登り切ったところには,大きな切り落としの段差を持った主郭と思われる平坦地が広がっていた。全面樹林帯で展望はきかない。この西側にも小さな段差を持った平坦面が連なっている。松ヶ浦の集落から登ってくる林道が尾根を横切るあたりまでが城域だろうか。
 背後を区切るはっきりした遺構は確認できなかったが,山城の遺構を確認できたことに満足して下山。下山ルートは,はっきりした2つの高台を区切る平場から桑原集落への踏跡をたどる。桑原集落が近くなると,踏跡は堀切状の窪地の底につけられている。
そういえば下山開始地点あたりは,踏跡を守るように小さな平場が付属していた。これがメインの登城路だったのかもしれないと思いつつ家路につく。

[タイム] 迫集落(10分)→芋生城址(10分)→桑原集落
[踏 査] 2001年4月14日    [地 図] 山鹿
[標 高] 110m         [所在地] 鹿北町

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芋生城址(迫浦の城)         ────────────────────
          芋生城址(迫浦の城)
         ────────────────────

 辺春親行の居城という。南西側の高台にある迫浦の城と対になった城である。才野集落と迫集落を区切る芋生城址概念図ような形で突出してきた尾根末端に登る農道からとりつく。農道を登りつめた地点はちょっとした平坦地。小さな段差で幾段にも仕切られていて,城の遺構だといわれれば,そうだろうなという感じ。それでは主郭は背後の高台かと思ったのだが,どうもここにははっきりした遺構のようなものは見当たらない。でもその背後は一段切り下げた平場で,城の遺構だといわれれば,やはりそうだろうなという感じ。結局今回の踏査では迫浦の城を一応この高台として下山する。一帯は畑地で,対岸の妙籠の城がはっきり望めた。

[タイム] 迫集落(10分)→芋生城址(10分)
[踏 査] 2001年4月14日    [地 図] 山鹿
[標 高] 約90m         [所在地] 鹿北町

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小坂城址概念図        ──────────────
      小 坂 城 址
        ──────────────

 小坂(おさか)城址は,小坂集落を見下ろす高台の上にある。尾根末端部が,川と深い迫によって周囲から孤立させられたような地形をしており,土地の名主が城を構えるにふさわしいと感じられる場所である。西側山裾には自然の湧水もある。
 小坂公民館の前に愛車を置かせていただき,出発。左岸の道路を進み,今は住む人のいなくなった民家のある地点で右折する。あとは自然の湧水地点の先でわかれる小さな踏跡をたどり城址へ。
 小坂城の主郭であったと思われる高台の上は,半分が竹林,あと半分は整備された広場となっていて,菊池大神と刻んだ石塔が建っている。展望は良く,全面に西岳がどっしりと腰を据え,小坂の集落を一望する。もっぱら自然の要害に頼った山城であったのか,堀切や土塁のような遺構は見当たらなかった。

[タイム] 小坂公民館(10分)→小坂城址
[踏 査] 2002年1月19日    [地 図] 山鹿
[標 高] 約80m         [所在地] 山鹿市

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寺島城址            ──────────────
       寺 島 城 址
            ──────────────

 宇野親治の居城と伝えられる。南北朝時代,この城に北朝方が籠もっていたが,肥後侵入をねらう北朝方に攻められて落城したという。
 寺島の集落から岩野川にそって少し歩くと,小さな沢を横切る。ここが寺島城(津留寺島城址山城)址の入口にあたる。入口に張られた注連縄をくぐるとすぐに尾根筋へと道が上がってゆく。入口部分だけ沢筋がせばまっていて,自然の門を形作っている感じである。尾根筋に上がった道をちょっと登ると,そこはもう本丸跡である。竹林に囲まれた平場で,古い絵馬のかかった小さな社が建っていた。展望はきかない。
 寺島城の南北にはそれぞれに沢が入り込んでいて,自然の要害をなしている。北側の沢へは急峻な落ち込みをなしているが,南側の沢筋へはややなだらかな傾斜を示している。そこを守るためか,本丸とおぼしき平場の南側には数段の平場が付属している。東側の震岳に続く尾根筋には堀切のような顕著な遺構は認められなかった。


[タイム] 寺島集落(10分)→寺島城址
[踏 査] 2001年4月14日    [地 図] 山鹿
[標 高] 80m         [所在地] 山鹿市

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西付城跡
     ────────────────
      城山(西付城跡)
    ────────────────

 1587年,肥後は動乱の中にあった。隈部親康,有働兼元らが城村城に立て籠もり,秀吉より肥後支配を任された佐々成政に対する反乱に立ち上がったのである。肥後国衆一揆の始まりである。佐々成政はさっそく手勢を率いて城村城を囲むが,その留守に本拠の隈本城が一揆勢に囲まれる。成政は急いで城村城の囲みをとき,押さえとして東西2つの付城を築き,隈本城救援に向かったという。西付城はその時築かれた付城の一つで,多き弥助兼能,三田村勝左右衛門ら180人に守らせたという。
 西付城跡は,地元で城山(じょうやま)とよばけている丘陵末端の微高地である。方形のわずかな高みに,西付城跡の標柱が建っている。展望は良く,城村城址を正面に見据え,彦岳,震岳,日岡山,日輪寺山が一望である。
城のバス停から徒歩10分ほどで,到着した。
東付城跡,右付城跡

[タイム] 城バス停(10分)→西付城跡
[踏 査] 2002年1月19日    [地 図] 山鹿
[標 高] 約65m         [所在地] 山鹿市

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     ──────────────
    東 付 城 跡
     ──────────────

 肥後国衆一揆の時,佐々成政が城村城の押さえとして築いた2つの付城のうちのひとつが東付城である。城村城から南にのびた台地末端にあったというが,基盤整備によって跡形もなく消滅してしまったという。今は付城という字名と,付城跡を示す標柱のみが残っている。
 西付城跡の見学を終えて,東付城跡に向かう。いったん南側の迫地に下り,再び台地に上がる。畑地の中を東へ東へと進むと,まもなく大原と城の集落を結ぶ道路へと出る。この道路を横切った先に,東付城跡を示す標柱が建っていた。付城の規模は東西48間(約87m),南北43間(約78m)のほぼ方形で,前野又五郎忠勝,瀧三位,多田新兵衛,杉山小佐ら170人に守らせていたという。ただ単なる畑となった一角にたたずんで,しばらく歴史に思いをはせてから,帰路についた。

[タイム] 西付城跡(40分)→東付城跡(10分)→城集落
[踏 査] 2002年1月19日    [地 図] 山鹿
[標 高] 約65m         [所在地] 山鹿市

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復元された鼓楼と高床式米倉      ─────────────────
      鞠智城址現況
      ─────────────────

 鞠智城は,日本・百済連合軍が唐・新羅連合軍に敗れた白村江の戦い(663年)を背景に,大陸からの侵攻に備えて,西日本各地に築かれた朝鮮式山城の一つといわれる。熊本県内最古の城である。1967年以降断続的に発掘工事が続けられてきた(現在もさらに進行中)が,近年鞠智城の中心区画であったと思
  復元された鼓楼と高床式米倉          われる長者山東方の平坦部が整備され,一種
                      
の史跡公園として公開されている。私が最初にここ訪れた時は,発掘後の埋め戻しが開始されようとしていた頃であった(「肥後の山」P89-91参照)。
 整備が進んだ鞠智城址の目玉は復元された兵舎(内部は展示室となっている),鼓楼,高床式米倉の3棟の建物である。そのほか各所に建物の礎石位置が示されており,大和朝鞠智城址では現在も発掘調査が続いている。廷が相当の力を傾けて築き上げた重要な城であったことを彷彿とさせる。復元された兵舎内の展示室では,鞠智城の歴史と発掘の模様を伝える展示とビデオ上映があり,ボランティアが説明に当たっていた。

[踏 査] 2000年5月14日
[所在地] 菊鹿町
                                     現在も続く発掘調査

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熊入城址遠望       ─────────────────
     熊 入 城 址
       ─────────────────熊入城址概念図

 「二本城郭体系」には,隈部氏の家臣多久宗貞の居城とある。ところが,現地に建てられている標柱には,城主は八幡弥四郎宗安士とあった。現地は,西側に田圃が残されているものの市街地に取り巻かれそうになっている小山である。登路は,東側にある。「隈入城跡」と書かれた標識から石段を登りつめた地点が城址である。五盛山観音堂が建ち.その裏手の高台に八幡弥四郎宗安士の記念碑がある。展望には恵まれない。

[タイム] 隈入城跡標識(5分)→熊入城址           [踏 査] 2002年1月14日
[地 図] 山鹿     [標 高] 約30m       [所在地] 山鹿市

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下吉田城址遠望
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    下 吉 田 城 址下吉田城址概念図
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 吉田高房の居城という。下吉田集落裏手の山が城址で,北側の用水池のすぐ西側あたりが主郭である。南側の山裾に深い堀切が走り,階段状地形や土塁が見られる。ただ城址の大部分は深い竹藪で,登路もない。私は,南側山裾の堀切部分から強引に登って主郭にたどり着いたが,ヤブこぎとまではいかないものの,歩きにくい所であった。展望には恵まれない。

[タイム] 下吉田集落(10分)→下吉田城址           [踏 査] 2002年1月14日
[地 図] 山鹿     [標 高] 約50m       [所在地] 山鹿市

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一ツ目神社と久原城址
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      久 原 城 址
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 久原(くばる)城址は,首石岩から北西にのびた尾根上にある。主郭の高台とそれを取り巻く小さな平場,堀切とそれに付属する小さな土塁が,樹林帯の中に眠っている。あまり大きな城でもなく,城主などもわかっていないようである。
 城址へは,西側山麓の薄野神社(一ツ目神社とよばれることが多い)の裏手から登ることができる。一ツ目神社は510年創建という,熊本県内でも屈指の古さを誇る神社である。首石岩と彦岳の首引き(「肥後の山」p73参照)の時,切れた綱の端が母神の目に当たり,片目を失った。その母神を祀るところから,一ツ目神社とよばれるようになったという。2度の火災で全ての建物を焼失したとのことで,現在の拝殿は1783年,楼門は1751年の再建だそうである。一ツ目神社の裏手にある湧水は,名水百選にも選ばれた湧水である。一ツ目水源とよばれている。甘みを帯びたきれいな水で,ポリタンに水を汲む人が,幾組も訪れていた。
 久原城址への登路入口は,一ツ目水源を巡る遊歩道の北側端からのびた農道が,尾根に達した地点。細い踏跡がのびている。踏跡がわかりにくくなった地点で尾根に出て,あとは歩きやすい所を選んで歩く。古い踏跡が残っているのだが,それにとらわれない方が歩きやすい。比久原城址較的なだらかな登りで,そんなに要害の地とは思えない。本当にここに城があったのだろうかと不安になったとき,久原城西端の堀切に行き当たった。やはりここに城があったのである。
 久原城址は小規模な山城である。主郭の高台を取り巻く平場と,城の東西を区切る堀切,東側の堀切に付属する小さな土塁。それだけである。全面樹林帯の中で,展望にも恵まれない。

[タイム] 一ツ目神社(25分)→久原城址
[踏 査] 2002年1月19日    [地 図] 山鹿
[標 高] 約130m         [所在地] 山鹿市

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馬見塚山概念図
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     馬 見 塚 山
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 馬見塚の山頂は,半分が畑地,半分が宮地嶽神社の境内となっている。標高は57mとたいしたことはないが,展望はなかなかのもの。不動岩や周囲の住宅地を見渡せる。
 登路の入口は,国道325号線を菊池方面から西に進み,山鹿市に入って200mと進馬見塚山遠望まない地点,日輪寺方面に向かう新しい道が分岐する地点である。国道から南に折れ,すぐの十字路を右折すると,すぐに山頂である。収穫まちのダイコンが,私を迎えてくれた。

[タイム] 国道325号(10分)→馬見塚山           [踏 査] 2002年1月14日
[地 図] 山鹿     [標 高] 57m       [所在地] 山鹿市

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鞠智城址概念図
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         黒蛭から鞠智城址
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 「肥後の山」には米原の集落を基点として探訪した鞠智城址の記録を収録した(「肥後の山」P89-91参照)。ところでこの時,涼みの御所から権現さんを経て西方にのびる尾根筋に踏跡があることを確認していたのだが,この踏跡が黒蛭集落から鞠智城址へと登ってこれる踏跡であることを確認したので,ここに紹介しておくこととする。
 頭合橋を渡ると黒蛭の集落。山裾に数軒の民家が寄り添う小さな集落。しかし古代山城であった鞠智城にとって,頭合―黒蛭のラインは生命線ともいうべきラインであったはずである。鞠智城の中心部に至る最短の開口部であったばかりか,外郭の
線の結節点でもあったはず。だとするとこれからたどることになる踏跡は,黒蛭の集落から尾根ぞいに鞠智城址に至る連絡路であった可能性も強い。そう考えながら登り始める。
 右手に小さな墓地をみて細い踏跡にはいる。この踏跡は,小尾根末端を断ち切るような堀切状地形の底を抜け,小尾根南側の山腹を進む。このあたり尾根上や山腹にいくつもの段状地形を見るが,山城の遺構なのか段々畑の跡なのか,ちょっと見当もつかない。
 やがて,踏跡は尾根に上がる。よく踏まれた踏跡で,登路入口と尾根への取り付き点以外には,特に迷うような場所もない。15分ほどの登りで,権現さんの脇を抜けて涼みの御所の高みに出た。

[タイム] 頭合橋(20分)→涼みの御所           [踏 査] 2000年5月14日
[地 図] 八方ヶ岳     [標 高] 約60m       [所在地] 菊鹿町

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      菊池渓谷中央駐車場から市成城址
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市成城址概念図
 「肥後の山 675座 駆け歩き」のための踏査に出向いた時には,市成城址は完全に藪の中であった。ところが3年ほど前にこの城址への登路が再整備されたとの情報を得て再踏査に赴いた。再整備された登路は3本。うち1本は「肥後の山」111-112頁に紹介したルートが歩きやすくなっているだけ(上部ルートは多少異なるが,その部分は次の市成城址から菊池渓谷の項を参照)である。「肥後の山」に紹介しなかった2本のルートを本項と次項で紹介する。
 中央駐車場を出ると右下に菊池渓谷への道を分ける。左側の山腹をたどる踏跡が市成城址への道であるが,すぐ二分する。小沢にそうような感じで奥に進んでいるのが「肥後の山」で紹介した道。小尾根にとりつくようにして登ってゆくのが今日の予定コースである。どちらも最近再整備されて歩きやすくなった。
 杉林の中の小尾根を登るとツバキの造林地に出る。城址の公園化を意図して植えられたものだろうか。まだ若い木々だが,植林後の管理は充分でなく,灌木が茂り始めている。造林地を横切って小沢まで下る。するとすぐ分岐。地図を確認して,小沢から離れて山腹をひといきに登り小尾根に出る。この分岐には,標識がほしいところである。小尾根に出るとすぐもう城址の一角。遺構のようなものは確認できないが,小さな石の碑がたっている。この前訪れたときは完全な藪の中だったが,今は刈り払われツツジやツバキ,サクラなどの花木が植えられている。公園化が図られたのだろう。記念植樹されたのもある。ただし,いったん整備された後の管理は悪く,灌木が茂り始めている。そのうちまた藪の中になってしまうのではないかと懸念される。八方ヶ岳や菊池方面の視界が開けていた。

[タイム] 中央駐車場(15分)→市成城址
[踏 査] 2000年5月13日新緑の菊池渓谷
[地 図] 立門   [標高] 640m
[所在地] 菊池市


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 菊池渓谷から市成城址
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 菊池渓谷の入口から中央駐車場方向への踏跡を少し進むと,カレ沢にかかる木橋の手前で右手に分岐する踏跡がある。これが菊池渓谷から市成城址に向かう踏跡である。入口に案内標識はなく,情報を知らない人では利用しにくい道である。
 踏跡は樹林帯の中をのびている。急登で,山腹にジグザグを切る感じで登ってゆく。新緑が格別の時期で,鳥の声を聞きながらひと汗をかく頃,尾根筋に出る。尾根筋に出てからもしばらくは急登が続くが,やがてなだらかな道となって分岐となる。市成城址へは,左手の小沢に向けて下ってゆく踏跡に入る。以前は藪に覆われた踏跡であったが,今は手入れされて歩きやすくなっている。
 いったん小沢に下った踏跡は,山腹を縫うようにして先に進んでゆく。まわりは深い照葉樹林の林である。右に折れ3本目の小沢を右手にみて見て少し下るとまた分岐。小沢ぞいに少し進んでから山腹を登ってゆくのが市成城址への道。直進して小沢ぞいに下ってゆくのが,「肥後の山」に紹介した中央駐車場への道である。
 市成城址への道をたどると,山腹を斜めに登る感じで,城址東端で前項で紹介したルートと合流した。

[タイム] 渓谷入口(45分)→市成城址          [踏 査] 2000年5月13日

[地 図] 立門        [標 高] 640m       [所在地] 菊池市

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