熊 本 市 周 辺 の 山 々
岩倉立石山(鹿央町) 小原城址(山鹿市)
涅槃岩(山鹿市)
丸山 (熊本市) 遠見山 (熊本市)
焼野山 (熊本市) 温泉山 (熊本市)
アンドン山 (熊本市) 城山(上松尾城址) (熊本市)
岩戸の里公園 (熊本市) 詰ガ城 (熊本市)
城山 (熊本市) 園山 (熊本市)
城山(城山城址) (玉東町) 八立山 (玉東町)
植木三ノ岳の森公園 (植木町) 聖徳寺山 (玉東町・植木町・熊本市)
観音岳 (熊本市) 堂山 (熊本市)
岩倉山 (熊本市) 丸山 (熊本市)
園山 (熊本市) 丸山 (熊本市)
城山(龍ヶ鼻城址) (熊本市) 拝ヶ石山 (熊本市)
乗越ヶ丘 (熊本市) 高橋山(池上城址)(熊本市)
松下山 (宇土市)
馬取山 (宇土市) 住吉自然公園(宇土市)
二本松山 (宇土市)
西山 (宇土市) 黒崎山 (宇土市・三角町)
三角西港から三角岳(三角町)

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岩 倉 立 石 山
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鹿央町岩倉集落の裏手の山は,巨石信仰の山である。この山の名前は,このHPの読者が教えてくれたものである。海外出張などで留守にしていたこともあり,情報が寄せられてから少し時間がたってしまったが,小春日和の一日を利用して出かけてみた。
岩倉の集落に車を置かせてもらって,出発。岩倉ロマンロードの標識にそって進む。400mほど進むと,米野山方面に進む道路と別れ,尾根筋へと登ってゆく。果樹園をすぎ樹林帯には行って先に進むと,まもなく外来者記帳所の小屋が建つ広場につく。車2〜3台が止めておけるようなスペースがあり,簡易トイレも設置されている。この広場に拝石(おがみいし)と人面石がある。風化から取り残された花崗岩の大岩で,同様の大岩は,山中各所に散在している。
よく整備された遊歩道を進む。階段をひと登りすると夫婦岩(めおといわ)。大岩の手前や脇に大小の岩が寄り添う様を,家族にたとえたものだろうか。ここからさらのひと登りした尾根の途中に神影の石(かみかげのいし)。表面が平らの大岩で,台座と思えるような岩が付属している。
神影の石からさらにひと登りで平坦な広場に出る。神頭石(かみこうべいし)という大岩がある。この岩が,岩倉立石山における巨石信仰のシンボルであろう。よく整備された広場となっているが,展望には恵まれない。岩倉立石山の山頂は,神頭石のある広場の少し先である。これまでの整備された遊歩道とは異なる細い踏跡をたどるとすぐに到着する。小さな平坦地となっていて地籍図根点の標識が設置されているが,展望には恵まれない。
山頂から尾根ぞいの踏跡をさらに進むと,先ほど登ってきた林道の終点へと飛び出した。
[タイム] 岩倉集落(25分)→岩倉立石山
[踏 査] 2002年1月12日 [地 図] 来民
[標 高] 204m [所在地] 鹿央町
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小 原 城 址
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「山鹿市史」に添付された地図をながめていたら,岩原台地とは沢1本隔てた西側の丘陵上に,小原(おばる)城址の記号を見つけた。完成の翌日に落城したという伝説があり,「昨日ヶ城」という別名のある山城である。城の存在はきいていたのだが,場所の特定ができなかったため訪れることができないでいたのだが,これで場所の特定ができた。
長岩集落に車を置き,県道から南にはいる。すぐに養魚池が出てくる。養魚池西側の山が城址の山であるが,登路が特定できない。登路を探しつつ山裾を進むと,南側の迫の奥まで入り込んだところで,送電線の登路を見つけた。方角からして,城址のある山の頂上方向に向かっている。この踏跡だと確信して登り始める。
送電線の巡視路は,しっかりとした刈払いが行われている。10分とかからないで広い平坦頂となった丘陵の北端部に建つ鉄塔まで登りついた。山頂部は広い平坦地となっている。一部は最近まで畑作が行われていたのではないかと思われる荒れ地,大部分は樹林帯である。展望もないまま城址の遺構を求めて歩き回るが,何の変化もない平坦地が広がっているだけであった。
広い山頂部を北端から南端へと通り抜ける。城の遺構というものが確認できないまま,さて下山路をどうしようかと考えていたら,古い踏跡が見つかった。北へと延びている。ちょうどよい下山路だと思って下り始めたら,すぐに樹林のない空間に出た。そこに金比羅神社のお堂が建っている。あとは楽勝。金比羅神社への参拝路をただ下るだけで,瞬く間に養魚池の堰堤の脇に下りついた。
城址の遺構とはっきり確認できるものは見られなかった。もしかしたら,金比羅神社への参拝路が部分的に堀切状となっているあたりが遺構かもしれないと思いつつ,帰途につく。
[タイム] 長岩集落(20分)→小原城址(10分)→長岩集落
[踏 査] 2002年1月12日 [地 図] 来民
[標 高] 約80m [所在地] 山鹿市
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涅 槃 岩
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岩野川と菊池川の合流点のすぐ下流,菊池川南岸にある涅槃岩は,天文年間に山鹿湯町の金剛乗寺の宥明法印が発見したと伝えられる。涅槃像の形をしているということで,一時はかなりの信者を集めていたようであるが,今は忘れられた存在と化している。
涅槃岩への参道入口は,熊本県教育センターとかんぽの宿山鹿のほぼ中間,道路がほぼ直角に曲がるあたりにある。畑の中を真北に進み,菊池川へ落ち込む崖線に突き当たった地点で左折。あとは崖線にそって樹林帯の中を進むだけである。涅槃岩は.菊池川とそこに注ぐ小沢に区切られた台地の幅が次第に狭くなって小尾根状となりそれもつきようとする地点にある。高さ3mほどの大岩で,多数の石仏が安置されている。涅槃像に似ているというが,私にはそんな印象はなかった。
涅槃岩は,今は信仰からも忘れ去られた場所ではなかろうか。岩の前に建てられた釈迦堂は,いつ壊れてもおかしまない状態。谷間の建物は完全に倒壊している。釈迦堂に残された寄付者名簿は昭和30年のものなので,そのころまでは厚い信仰を集めていたものであろう。
[タイム] 涅槃岩参道入口(10分)→涅槃岩
[踏 査] 2002年1月12日 [地 図] 山鹿
[所在地] 山鹿市
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丸山(丸尾山)
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河内小学校白浜分校の上部の山が丸山(丸尾山ともよばれる)である。二ノ岳から西にのびた小尾根末端の小さなコブに過ぎず,そんなに目立つピークではない。山頂に至るまでミカン園として開墾され,農道が縦横に走っているのが,麓から見てとれる。
JA白浜
支所前から歩き始める。白浜の町は細い道路が入り組んでおり,まるで迷路のよう。とにかく,白浜分校の大きな建物を目標にしながら進む。途中湧水の出ている場所を通り,備え付けの柄杓で一杯いただいた。やがて白浜分校。丸山中腹の急斜面にへばりつくようにして校舎が建ち,裏手の急斜面に遊具が設置されている。子供たちに負けるものかと気を入れ直して登り続け,丸山の山頂へ。
丸山の山頂はミカン園に薬剤散布をするための水をためておく水槽のすぐそばの高みであった。展望は上々で,前面には有明海が大きく広がり,背後には二ノ岳がそびえ,遠見山,塚山,焼野山といった二ノ岳西山腹の小ピークも一望であった。
帰途に白浜公民館(保育園が同居している)前の銀杏の大木を見に立ち寄る。条例で熊本市の保存木と指定されている大イチョウである。白浜の町の歴史を見守り続けてきた大木の落とす木陰でひと休みして,次のピークへと向かう気力を養った。
[タイム] JA白浜支所(15分)→丸山
[踏 査] 2000年7月9日 [地 図] 伊倉
[標 高] 64m [所在地] 熊本市
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遠見山(松崎山)
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みかんの里振興センターや観光物産センターなどの建つ一角は,みかんの丘公園として整備する計画があるやに聞いた。その計画では,遠見山に展望台が建設される予定という。遠見山は,名の通り素晴らしい展望が得られる所。宇土半島から北側の有明海が一望。遠見番所が置かれていたのも充分うなずけるというものである。
みかんの里振興センター前から歩き始める。このあたりの光景は「肥後の山」の塚山の項で紹介し
た(225-226頁)が,塚山北側の高台に近代的なミカンの選果場が建設され,それと関連して新しい道路も造られつつあり,だいぶ様子が変わってきつつある。5分余で遠見山東方の鞍部へ。ここからミカン園の中の農道をたどり,農道が下りにかかるあたりからモノレールぞいの踏跡をたどって遠見山の山頂へ。
遠見山の山頂は.西側山頂直下に小さな墓地があるほかは,ほぼ全体がミカン園。前面に有明海が広がり,背後には金峰山,河内山,二ノ岳がそびえている。標高60mに満たない小山とは思えない雄大な景色を堪能した。
[タイム] みかんの里振興センター(10分)→遠見山
[踏 査] 2000年7月9日
[地 図] 伊倉・肥後船津
[標 高] 57.1m [所在地] 熊本市
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焼 野 山
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焼野の集落は,焼野山とその東方の標高約330mのピークに抱かれた小さな集落である。周辺はミカン畑の海。そんな中で焼野山の山頂付近と東側の窪地にビニールハウスが見られる。珍しくも施設園芸の盛んな地区かと思いきや,このハウスもミカンを栽培していた。ハウスのミカンは生育が早く,もう色づいている。
焼野集落西端の生果会社の建物のそばから登り始める。焼野山の山頂まで続く農道をたどればよいのだから楽勝である。10分ほどで山頂。最高所には土堤で囲まれた大きな穴が掘られている。水を貯めておくつもりなのかもしれないが,今のところは空っぽである。最高所の西側ではハウスミカンの栽培地があり,その周りも三方を高い土堤で囲んであった。最高所からの展望は上々で,前面いっぱいに有明海が広がっている。左手に霞んでいるのは宇土半島,右手に霞んでいるのが小岱山系であろう。背後には,金峰山から二ノ岳へと高い山並みが続いている。三角点は最高所よりかなり西側にあるはずと,30分ほど探し回ったのだが,とうとう見つけ出せなかった。
[タイム] 焼野集落(10分) →焼野山
[踏 査] 2000年7月9日
[地 図] 伊倉
[標 高] 約260m(三角点は
241.9m地点)
[所在地] 熊本市
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温 泉 山
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金峰山から河内川左岸ぞいに張り出した尾根筋は,長崎鼻に至って有明海に落ち込む。この突端部でわずかに盛り上がっているのが温泉山(長崎山ともいう)である。全面ミカン園となっており,自然の植生など,山頂部に関する限り,望むべくもない。
厳島神社の角を左折して海岸に出る。アンドン山との鞍部に車を止め,温泉山へと歩き始める。ミカン園
の中の農道で,ゆっくりと高度を上げてゆく。高度を上げるといっても,標高30mにすぎない山なのだから,本当にゆっくりと登ってゆくだけである。まもなく農道は二分する。右の農道が山頂に向かうものである。農道はすぐに終点となるが,あとはモノレールにそった小道をたどればよい。すぐに山頂である。
温泉山の山頂は,アンテナの建っている地点である。直径も高さも約2mの大岩があり,この頂上が最高点。登ると前方に有明海が広がる。背後は河内山はじめ山腹をミカン園で埋めた小山の連なり。そしてその奥に金峰山と二ノ岳がそびえていた。
[タイム] アンドン山との鞍部(10分)→温泉山
[踏 査] 2000年7月2日 [地 図] 肥後船津
[標 高] 約30m [所在地] 熊本市
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ア ン ド ン 山
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厳島神社をスタート。温泉山との鞍部から農道がアンドン山方面に上がっているのを確認してあるのだが,厳島神社からも尾根ぞいに山頂までルートがあるだろうと読んだのである。鳥居をくぐって神社へ。神社の裏手はグランドで,そこを横切ると納骨堂への車道に出る。納骨堂からはミカン園の中の踏跡をたどる。今はあまり使われていない踏跡のようであるが,楽に歩け,すぐに温泉山との鞍部から登ってきている農道に出る。あとは農道を歩き,配水池のあるコブを越えた所で,モノレールぞいの踏跡をたどって山頂へ。
アンドン山の山頂はかなり広い平坦地で,NTTのアンテナが建っている。展望はよく,前面いっぱいに有明海が広がる。あいにく霞がかかったような感じで,対岸までは見通せなかったが,雲仙が目の前に見えるはずである。背後は河内山をはじめ,一面のミカン畑の連なりである。色づきはじめたら見事な眺めとなるだろう。そう思いつつ,帰途についた。
[タイム] 厳島神社(20分)→アンドン山
[踏 査] 2000年7月9日
[地 図] 肥後船津
[標 高] 71m
[所在地] 熊本市
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城山(上松尾城址)
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金峰山から南東に続く,標高361mの尾根筋の小山(城山)に,中世の山城跡がある。上松尾城址である。山頂部に上松尾城の中心をなしたと思われる平坦地と,それを取り巻く環壕,土塁,段状の平坦地などが存在する。城主は志垣貞友と伝えられる。貞友が1558年に死亡した後,7人の息子が山野田畑を分配相続したため,志垣氏は衰退の道をたどったという。
城山探訪の出発点は,金峰山との鞍部に設けられた平山配水池。目の前に見えている城山は,その中腹までミカン園が広がっている。最も高い位置まで登れる農道をたどり,そこからミカン園と雑木林の境にある踏跡をたどって,ミカン園の上端のさらに上部にあるヒサカキ園に出る。どこから樹林帯に潜り込もうかとルートを探していたら,ヒサカキ園東端から古い踏跡が上部にのびているのに気づいた。さっそくこの踏跡をたどる。踏跡は消えそうになりながらも,城山山頂まで続いていた。
山頂部は割合と広い平坦地。そしてそれを取り巻くようにして,数段の段状の削平地がある。南側から西側にかけては環壕や土塁も見られる。東側だけは自然の急斜面で,人工的な手が加えられた様子はない。探し回ればまだ多くの遺構が観察されそうだが,南側から西側にかけてはヤブもあり,山頂部中心の探訪にとどめた。全体が樹林の中で,展望には恵まれない。
上松尾城址の位置は,「新熊本市
史」と「日本城郭体系」では全く異なった場所を示している。「日本城郭体系」では,上松尾城址は上松尾集落南側の小山とし,城山に残る山城の遺構には言及していない。一方,「新熊本市史」は,「日本城郭体系」の示す位置にある城址についてもふれつつ,城山山頂の遺構を上松尾城址としている。ここでは,「新熊本市史」に従っておく。
[タイム] 平山配水池(20分)→城山
[踏 査] 2000年7月9日
[地 図] 熊本
[標 高] 361m
[所在地] 熊本市
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岩 戸 の 里 公 園
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宮本武蔵は,その晩年を細川藩の客分として熊本で過ごした。熊本市内に「武蔵塚」とか「武蔵ヶ丘」という地名があるが,いずれも宮本武蔵にちなんだ地名だという。ところで,武蔵は六十路を迎えて自らの剣の境地を「五輪書」という書物に残した。その「五輪書」を書き上げるのに籠もった所が,西国14番札所雲巌禅寺の奥の院で岩戸観音を祀る霊巌洞である。現在,岩戸の里公園として整備されており,また九州自然歩道の一部に組み入れられていて,観光客とお遍路さんが同居する不思議な場所ともなっている。私がここを訪れたのは,梅雨も終わりに近い晴れた日曜日であった。時間的に少し早かったせいか観光客の姿は少なく,静かに歩き回ることができた。
岩戸の里公園の駐車場に愛車をパークして出発。赤色に舗装された道路を下ってゆくと,雲巌禅寺に出る。霊巌洞はこの禅寺の奥の院である。入場料金100円也を払ってゲートをくぐる。境内は,非常に明るい。熊本の商人渕田屋儀平が,1779年から1802の24年間かかって奉納したという五百羅漢も,明るい陽光の下にその姿をさらしていた。こんなに明るいのは,1957年の水害のせいだそうである。樹木がごっそり流されて,それまでの鬱蒼とした雰囲気がすっかり壊れてしまったという。五百羅漢の並んだ岩場の先が,武蔵が籠もったという霊巌洞。武蔵は,1643年からこの地で「五輪書」を書き始め,1645年に門人の寺尾孫丞勝信に授けたという。洞内には,細川家家老沢村大学の逆修碑も見られる。
雲巌禅寺に戻って,遊歩道を進む。半ば放棄されたミカン園を左手に見ながら下り気味に進み,小さなお堂にお参りして先に進む。左手に岩塔を見るあたりから遊歩道は一転登りとなる。樹林帯の中を登ってゆくと,まもなく黒岩展望台に出る。視界が急に開け.河内山が目の前に立ちはだかる。そしてその奥に有明海が白く光っていた。
黒岩展望台のすぐそばに宮本武蔵所修練碑が建つ。そしてその裏手が愛車を止めた駐車場であった。
[タイム] 岩戸の里公園駐車場(5分)→雲巌禅
寺(20分)→黒岩展望所
[踏 査] 2000年7月9日
[地 図] 熊本・肥後船津
[所在地] 熊本市
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詰 ガ 城
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詰ガ城は,次項で述べる城山の西側にある小ピークである。城山からは尾根づたいにわずかの距離であるが,ヤブが茂ってきていて,尾根南側の樹林帯上部を歩いた方が楽な部分もある。城山から詰ガ城にかけては,金峰山中に勢力を持っていた田尻氏が本拠とした山城の跡である。詰ガ城は城山の背後にあって,後の天守丸にあたる郭の役を果したのではないかという。山頂部は長楕円形の平坦地となっている。城山に続く尾根筋に浅い窪みがあるが,堀切の跡ででもあろうか。全体がヒノキ林の中で,展望には恵まれない。
[タイム] 芳野保育園(25分)→城山(5分)→詰ガ城
[踏 査] 2000年7月2日 [地 図] 熊本
[標 高] 約240m [所在地] 熊本市
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城 山
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岳本村集落の西南西600mほどの位置にある小山が城山(じょうやま)とよばれている。金峰山中に本拠を構え,内田・牛島の両氏とともに山上三名字衆とよばれていた田尻氏が城郭を構えたところである。田尻氏は,藤原純友追討に活躍した大蔵春美の五男種実を祖先とする。筑後国田尻村に住んで田尻氏を称え.この一支族が金峰山中の城山を本拠として土着したものという。南北朝時代は南朝方として活躍している。田尻氏の城は,城山のピークとその西側の詰ガ城にかけて縄張りされていたという。「何も残っていませんよ」と岳本村の集落で教わったが,とにかく登ってみることにした。
芳野保育園前で南に折れ,河内川を渡って城山をめざす。国土地理院の2.5分の1地形図には出ていない道路だが,城山の山頂まで続いていた。
山頂一帯には17aもあるという広い平坦地が広がり,その大部分はミカン園となっている。山城の遺構はないものかと探し回ったが,人工的な平坦地以外はそれらしきものは見当たらなかった。それとてミカン園を造成した時に,かなりの地形変更されているものだろう。三角点があるはずと探し回っていたら,ミカン園に隣接する林の中に,4等三角点の標石が転がっていた。展望はいいとは言い難いが,金峰山や小萩山の姿を望むことができた。
帰路城山南側の迫地で,おいしい清水にありついた。とうとうと湧き出し,簡易水道の水源ともなっている。城の飲料水もまかなっていたのだろうと思いつつ,一杯,また一杯と,手にすくっていた。
[タイム] 芳野保育園(25分)→城山
[踏 査] 2000年7月2日 [地 図] 熊本
[標 高] 255.1m [所在地] 熊本市
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園 山
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園山(そ
のやま)とは,岳本村集落の北側背後の山である。岳本村は山上三名字衆のひとり田尻氏の本拠ともいうべき場所だから,その背後の山には何かあるのではないかと期待して登ったのだが,いとも平凡な小山にすぎなかった。
岳本村橋から北に入り,園山東側の鞍部へ登る。狭いが車の通行可能な道が園山頂上に向かっている。のんびり歩いていたら,10分ほどで園山山頂に着いていた。
園山山頂は,かなり広い平坦地となっている。人工的に整地された平坦地とも見えるが,今は半分がナシとカキの果樹園,半分が竹林となっている。展望にはめぐまれない。
[タイム] 岳本村橋(10分)→園山
[踏 査] 2000年7月2日 [地 図] 熊本
[標 高] 約235m [所在地] 熊本市
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城山(城山城址)
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玉東町にある山北小学校の裏山が城山(じょうやま)である。名前から明らかなように,ここは戦国時代に山城が築かれていた場所である。城山城とよばれた由であるが,城の由緒を記した資料には,まだお目にかかっていない。
迫を隔てた対岸の山北幼稚園前から眺めた感じでは小学校の裏手は山頂まで段々畑が続いている。これなら登路探しに苦労することもあるまいと,第1白木橋のたもとに車を止めて出発。白木川右岸の道を5分も歩けば山北小。城山の中腹に建てられた近代的な校舎を横目に見ながら,段々畑の中の農道をまっすぐ上部へと向かう。農道は山頂にまでは達していないが,最後は段々畑のあぜ道をたどって山頂へ。段々畑として利用されている平坦面は,全部ではないとしてもそのいくつかは,城山城址の郭の一部
として造成されたものであろう。
城山の山頂は,南北に平坦地が続き,その南側半分はミカン園,北端部は共同墓地として利用されている。木々の間から三ノ岳や木葉山が望める。城山は,三ノ岳から複雑な分岐を繰り返しながらのびてきた尾根末端の丘陵部であり,東西ともに深い迫が入り込み,北側には尾根が急に細くなったくびれ部分があって,一種の孤立した高台である。そんなところが山城としてのぴったりの場所となったのだろう。
帰路は,尾根上の舗装道路を進み,座主の集落のはずれで右折して年の神公園(山北小の南側にある)に下る。熊本名水100選に選ばれている湧水の水でのどを潤し,愛車へと戻った。
[タイム] 第1白木橋(5分)→山北小(5分)→城山(10分)→年の神公園
[踏 査] 2000年6月18日 [地 図] 植木
[標 高] 約70m [所在地]
玉東町
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八 立 山
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半高山と横平山の中間にある,細長い平坦頂をもつピークが,八立(はちりゅう)山とよばれている。このあたり一帯は,西南戦争時の激戦地である。八立山付
近にも西郷軍が幾重にも陣地を構え,官軍との間で争奪戦を繰り返したことだろう。
現在の八立山はほぼ全面がミカン園となっている静かな山で,山頂南端部の無線塔がちょっとしたアクセントとなっている,登るのはきわめて簡単。本村と円台寺の集落をつなぐ県道の峠から,九州自然歩道の一部に組み込まれている農道を登ってゆけばよい。本村バス停から15分ほどで山頂であった。
山頂部は細長くのびた平坦地が続いている。ミカンの木や防風樹が邪魔をして,一ヵ所にとどまっていては限られた方向の展望しかえられないが,あちこち移動して眺めると,熊本市街やビニールハウスの海となった植木台地,立田山,三ノ岳,半高山,木葉山,小岱山などが眺められる。阿蘇も見えるはずであるが,今日はあいにくの曇り空で,阿蘇のあたりは低い雲がたれ込めていて,何も見えなかった。
[タイム] 本村バス停(15分)→八立山
[踏 査] 2000年6月18日 [地 図] 植木
[標 高] 203m [所在地] 玉東町
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植木三ノ岳の森公園
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三ノ岳北東斜面の町有林18haを利用して,「植木三ノ岳の森公園」が5年ほど前に開設された。場所は,辺田野の集落から三ノ岳・大多尾方面に向かう県道と吉次峠に向かう県道との分岐点からやや三ノ岳集落方面に進んだところ。長さ1kmほどの遊歩道が整備されており,標高200〜300mの位置にあるにもかかわらず,展望の良さと鳥のさえずりの豊かさは特筆ものである。
公園最下端の駐車場に愛車をパークして出発。公園内に整備された遊歩道を進む。遊歩道は聖徳寺山から東北東にのびた尾根筋を挟むようにして2本設けられており,北側の遊歩道はミカン園と森林の境目にそって,南側の遊歩道はずっと樹林帯を進んでほぼ並行するようにして高度を上げてゆき,野鳥観察所近くで合流する。展望を楽しむなら北側の遊歩道。三ノ岳の山腹を埋め尽くすような感じで広がるミカン園の向こうには西南戦争の激戦地である吉次峠と半高山,眼下の植木台地はビニールハウスの海,そしてその奥には雄大な阿蘇の山々が広がっている。
15分ほど登ると林内作業所。自然観察や木工などの森林関連作業の体験などでの活用を想定して建てられた木造の建物である。遊歩道はここから樹林帯の中に入る。鬱蒼とした照葉樹林の中は,鳥のさえずりがいっぱい。私は鳥についての知識がほとんどないため,ウグイスとホトトギスくらいしか確認できなかったが,種々の鳴き声が入り混じってうるさく感じるほど。案内板によればメジロ,シジュウカラ,ホオジロ,ムクドリ,モズなどは通年,夏期にはキビタキ,オオルリ,アオバズク,ホトトギスなどの夏鳥が,冬にはヒヨドリ,ルリビタキ,ツグミ,ジョウビタキ,ウソなどの冬鳥が豊富に観察されるという。
野鳥観察所は公園内の最高所に近い位置にある。鳥の鳴き声を楽しむだけでなく,熊本平野や阿蘇の展望も楽しめた。
[タイム] 駐車場(15分)→林内作業所(15分)→野鳥観察所 [踏 査]
2000年6月11日
[地 図] 植木 [所在地] 植木町
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聖 徳 寺 山
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三ノ岳信仰の中心となっている聖徳寺は,現在奥の院の所在地である観音岳山頂ではなく,その東北東500mほどの位置にある標高603mの聖徳寺山の山頂にあったという。聖徳寺も今は三ノ岳集落に移り,無線中継所となっている聖徳寺山の山頂には,そんな面影など残っていない。
登路は,三ノ岳集落からの三ノ岳登山道(「肥後の山」221〜223頁参照)が利用できる。集落最上部の公民館そばに駐車して登山道を登ること20分で尾根筋に出る。左折すれば観音岳から三ノ岳への道。聖徳寺山へは尾根を越えて三ノ岳登山道路に出,右折して少し進み,無線中継所に向かう車道をたどればよい。尾根上にもかすかに踏跡が残っているが,無線中継所に向かう車道まではごくわずかの距離でしかない。
聖徳寺山の山頂付近は,なだらかな尾根筋の小さな高みである。南面には三ノ岳の山体が大きく迫っているが,他方向の視界はえられない。建設省の無線中継所が建設されていて,聖徳寺が建っていたという面影は全く認められなかった。
帰路は無線中継所の裏手から北に延びた尾根ぞいの踏跡をたどる。新しく刈り払われたばかりの踏跡で,ずっと樹林帯の中の下りである。部分的にはっきりしない場所もあるが,木々に巻かれた赤テープがよい目印となっている。踏跡はいったん三ノ岳登山道路に出るが,その先もまだ尾根筋に踏跡が続く。そして今度は県道332号線へ。踏跡はこの県道を横切ってさらに尾根ぞいに下っていっているが,三ノ岳集落に車を置いてきている関係で,ここまでにして県道を歩いて三ノ岳の集落に戻る。そのまま下り続ければ原倉の集落に行き着くと考えられる。
[タイム] 三ノ岳集落(25分)→聖徳寺山(20分)→県道(30分)→三ノ岳集落
[踏 査] 2000年6月11日 [地 図]
植木 [標 高] 603m
[所在地] 玉東町・植木町・熊本市
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観 音 岳
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三ノ岳のすぐ北側の観音堂の建つピークが観音岳とよばれていることを最近知った。登路の様子は「肥後の山」221〜223頁に紹介したのと変わっていないので,そちらを見てほしい。三ノ岳の集落から30分で到着。観音堂の建つピークは,梅雨の合間のわずかの晴れ間の今日は,訪れる人とてなく,静寂に包まれていた。
[タイム] 三ノ岳集落(30分)→観音岳 [踏 査]
2000年6月11日
[地 図] 植木 [標 高] 645m [所在地]
熊本市
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堂山(天神山)
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東門寺西の集落は,田尻・牛島の両氏とともに山上三名字衆と呼ばれていた内田氏が本拠とした集落である。内田氏は遠州相良(現在の静岡県相良町)の住人で鎌倉御家人となった相良氏の一族で,鎌倉時代に当主の頼常が多良木へ,長男長頼は人吉へ,次男宗頼は内田へ,そして三男頼平は山北へと,一族が九州各地へ分かれて移住し,それぞれの土地で豪族化した。山上三名字衆と呼ばれていた内田氏は,内田(現在の菊鹿町)に移住し在地の名をとって内田氏と称した次男宗頼に連なる相良氏の一部が金峰山中に移ってきたものという。堂山山麓に本拠をおき,龍ヶ鼻城を擁して金峰山中に武威を誇った。現在の東門寺西の集落は,奥深い山中に忽然と開けた水田が広がる別天地である。
どこから登ろうかと思案した結果,堂山中腹に建つ菅原神社に目を付けた。さっそく鳥居をくぐり,石段を登って神社へ。菅原神社は,1623年に内田頼豊が造営した古い神社。集落を見下ろす堂山中腹に,静かにたたずんでいた。
神社の裏
手は,太い孟宗竹が群生した竹林である。踏跡は見当たらないが,下草がほとんどないため,楽に歩いてゆける。途中昔の林道に出会ったが,登ってゆく方角が違っているので,横切っただけで上に進む。竹林の上部にはヒノキ林が広がっているが,そこもヤブはうるさくなく,そのまままっすぐ上に登る。ヒノキ林の最上部が,堂山の山頂だった。山頂は,露岩の点在するなだらかな高み。樹林帯の中で展望には恵まれない。
[タイム] 東門寺西集落(15分)→堂山
[踏 査] 2000年7月16日 [地 図] 植木
[標 高] 397m [所在地] 熊本市
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岩 倉 山
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「岩倉」とは,古代の祭祀が行われた所。信仰の対象となった大岩(群)があることが多い。横山集落の西に位置する岩倉山の名も,古代岩倉信仰に由来する。信仰の対象となった大岩は,横山集落からの登路途中にあったが,ミカン園の開設に当たって割られてしまったという。位置と全山ミカン園という立地条件から、展望が期待できそうと判断して出発。
横山グランド入口バス停から北東方向に進むと,すぐ墓地への道を分ける。岩倉山(ひびら山とよばれることもある)へは墓地の最上部から登ってゆけると聞いていたので,左折して墓地をめざす。墓地の最上部までは車も入れるが,そこから先は人間が歩けるだけの道となる。横山配水池を右手に見ながら山腹を斜上すると,まもなく大岩のそばを通る。これが岩倉の名残だろうか。農道を横切り,芝地と変わった踏跡をもうひと登りする。あとはゆるゆると登る農道をたどって,岩倉山の山頂へ。
3等三角点のある山頂からは,東および南西方向へなだらかな尾根筋が続いている。全面ミカン園で,展望は素晴らしい。ただ,1ヵ所にとどまっていたのでは,ミカンの木や防風樹が展望の邪魔をする。山頂部を歩きながら.西方には三ノ岳から二ノ岳,金峰山へと続く山並み,東方には熊本市街と甲佐岳,飯田山,阿蘇,八方ヶ岳,植木台地から半高山,吉次峠へと続く360度の展望を,ゆっくりと楽しみ,持参のお茶を一杯飲んでから下山する。
[タイム] 横山集落(15分)→岩倉山
[踏 査] 2000年7月16日 [地 図] 植木
[標 高] 343.8m [所在地] 熊本市
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丸 山
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横山の集落は,山稜末端部で尾根が平坦になった部分と,そこから張り出したゆるやかな山腹に発達した集落である。集落のすぐ東側に位置する丸山に,集落の防衛拠点となる砦を構えていたとされる。横山バス停から集落内の道路を登り,尾根に出たところで右折して鳥居をくぐると横山神社。丸山の山頂は,神社のすぐ裏手である。樹林帯の中に割合と広い平坦地が広がるが,山城を思わすような遺構は見当たらなかった。樹林帯の中で,展望には恵まれない。
丸山山頂の東側にはミカン園が広がっている。そのミカン園の中の農道を少し下ると,視界が一気に開ける。熊本市街から阿蘇,八方け岳まで一望。眼下の植木台地は,ビニールハウスの海である。
[タイム] 横山集落(5分)→丸山
[踏 査] 2000年7月16日 [地 図] 植木
[標 高] 250m [所在地] 熊本市
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園山(ゲンジャ山)
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東門寺東集落背後の山が園山である。北面にはヒノキの造林地が広がるが,南面はミカン園として開拓されている。ゲンジャ山ともよばれるのは,この地の有力者であった「源左衛門」に由来するということである。ミカン園の農道を利用できるはずだからと,今日は楽して登るつもりである。
集落の西端近くにあるJAの集荷場そばに車を置いて歩き出す。東門寺西集落からのびてきた2斜線の立派な道路が細い道路に変わる地点(東門寺東集落最上部の家並みがとぎれるあたり)で,ミカン園の中に入り込んでゆく農道に入る。農道は山頂直下まで続いていた。
山頂はかなり広い平坦地で,全面ミカン園であるが,ミカンの木々が視界を閉ざす。北側斜面はヒノキ林で,やはり視界は遮られる。展望の得られない山頂である。こんなはずじゃなかったと,いったん山頂直前の農道最高点あたりまで戻り,熊本市街や植木台地の展望を楽しんでから下山する。
[タイム] 東門寺東集落(15分)→園山
[踏 査] 2000年7月23日 [地 図] 植木
[標 高] 364m [所在地] 熊本市
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丸 山
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東門寺東集落の南東側の小山が,丸山とよばれている。山頂に三所神社を祀る。中世には集落防衛の拠点として利用されていた由である。JA集荷場から集落内の道路を歩いて15分ほどで登山口。そこからヒノキ並木の参道を登ると,すぐに山頂だった。
丸山の山頂には,三所神社が鎮座している。南側は深い樹林帯で視界が遮られているが,北側はミカン園で,木々の間から園山や拝ヶ石山の姿を望むことができた。
[タイム] 東門寺東集落(20分)→丸山
[踏 査] 2000年7月23日 [地 図] 植木
[標 高] 284m [所在地] 熊本市
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城山(龍ヶ鼻城址)
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城山(じょうやま)は,熊本市立福寺町の集落南東,狢川と丸山谷に挟まれた尾根末端のピークである。相良氏の一族である内田氏の一部がこの地に入って,龍ヶ鼻城という山城を構えた所という。内田氏は,同じく金峰山中に本拠を構えていた田尻・牛島の両氏とともに山上三名字衆と呼ばれていたが,加藤清正時代に武士を離れたものの,細川氏の元では惣庄屋などを勤めた一族という。
城山は,北面を立福寺川,東面を狢川,西面を丸山谷という3本の深い谷に囲まれた要害の地である。登山路は,立福寺川にかかる合戸橋のたもとである。細い農道が城山山頂のすぐ東側を捲くようにしてのびているので,楽に登れる。ミカンの花の甘い香をかぎながら,合戸橋から
山頂まで20分とかからなかった。
山頂付近には何段かの平坦面が認められたが,山城の遺構かどうかは,私の知識では判断できなかった。北面と西面ではかつて採石が行われたのか,スッパリと切れ落ちている。視界はその方面だけが開け,丸山谷の向こうにゲンジャ山が望まれた。
[タイム] 合戸橋(20分)→城山
[踏 査] 2000年5月14日 [地 図] 植木
[標 高] 164m [所在地] 熊本市
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拝 ヶ 石 山
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学校区集落の十字路から大将陣方向へ少し進み,JAの敷地はずれで左にはいると,拝ヶ石山(おがみがいしやま)の登山口となる。拝ヶ石巨石群を紹介する案内板の説明文をじっくり読んでから出発。深い樹林帯を進む。1997年に整備された遊歩道で,歩きやすい。登山口から250m歩くと硯ヶ水への分岐点である。硯ヶ水へは帰りに寄ることにして,正面の階段を登って拝ヶ石をめざす。
息がはずみ出すような急な階段を登り切ると,目の前に巨石が積み重なっている。一番大きなもの(拝ヶ石)は高さ9m。そこは厳粛な雰囲気さえ感じられる。古代巨石文明の名残ではないかと騒がれた時期もあったようであるが,発掘調査の結果,
中世の宗教遺跡ということに落ち着いているようである。ただ,近年古代シュメール文字と思われるペトログラフ(岩刻文字)や地磁気異常が発見されて,再び注目を集めている。巨石群はコの字型に配置されており,その開口部は二ノ岳方向をさしている。
拝ヶ石の右手から回り込むと,山頂はもう目の前。補点標石の設置された山頂にも,別の巨石群があるが,拝ヶ石を見た後では,ひどく貧弱に見えた。
帰路は硯ヶ水に立ち寄ることにして,南にのびた尾根筋につけられた遊歩道を下る。ひとしきり下った後,右に折れて山腹をからむようになった地点に,硯ヶ水はあった。岩の間から滲み出るといった感じの湧水だった。あとはわき目もふらず歩き続けて登山口に戻る。
[タイム] 学校区東集落(15分)→拝ヶ石山(5分)→硯ヶ水(10分)→学校区集落
[踏 査] 2000年7月23日 [地 図] 植木
[標 高] 447.8m [所在地] 熊本市
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乗 越 ヶ 丘
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谷間をはさんで立田山の北側に位置する小ピークは,乗越ヶ丘とよばれている。立田山とともに「立田山憩の森」として自然公園化され,恰好の森林浴コースである。私が訪れた時にも,5組ほどの家族連れに2組のペアが散策とアスレチックに興じていた。
乗越ヶ丘の南麓(立田山との間の谷間)に設けられた「お祭り広場」から出発。管理用道路を歩いてゆくと大きく蛇行しながら北展望台を経て山頂に出ることもできるが,アスレチックの遊具の設けられた小道ぞいに登る方が近道である。丸太とロープで作られた遊具を横目に見ながら登る。山頂までに設置された遊具は20。「田原坂越」「阿蘇飛行」「藤崎宮鳥居くぐり」など,熊本の名所にちなんだ名前が付けられている。遊具の全てをクリヤーするとなると一仕事だが,今日はそんな余裕はない。キャッキャッと騒いでいる家族連れを横目に見ながら山頂をめざす。15分で到着した。
山頂は,樹林に囲まれた静かな所である。展望には恵まれない。アスレチック最後の遊具である「本丸展望台」に登ってみても,立田山が梢の向こうにようやく見えるだけである。静かな森林の精気を胸一杯吸い込んでから下山する。
お祭り広場西端の高台に,「御茶屋敷」跡がある。細川藩藩主の休息所として17世紀中頃に建てられた建物。代々の細川の殿様は,放鷹や菩提寺への参詣の都度,ここに立ち寄っていたという。今は礎石だけが残っている。
[タイム] お祭り広場(15分)→乗越ヶ丘
[踏 査] 2000年10月29日 [地 図] 熊本
[標 高] 129m [所在地] 熊本市
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高橋山(池上城址)
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池上(いけのうえ)城の歴史についての記録は目にしたことがない。このあたりの豪族が構えた城だったのだろうが,由来など知りたいものである。
池上集落から見上げると,城址はすぐ頭上である。これなら登城路もあるだろうと判断して登り始めたのだが,判断を誤ったようだ。八幡宮裏手の墓地の先には,踏跡がない。それでも樹林帯の中はそれほど苦労する登りでもないので,強引に登る。40分ほどで山頂に到着した。
城の遺構は,4等三角点のある山頂部から,西側に広がっている。山頂とその東側に一段低い割合と広い平坦面を取り巻くようにして,狭い段状地形が幾段も連なっている。下側数段は石積みである。山頂部だけを見ると,それほど堅固な構えにも見えない。自然の山腹の急傾斜に頼った山城だったのだろうか。全面樹林帯の中で,展望には恵まれない。
帰路は,方角を変えて,平集落へ下る。ここにも踏跡はないが,距離的には短い下りであった。
[タイム] 池上集落(40分)→池上城址(15分)→平集落
[踏 査] 2002年1月20日 [地 図] 熊本
[標 高] 158.7m [所在地] 熊本市
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松 下 山
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情報のない里山をめざす場合,地図を見てルートの見当をつけ,現地の地形や植生を見て修正を図る。地元で登路の位置を聞くののが最も簡単で正確度が高いのだが,ルート判断のためのカンを養うことを常に心がけている私は,地元で聞くということをあまりやらない。それでも結構いい線をいくようになっているのだが,松下山でのルート判断は,完全に裏目に出た。地図を見ての私の判断は,松下山の山頂から南に延びたなだらかな尾根筋に登路があるだろうというもの。尾根筋末端の小ピークに住吉中学校があり,そこから山頂南側にかけて果樹園が広がっている(あくまで地図上からの読みとり)とあっては,楽勝と思ったのも無理はない。
ところがいざ現地に行ってみると,地図に記入されている果樹園は影も形もなくなっており,いやらしい藪が続いている。それでも中学校の裏手からしばらくの間は,尾根筋のやや西側に古い踏跡が残っており,本当に藪をこいだのは,昔の果樹園跡地にあった古い物置小屋から山頂南側の墓地直前までであった。農業の不振によって,山地などのような条件不利地域では耕作放棄と山林化が進んでおり,昔畑があったからといって登路がいつまでも残っているとは限らないということを実感させられた松下山であった。最近の地形図制作が航空写真にほぼ全面的に頼るようになり現地踏査が少なくなった分,植生の変化が地図に正確に現されなくなったようである。
ところで,松下山への合理的な登路は,東側山麓の辺田の集落から拓かれている。山頂の真東あたりにある小さな観音堂(宇土88ヵ所第47番札所である)の横から登ってゆくしっかりした踏跡で,松下山東縁の急傾斜地を斜上し,山頂南側の墓地まで続く。墓地から山頂までは,わかりずらい部分もあるが,古い踏跡がある。
三等三角点のある松下山の山頂付近は,所々に露岩の点在するのっぺりとした平坦地が広がっている。全面樹林帯の中で,展望には恵まれない。
宇土から天草方向にむけて国道57号線に車を走らせると,最初に立ちはだかってくるのが松下山であり,その南側の馬取(ばとり)山である。長いこと名前がわからず気になっていたのだが,宇土郡を描いた古地図からその名前を知ることができた。地図に山名が記入されていない場合,郷土史や古地図がいい手がかりとなる。地元で聞いても,最近では小字名や小さな山名など,忘れ去られていることも多い。
[タイム] 住吉中(20分)→松下山(10分)→観音堂
[踏 査] 2000年6月10日 [地 図] 網津
[標 高] 59.0m [所在地] 宇土市
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馬 取 山
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宇土半島を西に向かって車を走らせていると,馬取(ばとり)山とその北隣の松下山が,最初の関門のような感じで行く手に見えてくる。国道とJRはこの二つの山の隘路を抜けると,いったん網津川流域の平地となるが,その先はすぐに海岸まで迫った山裾の道となる。馬取山と松下山は,「平野部のまっすぐな道はまもなく終わりですよ。じきにカーブの多い道になりますから,心構えよろしく」とドライバーに告げている。
さて,ルートをどこに求めようかと思案したが,城塚の集落から馬取山南側のコルへと登ってゆく農道に目を付けた。城塚の集
落をぬけて馬取山南側のコルまでのびるしっかりした農道であるが,コル直前で車の通行は困難となっている。馬取山南方に広がるミカン畑へは,今は潟集落方面から登ってくる道が使われているようである。
コルを越え,馬取山南斜面に広月ミカン園の中の農道をたどる。馬取山山頂は,農道終点のすぐ先の高みであった。樹林帯の中で展望はきかず,おまけにどこが最高点だか判断に迷うような平坦頂。ただヤブがないので,歩き回るのに苦労しない。露岩が点在し,先端が赤く塗られた標識くいのあるあたりが最高所と判断して,下山にかかる。
[タイム] 城塚バス停(20分)→コル(10分)→馬取山
[踏 査] 2000年7月29日 [地 図] 網津
[標 高] 128m [所在地] 宇土市
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住吉自然公園
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住吉自然公園は,住吉神社とそれをとりまく森林,海岸沿いのアジサイ園などで構成されている。住吉神社は,住吉自然公園の最高所に鎮座する。1021年肥後国司菊池則隆による創建という,古い歴史をもつ神社である。菊池氏の保護を受けて海上安全の神様として栄えたが,菊池氏の没落とともに振るわなくなり,小西行長の支配下では焼き討ちの憂き目さえみている。その後細川綱利により再建され,現在に至っている。もともと有明海に浮かぶ小島であったのだが,細川綱利による住吉神社の再建にあわせて堤防が築かれ,陸続きとなった。
住吉神社への登路は,3本ある。車でも登れる一本はさけ,南側にある住吉神社の鳥居をくぐって石段を登る。ひと登りしたところで
参道はやや平坦となる。照葉樹の林に囲まれて展望はえられない道である。10分とかからないで山頂へ。広い平坦地で,住吉神社が建っている。有明海側の視界が一部開けるだけで,静かな広場である。
帰路は山頂広場の北側にある住吉灯台経由で下る。住吉灯台は1724年,細川6代藩主宣紀の寄進に起源をもつという。ゴマ油らを燃やして有明海を航海する船の道しるべとなっていたが,明治維新の後に藩からゴマ油の支給が停止され,いったんは廃止された。現在の灯台は1933年に再建されたものである。
灯台下の広場にはドゥルー女史の記念碑が建つ。ドゥルー女史はイギリスの海藻学者で,ノリ養殖のきっかけを作った人。1949年にノリの幼生期にあたるコンコセリス世代を発見した。これによってノリ養殖への道が開け,1953年の熊本県水産試験場鏡分場でのノリ人工採苗の成功へとつながってゆく。
有明海に浮かぶ「たはれ島」を見ながら下山。たはれ島は,たばこ島あるいははだか島ともよばれ,住吉公園北側の有明海中に突き出た小さな岩塔。頂上に小さな鳥居が立つ。有明海を通る船の目印になっていたという。枕草子や伊勢物語にも登場するという。隠れた名所がこんなところにあったのかと感慨に浸りながら下山する。
[タイム] 住吉神社鳥居(10分)→山頂(10分)→住吉神社鳥居
[踏 査] 2001年4月7日 [地 図] 網津
[標 高] 約40m [所在地] 宇土市
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二 本 松 山
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小池バス停から歩き出す。二本松山山頂の西側150mの地点まで農道が上がっているのを地図で見て,これでルートは決まりと思ったものである。ところが,小池バス停から二本松山を見上げると,二本松山の斜面にはミカン園など見当たらず,竹林と雑木林が広がっている。これは目算が狂ったかと思ったが,そのまま歩き続けた。
地図にあ
る農道は存在した。しかし,ミカン園の方はもう放棄されて久しいのだろう。竹林の中に石垣を積んだ段々畑の跡が残っているだけである。農道の方はというと,下部はコンクリート舗装されているのでそのまま残っているが,上部はもう車など通れなくなっている。20分ほどで終点。あとはヤブに突入してとにかく上をめざすだけであった。
4等三角点のある二本松山の山頂は,台地状の平坦地が続く一角。展望には恵まれないが,有明海がわずかに望まれる。
帰路は山頂部に残っていた古い踏跡をたどる。赤テープの目印が残る踏跡だが,途中で分岐し,下りにかかった方の踏跡を進んだら,途中で踏跡がなくなってしまった。仕方なくまたヤブをこいでいたら,再び古い踏跡に出,長部田の集落へたどり着いた。この下りに使ったルートも,放棄された段々畑の中をたどる道で,昔は山頂までのしっかりした登路であったのに,今は消えてしまっているものと思われる。
[タイム] 小池バス停(20分)→農道終点(20分)→二本松山
[踏 査] 2000年7月29日 [地 図] 網津
[標 高] 192.2m [所在地] 宇土市
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西 山
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石打ダム駅から歩き始める。石打の名の起こりは,昔このあたりに四次郎・五次郎という兄弟の盗賊がいて,親切なふりして旅人を家に泊め,寝入ったところで天井からつるした石を頭上に落下させて打ち殺してきんぴんを奪っていたことに由来するという。稲刈りの終わった田圃で後かたづけをしていた地元の人が,恥になるように話だがと,恥ずかしそうに教えてくれた。
さて,西山へは駅のプラットホームの西端で線路をわたり,そこからは道路を歩いてゆく。小春日和の暖かい日で,紅葉したヤマイモのつるについたムカゴを採りながら,のんびりと進む。宇土市の市域に入るとまもなく稜線だが,西山へはそのすぐ手前で右に入る道路を進む。すぐに山頂に到着した。
西山の山頂は,ダラッとした平坦頂である。南側がミカン園となっていて,その方面の視界が開ける。今日は不知火海の上に霧がかかり,まるで雲海をみているよう。雲海の向こうには,九州本土がかすんでいる。暖かい日中,満開のツワブキの花をみながら,しばしの休息を楽しんだ。
[タイム] 石打ダム駅(10分)→石内配水池(10分)→西山
[踏 査] 2000年1
2月9日 [地 図] 松合
[標 高] 168.4m [所在地] 宇土市
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黒 崎 山
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今日は西山から黒崎山へ縦走というルートをたどったので,道のない稜線上の藪こぎとなった。山歩きになれない人は,帰路のルートを登るのがよいだろう。
さて,西山で小憩の後,黒崎山へと歩を進める。先ほどの分岐まで戻り,稜線を越える。島原湾と雲仙岳が視界に飛び込んできた。西山から両川沿いに黒崎山への道はありませんよと,石打の部落で教えられていたので,はじめから藪こぎ覚悟である。それでもできるだけ楽をしようと,ミカン園の農道を最後までたどってから樹林帯の中へ。樹林帯の中は明るく,藪もほとんど苦にならない程度。むしろ昨年の台風の影響で倒れた木や落枝の方が邪魔になる。わずかの高低差しかない稜線上には,まもなく古い刈り払い跡が出てきて,さらにペースが上がった。
ミカン園が出てきたら,そこはもう山頂。ここもなだらかな平坦頂で,西側斜面部だけに雑木林が残っている。東側の視界が開け,大岳がくっきりと見えた。霧がかかって雲海のように見えている不知火海も,その右手に広がっていた。山頂部で場所を移動すれば,天に突き上げるような溶岩ドームをもつ雲仙岳の勇姿も望めた。
帰路は道路を歩いて石打ダム駅に向かう。温州ミカンの収穫はほぼ終わっているが,まだ最後の収穫ものを運ぶ軽トラックが時々走ってくる。山頂から少し下ったところに地蔵尊ほ祀ったお堂が建っていた。皮膚病に御利益のある地蔵を祀っている峠がこの近くにあると聞いていたのだが,これがそうだろうか。
稜線上の道路をなおもく進むと、やがて九州自然歩道の標識のたつ三叉路に出る。ここで稜線にお別れ。あとは石打ダム駅まで,ひたすら車道を歩くだけだった。
[タイム] 石打ダム駅(10分)→石内配水池(10分)→西山(20分)→黒崎山(45分)→石打ダム駅
[踏 査] 2000年12月9日 [地 図] 松合
[標 高] 204m [所在地] 宇土市・三角町
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三角西港から三角岳
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暖かい小春日和の中,魚釣りでにぎわう三角西港の岸壁を後に三角岳をめざす。登路入口は荒川バス停のそば。九州自然歩道の標識に導かれて登りにかかる。以前ここには「細川別邸」入口を示す標識があったのだが,今は見当たらない。
入口から少し入ると,荒れてはいるが瀟洒な建物が見えてくる。細川別邸である。管理する人もいなくなったのか,荒れている。ただ多くの庭石を配した庭園や
風雅な建物に,200年前に造られたという殿様の別邸の名残が見てとれた。
道は小沢ぞいに登ってゆく。深い樹林帯の中の登りである。ゆがて右手に大きな岩場が見えてくる。この岩場のたもとの小さな平坦地に,観音寺といわれた小さな庵が建っていたという。明治時代に楽天天草舎(天草最初の別荘)に出入りしていた文人達が建てたものという。三角港を見ながら、ここで漢詩の会を開いていたというから,素朴な造りの寺だったのだろうが,その面影をしのぶものはない。
観音寺跡を過ぎると,あとは稜線までひたすら樹林帯を進むだけである。汗が出始めた頃,稜線に出た。ここで右折すれば天翔台,左折するのが雲竜台から三角岳への道である。詳しくは「肥後の山」を見ていただきたい。
[タイム] 荒川バス停(30分)→稜線(10分)→雲竜台(20分)→三角岳
[踏 査] 2000年11月5日 [地 図] 三角
[標 高] 405.9m [所在地] 三角町
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