2003年

'03.1.5.

どんな集団にも”色”というのか
それぞれの特徴とか、カラーみたいなものがあること。
あって然りだと思うし。
でも、一つの集団が全て同じ方向を
向いていなければならないわけでもないような気もするが、、
それでも同じであることを”良し”としたり、
それを求める傾向がある
違うより、同じほうが手っ取り早くて
衝突も少なくて、平穏なような気がするのかもしれない
だけど、だからといって
違うものを排除しようとする、
排除すれば同じものだけの集まりになるという考え方に
ウンザリ、、
そこまでして守ろうとするものは何?
そんなにまでして守るほどのものがあるようには思えないけど??

'03.1.11.

誰がどのように発した言葉でも
誰かがそんな風に受け取った言葉でも
”正しい” or ”誤り”ということを
第3者は言えないのかもしれないね。
発言者とその言葉を解釈した側に
すれ違いや誤解が生じていたとしても
当事者たちがその瞬間に感じたものだから。
本人にはそれが『真実』なのだから。

最近、感じていたことは
「”多数”の意見が『正』になりやすいのかな?」という疑問。
必ずしも全てにおいてそうだというのではなく。
何か同一の見解を持ちたがっている集団
(例えば、皆が同じであることを『好し』とするもの、
またはそれによって安定がもたらされるもの,
異質なものを弾き出そうとするもの etc.)
自分と同じ意見が多数あることで
いつの間にかその考えが
無意識に自身の中で正当化されてしまうことがあること。
時々、あたしは感じるし、
あたし自身の中にも”あった” & ”起こりうる”ような気がする。

伝え続けたいのならば
何が”正しい”とか、”間違い”とかいうことよりも
相手にどのように伝わるのか、伝わったのかを
振り返り、確かめていくという作業が必要なのかも。
伝え続ける努力を望まないのならば
『わかってほしい』という気持ちは
相手に望みすぎている or 求めすぎということになる?
伝わらないことに苛立ちや悲しみetc.を伴うけれど
本当に伝えたいのならば
伝わらないその痛みを伴うリスクも背負うことになるのかもしれないね。

でも、実行するのは”難し”だわ。
どんなに向き合っているつもりでも、あたしも『ひと』だから。
痛みに耐えかねることもあるのよ。
シェルターへの一時避難も”あり”だよね?

'03.1.17.

「人間そんなに簡単に死んだりしない」返ってきた言葉。
何をもって”簡単”というのかはわからないけれど
だからこそ、その重さ、
死を決めた心、覚悟がどれだけのものだったか。
考えたことがあったのかな?

ひとの気持ちなんてホントのところは
当人に聞いてみなければわからない。
聞いてみたところで本当の気持ちを語ってくれるか、、
当人すら自身の本当の気持ちに気づいているかどうか。

耳を傾けなければ聞こえないもの。
たくさん、あるよ。
聞く気がないのならそれまでだけど、、ね。

'03.1.18.

何をどのように感じ、考えているのか。
どんな気持ちで何に迷い、苦しんでいるのか。
『わかりたい(わかるようになりたい)』という気持ちで。
けれども、そんなことは
大きなお世話でもあり、
おこがましいだけだったのかも。
どんなに推し量っているつもりでも
自身の主観は除ききれない。
想いがあるのならばなおさら。

だから。
しばらくは”わかろう(わかりたい)”とするのは止める。
きっとお互いのためにはならないのだろうから。
それでも。だからといって
気持ちが、想いがなくなったわけではない。
いつも私の心に響いているのだから。

'03.2.4.

本人の意思によらない死に直面したことはないから
現実に直面したとしてどのように感じ、
何を考えるのかはわからないけれど。
その時に遣り残したと思うことができるだけないようにしたい。
自分の意思だけではどうにもならなかったり、
しがらみも多いけれど。
思いやることと犠牲になることは違う。
近くにいないから気持ちがないというわけではないから。
気持ちはいつもここにあるから。

'03.2.12.

生きることの意味を見いだせなくても
「死」を選択することに意味を見出さないでほしい。
たとえ、「死」が最後の手段のように感じられても
どれだけかの時間の経過の後に
その時は感じられなかった「生」の意味に気付くかもしれない。
気付かないからといって”ない”わけではない。
ただ生きながらえているような気がしても
歩んできた後ろには知らず知らずのうちに
道ができているものだと思うから。
苦しみながら生きてきたからこそ
見えるものもそこにある、と。

'03.3.16.

『自分を認めること』
難しそうで、そうでもなさそうで。
でも、やっぱり難しい。
想い描く自分と現実にギャップがあればあるほどに。

”ナンバーワン”より”オンリーワン”?
わかってはいても背景は違うから。
”ナンバーワン”は周囲から認められているようにもあり、
目指しているものが『価値あるもの』として感じる??
では、”オンリーワン”は?
他に同じもののない、唯一のもの。
もちろん『唯一』に価値(意味)を見出していいのに
その唯一のものに価値(意味)があるのかどうか不安になる??

いつの日か、本当に『自分が自分で在ってよい』と思えた時
本当の「オンリーワン」になれるのかもしれないよ。

'03.3.20.

大切なのは『どう在るか、在りたいか』ということ。
思うは易し、成すは難し。
それでも『在りたい自分』に近づくために
あがき続ける。

きっと傍目にはもどかしいような、
はたまた腹立たしいような?
それでも自身で乗り越えていくはず。
たとえ何かのきっかけがあったとしても
誰かの援助があったとしても
最後に決断を下すのは他の誰でもない
自分自身なのだから。

何をやっても、どんな方法でも抜け出せない時が、
抜け出せないような気がする時があるかもしれない。
”変える”ことは難しいような気がしても
”変わらない”ことが難しいように
少しずつ何かが変わっていく。
そこにあなたが何を見るのかわからないけれど
見えたものが”何”であったか、
どんなものであったかがわかる頃には
きっと乗り越えたのだと思うから。  

'03.3.26.

どんなに言葉を取り繕ってもそれでは意味がないから。
心が伴っていないこと透けて見えてるよ。
本当に取り戻したいと思うのなら向き合う痛みに耐えること、
耐えなくても向き合おうとする努力を続けること。
いまさら付け焼刃は通用しないのよ。
そのことに気付いてほしいのに。
それを認められるだけの余裕がないね。
余裕がないのはわかっているけれど
本当にそう願うのならもう一歩踏み出してほしい。
心が伴っていない言葉は状況の悪化を招くばかり、、
そんな風に”やり方”だけ助言を求めても
あたしのどんな助言に忠実であっても方程式じゃない。
心がなければ伝わらないよ?
向き合えることがスタートラインのようにも思えるけども
そのことに気付いてもらえるまでには
きっとまだまだ時間がかかりそうだね。

'03.3.31.


'03.5.3.

ずっと耳に残ってる。
『その日をやり過ごせれば明日を迎えられたのに』
きっと周りは気付いてた。
日々、そんな葛藤を抱いていたことに。
そう語られた様子に
気付いていてもどうすることもできなかった無念さも感じた。
客観的に第三者が見る限り、
そんな葛藤は持たなくてもいいものだったのかもしれない。
それでも当人の中では折り合いがつかなかったように思う。

『どう在りたいか』に現実がついてこないことも多い。
疲れたら少し休まない?
そしたら、また違った選択肢が見えてくるかもしれないよ。

'03.5.4.


'03.6.1.

彼の言葉が心に残っていて
今日のLIVEで改めて感じた。

気付かなくてもその一瞬になんらかの決断を下してて。
過去に下した決断の積み重ねの上に現在(いま)がある。
その時選んだ選択肢も下した決断もいろんな想いが反映されたもの。
他の誰でもない自分自身のもの。
何が譲れず、何なら多少は致し方ないのか。
時には折り合いをつけることが求められることも。
それらに納得しても、後悔しても一度きり。
その一度が積み重ねられていく。

信念を貫くこと。
決してたやすいことじゃない。
そうすることで得るものも、失うものもあると思う。
それでも『自分がどう在るか。在りたいのか。』を
正面からぶつけてくれること、れいごんとしては嬉しい。
けれども全ての人がそうとは限らなくて。
もちろんそれもわかっているはず。
それでもそうすることを選択した。
気になるのは一度きりかもしれないということ。
一度では伝わらなくても二度、三度と重ねるうちに伝わることもある。
その機会が潰れてしまうことは望まない。

少しの間、笑顔に戻せなかったのはそのことを危惧したから。
落胆したわけでも、腹を立てたわけでもない。
仕事柄、一つ一つの決断や選択の重みを痛感することも多くて。
その重みに潰されそうになることもある。
それでも向き合っていくためには避けられないね。
決断や選択の重みを受け止めること。

'03.6.2.

ここに残す言葉は”れいごん”が何を感じたかによるわけで。
もちろん、これらを感じるに至った出来事があるのも事実。
でも、その出来事が『良い』とか『悪い』とかを言いたい訳ではありません。

なぜ、そんな風に感じたのか。
心当たりはある。
私自身が専門職として『どう在るか。在りたいのか。』
完璧を求めているわけではないけれど
伴わない現実も事実。
学生時代、実習指導者に言われた言葉が
今更ながら思い出されて。
変えることも不可能ではないし、自分の見方が変わることもある
『チャンスは一度きりではない』と。
その頃は今以上に自身のことで必死だったからわからなかった。
でも、今ならわかるような気がする。

いろんな形も方法もあると思う。
きっと一つではなくて。
ちょっと遠回りするかもしれないけれど、
遠回りしたからこそ見えてくるものや
得られるものもあるから。

けれども、そうすることを選ぶことで
さらに自身を追い込むことになるでしょう?
何を選んでも傷つくことを避けられないのかもしれないけど。
避けられるものならもう少し避けてもいいと
そう思うのは私の弱さかな。
それでも他の人じゃ私には届かないから
やっぱり離れられないね。



どれだけ真剣なのかもわかってるつもり。
だから余計に痛かったよ。

'03.7.14.

これまで触れることのなかった彼の考え方に
改めて『自分は?』と考えてみる。

誰かと一緒に何かを創り上げていけるのはそこに信頼があるから。
それともボールを投げ続けてるうちに信頼が生まれたのかな。
自分はどうだろう、って。
自分にはできるかな、って。
それ以上にそんな考え方もあるんだ、ってちょっと衝撃。
そんな考え方がどうして自分の中に存在していなかったのか、
何が邪魔をしてるからなのか、
理由を探したところで何の解決にもならなくて。
でも、その理由も言い訳にはならない。
わかっているから少し痛いわ。

できることならそれができるくらいの余裕をもって
もっと広い視野をもちたいね。
”やっぱり遠いな”とも思ったけれど
触れられたことはうれしかったよ。

'03.7.29.

なにもとりえがないとに思っていたかもしれないけれど
でもそんなことなかったよね。
これまでは靄がかかっていて周りからは見えなかっただけのこと。
変わりたいと願って変われた今、
少しずつ自信と余裕がでてきたよね。
”良さ”を見つけられること。
それも特技だよ。

できないこと、悪いところを何とかしようと
いつも自分に鞭を打ち続けてると
気付かないうちに見失ってしまうこともあるね。

'03.8.11.

これまでできなかったことができるようになったり、
見えなかったものが見えるようになったりした。
そこからくる自信や余裕ももちろんあって。
けれども、それを感じられる前に
次のステップへの不安が重くのしかかってるのかな?
気付かなければ何もストレスになることもなかったかも
でも、気付けるようになったからこそ
現状に耐えかねてるのだと思う。
もっとできるようになった自分を認めてあげていいのにね。
もっと自分を労わってあげてよ。

'03.8.23.

『正しい』ということ。
どうしてだかそれが”良い”ことだと思っていて。
”悪い”よりは”良い”に越したことはないし、
”間違い”より”正しい”ほうがいいんだけども。

時にその正しさが誰かを傷つけたりする。

正しくあることが最善だと思っていた?
自信のなさを埋めるように正しいことに縋っていた?
自分を肯定するために正しく在ることが必要だった?

正しく在ることで安定できるのかもしれない。
ただ、そうして安定を図ろうとしていると
知らず知らずのうちに誰かを傷つけていたりして。
”正しい”こと、それを振りかざせば
正しく在れない誰かを脅かしたりすることも。
そうならないように自身を認められる自分でありたいね。

'03.10.9.

誰にでも”弱さ”があって。
その弱さがあるからこそ
気持ちを察することができたり、
優しくなれたりもする。
時に自分の”弱さ”が人を傷つけたり、
自身が潰されそうになることもないわけではないけれど。
その”弱さ”を誰かに気付かれること
隙を見せられないと恐れているかもしれない、
弱みを握られたような気がするのかもしれない。
でも、その”弱さ”を自身で受け入れた時、
そんな”弱さ”をもった自分を許せるようになるのかな。
その”弱さ”を見せられる誰かに出会った時、
身に纏った鎧を脱ぐことができるのかもしれないね。

'03.12.7.

”余裕のなさ”から波及するものの大きさを
感じずにはいられなくて。
人の振り見て我が振り・・・というところ。
価値判断の基準や葛藤が生じやすい部分は
それぞれに違うはず。
余裕をもって人と向き合いたいね。